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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』8-8:関白乱事

『政宗記』8-8:関白秀次事件

原文

去程に太閤、聚楽をば、関白公へゆづり、御身は大坂・伏見の両城懸ておはしけるが、爰に近江国浅井備前守の息女、其頃天下にかくれなき美女におはす事聞給ひ、天正の比彼息女を密に迎ひ取、淀の渡りに新殿を構へ、淀の御所とぞ申しける。故に同年の夏の頃、御腹に若君誕生御坐す。御年過ての若子なれば、御寵愛尋常ならず。されば諸国大名・小名、或は名物名剣金銀珠玉に至る迄、此君へ数を尽す。誠に遠国遠島の浦々迄も、仰奉る事斜めならず。斯て関白秀次公若君御寵愛を見給ひ、御実子まします上は、末代にも我を許容はし給ふまじ、天下は此君ならん、とおぼしける御心、いつとなく出給ふと云ども、仰出らる旨もなく、数年それのみ積て、御心乱れ様々悪行どもの余りに、謀叛の御企有とも申す。又若君御誕生の後は、秀次御猶子を太閤御後悔と見合せ、石田治部光成が御中を隔てたりとも唱ふ。様々区々の取沙汰也。かかりける処に、関白公其比鹿猟を好み給ひ、唐犬どもを集め山に綱を張、一方より追かけければ、鹿ども数多かかりけるを犬に喰せ、彼山々へ出御有て、五日十日の御逗留、御慰かと上下万民みる処に、全く御慰には非ず、謀叛評定のため野山の御住居なりと、秀吉公聞給ふに、其に又関白公へ付奉田中兵部、石田の許へ内通有由、彼是して文禄四年七月三日に、聚楽の城へ上使として、徳善院をつかはし給ひ、御諚の旨を言上申す。其上徳善院自分の様に、「只伏見へ出御遊ばし、御誤りなき通り一々仰せ開かれなば、讒言の子細も顕はれ、やがて分明ならん」と手を分、様々に諫め奉ると云ども御承引無く、是に付て、法印伏見に帰り、参て其旨上聞に達しければ、いかにもしてかたり出せと宣ひ、重ねて徳善院に幸蔵主と云、比丘尼を差副遣はし給ふ。仰、比丘御前と申は、女なれども才覚世に勝れたる辯舌明かなれば、奥表の嫌ひなく御前を片時放し奉らず、御崇敬の尼也。彼御両使聚楽へ参り、徳善院言上仕りけるは、「御前に幸蔵主を差置、御諚の趣事も細かに上聞に達し、宥めければ軈て御気色直て宣ひけるは、汝ども存の如く三好治兵衛の時より取立、已に関白の職を天下と共に譲り、聚楽を渡しける上は、何の不足有てか謀叛を企むべきや、如何さまにもこれは讒言疑ひ無けれども、第一歎の所あり、天下の主とならん者の、人に疎まるるは家を亡す瑞相なり、扨疎まぬ則は秀次と予が半に虚言有べき謂れなし、今より斯の如き心得是一つ、次に当五才の秀頼、我老ての子なれば更に入ざる事なれとも、一代に子と云者の是始也、故に我より後は関白へ預けなば、秀次も予が取立猶子の首尾をば、一期の内はいかで忘れ候べき、秀頼堅固に育ちなば、右の賞に一国をも出てなど、取立ては有べきに、浮世の者ども其分をば積らずして、昨日・今日の実子あればとて、恩愛の中を隔んがため、あらゆる目安の事、面目を失ふとの御諚にて、寔に坐口の御歎きにてこそ候らへ。只幸蔵主と法印めに打任せ給ひ、御車に召し日比の如く、君達をも御車の尻にのせ参らせ、伏見へ出御有て御傍近く御身を投打、御誤なき通り仰せ分られ候らはば、いかで御和睦有まじきや」と、いろいろ偽寄奉る由。け様の事どもに秀次実にもとやおぼしけん、「さらば伏見へ参らん、先両人は先へゆけ」との給ふ。御諚に任せ法印・幸蔵主は急ぎ返り、参りて其旨言上申すと、かやかかりける処に、聚楽にては各打寄、取々さまざま御評定の由、中にも木村常陸守進み出で、「君は伏見へ御行たまひ、御対面の上に二度聚楽へ還御成んとおぼしけるや、御運尽たる事どもかな、若しこれ程の御大事にたとへば、伏見入御なりとも、いかで逃れさせ給ふべき、若や伏見と聚楽の間に関据わつて御跡先を打囲奉り、雑兵共の手にかかり給ふか、さくば関所より直に遠国遠島へも、御罪に所為られ、はては御介錯もなく御腹召れん事眼前也。凡そ人間は高きも賤きも、よも百年をばたもたず、仰ぎ願くばいそぎ伏見へ押寄、負ても勝ても戦場に御名を残され候か、然ば、此城に御楯籠り、京中を焼払ひて、御門をこれへ行幸なし奉り、一支御支えなば太閤も、天子とともに打果し給ふべきや、又弓を引かね給はば、御扱と成て此方の御利運成べし」と、残る処もなく申し上られたるとかや。爰に粟野木工介、「常陸守の御諫言御事では候へども、已に君の御謀叛疑ひなく召置れなば、即時に押寄給ふべきか、流石是程迄に打延給ふは、光成が讒言申すとも、御底意は御承引なくとこそ覚へけれ、只聊の御障りもなく、伏見へ出御ならば、などか打解坐さでは候べき、さればとて伏見へおしよせ給へ、たとへば一扁の御勝利には候とも、末果しての御利運は、中々思も寄ず。それをいかにと申すに、此方は多勢伏見をば小勢に積ても、其方は重恩の御譜代、此方は諸方の仮武者なれば、御用立べき見当なし、況此城郭を蹈へ御座すとも、御心底を存知たる者こそあれ、左もなき者どもは、莫大の御恩を以て、只今迄の御威勢、我朝は申すに及ばず、唐までも隠れなし、爾るに其御恩を忘れ給ひ、伏見へ向て弓を御彎、逆賊なる御企かなと存知なば、御方の軍兵忽に逆して、伏見へひく弓を聚楽へ引替、恐れながらも君の御首をいただきて、降参をと存ずる輩多からん」と袷云恰云*1、「先急ぎ今度は御参り爾るべし」と、頻りに申しけるとかや。斯て伺候の各熊谷大膳を始め、此義に同じければ、御前を恐れいかにもひそかに、御輿一丁御道具もなく、御身近き小性衆取合歩立ともに、わづか二三十の御供にて然るべしとて、文禄四年乙未七月八日に、聚楽の城を出御なるは、誠に御運の究め也。

地名・語句など

同年:文禄二年八月の秀頼誕生をさす
猶子:養子
奥表:秀吉の奥向きも表向きも
三好治兵衛:秀次の初めの名

現代語訳

さて太閤秀吉公は聚楽第を関白秀次公へ譲り、御自身は大坂・伏見の二つの城両方を兼ねてお暮らしであったのだが、このとき近江国浅井備前守長政の息女が、当時世に知られた美女でおられることをお聞きなさり、天正の頃、この息女を密かに迎えいれ、淀の渡りに新しい城を構え、淀の御所と申しあげた。そして文禄2年の夏の頃、若君が誕生なさった。年をとられてからのお子であったので、秀吉公の寵愛はなみなみではなかった。
なので諸国の大名・小大名たちは、或いは名物・名剣・金銀・珠玉に至るまで、この若君へ誕生祝いとして贈った。本当に遠い国、遠い島の隅々までも、話題となっていた。こうして関白秀次公はこの若君への秀吉の寵愛を御覧になり、ご実子であるからには、末代にもご自分を許容することは無いだろう、天下の跡を継ぐのはこの若君であろうと思われた心が、いつからともなく出ていたと言うのだが、仰られることもなく、数年不信だけ積もって、お心を乱され、様々の悪行を尽くした上で、謀叛の企み有りとも言われた。
また若君が誕生したあとは秀次公を養子にしたことを太閤秀吉公が後悔していらっしゃると見て、石田治部三成がお二人の仲を隔てたとも噂になった。このように様々な噂が立った。
秀次公はその頃鹿猟をお好みになり、唐犬を集め山に網を張り、一方から追いかけさせ、鹿がたくさんかかったのを犬に食べさせ、山へおいでになって、5日から10日までの逗留をなさり、お楽しみかと皆が思っているところ、全くお楽しみではあらず、謀叛の会議のために野山にお住まいであると、秀吉公がお聞きになり、その上関白公へ仕えていた田中兵部吉政が石田三成のもとへ内通した。かれこれして、文禄4年7月3日に、聚楽第に使いとして徳善院(前田玄以)をお遣わしになり、ご命令の旨を申し上げた。このうえ前田玄以は自分のことのように「ただ伏見へ起こしになり、本当のことを一通りいちいち申し上げなされば、讒言の詳細も間違いであることがわかり、やがて事があきらかになるでしょう」と手を尽くし、さまざまに諫め申し上げたが、秀次公は納得なさらず、このため前田玄以は伏見に帰り、秀吉公の前に出てその言葉をお伝えなさったところ、どんなことをしても聞き出せと仰り、前田玄以に幸蔵主という尼を付け、もう一度遣わせなさった。この尼は女性ではあるけれども交渉能力に優れた女性であり、秀吉は奥でも表でも区別無く、この女性を片時も離さず、崇敬していた尼であった。
この二人の使いが聚楽第へ参り、前田玄以が申し上げたのは、「幸蔵主を遣わしてまで、ご命令のこと細かく聞かせ、宥めたならば、やがて顔色も直って仰ったのは、お前たちも知っているとおり、三好治兵衛と名乗っていた頃から取り立て、今既に関白の職を天下とともに譲り、聚楽第を渡した上は、何の不足があって謀叛を企むというのか。どう見てもこれは讒言であることは疑いないけれども、非常に嘆いている。天下の主となるべき者が、人に疎まれるのは家を亡ぼす良くない印である。連絡が密であったときは秀次と自分(秀吉)の間に本当でないことがあったことはない。今からこのように心得次第で変わるものである。
次に、今五才となった秀頼のことであるが、私が年老いてからの子どもであるので、更にだけれども、一生のうちに子どもというものを持つのはこれが初めてである。なので、私の跡は関白へ預けたならば、秀次も私が取り立て、養子にしたように、一生の間はそれを忘れないで欲しい。秀頼が元気に育ったならば、その報いに一国を取り立てることはあるべきであると思う。世間の者たちはその詳細を知らずして、昨日今日生まれた実子であるからといって、私たちの恩愛の仲をさこうとして、あらゆる政治のことなど、面目を失うと言われており、哀しいことであるだ。ただ幸蔵主と前田玄以に全てお任せになり、お車に乗って、いつものように若君たちも御車の後ろにお乗せになって、伏見へいらっしゃって、私の側に来て、間違いのないよう申し開きなされば、仲直りすることができないことがありましょうや」といろいろなだめすかした。
このようなことを聞き、秀次公もその通りだと思ったのだろうか、「では伏見へ行こう。二人は先にゆけ」と仰った。ご命令にのっとって前田玄以と幸蔵主は急いで帰り、秀吉の前に参ってその旨を申し上げた処、聚楽第ではそれぞれが集まり、いろいろと話し合いがあった。中でも木村常陸守重茲が進み出て、「秀次公が伏見へ行かれ、ご対面の上に、もう一度聚楽へお帰りなると思うのはもう御運がつきて居るのではないか。もしこれほどの大事になったとなると伏見へお入りになったところで、どうやって逃げさせられることがありましょうか。もしや伏見と聚楽第の間に関を作り、秀次のあとを打ち囲み、雑兵どもの手にかかりなさるか、そうでなくば関所から直接遠国遠島の罪に処され、はては介錯もなく切腹させられることが明白であります。おおよそ人間は身分高いものも低いものも、百年と生きることが出来ず、願わくば急いで伏見へ攻め込み、負けても勝っても戦場に名前をお残しなさるか、もしくはこの城に立てこもり、京中を焼き払って天皇を聚楽第へお連れし、支えとなるならば、太閤も天皇とともに討ち果たすべきである。また弓を引き抵抗すれば、こちらに運があるはずです」と、残らず申し上げたという。
ここに粟野木工介秀用が「常陸守の諫言はもっともでは有りますが、すでに秀次公の謀叛を疑い無く思っていらっしゃるのであれば、すぐに攻められなさるはずであり、さすがにそこまでは引き延ばしていらっしゃるのは、三成が讒言していても、お心の深いところでは納得していらっしゃらないからではないでしょうか。ただいささかの問題もなく伏見へ行かれるのであれば、きっと打ち解けられると思います。そうではあっても、伏見へ攻め上がり、もし一度勝利を得たとしても、その先の運はなかなか想像出来ません。それはどうしてかというと、こちらは多勢であり、伏見は小勢としても、あちらは恩を深く重ねた譜代衆であり、こちらはあまり戦の経験のない者たちばかりであり、勝てる見込みはありません。この城へ籠城すると言えども、秀次公の心を知っている者はともかく、そうでもない人たちは、秀吉公への莫大な恩を持ち、今までの権勢は我が国はもいうに及ばず、唐までも聞こえています。その恩をお忘れになって伏見へ向かって弓をお引き、逆賊となる企みであると気づけば、味方の兵たちはたちまちに裏切って、伏見へ引く弓を聚楽へ向け、恐れながらも秀次公のお首を手に降参をと思うもの多いだろう」となんども言った。「まず急いで、今回は秀吉公の許へお参りするべきでございます」と頻りに言ったという。
こうして仕えている熊谷大膳を始め、諸家臣たちはこの意見と同じであったため、秀吉公を恐れ、御輿一丁で道具もなくひそかに、身近に仕える小姓衆のみを引き連れ、徒立ちのものたちとともにわずか2,30のお供であっただろうと思われるが、文禄4年7月8日に聚楽第を出られたのは、本当に御運のつきであった。

感想

秀次事件の始まりです。長めの記事です。
浅井長政の娘こと淀殿が登場し、秀頼が生まれたこと、そのことによって秀吉と秀次の間に亀裂が生じ始め、前田玄以を初めとする使者により説得が行われ、それに対しての秀次配下の家臣たちの反応が書かれています。ここで出てくる粟野木工介秀用は元伊達家に仕えていた者で、政宗と秀次の橋渡しをしたと言われています。
秀次について詳しいことは以下参照。
豊臣秀次 - Wikipedia
この記事にも『成実記』からの引用が(但し書き付きではありますが)書かれています。
幸蔵主は正しくは孝蔵主と書くのが正しいようです。
秀次事件は次の記事にも続きます。

*1:ママ