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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』7-5:政宗敵対給大将衆の事

『政宗記』7-5:政宗と敵対なさった大将のこと

原文

一 佐竹義重は、新羅三郎の末、政宗へは伯母聟なれども、敵対給へり。扨太閤秀吉公の御時は、死去にて、家督義宣関ヶ原の御軍に、石田へ一味に依て、身代僅十八万石に成、佐竹より出羽秋田へ国替なり。
一 会津先の盛氏は、三浦の末にて凡名将にも有んと云。去程に、武勇・歌道万づに達し給ふ。有年、松島一見のため密かに御でて、長老坂より海上の島々を詠め、我朝は言うに及ばず、八景と云ども争か是には勝るべき、名残のために一首連ねんとて、
「松島や嵐吹ども寒からじ錦に増る島をみにきて」と詠じ給ふ。是は病歌なれども、其昔奥州にて名を得たる大将なれば、爰にあらはす。然るに、子の一人もおはさず*1。されば須賀川の盛行は、政宗の伯母聟にて、盛氏へも親類也。本より会津の旗下なる故、盛行家督の盛隆を人質に渡し給ふに、盛氏是を猶子となし、会津の家を譲り給ふ。然して後不慮なる怪我にて、盛隆死去也。是に幼少の息女あるを、佐竹の次男義広聟継と成て、盛重と改名して会津へ直り、政宗と戦ひ給ふ滅亡、前にあり。
一 大崎義隆、政宗へ敵対給ふ。其後太閤秀吉公へ出仕遅き故、身代召放たれ、其明地を木村伊勢守拝領の処に、大崎本侍の斃れ者ども謀叛を起こし、已に伊勢守滅亡をとらんとす。此時にいたりて石田三成取持にて、「大崎義隆・葛西晴宣本領半分にて、身代相立結ぶべし」と、秀吉公宣ひければ、「大崎・葛西の一揆の意趣は、義隆・晴宣謀叛同意」の由、政宗より上聞達し給ふ。是に依て大崎よりは、谷地森主膳、伊達よりは大條薩摩・守屋守柏両人相だされ、家康公御代官にて、対決に及び、義隆をば景勝へ、晴宣は加賀の利家へ召預け給ひ、身代相果候事。
一 岩城の常隆、政宗会津へ移り給ふ以来は、一味にて御坐す。然れども、秀吉御発向前死去し給ふ。故に家督長次郎貞隆幼少なりけれども、譜代所なれば岩城をふまへておはす。かかりける処に、秀吉公御発向の砌、幼少にて出仕相叶わず、其故に身代相果、上意にして貞隆をば佐竹へ預け給ひ、岩城は佐竹よりの継世となり、貞隆は佐竹の道場に押籠られて御坐す。然るに義宣秋田へ国替の折節、岩城の家老橋本甲斐と云し者、彼貞隆を供して伊達の家へ参りけり。是に仍て岩城の名跡仙台にある也。*2
一 相馬義胤、平親王将門の末、佐竹の旗下となる。其故関ヶ原一乱に身代果たまふと云ども、誤りなければ又本の相馬へ本意也。
一 最上義光、秀吉公の御時も恙なく、又関ヶ原の御軍にも家康方也。其以来義光家督の駿河守死去し給ふ、其子源五郎最上の家督に立給ふ。然る処に叔父の山形右衛門、同名兵庫、義光の甥に松根備前と奉行の日野備中、彼等四人引分て公事を仕出、公方秀忠公より双方ともに、流罪に処され、此時最上も滅亡。是に仍て最上を受取、御検使として元和八年九月、始めに本多上野守・其子出羽守・永井右近太輔大将にて、江戸御旗本数百人、相付られ下向し給ふ。故に隣国より人数を出さる、是に仍て政宗も、伊達安芸定宗・同苗安房成実とともに、彼等二人家の大将分にて、新田下総・大町備前・中島伊勢・佐藤右衛門・大条薩摩・奥山大学其外旗本を差添、惣て三千余り出され、出羽の内所々の郡を伊達の人数受取なり。上野守父子最上山形の本城に御坐す。永井殿は二の丸也。然るに、上野守いかなる悪逆やらん、同十月の末、伊丹播磨守上使として上野守父子、山形より直に秋田の仙北に流罪に所せらる。されば、義光の妹は政宗の母儀にて、東の上と号す。義光無双の侫人にて、惣領修理大夫を害し、其他科なき親類を損亡の刻、政宗方々威勢なれば、隣国と云ども義光身代をも大事とや思はれけん。政宗の弟に於竹殿*3を伊達の惣領に取立、我儘に手に入んと企て給へども、間もなく於竹殿死去なり。扨東の上も最上内通あり、悪事を工み政宗病気も毒打ならんと唱ふ。其故やらん東の上、終に最上へ移し給へり。然りと云ども、最上改易の折節、公方秀忠公へ政宗母儀なるしな上聞に達せられ、仙台へ引取給ひ、其よりは尚孝行にて御坐す事。
一 奥州仙道七屋形と申せしは、先田村清顕、坂上の田村丸の末政宗舅なれば、御方にて御坐す。さる程に死去し給ふと云ども、田村は政宗支配なり。其品前にあり。
一 四本の松は、其昔久吉の持領也。然るに、彼久吉かねてこの沙汰あしきに仍て、家中一同して追出し、家老の大内備前大身故、其身の鉾にて傍輩を従ひ、四本の松殿になる。其子定綱代に政宗へ敵対けれども手に入。扨其段初巻目にあり。其故に大内子孫伊達の家に未だ有也。
一 二本松義継、鎌倉の二階堂の末、政宗へ敵対、其以来二本松手に入る段、前にあり。
一 須賀川盛行の後室は会津義広・政宗へも伯母にて、会津先の盛隆母儀也、右にも申す、盛隆死の跡目を、佐竹の二男盛重継て須賀川の孫聟となる。故に須賀川は佐竹よりの差引なり。去程に政宗会津を取給へども、須賀川の敵対給ふ謂れは、右の恨によりて也。其後手に入子細、前にあり。
一 安積の内大槻の城主は、伊藤の末にて、会津先方には旗下也。政宗へ敵対けれども、会津へ移し給へば、降参して手に入也。
一 白川義近、関東結城の末也、須賀川落城の刻、政宗へ降参し給ふ。然るに、太閤秀吉公に出仕遅くして身代相果、蒲生氏郷へ預けられ、後には不節斎と申す。関ヶ原御軍以来、彼の不節斎を駮目とも云ける臣下供して、政宗家へ参る。其故に白川の子孫仙台にあり。
一 石川大和守昭光は、会津滅亡以来政宗へ一味也。佐竹近所石川に御坐す内、佐竹・会津へ一党にて、伊達へ敵の様にはみへけれども、度々の内通故、内々は懇にて御坐す。然るに、秀吉公へ出仕遅かりければ、身代相果、政宗へ御坐て、家の一門頭となり、未子孫仙台にあり。

地名・語句など

伯母聟:佐竹義重は伊達晴宗息女を夫人としている。
病歌(やまいうた):修辞上嫌うべきところのある和歌。
公事:訴訟
大槻:郡山市大槻

現代語訳

・佐竹義重は新羅三郎の子孫で、政宗へは伯母聟であるけれども敵対なさった。さて太閤秀吉公の時代には死去しており、跡継ぎの義宣は関ヶ原の戦いのときに石田三成へ味方したことによって、わずか18万石となって、佐竹から出羽の秋田へ国替えとなった。
・会津の前の芦名盛氏は三浦氏の子孫であって、一般に名将であったと言われている。また武勇・歌道すべてに優れていたという。ある年、松島を一目見ようと密かに出発し、長老坂より海上の島々を眺め、我が国は言うに及ばず、八景といえどもこれに勝る風景はない、思い出として一首並べようとして、
「松島や嵐吹ども寒からじ錦に増る島をみにきて」とお詠みになった。これは修辞的に問題のある歌ではあるが、盛氏はその昔奥州にて名声を得た大将であるのでここに記す。しかし、子は一人も居なかった*4。なので須賀川の盛行(盛義)は政宗の伯母聟で、盛氏とも親類であった。もとから会津の支配下にあったので、盛行の跡継ぎの盛隆を人質に渡していたのを、盛氏は是を養子とし、会津の家をお譲りになった。しかしその後、不慮の怪我で盛隆が死亡した。是に、幼少の子女があったので、佐竹の次男義広を聟として跡継ぎとし、盛重と改名して会津へ渡り、政宗と戦いなさり滅亡したことは前にある。
・大崎義隆、政宗へ敵対なさった。その後、太閤秀吉公へ出仕が遅かったため、改易となり、その空き地を木村伊勢守吉清が拝領したのだが、大崎の旧臣たちが謀叛を起こし、木村伊勢守を滅亡させようとした。このときに、石田三成の取り持ちによって「大崎義隆・葛西晴信は本領を半分にして再興させるように」と太閤秀吉公が仰ったところ、「大崎・葛西の一揆の恨みは、義隆・晴信が謀叛に同意している」と言うことを政宗より申し上げなさった。これによって、大崎よりは谷地森主膳・伊達よりは大條薩摩実頼・守屋守柏意成の二人を出し、家康公が代官となって、面会され、義隆を上杉景勝のもとへ、晴信は加賀の前田利家へ預けなさり、改易となった。
・岩城の常隆、政宗が会津へお移りになったあとは、味方に成られた。しかし、秀吉が小田原征伐へ出発なさる前にお亡くなりになった。このため跡継ぎ長次郎貞隆(政隆)は幼少であったけれども、譜代の者だったので、岩城を立てておられた。しかし秀吉の出発の時、幼少であったので出仕することが叶わず、そのため改易となり、ご命令によって貞隆を佐竹へお預けになり、岩城は佐竹からの子を跡継ぎとし、貞隆は佐竹の道場におしこめられていらっしゃった。しかし、佐竹義宣が秋田へ国替えになったときに、岩城の家老橋本甲斐という者がこの貞隆を連れて伊達の家へ来た。このため岩城の後裔は仙台にある。
・相馬義胤、平将門の子孫で、佐竹の配下となる。そのため関ヶ原の戦いのときに改易となったが、間違いなければまたもとの相馬領に戻った。
・最上義光、秀吉公の時代も問題なく、また関ヶ原の戦いでも家康公へ味方した。そのとき義光の跡継ぎの駿河守家親がお亡くなりになり、その子源五郎義俊が最上の跡継ぎになった。そうしているうちに伯父の山形右衛門(山野辺義忠)、同名兵庫、義光の甥に松根備前光広と奉行の日野備中、この四人がわかれて争いになり、訴訟を起こし、将軍徳川秀忠公より双方ともに流罪に処され、このとき最上氏も滅亡した。このため、最上の各城を受け取るために、御検使として元和8年9月、はじめに本多上野守(上野介正純)・その子出羽守・永井右近太輔を大将として、江戸の旗本数百人を付けられ、下向なさった。このため隣国から手勢をだすことになり、これによって政宗も、伊達安芸定宗・同苗安房成実とともに、この二人は家の大将分であるので、新田下総(式部義親)・大町備前(主計元頼)・中島伊勢(左衛門宗信)・佐藤右衛門(甚三郎定信)・大条薩摩実頼・奥山大学常良そのほか旗本をつけ、すべて3000人余りを出され、出羽のうち所々の郡を、伊達の手勢が受け取った。上野守父子は最上山形の本城にいらっしゃった。永井殿は二の丸にいた。底へ、上野守(上野介)がどのような悪いことをしたのだろうか、同年10月の末に、伊丹播磨守を上使にして、上野守父子は山形より直接秋田の仙北に流罪に処せられた。されば、義光の妹保春院は政宗の母上であるので、東の上と呼ばれていた。
義光は比べる者がいないほどの侫人で、跡継ぎであった修理大夫義康を殺し、そのほか科のない親類を生害させたとき、政宗はあちこちへ威勢良く攻めていたので、義光は隣国といっても自分の身にもおおごとがおきるとお思いになったのだろうか、政宗の弟に於竹殿(竺丸)を伊達の統領とし、自分の思うままに手に入れようと企てなさったけれども、まもなく竺丸は死去した。さて保春院も最上へ内通しており、悪事をたくらみ、政宗へ毒を飲ませたといわれた。そのためであろうか、ついには最上へお移りになられた。しかし、最上改易のとき、将軍秀忠公へ政宗の母である事情を説明し、政宗公が仙台へお引き取りになり、それからはいっそう孝行に励みなさった。
・「奥州仙道七屋形」と言うのは、まず田村清顕は坂上田村麻呂の子孫で、政宗の舅なのでお味方であった。なのでお亡くなりになったが、田村領は政宗が支配した。その事情は先に書いた。
・四本の松(塩松)はその昔久吉(塩松尚義)のおさめていた領地であった。しかしこの尚義は以前から治め方が悪かったため、家中一同で追い出し、家老の大内備前義綱が大身であったため、その身の武勇によって同僚をしたがえ、四本の松の領主となる。その子定綱の代に政宗に敵対したが、支配下に置かれた。その詳細は一巻目にある。そのため大内の子孫は伊達の家中に未だ居る。
・二本松(畠山)義継、鎌倉の二階堂氏の子孫で、政宗へ敵対した。それから二本松を手に入れるまでの話は、前にかいた。
・須賀川盛行(盛義)の後室は会津芦名義広・政宗へも伯母で、会津の前の当主の盛隆の母親であった。前にもかいたが、盛隆の死の跡目を佐竹の二男盛重(義広)が次いで、須賀川の孫聟となった。故に須賀川は佐竹からの影響が強くなった。なので政宗が会津をお取りになったけれども、須賀川が敵対なさった理由はこの恨みによる。その後、支配下に置くことになった詳細は先に書いた。
・安積の内大槻の城主は伊東氏の子孫で、会津の支配下にあった。政宗へ敵対したけれども、政宗が会津へお移りになったあとは降参して支配下になった。
・白川義近(義親)、関東の結城氏の子孫で、須賀川落城のときに政宗へ降参なさった。しかし、太閤秀吉公に出仕するのが遅かったため、改易となり、蒲生氏郷へ預けられ、後には不節斎(不説斎)と名乗った。関ヶ原の戦い以来、この不節斎を駮目(斑目)ともいう家臣が供をして、伊達家へ来た。そのため白川の子孫は仙台にある。
・石川大和守昭光は、会津が滅んで以降政宗へ味方となった。佐竹の近くの石川にいらっしゃった間は、佐竹・会津へ味方して、伊達へ敵対しているように見えていたけれども、たびたび内通しておられたので、実のところは親しくしておられた。しかし秀吉公への出仕が遅れたため、改易され、政宗の所にいらっしゃったため、伊達家の一門筆頭となり、その子孫は仙台に居る。

感想

この章は政宗と敵対した大将たちの氏素性とその後が箇条書きにして書かれています。
おもしろいポイントは芦名盛氏への謎の賞賛(笑)「おかしい歌だけれども、武勇に優れた武将の歌なので記しておくよ!」でしょうか。
あと、盛氏の子どもについての記述ですが、子どもがいなかったのではなく、盛氏の子盛興は天正三年父に先だって死んでおり、そのために以前から芦名家に人質としてきていた盛隆を芦名の家督に据えたのです。
また二階堂盛行となっているのが盛義の誤りであったり、岩城氏の記述が常隆→政隆であったりします。
岩城氏は天正18年7月、小田原出向を目の前にして死去した常隆のあとを佐竹義重三男の忠次郎貞隆がつぎ、常隆実子の長次郎政隆はまだ生まれておらず、成長後伊達家に来て、一門に列せられました。
岩城氏子孫の方による本『東北中世史続編 伊達岩城氏と中山岩城氏』や、その後岩城氏を継いだ貞隆系の記録によると、このとき常隆死去時、側妾であった二階堂氏仏性院が妊娠しており、家臣によって岩城家をで出た仏性院が長次郎政隆を生んだが、寺に預けられていったん出家していたが(僧名:隆道りゅうどう)、家臣の言葉によって還俗し、慶長年間に来仙し、知行を得たとあります。来仙台した時期は史料によっていろいろ違うようですが。政隆と名乗るようになったのも仙台に来てからで、政の字を貰っていることからも、丁重に扱われていたのがわかります。
あとこの当時よく○○(地名)+殿や、地名+諱で呼ばれていますが(二本松殿=畠山義継とか、会津義広)、これは当時の敬意表現であったそうです。
義光に対しての批判はいつもの通りだなあ…と思いますね。ここで於竹殿(=竺丸)というのが出てきますが、「於竺殿」の写本ミスかと思われます。
保春院の置毒事件については最近(数年前?)保春院が最上に移った時期が、文禄年間であるという虎哉宗乙の書状が見つかって以来、疑問視されていますが、『政宗記』を書いた時点~それ以後の伊達家では、義光と共謀した保春院の企て、竺丸の死亡がひとつの事件としてこう解釈する共通認識ができていたのだと推測します。
この章は少し誤記が多いのと、その後成実と近しい関係となる二階堂氏・岩城氏についての誤認識が多いのがちょっと気になります(もしかしたら他の人が書いたかも)が、義光とか盛氏に対しての部分は成実らしいとも思えますし、どこまで成実が書いたかは判然としません。
あと本多正純のことを本多上野守とかいてありますが、上野国は親王だけが任ぜられる国で(他にも常陸・上総も)、実質上上野介が支配しており、官位として名乗る場合(受領名)や通称として自官(官位を貰った訳ではないが、百官名を自ら名乗ること)するときも上野守は名乗ることは許されない慣例がありました。が、うろ覚えなのかここでは上野守と書いてます。*5
まあ上野とだけ覚えていたのでしょう。

*1:この記載は誤り。盛氏の子息盛隆は天正三年父に先だってしきょしたため、盛氏は以前から芦名家に人質として来ていた盛隆を芦名の家督とした

*2:天正十八年七月死去した常隆の跡を佐竹義重三男の忠次郎貞隆が継ぎ、常隆実子の長次郎政隆は伊達政宗に仕えた。ここの長次郎貞隆は長次郎政隆の誤記と思われる

*3:政宗の弟竺丸の事。於竺殿の誤記と思われる。小田原参陣を控えた天正十八年四月五日政宗は母保春院から毒を飲まされたとされる。七日政宗は弟竺丸を斬殺し、その夜保春院は兄最上義光を頼って山形に走った

*4:この記述は誤り→詳細は感想欄

*5:伊達家では留守政景が一時期上野介を名乗っています。