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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』6-10:会津にて知行判之事

『政宗記』6-10:会津で知行割りをしたこと

原文

斯て義重、田村の領内大平を攻落し給ふと云ども、其後別の手際もなく、況や次男義広は、会津を鈍性し給ひ、彼是無手際にて、同年の七月二十日に帰陣し給ふ。扨常隆も帰陣坐す。是に依て伊達より、田村へ遺し給ふ警固の勢も、大形帰り伊達・信夫の軍兵計り残りける也。然るに、右の両大将、面々我領分へ引込給へば、政宗会津郡の名主・百姓等を召あつめ、跡の事どもたづね給ひ、古参・新参に限らず忠節忠孝の浅深にしたがひ、それぞれに知行加増を賜はり、上下ともにいさみ悦ぶ事、尋常ならず。然して、原田左馬介会津へ手切の始めより、彼領手に入給はば津川を給ふべしと約束には御坐ども、津川の要害狐戻と云処は、金上遠江在所なり、然るに、遠江摺上にて討死なれども、家督彼城を踏へ、越後へ云寄り政宗へは敵と成。故に左馬介は未所領も拝領せず。然りと云ども、所領加増の其中に建く有ん、先当座物にと宣ひ、三百貫をぞ給はりける。かかりける処に、会津の山中に稲井・北横田・柳取・川口とて彼四ケ所は、未だ手に入給はず。是に依て、其年の八月左馬介に、会津新参へ長井の人数を差添、遣し給ひ、柳取の要害を攻落、撫斬にしければ、残三ケ所は津川へ除ける処もあり、訴訟申し出出城せしむ所も有て、右の四ケ所も落居なり。其外津川は大切所なるに、「卒爾の働き如何有ん」と、左馬介伺ひければ、「其義ならば春中になし給はん、先左馬介には帰れ」と宣ふ。故に津川より罷帰候事。

語句・地名など

鈍性:不明。とんせいと読んで、逐電の意味か。
狐戻:新潟県東蒲原郡津川町津川城址
稲井:南会津郡伊南村か
北横田:大沼郡金山町横田
柳取:南会津郡只見町梁取
川口:金山町川口

現代語訳

こうして佐竹義重が田村領内大平を攻め落としなさったといっても、その後他の動きもなく、まして次男の蘆名義広は会津を離れ、いろいろと不手際であったため、同年の七月二十日に帰陣なさった。また、岩城常隆も帰陣なさった。これによって、伊達から田村に使わしなさった警固の手勢も、大体が帰り、伊達・信夫の兵だけが残った。すると、この大将立ちそれぞれ、自分の領地へ引き込みなさったので、政宗は会津郡の名主・百姓たちをよびあつめ、これまでのことをお尋ねになり、古参・新参の区別なく、忠節・忠孝の深い浅いに随って、それぞれに知行加増をなさった。身分高い者から低い者までみな尋常でなく勇み喜んだ。
こうして、原田左馬助宗時会津へ手切れのはじめから、会津領が手に入れば、津川を与えると約束をしていらっしゃったのだが、津川の要害狐戻というところは、金上遠江盛備の在所であった。金上盛備は摺上原の合戦で討ち死にしたのだが、跡取りの金上盛実が其の城を守っており、越後の上杉景勝へ近寄り、政宗には敵となる。そのためまだ左馬助は所領も拝領していなかった。しかし所領加増の中にあって、よくないと思ったのだろうか、さきとりあえずの領地として、三百貫をお与えになった。
そうこうしているところに、会津の山中に、稲井・北横田・柳取・川口という四カ所は未だに手に入らなかった。このため、この年の8月、原田左馬助宗時に、会津の新しく降参した者へ長井の手勢をつけて派遣し、柳取の要害を攻め落とし、撫で切りにしたところ、残る三カ所は、津川へ退いたところや、訴えをおこし、城をださせたところもあって、その四カ所も手に落ちた。
そのほか、津川は大変重要なところであるため、「急襲は、どうでしょうか」と左馬助が伺ったところ、「そのことならば、春のうちにはどうにかしよう。まず左馬助は帰れ」と仰った。そのため原田左馬助は津川より帰ってきたのであった。

感想

会津での知行割り、とくに原田左馬助宗時に下した所領のことが書かれています。まさに勢い十分のころでしょう。