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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』7-6:太閤秀吉公小田原御発向

『政宗記』7-6:太閤秀吉が小田原に向かい出発したこと

原文

去程に主君信長公への謀反人、明智日向守を討随ひ、其天命を以て四国・鎮西・中国に至る迄残りなく治め、天下を掌の中に握り給ひし上は、今より関東、夫より陸奥国へと志し、天正十八年に小田原北条の氏正へ発向し給ふ。是に付て政宗も、秀吉公へ背きては叶ふまじ、との一左右にて、先遠藤不入と云者を上せ給へば、目通りの家康公・浅野弾正方より、急ぎ上り給ひて然るべしとて、不入をば下し給ふ。故に登り給ふべし、と宣ふ。然りと云ども、「会津を取給ふ後は、越後との戦なれば、越後を通り給ふ事成り難し、上野を直に上るべし」と宣ひ、会津新参表立ける者共をば残りなく、其へ譜代の者を取合、惣て百騎計の供也、去程に会津をば伊達成実郎等とともに、二本松より一宇召連、留守居にと宣ひ、又二本松をば用心のため、柴田但馬・石母田左衛門・大条尾張を差置給ふ。扨川境・横田の城には、会津新参の夏井勝左衛門を介添にして城代に差置給ふ。扨留守居の首尾とも、万づ終て後会津の内、南の山近所大内と云処迄打立給ふ。かかりける処に、関東の城々共北条家へ一味をなし、方々相抱ひければ、通り給ふも叶ふまじとて又会津へ帰り、夫より米沢へ出、出羽の小国を掛かり、越後へ扨信濃通りをし給ひ、小田原への参陣也。斯て秀吉公、政宗よりも聞給ひ、伊豆の山中底倉と云処を、政宗宿にと宣ひ、彼底倉へ宿着給ふ。此の如くの深山へ押籠られて御坐せば、此末々はいかがあらんと、下々気遣の処に、一両日相過、施薬院・稲葉の是乗坊・浅野弾正、上使として政宗処へ御尋の条々、
一 只今迄御礼申し上げぬ義、口惜しく思召置かれける事。
一 会津の義広、一両年以前に金上遠江と云親類を代官に上せ、御礼申上ける処に、其会津を乗取、義広在城へ移りたる由、私の至り曲事思召置かれける事。
右の品存知の旨も候はば、晴し候へとの上意也。政宗御諚の趣謹て畏る也。
一 奥州仙道の内、四本の松と云在所に、先祖の家中大内備前と申者在り。然るに、面々軍の折節会津よりの底意にて、備前某を背きければ、四本の松を退治致し取鎮べしと在る処に、会津義広・佐竹義重・岩城の常隆一党にて、大内に楯をつかせけれども、備前を退治致し安堵の刻、存じの外なる子細に依て、二本松義継と申者に取合、某親輝宗と互ひに不義なる生害をなす。此故に敵の二本松を退治せんと取立ければ、又義重・義広・常隆、主なき二本松へ味方致し、私方へ働出、合戦に及び、それより会津との取合に罷成、不慮に会津を乗取けるは、私ならざる事也。況や其頃出羽・大崎・相馬等に至る迄、敵なる故上洛蒙御顔を拝し奉るべき本意たりと云ども、右の仕合故其隙なく、御如在の体に罷成て候。然りと云ども右の数条は世上に隠れ有まじき由、上聞に達し致へば、重ねて又汝一人を方々より、差て敵になす事不審なり、就中其敵とも汝のためには、何れも親類の由聞へあり、子細の旨、有の儘に言上せよとの上意なり。政宗手前よりいかで方々敵に致し候はん、先一々詳かに言上せば、
一 最上義光、我等為には伯父にて、折節隣国と申し、分て無二の懇の処に、西国の境に鮎貝藤太郎と申す者居けるを、義光語らひ其領分へ手切を致す。是に付て自身罷出蹴れば、彼藤太郎居処を持兼、出羽よりの加勢とともに、最上へ引除罷在由、承及びける事。
一 相馬義胤不和の事、輝宗時代は戦けれども、某代に無事を入れ如何にも懇也。然るに、田村清顕と申す者私の舅也。かかりけるに清顕嗣子なくして、相果彼地主無き故、某に跡を譲る。然る処に、田村の家中石川弾正と申す者、某を背きて義胤を頼み、逆意を企て、彼者退治のため、本の居城米沢を打立ければ義胤弾正知行へ疾に打越加勢致し、是に依て俄の退治も相叶はず。時を見合せ候らはんと、先近所の私領信夫の大森と申す処へ引込ければ、其内義胤、清顕家中どもを語ひ付、田村の本城三春を取んと企て、已に城の坂中迄参りけれども、田村にも又我に忠功の者有て、内へ入らずに坂中より押返され、彼地取損じ直に相馬へ蓓みけると、其処へ早馬にて註進に付て、即大森を罷立弾正をも退治致し、彼弾正相馬へ引除、義胤を頼み未だ罷在由承て候事。
一 大崎との戦は、境論より起り軍に罷成て候と、上聞に達し給へば、秀吉公、政宗は若かれども、武勇人に勝れたる故、隣国の大身ども方々より憎むが、必人の生れ付譏嫉みは有事也と、御諚にて聞召分られたり。然と云ども、一度御礼を申上たる会津を乗取ければ、今は早天下に対し私也、然程に会津をば差上、扨本領は相相違有まじきとの御約束にて、御前相済候事。是政宗二十四歳の年也。

地名・語句など

大内:南会津郡下郷大内
底倉:神奈川県箱根町底倉
一左右(いっそう):便り/知らせ

現代語訳

その頃、秀吉公は、主君である信長公へ謀叛を起こした明智日向守光秀を討ちとり、その天命を以て、四国・九州・中国に至るまで残りなく手にいれ、天下を掌の中に握られたあと、これから関東そして陸奥国を治めようと志し、天正18年に小田原の北条氏の氏政へ向けて出発なさった。これに合わせ、政宗も秀吉公に背いては叶わないだろうとの知らせで、まず遠藤不入斎という者を上らせたところ、面会した家康公・浅野弾正長政より、急いで上った方が良いといわれ、不入斎をお返しになった。そのため、上った方が良いだろう、と政宗は仰った。しかし「会津を取った後は、越後との戦になるので、越後を通ることは難しいだろう。上野国を通ってまっすぐに上る方が良い」と仰り、会津の旧臣で伊達に従うことになった者たちを残らず連れ、それに譜代の家臣たちを合わせ、全部で100騎ほどの供を連れて行くことになった。
そして会津は伊達成実の郎等と共に、二本松より手勢を全て連れてきて留守居役にと仰ったので、二本松の用心のため代わりに柴田但馬宗義・石母田左衛門景頼・大条尾張宗直をお置きになった。また川際の横田の城には、会津の旧臣である夏井勝左衛門を介添えにして、城代に置かれた。
さて留守居の配置が全て終わった後、会津のうち南の山の近くの大内というところまで出発なさった。そうこうしている間に、関東の城々は北条家へ味方し、あちこち連携していたので、通ることも出来ないとまた会津へ帰り、それから米沢へ出、出羽の小国を通り、越後そして信濃をお通りになって、小田原への参陣となった。
そして秀吉公は、政宗からの知らせを聞き、伊豆の山中の底倉というところを政宗の宿とせよと仰ったため、その底倉というところに到着した。
このような山深いところに押し込められていらっしゃるなら、この先々はどうなるのだろうと家臣たちが心配していたところ、二日過ぎ、施薬院全宗・色部是常坊・浅野弾正長政、上使として政宗のところへお尋ねになったのは以下の通りである。

1:秀吉公は、今まで服従の礼をしなかったことを残念に思っていること
2:会津の蘆名義広は、数年前に金上遠江盛備という親類を代官にして上らせ、服従の礼を申し上げていた。その会津をのっとり、義広の城である黒川城へ移ったことは、まったく私的で道理に合わないことと思われていること。

これらの事情を知っているのであれば、明らかにしろとのご命令であった。政宗はご命令の趣旨は謹んで承るといい、返答した。

1:奥州の仙道のうち、四本松というところにかつては伊達の家中であった大内備前定綱という者がいた。しかし、それぞれ戦が起こったとき、会津からの誘いにのり、大内定綱が私を裏切ったので、四本松を退治し、鎮まったと思ったところに、蘆名義広・佐竹義重・岩城常隆たちが仲間となって大内に(伊達に)背かせた。定綱を退治し、安堵していたとき、思いもしない展開によって、二本松の畠山義継という者と私の親である輝宗とが人の道に外れる生害事件を起こし、双方命を落とした。そのため仇として二本松を退治しようと戦をしかけたところ、又義重・義広・常隆とが主の居ない二本松へ味方し、我々の方へ戦を仕掛けたので、合戦になった。それから会津との戦が始まり、考えなしに会津を乗っ取ったのは、私戦ではありません。
そしてその頃出羽・大崎・相馬に至る迄、敵であったので、上洛して秀吉公に面会したく思っていたのが本心であったのだが、このような状態であったため、その隙がなく、現在のような状態になってしまったのであります。
そうとはいいつつも、これらのことは世間によく知られていることですので、お聞きになれば、重ねてまた私一人を方々より特別に敵にすることは疑わしいことであります。特にそれらの敵も私にとってはいずれも親類であることお聞きだと思います。これらの事情、ありのままに言えとのご命令であります。政宗の方からどうしてそれぞれを敵にするでしょうか。
まずそれぞれを詳しくいうと

1:最上義光、私にとっては伯父であり、隣国でもあり、特に仲良くしていたところ、西国との境に鮎貝藤太郎宗信という者が居たところ、義光は企んでその領内に戦を仕掛けました。このため、私が出陣したところ、この藤太郎宗信は居場所を保つことが出来ず、出羽からの加勢とともに、最上へ逃げ、そこにいることを聞いている事。
2:相馬義胤との不和の事ですが、輝宗の時代は戦をしていたのですが、私の代になって、休戦となり、仲良くしておりました。しかし田村清顕という者は私の舅でございます。清顕は嗣子がなかったため、清顕が死んだあと、田村領は主を無くしたため、私に後を譲りました。
そうしているところ、田村の家臣石川弾正という者が私に背き、義胤を頼り私に背こうとしたので、この者を倒すために私は元々の居城である米沢を出発したところ、義胤が弾正の地へ急いで援軍を遣わし、このため突然の退治も出来ませんでした。時を見合わせようと、まずその近くの私の領地信夫の大森というところへ引き込みましたら、そのうち義胤が田村の家臣たちと語らって、田村の本城三春を奪い取ろうと計画し、既に城の坂の途中まで来ていたのですが、田村にもまた私に従う者がおりまして、中へ入れずに押し返し、彼の地を取り損ねた彼等は相馬へ返ると、そこへ早馬での知らせで、すぐに大森を出発し、弾正を退治し、この弾正も相馬へ退き、義胤を頼って彼の地にいると聞いて居ります事。

3:大崎との戦は、境の論議から起こり、戦になったと申し上げた処、秀吉公は、政宗は若くとも武勇人より勝れている故に、隣国の大名たち色々なところから憎まれているが、人の生まれつきに必ず嫉妬はあるものであるとのお言葉により、了解なさった。しかし、一度臣下の礼を申し上げた会津を乗っ取ったので、今はもう天下に向かって私である。なので会津を差し上げ、本領は安堵するとのお約束で、決着した。
これは政宗が24歳の年の事である。

感想

さて、政宗24歳、天正18年、会津を手にいれ、南奥羽を手に入れた政宗ですが、ついに西日本を手に入れた秀吉が小田原へ向けて出発をし、政宗が小田原へ参陣すべきかどうかを決めた局面に入ります。
前年の年末あたりから政宗の家臣たちを介して、上洛を進める手紙が着いていましたが、それを無視して上洛せずにいた政宗はついに小田原行きを決意します。
この七巻、前半の7-4までが奥羽での合戦、7-5が奥羽で敵対した大将たちの詳細となり、この7-6章から秀吉政権との対峙になります。
関東の通過を断念し、信濃通りにして小田原に着いた政宗は、施薬院全宗・浅野長政らの面接を受け、一連の戦が私戦ではない申し開きをします。