[sd-script]

伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』7-8:会津にて騒げる事附平田忠節

『政宗記』7-8:会津にて騒動があったことと、平田の内応

原文

かかりける処に、小田原留主の内に、三夜程会津中以の外騒ぎける由、成実は其事存ぜぬ処に、宝尺と云山伏、成実に語りけるは、「会津騒ぎ夜に入ければ、方々へ荷物を隠し、昼の商も好物をば出さず」と申す。成実「夫は何れの子細に仍て、左様には騒ぎけるぞ」と尋ねければ、「会津に替る者有て、越後の人数を引越、会津を取られけるとて騒ぐぞ」と申す。「扨其事をば何者か聞せけるぞ」と申しければ、世間に隠れなしと申す。左は候へども、「一人を差て云はずば、曲事にせん」と申しければ、宝尺「我米沢より御供の山伏なれば、笑止に存じ知せければ、此の如くの義迷惑なり」と申す。「其首尾ならば益の事也、是非一人を差候へ」と申しければ、其時会津の内馬場頭と云処の、七郎右衛門と申せし者、物語を承ると申す。扨はとて其より段々手継を十八人引、十九人目は伊藤肥前惣領七郎屋敷の女房へ引付けり。其頃七郎は、小田原へ供にて留主たり。然るに門の脇に小人居けるが、屋敷用心のためにとて、広間より鑓を持て出けるを其女見付、扨は何事も有ぞと心得、肴求めに町へ出、肴売に右の子細を語り、其より方々虚言を取添、云伝へける程に、会津の騒ぎとなる。是に付て彼女房を死罪に行ひければ、即ち定り候ひぬ。されば右にも申す、横田の警固に、会津新参の夏井藤左衛門と、菅野備中を差副置給へば、彼藤左衛門越後へ引合、横田を取せべきと云、逆意の品々夏井親類に、平田勘左衛門と云者、成実処へ申し出、「政宗御下向ならば、藤左衛門所領を拝領申度」と云、奇特の忠節尤もなりと申す。然る処に、其後又夏井弟に弥八郎と云ける者、「兄謀叛なり藤左衛門死罪ならば、彼知行御下国の上、下されけるやふに」と申す。勘左衛門先忠なれども、受合ざるときは、若や兄に知せん事を気遣、是をも先心得たりと肯ひ、扨親類とも此の如くの子細なれば、嫌疑無く川島豊前預りの足軽とともに申附、其に桑島将監を差副、横田へ遺し、藤左衛門をば死罪に行ひ、其代官を弥八郎処へ直につかはし、其身より勘左衛門先忠なれば、望の所領は成らずと申し届けり。かの弥八郎を此の頃は、夏井弥左衛門とて、其後も伊達の家には居けれども、政宗の心にかかり勘気に及事。

地名・語句など

忠節(ちゅうせつ):内応/裏切りなど

現代語訳

小田原参陣の留守の間に、三夜ほど会津が大騒ぎになったことがあった。成実はそのことを知らなかったのだが、宝尺という山伏が成実に語ったところによると「会津の騒ぎがあり、夜になると、みなあちこちへ荷物を隠し、昼間の商いもよいものをださないようにしている」と言った。成実「それはどういう理由でそのように騒いでいるのだ」と聞いたところ、「会津を乗っ取ろうとする者がいて、越後の手勢を引き連れ、会津をとろうとしていると言って、騒いでいるのです」と言った。そうはいっても「一人をさしていわないのなら、おまえを処刑する」と言ったところ、宝尺は「私は米沢からお仕えしている身なので、大変だと思ってお知らせしたのに、このようにされるのは困ります」と言った。
「ならばなおのこと、是非おまえにそれを伝えた一人を教えろ」と言ったところ、その時会津の内馬場頭の七郎右衛門という者が詳細を話すと言ってきた。それから一人一人伝えた者を聞き、18人過ぎて、19人目は伊藤肥前の跡継ぎである七郎屋敷に仕える女のところへたどり着いた。その頃七郎は小田原の御供として行っていて、主が居なかった。そのため、門の脇に小者が一人居たのだが、屋敷の用心のためと、広間から鑓を持って出たのをその女が目撃した。これは何事かあるに違いないと考え、肴を買いに町に出、肴売りにそのことを語り、そこからいろいろとあることないことを付け加え、言い伝えている間に、会津全体の騒ぎとなった。そのため、この女を死罪にしたところ、たちまち騒ぎは収まった。
また、前に記載したように、横田の警固に、会津の新参の家臣である夏井藤左衛門と、菅野備中をつけて置かれたところ、この藤左衛門は越後と謀り横田を取らせようとしていると、裏切りの詳細を、夏井の親類である平田勘左衛門という者が成実のところに申し出てきた。「政宗が下向なさったら、藤左衛門の所領をいただきたく思います」と言い、珍しい内応であるが、その望みは道理にかなっているだろうと言った。
そうしているところに、その後夏井の弟に弥八郎という者「兄が謀叛となって藤左衛門が死罪となるなら、政宗が下国した後、その知行を私に下されますように」と言った。勘左衛門の方が先に内応したのであるが、叶わなかったとき弥八郎がもしや兄に知らせるのではないかと心配し、これにも分かったと返事をした。
さて親類であってもこのようであったので、謀をしているのは間違いなく、川島豊前預かりの足軽と共に、桑島将監をつけて横田へ使わし、藤左衛門を死罪にし、その代官を弥八郎のところへ直接向かわせ、勘左衛門の方が先に内応したため、望みの所領は不可能であると申し届けた。この弥八郎は最近は夏井弥左衛門と云って、その後もだての家には居たのだけれども、政宗の勘気を被った。

感想

さて小田原にいる政宗の一方で、会津黒川ではこのような事件が起きていました。
・山伏宝尺が会津の騒動について告げると、噂から始まった大騒動が起こりそうになっており、その騒動を鎮めるために伊藤肥前の子の屋敷の女房を一人処刑したこと。
・また、横田を預けた夏井弥左衛門が越後と騙って裏切るのではないかという嫌疑がかかり、親戚である平田及び夏井弟が成実に注進してきたが、どちらも夏井の所領を望んできていたのだけれども、結局先に内応してきた平田のものになることになった
という二つの話です。
この二つの話で興味深いのが、
・伊達家の情報収集手段(=草)として山伏集団の存在があったこと/それは米沢から引き続き仕えていること
・内応を申し出た者が複数いた場合、先に内応した人により大きな権利があったこと
ではないでしょうか。
この山伏集団は羽黒山関連と想像出来ますが、成実と宝尺のやりとりから、けして草=はっきり伊達家に臣従しているのではなく、古い関係があるから「肩入れしてあげている」ような、ある意味対等な関係が見えてもきます。
内応の仕組み(権利の大小)については、多分塵芥集とかみれば載ってるのかもしれない…。
両方の話に見えてくる、越後から何かあるんではないかという脅威も合わせて、結構大変だった成実の留守居役話ですね。