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大雄寺の来歴(元は雄山寺)/一度火災で焼失して古い文書が残っていない
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元は亘理氏(武石氏)の居城である小堤城(おづつみじょう)であり、土塁などに名残がある。見晴らしが良く、沢も有り、中世の城の特徴を残している。/山門の話など。
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亘理伊達家の歴代墓所について:敷地内にない正室たちの説明/成実御霊屋背後にある盛り土(切り株がふたつあるところ)が岩城御前の墓であろうと推測されること/もともとの区画は成実のものだけ別の入り口から登るように、宗実墓との間に区切りがあったと推測されるが、場所がなくなっていくにつれ、様式を変え建て増していったことがわかる。
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5代実氏は亘理伊達家中公の祖であったので特別に御霊屋が建てられたと推測される。質素なのは享保年間(吉宗の代)だったため?
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実元位牌堂について:建立されたのは天保年間、実元の250回忌に建てられた/実元の墓自体は福島市陽林寺にある/中に納められているのは4つの位牌(新しい実元の位牌①・古い実元の位牌②・②と同じくらいの古さだけれども文字が消えてしまっている位牌③・老朽化して下の部分が折れてしまっている位牌④)→詳しくは後述
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なぜ1/16・8/16に開帳するのか?:そもそもいつから開帳がはじまったかは不明/この辺りの風習で正月15日までは墓参りしてはいけないという風習があり、16日が墓参りする日であること/8月が盆であるから、自然と正月と盆の16日になっていったのではないか
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震災と亘理
実元位牌堂の謎の位牌について
上述の④の位牌は「高佃寺殿左京兆直山乂公大居士」とある。左京兆は伊達家当主が受勲していた「左京大夫」のことと思われ「直山」の山号は政宗の曾祖父、13代目当主稙宗のものである。一般的に知られている稙宗の戒名は「智松院殿直山圓入大居士」であるが、この位牌は?
- 稙宗は天文の乱後丸森に隠居させられ、永禄8年死去。記録には松森の智松院を建て弔われたが、その後政宗の代(慶長期)に東昌寺の大有和尚(稙宗の子)が弔うまで、本家では晴宗・輝宗の代を通して稙宗を弔っていなかったと推測される。
- 松音寺に葬られたとあるが、実際は稙宗の墓は福島の陽林寺にあり、分骨説もあるが、詳細はわからない。そして実元の墓所も陽林寺にある。成実が大雄寺を建立したときに実元と稙宗の位牌をここに奉じた。はじめ稙宗の弔いを実元・成実親子が行っており、その後政宗の代で本家で弔うようになったのではないかと推測される。
という説明でした。
あと個人的な見解ですが、一緒に収納されていた名前の消えてしまっている③の位牌は、多分実元の室である鏡清院なんじゃないかな…と思います。一般的に考えて。