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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

読書感想『近代開拓村と神社』

伊達成実が亘理要害跡の亘理神社で武早智雄命(たけはやちおのみこと)として祀られていることは知られていると思いますが、北海道琴似の琴似神社(ことにじんじゃ)にも祀られています。これはここにあった琴似兵村に屯田兵として行った元亘理家中の人たちがいたからだそうです。
というわけで今回こういう本を読みました。

近代開拓村と神社―旧会津藩士及び屯田兵の帰属意識の変遷

近代開拓村と神社―旧会津藩士及び屯田兵の帰属意識の変遷

先日、会津好きフォロワさんが読んでらして気になった本で、目次をネットで見て、さすがにちょこっとだけのために買うのは辛い値段だったんですが、図書館にあったので借りてきました。アイデンティティと宗教という(伊達関係なくても)個人的にとても興味のあるテーマです。
会津藩士を中心に、北海道に設置された各近代開拓村における神社の由来・性格を分析することで、北海道に移住した人たち(士族屯田兵から平民屯田兵まで)の帰属意識が村の成立・成立年代によって変化していくことを丁寧に論考した博士論文を本にしたものでした。
メインテーマは会津藩士の話なので、亘理(=琴似村屯田兵)に関する話はおまけというかちょこっとだけなんですが、大変面白かったです。
琴似神社についてはこちらなどを参照。
琴似神社 - Wikipedia
琴似神社/北海道神社庁HP

琴似神社の鎮座に関する由来について、神社に現在伝えられている史実の概略は次の通りである。「琴似に入植した240戸の人々の有志は、宮城県亘理藩主伊達藤五郎成実公の遺徳を敬慕し、武早智雄神と尊称して山の手に東面して神祠を建立し、新神徳を北海道開拓の上に顕彰するために武早神社と号して祭祀を厚くしたのが琴似神社の創始である。その後、明治30年に琴似神社と改称し、明治44年に大国主大神を増祀し、鎮座地を現在地に移築、昭和43年に伊勢神宮内外宮の神々を拝受し、両宮の神々を増祀した。更に平成6年5月15日琴似屯田兵縁の旧会津藩祖御神号土津霊神を増祀した」(琴似神社由来書)。
ー遠藤由紀子『近代開拓村と神社-旧会津藩士及び屯田兵の帰属意識の変遷-』より引用 96p~

本文では、あくまで会津が主眼なので、明治年間に合祀されたと思われていた保科正之(土津霊神/はにつれいしん)が実は合祀されていなくて平成になってから合祀されたことや、戊辰戦争での敗北・斗南藩への移住をへて北海道移住した元会津藩士にとって神社が果たした役割などがかかれています。
琴似屯田兵の子孫が語った回顧録に、「藩祖(保科正之と成実)は仲良く同じ神社にいる*1のに、会津藩士と仙台藩士の子どもはよく喧嘩していて、 会津は腰抜け侍、仙台はドン五里*2、大酒飲みと罵り合ってた」という話が面白かったです。

しかし会津藩士はずっと正之が合祀されたと思って生きてたのに、平成2年になってから、実は合祀されてなくて、80年間会津藩士がそう思い込んでただけだったという話はちょっとビックリしました。一説には薩長出身の北海道長官が反対していて、結局合祀されたのは平成6年とか。体感としてはつ、ついこないだという感じで…ビックリ…。
同じように東北全体が戊辰戦争でいろいろあったのに、亘理の成実は(祀って)よくって会津の保科正之はダメだとか…屯田兵に応募するのに会津出身だとはねられるからぼかして青森県出身って名乗ってたとか…東北全体がいろいろあったのに、特別扱いで叩かれている会津ー斗南藩出身者の苦労が偲ばれてなりません。
亘理家中も北海道で不作だったのでフキばかり食べていてアイヌの人たちにからかわれた話は聞いたことありますが、斗南では、戦場では何食っても生き残るのが当たり前で、今餓死したら薩長の人たちにあざけりを受けるからって何を食っても生き残るんだと犬の肉を詰まらせた子を叱責する話や、馬のえさの豆食べて鳩侍って嘲られた話などきつすぎる…。そこから北海道へ行って、藩祖の祭神を心の支えに開拓に邁進した話など、会津藩クラスタさんには非常に興味深いご本かと思います(というかとっくにお読みな気が)。
米沢藩やほかの藩士の藩祖神社の話(特に藩祖を祭神とするのは東北諸藩に多かった話)や、時代がさがり、帰属意識を藩やふるさとではなく、開拓村自体に帰属意識を持たせるために神社の傾向が変わっていったことが、丁寧に論じられているので、北海道開拓に携わった屯田兵に興味がある人にはとてもオススメの書だと思います。
私も筆者が卒論で書かれたという本州内(福島県郡山市)の近代開拓村の話などはまったく知らなかったし、時期によって・出身によって開拓村の傾向が大きく違うこともこの本で初めてしっかりとしれたように思います。

よく、仙台藩の各家中の北海道移住の中でも、亘理伊達家中の移住は成功例としてあげられますが、それはもう二度と帰らず、北海道で生きるという覚悟と、保子姫や成実を精神的支柱にしての家中そろっての移住が功を奏したのだなあ…と改めて思えてきます。今はぱっと見ると日本中どこでもあるような普通の町になっているけれど、たった150年たらずの間にこんなに素晴らしい町ができたというのもすごいことなんだなあと。
今度北海道行くときは琴似神社にも行きたいです…。あと開拓村にも…。記念館にも…できれば図書館も…(休みがいくらあっても足りない…(泣))。

余談

…まったくどうでもいいことですが、図の所(100p)だけ、成実の名前が二カ所「成美」になっていて、ああまた「なるみ」で入力されている…と笑ってしまいました。最近読んだ鹿踊の論文でも成美とか茂実とかになっていて、論文では単語登録してあげてー!(笑)と思いました。

あともうひとつ、まったくどうでもいいこと(笑)ですが、心の伊達市民制度というのがありまして、それで貰ったホタテが死ぬほど美味しかった!!です。皆様も是非制度をご活用ください…(笑)。

20160229【追記】

この本も読みました。

エゾ地移住の旅

エゾ地移住の旅

明治中期後期の北海道への一般移住者の移住中・移住後の生活がどんなものであったかを丁寧に書いた本。初期の士族移住の話は少なめだけどちょろっとはあり。アイヌとの共存関係の話なども。現在に近い話もたくさん。筆者さんは旧尾張藩士が開拓した八雲の出身だとか。
こないだ読んだ『近代開拓村と神社』の後半に出てきた一般移住者と重なるので、併せて読むと面白い。あと偶然にも荒川弘さん(北海道出身)の農業マンガ『百姓家族』の新刊の後に読んだのでこの流れのあとにいまがあるんだなって実感した…。歴史ってすごい。

この本に、ちょこちょこでてきた伊達の話は以下くらい(主に中後期の一般家庭移住者の話がメインなんで、初期に行った仙台藩のそれぞれの家中の話はほとんどでてこない)
→「伊達支藩片倉小十郎の後続家臣団が石狩から白石へ全員歩いて移動の途次、アイヌの人たちがウグイを沢山獲っているのに遭遇した。いろいろ聞く人がいたが「イランカラプテ」というのみであった。「今日は」という意味であるのは後で分かったことだった。」アイヌとの関わりの章で。
→片倉家中の第一班約400人は咸臨丸に乗ったけど、方向間違えて座礁して転覆沈没。9月だったので全員助かったけど荷物は全部ダメだったとか。その後二班庚午丸と合流して小樽→石狩→手稲と白石に入植。
→邦成の話はちょこちょこ出てくる。中期後期の集団移住は前もって視察するのが普通で、自分たちが希望する土地いくつか見て回り「伊達」と「八雲」を視察した…と書いてあったんで、八雲をググッてみたら、八雲は旧尾張藩士が入植した土地なんすね。徳川慶勝主導。その頃には伊達と八雲が特に移住開拓の成功例と見なされていたってことでいいんでしょうか?

*1:と当時は思われていた

*2:ドンと大砲がなったら五里逃げたという仙台藩士を嘲った言葉