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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』4-5:石川弾正草入之事

『政宗記』4-5:石川弾正が草を入れたこと

原文

同四月十二日に石川弾正、若狭領地西といふ処へ草を入、其身も自身しこみに出、内より早朝に出ける者を一両人討て取り、是を城中にて知合、出ける人数と弾正取組城内へ追込、其より取付攻けるに、鉄砲頻りに小浜へ聞へ若狭早蒐なれば、弾正見合引上げるを蒐付取組、若狭勝利得、頸二三十討取物別れなり。成実も二本松にて鉄砲の音を聞、夫より早蒐候へども、阿武隈川を隔て遠路故、遅く蒐付、手筈には逢わず候へども、参りたるを若狭悦て宮森へ呼入、殊の外なる馳走なり。されば弾正、本は四本の松城久吉の家中にて元来大内備前と古傍輩なり。然るに久吉兼ての沙汰悪きに依て、家中一同にさたち何れも身構をして久吉を申出で、其より弾正親摂津守は田村清顕へ手寄、扨大内は伊達を守る。爾るに伊達父子*1の間、中野逆心を以て家中乱れけるとき、後の備前定綱も田村を頼み近所といひ分て奉公の処に、右にも申す田村右馬頭・片平助右衛門両人の郎等共喧嘩の出入に付、大内清顕へ恨みをふくみ、数年楯をつきけれども、弾正事は跡に替らず田村への奉行なり。されば其後四本松の一宇政宗手に入給ふに、弾正知行も皆四本の松の内也。去程に清顕、田村をば末には政宗へ渡し給ひて、御息女に御子誕生ならば、其を田村殿にしまいらせ給ふべきとの約束なり。故に弾正も私ならず知行付に政宗へ奉公せよと、清顕宣ひ奉公に附。其外寺坂山城・大内能登を始め四五人、本久吉家中今亦田村へ奉公の者ども、何れも政宗へ付置給へり。是に依て白石若狭手前の同心にと宣へども、弾正をば直に使ひ給ひ、本領は申すに及ばず加増迄賜はる。爾りと雖ども其跡政宗へ敵をなしける故にこそ、末の身上大事に思ひ、其上政宗其砌御夫婦中悪かりけるを、御舅母儀北の上恨み給ひ、相馬義胤への内通を弾正悉く存の上にて、伊達を背き相馬へ傾き、天正十六年の四月十二日より、手切を致し、其より以来猶も伊達へ背きけること。

語句・地名など

さたち:騒ぎ立つ・ごたごたすること
身構:臣従することをやめて、離反するの意か
同心:付属の士

現代語訳

同天正16年4月12日に、石川弾正、白石若狭宗実の領地の西という場所へ草を入れた。また自らしこみに出て、早朝に中から出てきた者を数人討ち取った。
このことを城中にて知り、出てきた軍勢と石川弾正は戦い、城の内へ追い込み、それから城攻めを始めたところ、鉄砲の音がしきりに小浜へ聞こえたので、白石宗実は早駈けしてきたところ、弾正はそれを見て引き上げようとするのに追い付き、戦闘をして、宗実が勝利し、首を2,30討ち取り、決着が付かないままに終わった。
成実も二本松にて鉄砲の音を聞き、それから早駈けしたのだが、阿武隈川を隔てて遠いため、遅く到着したため、間に合わなかったのですが、やってきたのを白石宗実は悦んで、宮森へ呼んで、意外な馳走をした。
この弾正は、元々塩松城主塩松尚義の家臣であり、大内定綱とはもともと昔からの同僚であった。
しかし尚義は以前からの政務の取りしきりが良くないため、家中一同ごたごたして、いずれも離反し、尚義を見限り、それから弾正の親である摂津守は田村清顕を頼り、一方で大内は伊達についた。
しかし伊達では天文の乱や晴宗・輝宗の不和の間、中野宗時の謀叛で家中が乱れていたころ、この定綱も田村を頼るようになり、近くであるからといって、奉公していたところ、前述した田村右馬頭清通と片平助右衛門親綱二人の家臣たちが喧嘩をしたため、大内定綱は田村清顕へ恨みを持っており、数年敵であったのだが、石川弾正は変わらず田村へ奉公していた。
そしてその後塩松のすべてを政宗が手に入れたので、弾正の知行地も塩松の内であった。そのころ、清顕は田村を将来政宗へお渡しになって、息女に御子が誕生したならば、それを田村の跡継ぎにさせようと約束をなさった。
そのため弾正も個人的なことはさておき知行を付け、政宗へ奉公しなさいと清顕は仰ったので、奉公となった。
そのほか、寺坂山城・大内能登を始め、4,5人、もと尚義家臣で、いま田村へ奉公している者たちはいずれも政宗へ付けられたのである。
これによって、白石若狭宗実の附属の臣にと政宗は仰られたのだが、弾正を直接にお使いなさり、本領は言うに及ばず、加増まで賜った。
しかし、その後政宗へ敵対した理由は、未来の本領を大事に思ってのことである。その上、政宗はそのころ夫婦の中が悪かったので、姑である北の方はそれをお恨みなさり、北の方の相馬義胤への内通を弾正はすべて承知の上で、伊達に背き、相馬へ味方し、天正16年の4月12日から関係を断ち、それ以来今も伊達に敵対しているのである。

感想

大内定綱と同じく、元塩松家臣の石川弾正についての記事です。
石川弾正に付いての詳しいことはこちら。→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E6%98%8C
同じ立場でありながら、のちのち重用される大内定綱と比べると、不思議な感じがします。

*1:稙宗・晴宗の間の天文の乱および晴宗・輝宗の不和