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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』7-10:会津より米沢へ本意の事

『政宗記』7-10:会津から米沢へお帰りになられたこと

原文

去程に、政宗下向の刻、浅野弾正少弼の親類に、同苗六右衛門と申せし人を差副、会津を受取御検使にて下り給ふ故に、六右衛門を様々馳走し給ひ、会津を渡し御身は本の米沢へ移し給へり。然るに、大里の籠城、其頃迄堅固に相抱ければ、小十郎と成実に、長井の勢を差副遣し給へども、此分ならば急には落城しがたき故、力攻にと申合方々より取付責けれども、漸水枢輪取て、其外は破れざる処に、其後打続き雨降ければ、水にもつまらず堅固に相抱けり。然りと云ども、攻取ける水の手へ、内より汲ざるため、昭光より番を附置ければ、有とき以ての外なる風雨にて目鼻も開かれざる折を見合、八九十人躶になりて手鑓を取て、水曲輪の番へ突て出、番の者を追散し五六人討取けり。昭光陣より助けざる前に、要害へ引て入也。惣じて城の者ども、夜毎に方々へ突て出、御方二三人打れずと云事なし。去迚は名誉なる者どもかなと、各褒美理りなり。然る処に、其内小田原御落居にて、上方勢奥州へ段々に下り給ふに、大里を取巻けるは私なりと談合にて、退散致し候事。

地名・語句など

水枢輪(みずくるわ):外壕郭

現代語訳

さて政宗下向のとき、浅野弾正少弼長政の親類の浅野六右衛門政勝という人を付け、会津を受け取る御検使としてお下りになったので、六右衛門政勝をいろいろと接待し、会津を渡し、政宗自身は元の米沢にお移りになった。
大里の籠城はその頃まで堅固に続いていたので、片倉小十郎景綱と成実に、長井の勢をそえて使わしなさったのだが、この様子ならばすぐには落城できないだろうと、力攻めにしようと相談し、四方から攻めたのだけども、やっと水曲輪だけ取り、その他は破れないでいた。その後続いて雨が降ったので、水不足にもならず、固く籠城した。そうとはいっても、攻め取った水の場所へ、内側から汲みにこないため、昭光から番を付けたところ、あるとき目鼻も開けることができないくらいの激しい風雨になったとき、隙を見て、8,90人が裸になって手やりを取って水曲輪の番へ飛び出て、番をしている者を追い払い、5,6人討ち取った。
昭光の陣から助けられずにいる前に、要害へ退き、中に入った。すべて城の者たちは夜ごとにいろいろなところへ飛び出し、味方は2,3人と討ち取られた。
非常に優れた者たちであると、それぞれ褒めたのも道理であった。そうこうしているうちに、小田原が落城し、上方勢が奥州へ段々にお下りになったので、大里を取り巻くことは私戦であると相談して、攻め手が退くこととなった。

感想

政宗が会津に戻り、会津を浅野六右衛門政勝に明け渡し、米沢に戻ったあと、まだ続いていた大里城の籠城の顛末が書かれています。
この大里城、今では政宗が落とそうとして落とせなかった城として有名なそうで。