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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』4-2:大内備前手切之事

『政宗記』4-2:大内定綱の手切れのこと

原文

かかりける処に、仙道安積の郡太田・荒井・苗代田とて、二本松より隔りけれども、二本松の領分なり。故に義継生害の一乱にも、三ヶ所の民ども迄、方々逃散しあき地となる。爾して後政宗二本松を手に入給ひ、成実拝領の後右之三ヶ所へ、地下人どもを有付けれども、亦高玉・阿久ケ島といふ此二ヶ所は敵地にて、苗代田に近かりければ、召返しける百姓ども用心のため、古城に集り居て耕作を致しける。爾るに天正十六年戊子の二月十二日の丑の刻計りに、片平、阿久ケ島・高玉二ヶ所の人数を催し、大内備前、成実領分苗代田へ押掛、寄居の地下人共を百余人討果し、あまつさへ物頭に指置ける本内主水と云者迄生害して、悉く烽火せしめ再乱なり。是に付て太田・荒井は、地下人も本の所に有かね、私領玉井と云ふ処へ引込けり。同如月の末大内、成実処へ、去年御手前を頼入、伊達へ拵へのこと噞喁いたし已に身命に及ぶべきこと、迷惑の儘会津へ申分べく、命乞に御領地へ態と手切を成けるなり。爰を聞分け右よりの御首尾に、何ことをも免し給ひて、米沢へ身代頼入由度々訴訟に及ぶ。爾りと雖ども、一度の申合を今亦翻し、私領へ押寄本内主水迄生害なるは、前代未聞の手切なり、成実馳走申すことは思ひも寄ず余人を以て拵へ玉へと、数度懇望なれども承引せず。爾るに大内方より成実処へ拵ひける使者、主水親類にて成実私領玉ノ井に居けるが、彼者は云ふに及ばず、惣じて主水親類共数多同所に差置けるに、其者ども、「玉ノ井は敵地へ近く、境目なれば地下人迄も二本松譜代にて、縦ば他領へ草を入けるにも、敵地へ内通あるべきかと気遣の処に、今亦片平兄弟忠節申す程ならば、敵地の高玉・阿久ケ島も持兼、軈て御手に入るべきこと疑ひなり、去程に大内兄弟を御家へ取持こと、且は伊達の御ため、且は玉ノ井のためなり」迚頻りの訴訟に付、第一伊達のためなる故、米沢へ其旨申しければ、政宗「苗代田を討散口惜けれども、流石此方への忠をば、違へず、命乞のことなれば、是又僻こと成らず、助右衛門迄忠節ならば、備前をも召出し候らはん、其旨心得べし」と宣ふ。故に備前方へ申遣はし、助右衛門も忠に極り、片平近所の他郷共四五ヶ所望んで遣しけるを指上ければ、首尾能相済、大内には保原を賜ふべしとて、書付共調へしてけるを、大内兄弟へ遣はしければ、助右衛門申けるは、「瀨の上丹後某名代を約束にて聟なり、爾るに中野常陸一乱に付、彼丹後いまだ勘気を蒙り、迚も是を御赦免ならば、尚も有難く候べし」と申す。其品申ければ、「常陸ことは親類迄も口惜きに、丹後は孫なり中々免すまじき」と宣ふ。助右衛門「御十分の到なり、爾と雖ども亦私に罷成ては一度名代に相定めける。其子の身代改易なるに、某一人罷出、四方の恨一偏に逃れ難し、全く不忠はあらざれども、戴き奉る御判形も差上申すの外、他事なく」と申す義を政宗聞給ひ、「やさしうも申したるもの哉、武士の心繰奇特」の由宣ひ、丹後をもゆるし給へり。是に依て備前兄弟此方へ参るを、片倉景綱、成実居城二本松へ出向、待候らはんと成実に申し合せ候事。

語句・地名など

太田:福島県安達郡東和村太田
荒井:福島県安達郡本宮町荒井
苗代田:福島県安達郡本宮町の内
噞喁:くどくどとつまらないことをいうさま
保原:福島県伊達郡保原町

現代語訳

仙道安積郡の太田・荒井・苗代田というところは、二本松から離れていたのだが、二本松の領内であった。そのため、義継の殺害事件の際にも、三ヶ所の民たちまであちこちへ逃げ、空き地となった。そして後政宗が二本松を手にいれなさり、成実が拝領のあと、この三ヶ所に民たちを住み着かせたのだが、また高玉・安子ヶ島という二ヶ所は敵地で、苗代田に近いので、連れ戻された百姓たちは用心のため、古城に集い、耕作をしていた。
すると、天正16年2月12日の丑の刻ころに、片平親綱は安子ヶ島・高玉二ヶ所の手勢を集め、大内定綱は成実の領内である苗代田へ攻め立て、そこに寄宿していた民たちを100人余り討ち果たし、その上長として働いていた本内主水という者まで殺害して、ことごとく放火し、再び争いになった。
このため、太田・荒井は、民たちも元のところに居るのが難しくなったので、成実の領地の玉井というところへ引き込んだ。同じく如月の末、大内定綱は成実のところへ、「去年あなたに頼みこみ、伊達へ内応することのとりきめをくどくどと述べ、すでに命の危険に及んでいること、困っているまま、会津へ言い訳するため、命乞いのため、あなたの領地へわざと戦闘をした。このことをわかって、以前からの成り行きのため、何事もお許しくださって、米沢の政宗へ境遇をお頼みしたいということをたびたび訴えてきた。
しかし、一回約束したとりきめを、いままた翻し、私の領地に攻め入り、本内主水まで殺害したのは、前代未聞の手切れである。成実がいろいろ奔走していることも考えずに、他の人を頼ってどうにかしてもらおうと、何度も頼んでいるが、引き受けない。
そのため、大内定綱のところから、成実のところへきた使者は、主水の親類で、成実の領地玉ノ井にいた者が、この者はもちろん、ほとんどの主水の親類は多くこの土地に差し置かれていたので、この者たちは「玉ノ井は敵地へ近く、領土の境目なので、民たちまでも二本松へ代々仕えている者たちである。たとえば外の領地に草を入れるときにも、敵地へ内通しているのではないかと心配なところに、今また片平ら兄弟が内応するならば、敵地である高玉・安子ヶ島も保つことができず、すべてお手に入るだろうことは疑わしい。なので、大内兄弟を伊達家へ取りなしすることは、伊達家のためでもあり、玉ノ井のためでもある」と、何度も訴えてきたので、最も大事なことは伊達のためであるため、米沢のへそのことを申し上げたところ、政宗は「苗代田を攻撃されたことはいまいましいことであるが、さすがにこちらへの内応の約束は破らず、命乞いをするのであれば、これまた非難することはない。片平親綱まで内応するのであれば、大内定綱を家来にしよう。そのことを理解してくれ」と仰った。
そのため、大内定綱のところへいい遣わし、片平親綱も内応することに決まり、片平の近くへ他の里4,5ヶ所を望んで言ってきたのを与えるのなら、成り行きはうまくいくだろう、大内には保原を与えると、書状などを書いたのを、大内兄弟へ送ったところ、片平親綱が言うには、「瀨ノ上丹後は私に名代を約束している婿である。それに中野常陸宗時の一乱があったときから、この丹後は勘気をこうむっております。どうせならば、これをお許し下さるならば、いっそう有り難いことでございます」と言った。
そのことを政宗に告げたところ、「中野宗時のことは親類までも苛立たしいので、丹後は孫であっても赦すことができない」と仰った。
片平親綱は「充分でございます。しかしながら、また私にとっては、もう一度名代に決めてしまいました。その子が改易になり、私一人が御前にでたところで、みなの恨みはひたすらに逃げがたく、絶対に内応の約束を違えることはないが、いただく書状もさしあげ申す以外のことはほかでもありません」と言っているのを政宗はお聞きになり、「やさしくいったものであるなあ。武士の心得めずらしいことだ」と仰り、瀨ノ上丹後もお許しになった。
このため、大内定綱兄弟がこちらへ来るのを、片倉景綱は成実の居城である二本松へ出向き、待ちましょうと成実に言い合わせました。

感想

内応を約束していた大内定綱・片平親綱兄弟が急に頼み入れた当の成実の領地に突然攻め入ったところから始まります。
この行動と、それを受け入れた伊達側の対応も少し謎なのですが、大内・片平兄弟を家臣にすることはそれほど大事だったということでしょう。後の重用もですが、すべての元凶ともいえる大内兄弟をこれほどまでに重要視していることは、とてもおもしろい対応だと思いますね。