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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』4-4:大内備前政宗前相済ける事

『政宗記』4-4:大内定綱、政宗との対面をすませたこと

原文

同年三月二十三日に、玉ノ井にての競合相過、成実二本松へかへりければ、右より申し合せの大内備前・片平助右衛門、伊達へ参るべきを待んとて、片倉景綱二本松へ出向ふ。爾る処に四月五日の夜、鍛冶内弾正といふ備前甥なる者、景綱宿へ来て、「大内は今夜本宮迄罷出、助右衛門も明日手切の筈にて、先其先へ参りたり」と申す。是に付て成実も景綱も同く本宮へ出向ひ、同六日に備前へ出会ければ、「助右衛門も手切のこと堅く申合せけれども、少分なる出入有て、兄弟問答にまかり成、已に某を生害致すべき体を見合せ、やふやく立除是迄罷り向て候」と申す。其儀を承り、「扨助右衛門は右より存寄ぬ事を、備前身のため迄に助右衛門も同前なりと申したる故にこそ、唯今相違とみへたり、兎角して大内伊達へ参りければ、助右衛門も末には此方へ忠をなさんや、爾らざれば会津より疑心をなし、片平を守替けるが、如何様にも、行末安穏には有まじきものを、分別違ひなり」と、兄弟のことを景綱・成実両人にて申し暮しけり。爾りと雖ども大内是迄で出ける処に、無勢なりとて一働きも候らはでは、会津への聞へ如何の由にて、白石若狭・景綱・成実、三人にて、阿久ケ島へ働きけるに、敵一騎一人も出合はず、御方も仕懸べき手立もなく、其日は引上翌日又働きければ、四本の松に居ける石川弾正、伊達へ逆心して相馬へ傾き、四本の松の内若狭領地へ手切をなして火の手を上げり。故に若狭は働きの途中よりかへる。景綱と成実計り働きけれども、何ことなく引上、景綱は四月九日に、信夫の居城大森へまかりかへる。爾して後、備前政宗へ目見申度とて其旨申ければ、弟の助右衛門も争でか忠節有るまじきや、況や御鋒にては備前降参し、御家に差置給へば、且は会津・佐竹・岩城方々隣国迄の御誉是には過じと申しければ、承引し給ひ、備前に成実郎等遠藤駿河を差添へ米沢へ差上、目見相済みけること、是政宗二十二歳の時なり。

語句・地名など

問答:紛争・言い争い

現代語訳

同天正16年3月23日に、玉ノ井での競り合いが終わり、成実が二本松へ帰ったところ、以前から約束をしていた大内備前定綱と片平助右衛門親綱、伊達へ来るであろう二人を待とうと、片倉景綱が二本松へ向かった。
そして4月5日の夜、鍛冶内弾正という大内定綱の甥という者が、景綱の宿に来て、「大内定綱は今夜本宮まで参り、片平親綱も明日関係を切る予定で、すぐにそのさきへ来ますでしょう」と言った。
この言葉によって、成実も景綱も同じく本宮へ向かい、同じく6日に定綱に出会ったので、「片平親綱も手切れのことを堅く話し合い、約束したけれども、少しもめごとがあって、兄弟で言い合いになってしまいました。すでに私を殺すような様子を見たので、ようやく退き、ここまできました」と言った。
その話を聞き「さて親綱は前から知らぬことを定綱の保身のために親綱も同じようにといったからこそ、ただいまの意見の相違があるのではないか。とにかく、大内が伊達へ来たのだから、親綱も最終的にはこちらへ内応するであろう。そうでなければ、会津から疑われ、片平を守り代えるだろうが、どのようにも行く末が安穏ではないものを、考え違いである」と、兄弟のことを、景綱・成実二人にたいしていい暮らした。
とはいっても、大内これまで出てきたところ、無勢であったとしても、ひとはたらきも無くては会津への風聞がどうかと思い、白石宗実・景綱・成実三人で、安子ヶ島へ出陣したが、敵一騎ひとりにも出会わなかった。
味方もしかけるべきこともなく、その日は引き上げ、翌日また出陣したところ、塩松に居る石川弾正が伊達を裏切り、相馬へ味方し、塩松のなかの宗実の領地へ戦闘を行い、火の手を上げた。このため宗実は活動の途中で領地に帰った。
景綱と成実だけが活動したが、何事も無く引き上げ、景綱は4月9日に信夫郡の居城大森城へ帰った。
そしてのち、定綱が政宗へ御目見得したいと望んでいると申し上げたので、「弟の親綱もどうして内応しないことがあろうか。ましてや政宗の武威を前に、定綱が降参し、伊達家に置かれるならば、会津・佐竹・岩城方々、隣国までの誉はこれに過ぎることはない」と言ったところ、政宗はこれを聞き入れなさり、定綱に成実の家臣遠藤駿河をつけて米沢へ送り、御目見得を済ませた。
これが政宗22歳のときの話である。

感想

玉ノ井での合戦が終わり、とうとう大内定綱が配下になるところ。
大内兄弟を待つために、成実と景綱が二本松でおちあっています。そして米沢へ送り、政宗との対面をすませました。
永きに亘って政宗の手を焼かせた定綱ですが、この後重用されるようになるのが意外です。