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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』6-7: 摺上合戦

『政宗記』6-7:摺上原の戦い

原文

去程に六月五日の卯刻に、万づ評定し給ふべきとて、各猪苗代の城へ召寄給へば、「会津より働なり」と申す。「昨日も働と申程に、新橋迄景綱・成実出けれども、偽なり。今回も其分ならん」と申しければ、弥人数見けりと云、扨も迚、成実書院の西へ立寄みければ、備余多みへけり。政宗は摺上のみへける櫓に御坐を、成実参り「敵軍働とみえたり、勢を出されべきや」と申しければ、兼て伊達の備定を今度は引替、先陣をば猪苗代弾正盛国、二陣は景綱、三番成実、四番白石若狭五番旗本、左右は大内備前・片平助右衛門兄弟、跡をば浜田伊豆と備定を承り、景綱も成実も一度に立て罷り下れば、郎等共疾に仕度をなして待かけけるを、鎧堅めて打出けるに、会津・佐竹・岩城三家の勢雲霞の如く、新橋より北に段々備へ、夫より湖の方へ働出、近所の在家十間計焼払、猪苗代より出ける人数をみかけ、引上押向ひ摺上の此方にて、盛国と小十郎は合戦を始めけり、扨若狭と成実は、合戦にかまはず、双方の後へ相詰ければ、弾正と景綱人数足跡悪く、崩れそうにみへける程に、若狭も成実も敵中へ駈込ければ、敵崩れかかつて引除、摺上の上迄追付けるを、摺上の下に会津旗本の備扣けるが、押太鼓を打て守返されけるを、政宗旗本を以て助合押返し給へば、摺上の上迄は戦ながら引除けれども、摺上を追降給へば、敵悉く敗北して、夫より追討にし給へけるに、北方を差て迯散、新橋を引、中々人間の通ふべき川になけれども、為方なく飛入水に溺れて死しけるなり。又川鍛錬の者は越けるやらん、向の川岸湿てみへけり。成実は金川の方へ参り罷帰りに、川の様体見けるなり。成実は扨政宗大利を得られ、其夜は猪苗代の城へ引上給ふ。爰に旗本の中村八郎右衛門、御方各居ける前にて、「今日の御合戦乱合、敵にさながら太刀の付所みへざれども、物付なくては、日比の心かけ違と思ひ、見上と頬当の間に目を付け物付けるが、手にこたえなければ大方は切付ぬらん」と云。是を聞程の者八郎右衛門事なれば向て申す者なく、かげにて「如何に八郎右衛門と云ども、今日の程の乱合我人ともに眼に霧降て敵味方を見分難きに見上と頬当の間を物付なんどと云事は余りに過たる荒言かな」とて、時の人々笑けれども、案の如く頬へ切付其場は遯れて引除けれども、軈て相果たりと、後に聞く今に始めぬ中村かなとて、追て人々感じけり。されば政宗猪苗代へ移し給ふ事一日おそかりせば、景綱と成実はたとへは袋の内へ物を入たるが如し、大勢に取込られ滅亡眼前の処に、人々思の外有無の疑を切て六月四日の夜半に猪苗代に乗入、明る五日の卯刻に大軍と取合勝利をえ給ひ、景綱も成実も不思議の命とり、毒蛇の口を遯れたる心地して、あまつさえ会津迄乗取給ふは、古今稀なるべしとて、舌をふるう事、政宗二十三の年也。去ば其昔小田原北条氏、甲州武田信玄を頼み、越後の上杉輝虎の領分松山と云処を、両大将にて攻玉ふ、落城の二日目に、越後へ聞へ輝虎後詰に、前橋と云処迄出られけれども、六日の菖蒲節会に逢ず、華闘果てのちぎりきかなとて、輝虎腹立して小田原の領分に、山根と云要害を攻んとて、氏康・信玄へ使いを以て「松山後詰に出ざる事、輝虎漲ずと批判有べし、如何に後詰に出合ずと云、流石に是迄出向ひ空しくかへらん事、氏康・信玄へ対し、軍の慮外にも相似たり、然ば御領分山根の要害を取詰ん、但し無益ならば両家を以て妨給へ、其ときは城を巻きほごし、退散申すが如何様にも、明日卯の刻に打立」とて二本木の船橋を打渡り、仕損じなば跡へ二度かへられじとて、船橋の綱を切せて、氏康・信玄の御坐陣場に向ひて押通り、彼要害へ押寄一日一夜に攻落し、男女三千撫切して本の道にかかり、以上三日目に越後への帰陣は、末代は知らず、前代にも稀なるべしと云伝ふ。扨政宗猪苗代へ馬を入、会津まで乗取給ふは、輝虎の船橋にもあまり高下はあるまじきかと、家の者ども風聞す。然して後、其夜の御前所へ参りける頸どもの中に、会津親類金上遠江、成実郎等斎藤太郎右衛門、其年二十六歳にて、太刀共に討取持て参る、政宗其頸此方へと宣ふ。折敷にのせて差上るを、右の腋へ呼で持給へる箸を返し口を開、かねくろなりとて、斬口へ其箸を押込下より上へくるりと押返し、大きなる頸なり、一太刀に取たりとて引抜取直し、其箸にて物を聞召に、箸はさながら、紅に同じ、見る者興をさまし、誠に鬼神やらんとみへたり。惣じて首帳をしるしけるに、会津の家老佐瀬平八郎を始め、都合三千五百八十余なり。同六日には、会津の内金川へ働き給へば、堅固にかかへける故、平攻には成難く、明る七日に近陣を仕給ふべしとて、六日には大寺前の原に野陣をし給ふ、然るに、六日跡の朔日に、大森より原田左馬介を米沢へつかわし、最上境と下長井の勢を差置、北条と上長井の人数を相具し、会津の大塩へ働き出、猪苗代より成実・景綱、北方辺を働くならば、末にて出合ける様にと遺し給へば、思ひの外政宗猪苗代へ乗入給ひ、摺上にて勝利を得、会津の衆敗軍と聞へけるに、あまつさへ大塩の城は、引除残て金川・三つ橋・塩川と云、三ケ所持抱ひ、扨其外北方の侍、地下人に至る迄、皆残りなく会津へ引除ける由、左馬介承り、六日の夜に入働所へ参りけるなり。同七日に金川へ近陣を仕給ふべきため、先六日には惣手を引上、仕寄道具の仕度なれば、其夜に右の三ケ所も、会津へ引込故に、政宗も三橋へうつし給ひ、人馬の息を休められ候事。

語句・地名など

金川:福島県耶麻郡塩川町金橋の内。
物付:太刀傷の印の意か。
見上(みあげ):かぶとの鉢のひさし。
後詰(ごづめ):応援のため後方にひかえる軍勢。後攻。
六日:五月五日の菖蒲が六日になったことで、間に合わぬたとえ。
折敷(おしき):食器をのせる盆。片木を折りまげて作ったもの。
六日跡:六日さき
下長井:長井は米沢市および長井町地方。南を上長井、北を下長井という。
北条:山形県東置賜郡赤湯町地方
大塩:福島県耶麻郡北塩原村大塩
北方:喜多方市地方
三ケ所:塩川町金橋の内。
荒言(あらごと):おおげさにいうこと、偉そうにいいはなつこと。
舌を振るう(=舌を振ると同じ):非常に驚き恐れる。
闘果てのちぎりき:諍い果てての棒乳切木/時期に遅れて何の役にも立たないたとえ。けんかすぎてのぼうちぎり。
まきほぐ(巻解):城をとりまいても落城しない場合、その軍勢を引き上げること。
かねくろ:お歯黒。

現代語訳

そうこうしている間に、6月5日の卯の刻に、いろいろなことを集まって相談しなくてはいけないと、それぞれを猪苗代の城へお呼びなさり、「会津から戦闘があった」と言った。「昨日も動きがあると言っていたので、新橋まで景綱と成実が出たけれども、間違いであった。今回もそうなのではないか」と申し上げたら、たくさんの軍勢を見たといい、そうであるかと成実が書院の西へいき、見たところ、敵の備えが多く見えた。
政宗は摺上原を見渡せる櫓にいらっしゃったので、成実はそこに行き「敵軍が動き出したのを見た。手勢をお出しになりますか」と言ったところ、いつもは伊達の隊列の定めを今回は変えて、先陣を猪苗代弾正盛国、第二陣を片倉景綱、第三陣を伊達成実、第四陣を白石若狭宗実、第五陣に政宗の旗本とし、左右に大内備前定綱・片平助右衛門親綱兄弟をおき、その後ろに浜田伊豆景隆と備定めを決め、景綱も成実も一度に立って面前から下がると、郎等たちが急いで仕度をして待っていたので、鎧を着用し出発した。会津の蘆名・佐竹・岩城の三家の軍勢は雲霞のごとく新橋より北側に隊列をしき、それから湖の方へでて、近くの家10間ほどを焼き払い、猪苗代からでた軍勢を見て、差し上げ向かい、摺上原のこちらがわで猪苗代盛国と片倉景綱は戦を始めた。そのとき白石宗実と成実の軍勢は戦には加わらず、双方の後ろへ詰めていたところ、盛国と景綱の手勢は足下が悪く、崩れそうに見えたため、白石宗実も成実も敵の中へ駆け込んだところ、敵は崩れて引き下がり、摺上原の上まで追い付いたところ、摺上原の下に蘆名の旗本の隊列が控えていたのが、押し太鼓を打ちながら守り返されたのを、政宗は旗本を使い、助け合って押し返しなさった。摺上原の上まで戦いながら退いたのだが、摺上原の追い掛け降りなさったところ、敵はことごとく敗北して、それから追い討ちになさった。北方をめざして逃散した。新橋は落とされ、簡単に人が通ることができる川ではなかったが、退いてきた人々は仕方なく飛び込み、水に溺れて死んだ。また川で訓練している者は越えたのであろう、向かいの川岸に濡れていたのが見えた。
成実は金川の方へ行った帰りに、川の様子を見た。成実はそういう状態で、政宗は大勝利し、その夜は猪苗代城へお引き上げなさった。
このとき、旗本の中村八郎右衛門、おのおのがいらっしゃる前で、「今日の合戦は乱れあったため敵に対して太刀を突くべきところが見えないくらいだったが、戦闘なしには日々の心懸けが足りないと思い、見上と頬当ての間に目を付けて差したが、手応えがなかったので、だたいは切りつけられただろう」と言った。
これを聞いた者たちは八郎右衛門のことなので、正面切って言う者はいなかったが、影で「いかに八郎右衛門であっても、今日ほどの乱れ具合ならば、自分も相手も目に霧がおりて、敵味方を見分けがたく、見上と頬当ての間を突き刺すということはあまりに過ぎた大げさないいぐさだろうか」といって、そのとき人々は笑ったのだが、考えたとおり、頬へきりつけ、その場は逃げて退いたのだが、やがて果てたと後に噂になった。相も変わらぬ中村であるなあとのちのち人々は感心した。
さて政宗が猪苗代へお移りになるのが一日おそかったならば、景綱と成実はたとえるならば袋の中へものを入れるかのようで、大勢に取り込まれ滅亡が目の前であったというのに、人々の予想を裏切り、六月四日の夜半に猪苗代に乗り入れ、明くる5日の卯の刻に大軍と戦い勝利を勝ち取りなさった。景綱も成実も不思議に命を拾い、毒蛇の口から逃れたような気分になり、さらに会津まで占領しなさったのは、いにしえにも現在にも稀なことであろうと非常に驚いたのは、政宗23歳のころであった。
その昔、小田原の北条氏が甲斐の武田信玄を頼りに、上杉輝虎(謙信)の領分の松山というところを、両人を大将にたてお攻めになった。落城の2日目に、越後に情報が届き、輝虎は前橋というところまで出馬したのだが、間に合わなかったため、喧嘩が終わったあとのちぎりきのようなものだと輝虎は腹を立て、小田原の領内の山根という要害を攻めようとして、氏康・信玄へ遣いを出し「松山の後詰めにでなかったこと、輝虎がやる気をださなかったと批判があるであろう。たとえ後攻めにいなかったといっても、流石にここまで出向いて空しく帰ったこと、氏康・信玄に退位し、戦の無礼にも似ている。なれば領内の山根の要害を取り立てましょう、ただし、無益であるなら、両家をあげて妨害なさいませ。もしそのときは城を落城させずに退き、逃げますが、どのようにでもしてください。明日の卯の刻に出発します」と言って、二本木の船橋をわたり、もし失敗したら、絶対に帰られないようにと船橋の綱を切らせ、氏康・信玄のいらっしゃる陣場に向かって押し通り、その要害へ押し寄せて、一昼夜で攻め落とし、男女3000人を撫で切り本街道にかかり、3日目に越後へ帰陣したことは、未来はしらないが今までには稀であることだと言い伝えられている。この政宗の猪苗代へ馬を進め、会津まで占領なさったのは、輝虎の船橋攻めにも比肩する成果ではないかと家中の者たちはしきりに話した。
その後、その夜の政宗の前に運ばれてきた首の中に、会津蘆名家の一門衆金上遠江盛備の首があった。成実の家臣斎藤太郎右衛門というそのとき26歳の者がいたのだが、太刀とともに首を討ち取り、持ってきた。政宗は太郎右衛門に首をこちらへと仰った。盆にのせてさしあげたとこおろ、右のわきへお呼びになり、持っていた箸を使って口を開き、「お歯黒をしている」と言って、首の切口へその箸を押し込み、舌から上へくるりとひっくり返し、「大きな首だ、一太刀にとった」と言って引き抜き、取り直した。その箸にてものをお食べになったので、箸はさながら紅のようで、見る者は興ざめ、気まずい雰囲気になり、誠に鬼神ではないかと見えた。そして首の記録を記したところ、会津蘆名の家老佐瀬平八郎をはじめ、全部で4580余りであった。
6日には、会津の領内金川というところを攻めなさったところ、堅固に守ったため、ただひたすらに攻めることは出来ず、あくる7日に近くに陣をしこうと、6日には大寺の前の原に野陣をしきなさった。そして6日あとの朔日に、大森から原田左馬助宗時を米沢へ使わし、最上との境と下長井の勢を配置し、北条と上長井の軍勢を引きつれ、会津の大塩に兵を進め、猪苗代から成実・景綱が北方辺りに攻め込んだら、最終的に対面できるようにと使わしなさったところ、想定外に政宗が猪苗代へ乗り入れなさり、摺上原にて勝利し、会津の衆は敗軍と聞こえたためか、大塩の城は引き上げており、残りは金川・三橋・塩川という三カ所のみとなり、その他北方の侍・下働きのものに至るまでみな残りなく会津黒川城に退いたことを原田宗時は聞き、6日の夜になって、陣場に来たのである。
7日に金川へ近陣を敷くため、まず6日にはすべての軍勢を引き上げ、攻め道具の用意をしていたら、その夜にその三カ所も会津へ退いたため、政宗は三橋城へ入り、人と馬を休ませなさったのである。

感想

摺上原の合戦のことが書かれています。
政宗を褒めちぎるために上杉謙信の船橋攻めのことが上げられ、それにも比肩するのではないかと書かれています。それほどの快進撃だったのでしょう。
合戦の途中、溺れていく人であふれる川を静かに見つめる成実の姿が眼に浮かぶようです。こういうちらっとした描写が成実の文は印象的でとても面白いです。
そして会津蘆名の一門衆で重臣であった金上盛備の首実検のときのことが書かれています。箸で首をぐりぐりする政宗、その箸でものを食べたため、紅を使ったかのように血で唇が染まったのでしょうか。鬼神のようだと記しているところもおそらくこれは成実の感想でしょう。
今の人間とは価値観が違うのは仕方有りませんが、近づきがたい壮絶な美しさがあったのでしょう。この描写も非常に面白いです。