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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』9-1:若君達御最後附政宗気遣之事/9-2:制札之事

『政宗記』9-1:関白秀次の子息達の最後と政宗への謀叛疑いのこと/9-2立て札のこと
(目次では分かれていますが、本文では同じ章にまとめられていますので一緒に掲載します)

原文

扨も関白公には、若君・姫君五人御坐す。御嫡子をば仙千代丸と申して五歳に成給ふ。次男御百丸四歳、三男御十丸今年は二歳にぞ成給ふ。此外二人は姫君にて渡せ給ふ。爾るに御母上達、同御嬖女衆・若君・姫君取合三十九人、文禄四年乙未八月二日に、聚楽より車に載せ奉り、大路を渡して三条の橋引下げければ、石田治部少輔(三成)・増田右衛門尉(長盛)、御代官にて車の前後へ立寄、先若君達より害し奉れと申す。承り候とて若君・姫君三十四人の女房達、車よりをろし三条川原へ引出し、一々害し奉り、秀次公の御首と、若君達を三条の橋に、一七日掛けられけるは、しる人胆を消し、聞者耳を驚かす。若君達の御最後上臈衆最後の有様、哀なること中々筆紙に見はすとも、読にも書にも尽ざることどもなり。かかりける処、浅野左京大夫(幸長)、秀次公へ御懇にて御坐すを、親父弾正少弼(長政)と石田三成、日来中悪ければ、大夫も関白公へ御一味なりと拵へける由、実にも有やらん、御前を気遣ひ左京大夫大原へ引込給ふ。弾正少弼は其頃奥州会津に逗留し給ふ。其旨申来れば夜を日に続て上り給へり。政宗も聚楽の一乱聞給へ、取物も取合ず岩手山(岩出山)を打立て急ぎ給ふほどに、弾正少弼へ追付同道坐す処に、「今度関白公御謀反へ、政宗御一味にて、在京中山へ出御の砌粟野木工介取持にて、見廻り給ひ御評定の人数なりと、太閤の御耳に相立、身代大事の由」各御懇衆より道中へ、段々に知せ給ふ。慮いの外なる虚言故、政宗も動転有て、その頃施薬院法印(全宗)は御前至て出頭なるに、政宗へも懇にて御坐せば、折節法印の許へ「此義如何あらん」と中途より聞合せ給へば、「急ぎ大坂へ上り給ひ、御身の屋敷へは着玉はで、我等屋敷へ入せ給へ」と申されければ、法印の許へぞ着給ひける。いかなれば、政宗事を讒言成ぞと申すに、粟野木工介(秀用)、元来は政宗譜代の者にて、其昔は粟野藤八郎とて政宗の弟の守に附給へば、悪事をし出し已に死罪に行はるべきを、出羽の小国へ欠落して、小国にても討るべきを見合、城主上郡山式部親類の者を人質に捕へ越後へ立除、夫より上方へ上て、関白公へ取付奉り、立身の上粟野木工介と改名して、今天下の出頭斜めならざれば、政宗聚楽に於て度度登城し給ひけるに、木工介深く心に掛奉、且は身のため且は天下の御為とて、訴訟を企て、政宗前守備能相済、夫より譜代の古主と仰ぎ、秀次公御前御馳走に仍て、仕合尋常ならず。是に付て浮世の人々、政宗を謗りけるか、又杢を嫉みけるやらん、いかさまにも秀吉公の御前、讒言なれば思の外なる御咎めなり。去程に、施薬院法印・玄以(前田)・寺西筑後守(正勝)・岩井丹波守、四人の上使を以て、「今度関白謀反に付て、其方一味の事並に秀次鹿猟の山へ、度々見廻遂談合せしめる由、其隠れなし、しかのみならず、其方奥州下国の刻、関白方より贐のこといかで上聞に達せざる」との御祟めなり、政宗「上意の趣謹で恐入也、已に関白公奥州御下向以来、分けて御目を下されけること浅からず、夫故に往々ケ様有る者とは、夢々存ぜず、只恩愛の御中は、上御一体と計り相心得、伏見へも聚楽へも御同前に敬し奉ること、是れ伏見を恐との義なり、然るに関白公逆さまなる御企に依て、某右の存入今又却て身の怨と罷成こと是一つ。次に御謀反御一党とあること、毛頭存ぜざることなり、事新ら識申すことには候へども、人の口程不詳ことは非ず、四五十雑兵共に漸く二三百にて、在京の処に、縦へば関白公の御方を仕奉ると雖ども、何の御用に相立べき、但此体の在京なりとも、近国ならば国の人数も御用に立ん、然れども、虚言の様に其分にても、若しや御一味申す程ならば、御謀反は已に某在京中なり、其子細を申すに、御暇給はり三十日に及び、遼の遠国にありながら、都の乱何の御用に立べきや、是一つ。次に御暇たまはって後聚楽へ御暇乞に罷登りければ、粟野木工を以て鞍十口・帷二十、国土産にと御諚にて拝領申す、惣じて某胎内を出てより以来、只今迄に主君とあること此四ヶ年以来、秀吉公是始にて御坐す、故に上下の作法を弁へず、聚楽より拝領を伏見へ伺ひ、伏見より拝領をば聚楽へ伺ふ抔との御ことをば今上意を以てこそ心得候、全く不忠はあらざれども、承れば親なるを田舎者とて、運の傾くことを弁へずして、秀吉公御心に深く障り奉ること、浅ま敷次第なれども、私ならず行当りは、是非に及ばぬ儀なり。ケ様のことどもを能々吟味遊ばし。殿中の御請をば頼入」と宣ふ。四人の上使実にもとの貌ぶりにて、即ち其旨上聞に達し給へば、秀吉公宣ひけるは、「政宗子共兵五郎(秀宗)を若君秀頼公へ御被官始めに指上奉り、其賞に今度の難をば御赦免有て、兵五郎を跡式に政宗をば何国の島へも遣はし給はん、然れども、国許に差置ける政宗親類ども、並家老の者ども相上せ、今より兵五郎を主と仰いで、政宗方へ不通せんと誓紙をさせ給ふべし、其迄では聚楽の屋敷へ引込、国の者ども上せよ」と上意の由なり。彼兵五郎は今予州の宇和島の城主、伊達遠江守秀宗の事なり。彼秀宗は次の腹にて御座せども、その頃子供とては是迄なれば、右の数条に候事。其後家督忠宗は出で給ふ。されば四人の上使、右の御諚を悦び給ひ、施薬院の家へも入給はで、表の庭より呼掛に「先殿中は済たる分なり、心安かれ」とて其より内へ入給ひ、上意の旨を仰せ渡さる。是に依て聚楽の屋敷へ移し給ひ、閉門ありて御坐す。附参らせし家来まで、安堵の思をなす処に、屋敷近所の町人どもの口なりと、「政宗家中どもを屋敷へ引込、京中を焼払ひ斬死に死なんとある」由云唱ひ、以ての外の騒となる。政宗是を聞給ひ、右の上使へ其旨問合給へば、「双方の門を開き、内のみへけるやふに、惣じて用なきときは、内衆なりとも出入相止られ、御禁制肝要なり」と御異見なれば、其通にて御坐す。爾る処に、伏見に於て江戸中納言(家康)殿屋敷の前に、政宗事を札に書て立けるを、伏見の留守居役衆、此札を取て大坂へ上られけるを、秀吉公御披見あれば、「伏見の御普請奉行、布施屋小兵衛・杉山主水・竹山左衛門尉、彼三人へ最上義光を以て、政宗拵へけるは、秀吉公普請場へ出御の御時、御腹を召させ、三人の御奉行をば国大名になして、西三十三ヶ国は義光、東三十三ヶ国をば政宗支配、天下を分持になさんと云計略あり」と書記す。されば関白秀次公、一年奥州下向のとき、最上に御逗留の刻、義光息女(駒姫)を御目掛にと差上給ふ、政宗親類なれば、「国大名に似合ず、例の手くだ今に始ず」として、内々不和にて御坐すに、今又聚楽の上臈衆、各殺害の砌彼息女も同罪なれば、義光も公儀を気遣ひ、未だ閉門ありて御坐す。秀吉公彼札御披見の上、「政宗をば只人々謗りけるなり、今度関白一味と有ことも、ケ様の者ども偽口にて、皆讒言にこそあらん、左もあるときには我をのせたる行ひなり、其拵に乗る身にはなし、爰は赦免の処なり」とて、右の施薬院・玄以法印・寺西筑後守・岩井丹波守上使にて、政宗・義光御免なさるの旨、其上落書の大悪人原、現ける様に仕れとの上意を以て、御前相済出仕給ふ。夫故に政宗より黄金三十枚、義光より三十枚、是を二つに分けて、都と伏見に其時に天下の奉行人、御礼にてかけられけるなり。

今度政宗・義光落書の輩、縦ば同類せしむと云えども、隠密に申し出べければ、所領は天下より望次第、亦其々の家来より申出においては此黄金の上、分限は政宗・義光私領に於て、宛行らるべき者也。依て件の如し、
 文禄四年九月廿五日 増田右衛門尉(長盛) 大谷刑部少輔(義隆)
           石田治部少輔(三成) 浅野弾正少弼(長政)
           徳善法印(前田玄以) 施薬院法印(全宗)

語句・地名など

嬖女(へいじょ):側妾。
中々(なかなか):中途半端に。
大原(おおはら):京都市左京区大原
小国(おぐに):置賜郡小国町

現代語訳

さて関白秀次公には若君・姫君が五人いらっしゃった。嫡子は仙千代丸という名前で、五歳になられる。次男御百丸は四歳、三男御十丸は今年は歳に成られたところであった。このほか二人が姫君であられた。そして、これらの子息の母親たち、側女たち、若君・姫君あわせて三十九人、文禄四年(1595)八月二日、聚楽第より車に乗せられ、大路を通らせて、三条の橋を下げさせたところ、石田三成・増田長盛が代官として車の前後へ地価より、まず若君から処刑せよと言った。了解したとして、若君姫君と三十四人の女房たちを車より降ろし、三条河原へ引き出し、一人一人処刑し、秀次公の首と、若君たちの首を三条の橋に七日間さらさせた。知る人は茫然となり、聞く者は大変驚いた。若君たちの最後、上臈衆の最後の有様は悲惨すぎて、中途半端に紙に書いたとしても、読むにも書くにもつくせないことばかりである。
そうこうしているときに、浅野左京大夫幸長は秀次公と親しくしておられたのだが、その父弾正少弼長政と石田三成は日頃から仲が悪かったため、幸長も関白秀次公へ一味であると秀吉に申し上げた。それは本当だったのだろうか、秀吉公への対面を気遣い、幸長は大原へ引きこもった。浅野長政はそのころ奥州会津に滞在していた。幸長の一件が伝わってきたので、昼夜を分かたず急ぎ、上洛した。
政宗も聚楽第での騒ぎをお聞きになり、取るものも取り合えず岩出山を出発し、お急ぎなさったところ、長政へ追い付き、同行した。道中で「今回の関白公の謀叛に、政宗も参加している。在京中山へ狩りに出られた際、粟野木工介の取り持ちによって、参加し、謀叛の企みの仲間であると太閤のお耳に入り、伊達家の大事である」と秀吉の側近衆から、それぞれだんだんと知らせがきた。想像を越えた虚言であったので、政宗も動転し、その頃側近の一人で、政宗と親しくしていた施薬院全宗という法印がいたので、そのとき法印のところに「これはどういうことですか」と道中から問い合わせしたところ、「急いで大坂へ上られ、ご自身の屋敷ではなく、私の屋敷へお入りなされ」とおっしゃったので、法印の屋敷へ到着した。
どういう経緯で、政宗のことを讒言されたのかと質問すると、粟野木工介という、もともと政宗の譜代の者で、昔は粟野藤八郎と名乗り、政宗の弟軸丸の守り役についていた者がいた。悪事*1をし、本来死罪となるべきところ、出羽の小国へ駈け落ちて、小国でも討たれるべきところを逃れ、城主上郡山式部の親類の者を人質に越後へ逃げ、それから上方へ上り、関白秀次へ仕えるようになった。出世し、粟野木工介と改名して、現在の天下人である秀次の信頼あつかったのだが、政宗が度々聚楽第に登城するときに木工介は深く心にとめ、自分のため、天下のためとして、秀次の取りなしによって政宗との件は決着した。それから譜代の元主として扱い、秀次公との仲を取り持ちいろいろと奔走したため、秀次の政宗への覚えは尋常ではなかった。
そのため世間の人々は政宗を謗ったのだろうか。また木工介に嫉妬したのかもしれない。仮にも秀吉公に対する讒言であるのなら、想像以上のおとがめを受ける行為である。
そうしているうちに、施薬院全宗・前田玄以・寺西正勝・岩井丹波守の、四人の使いがやってきて、「今回の関白の謀叛について、その方は企みに参加し、秀次が鹿猟している山へ度々見廻り、談合をしていたことは明らかである。それだけでなく、奥州下国のとき、秀次からはなむけの品をもらったことをどうして秀吉に報告しなかったのか」とのお怒りであった。
政宗は「お言葉の趣旨、心より申し訳なく思います。関白公が奥州下向されて以来、特に目をかけて下さること多く、そのため、このようによくあることとは思わず、ただ慈しみのことは、関白と秀次が一体であると思い、伏見へも聚楽へも同じように敬い申し上げていることは、伏見の(秀吉を)敬うが故のことであります。なので、関白公の謀叛の企みによって、そのように思われることは怨みと思うことがまず一つであります。次に、謀叛の一味であるという疑い、全く存じ上げないことであります。改めていうことではないですが、人の口ほど詳細でないことはありません。兵が四,五十に、全員あわせてもやっと二,三百の人数で在京しているというのに、もし関白公の味方をするとしても、何の役に立つでしょうか。ただこのような在京衆でも、もし近い国ならば、領国の兵も役に立つでしょうが、虚言のとおりだったとして、もし一味であったならば、謀叛の企みは私が在京中に起こすことでしょう。というのも、私は暇をいただき三十日になり、はるか遠くの国にあったのですから、都における乱の何の役に立てましょうか。これがまた一つです。
次に、暇をいただいたあと、聚楽へ暇乞いにいったところ、粟野木工介を通じて鞍十口と帷子二十を国の土産にと拝領したのでございます。私は生まれてこのかた、今までに主と人をあおいだことはこの四年間、秀吉公が始めでございます。故に主従の作法をわきまえず、聚楽からいただいたものを伏見へ伺ったり、伏見からいただいたものを聚楽へ伺ったりなどということをしており、今お言葉を聞いて初めて理解しました。全く不忠な気持ちはありませんが、いただけるのならそのまま受け取ってしまう田舎者であるが故で、運の傾くことをわきまえず、秀吉公の心を害したこと大変情けないことではありますが、私だけでなくこのようになってしまうのは仕方のない事です。このようなことをよくよくお考えになってくださいませ。どうか、殿中にてよろしく頼みます」とおっしゃった。
四人の使いは本当に普段通りの顔つきとなり、すぐにその旨をお伝えしてくださったところ、秀吉公は「政宗の子息兵五郎秀宗が若君である秀頼公へ被官はじめとして仕えているから、そのため今回の疑いを許すこと、兵五郎を跡目に政宗をどこかの島へ配流としようと思ったが、領国に配置している政宗の親類・家老の者たちを上洛させ、今から兵五郎を主と仰いで、政宗とは連絡を取らないことと誓わせ、証文をかかせること、それまでは聚楽城下の屋敷へ籠もり、国の家臣達を上らせよ」とご命令になった。
この兵五郎は今伊予国宇和島の城主である、伊達遠江守秀宗の事である。この秀宗は側室の子であるけれども、そのころ政宗の子息は彼以外いなかったので、以上のようになった。その後家督を継ぐことになった忠宗が誕生した。
すると、四人の使いはこのご命令をお喜びになり、施薬院の家へも入らずに、表の庭から呼びかけ、「まず秀吉の機嫌は収まったようである。安心せよ」とおっしゃり、庭から屋敷中へ入りなさり、ご命令の内容をおっしゃった。このため聚楽第城下の屋敷へお移りになり、閉門にしてらっしゃった。
おつきしていた家臣達も安堵していたところ、屋敷の近所の町人達が、「政宗は家臣達を屋敷にいれて立てこもり、京中を焼き払い、斬り死にしようとしているのではないか」と噂し、想像以上の騒ぎとなった。
政宗はこれを聞き、先の使いへ問い合わせしたところ、「表裏双方の門を開き、中の見えるようにし、主に用がないときは使用人であっても出入りするのをやめ、禁制するのが大事である」と御意見をいただいたので、その通りにした。
そうこうしているところに、伏見の江戸中納言徳川家康の屋敷前に、政宗のことを書いた立て札がたった。伏見の留守居役衆がこの立て札をとって大坂へもってきて、秀吉が御覧になったところ、立て札には「伏見の普請奉行の布施屋小兵衛・杉山主水・竹山左衛門尉、この三人へ最上義光をつかって政宗が企んでいるのは、秀吉公が普請場へいらっしゃったときに腹を切らせ、この三人の奉行を国大名にし、西三十三国を義光、東三十三国を政宗が支配し、天下を分割支配しようという計略がある」と記されていた。
ところで、関白秀次公が一年奥州下向していたとき、最上領に逗留なさった際に、義光息女駒姫を側妾として献上なさった。政宗は親類であるので、「一国の大名に似合わない、義光のやり方は今にはじまったことではない」とおっしゃって、密かに不和であったのだが、今また聚楽の上臈衆がそれぞれ殺害されたとき、この息女も同罪となったので、義光も秀吉への対面を気遣い、未だに閉門していた。
秀吉公はこの立て札を御覧になった上で、「人々は政宗だけを謗っているのだろう。今回関白の一味とされたのも、このような者たちによる虚言であり、みな讒言だろう。そうだとしたら、私をそそのかそうという行いである。そのような企みにのる自分ではない。ここは許そう」と、前述の施薬院・玄以・寺西筑後守・岩井丹波守を使いとして、政宗と義光を許すとの旨、その上落書きした大悪人が捕まるようにせよとの命令をくだされ、この件は終了となった。
そのため、政宗から黄金三十枚、義光から三十枚、これを二つにわけて懸賞金とし、都と伏見に奉行に命じ、立て札にかけられたのである。

今回政宗・義光についての落書きをした者、たとえ仲間であっても、秘密裏に自首するならば、望みの所領をあたえること、またその家来よりの密告であるならこの黄金を与える上、政宗・義光の領国にて知行を与えるため、出頭せよ。
 文禄四年九月二十五日 増田長盛 大谷義隆
            石田三成 浅野長政
            前田玄以 施薬院全宗

感想

秀次事件の結末です(秀次事件自体については八巻に詳しい記事があります。順番が逆になりますが、そのうちupします)。『成実記』109:秀次事件結末に相当する記事です。
秀次子息のこと、政宗の道中での問い合わせ、秀吉の返答、立て札の記事が詳細になっているほかはあまり変わりありません。
秀次事件→政宗・義光蟄居→今日の人々の噂→秀吉による赦免→立て札という流れです。
義光と政宗がどっちが東西どっちを取るのかが『成実記』と『政宗記』で逆になってますが、どっちがホントなのでしょう?(笑)
『成実記』では幼い娘を秀次に献上した義光の行為を「天下のあざけりに候」と書いており、それが「成実が義光をpgrってる」とネットなどで広がっていますが、これは中傷ではなく、批判だと思います。『政宗記』では政宗自身「きちんとした大名がすることではないが、(義光の)それは今に始まったことではない」と批判していたことが書かれています。
とにかく、これ以降政宗家中の主な家臣達は在京を命じられ、主要家臣の出奔が続出するなど、様々な問題が表出してくるようになります。その詳細は(残念ながら)記されてはいませんが。

*1:小次郎の謀叛未遂事件への関与のこと