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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』4-9:大越退治訴訟之事

『政宗記』4-9:大越紀伊守退治の訴え

原文

去程に、月斎・梅雪・右衛門・刑部、また宮森へ来て原田休雪・伊東肥前・片倉景綱を以て申けるは、「大越紀伊守始より三春へ出仕もなく、今度義胤三春を取んとし給ふ術も、彼者一人の謀叛に仍て、未居城に引込ける、是を御退治なくては、田村の御仕置如何有ん」と申す。政宗「紀伊守思案是非なきことなり、然りと雖も望みのごとく今は成らぬ子細あり、近頃佐竹より安積表へ出られける由、其聞へあり、然るに大越へ押寄、若や彼地にて手間を取、其内義重出陣ならば、城を巻ほごし安積表へ向はんこと、敵の思も如何なれば、爰を以て延慮」と宣ふ。重て四人衆「其義ならば、御近陣をばあらずとも、一篇の御働きをば、是非」と申す。「されば今度は代官にて働くべし」と宣ひ、其時成実は本宮に在陣ありしを、宮森へ召給ひ「田村四人の者共、此の如くの訴訟なれども、右の延慮なれば、大越へは其身参れ」と宣ふ。成実申けるは、「義重出陣のこと安積にては、其沙汰もなし、扨其義は何方より聞召給ふぞ」と申ければ、目前の人を除けられ、密に「須賀川の須田美濃守知せなり」と宣ふ。「是は案の外なる御事なり、美濃は佐竹へ無二奉公とこそ承る、今又此方へ左も有ることは悦なり」と申ければ、政宗「されば美濃方へ両度人を遣はしければ、始の使は気遣なりとて、重ても重ても用所あらば、此筋にて承れと申すとき、義重出陣をも申し遣はす、又其節石川大和昭光より、八代という山伏を飛脚に越けるには其沙汰もなし、彼山伏に尋ねければ、出陣必の様に唱ひける由申す」と宣ふ。去程に、二本松に罷かへり、両日仕度をなし田村の舟引と云処へ打出、其より大越へ働きければ、請持をば引込、二三の曲輪を如何にもかたくふまひける故、仕懸べき行もなく、其日は先引上けるなり。かかりけるに、政宗もかくれ給ひ忍の出陣なりしに、小埜と鹿俣の人数は東より働き、伊達の勢は北より働き引上けるに、後人の鹿俣衆へ敵出向ひ合戦に取組、鉄砲頻りに聞へければ、政宗を始め惣じて人数も取て返し、敵陣を押切方々へ追散し、頸三十余討取物別れして、御身も翌日宮森へかへり給ひ、同勢をも相返し給ふ事。

       寛永十三年丙子六月吉日          伊達安房成実

語句・地名など

舟引:田村郡船引町船引
小埜:同郡小野町
川俣:同郡滝根町神俣(かんまた)か?
ほごす(解す):ほぐす

現代語訳

そのころ、田村月斎顕頼・田村梅雪斎顕基・田村右衛門清康・橋本刑部が、また宮森へやってきて、原田休雪斎・伊東肥前重信・片倉景綱を通して「大越紀伊守顕光ははじめから三春へ出仕もせず、今回相馬義胤が田村を取ろうとなさったときも、かの者一人の謀叛によって、いまだ居城に引き込んでいる。これを退治してくださらないのであれば、田村の仕置きはどうなるでしょうか」と言った。
政宗は「大越紀伊守への心配は仕方のないことである。そうではあっても、望んでいるようには、今はできない事情があるのである。この頃佐竹から安積方面へ出ているという知らせがある。そのため、大越を攻め、もしその地で手間取り、その間に佐竹義重が出陣するならば、城を落とし、安積方面へ向かうだろうことは、敵の考えもどうなるかわからないので、そのために深く考えて辞めているのである」と仰った。四人衆はかさねて、「そのことであれば、近陣をなさらずとも、一度の出陣だけでもしてくださればいい」と言った。
政宗は「では今度は名代を使わして動かそう」と仰り、そのとき成実は本宮に在陣していたのだが、宮森へお呼びになり、「田村の四人の者たちが、このように訴えているが、前述した考えにより、大越へはおまえが行きなさい」と仰った。
成実は「義重出陣のことは、安積ではその報告もない。さてそのことはどこからお聞きになったのでしょうか」と言ったところ、目の前の人を退けられ、密かに「須賀川の須田美濃守からの知らせである」と仰った。
「これは想定外のことである。須田美濃守は佐竹へのみ奉公していると聞く。いままたこちらへ奉公するというのであれば、喜ばしいことである」と成実が言うと、政宗は「美濃守のところへ数度人を遣わしたのだが、はじめに遣わした者は心配であったのか、繰り返しても繰り返しても重要な事があるというので、この方面から聞けといったら、佐竹義重の出陣のことまでも言って遣わしてきた。またそのとき石川大和守昭光から、八代という山伏を飛脚に送ってきたときには、その知らせはなかったが、この山伏に尋ねたところ、必ず出陣はあると言っていたと言った」と仰った。
なので、成実は二本松に帰り、数日で仕度をし、田村の舟引というところへ出て、そこから大越へ戦闘をしかけたところ、担当をも退き、2、3の曲輪をどうにもかたく守っていたため、仕掛けることもできず、その日はとりあえず引き上げたのである。
そのときに政宗もお忍びで出陣しており、小埜と鹿俣の手勢を東より動かし、伊達の軍勢は北より取りかかり引き上げたところ、あとからきた鹿俣衆へ敵は出向かい、合戦となった。鉄砲の音が頻りに聞こえたので、政宗を始め軍勢は引き返し、敵陣を押しきり、方々へ追い散らし、首を30余り討ち取り、戦は終わった。政宗自身も翌日宮森へお帰りになり、同じく手勢も引き返しなさった。

感想

田村の四人の家老からの政宗への訴えについての記事です。
政宗が噂の出所を聞かれたところ、人払いをした後で、成実に須賀川の須田美濃守が密かに通じていることを明かすところがその場の雰囲気が伝わるようで、非常におもしろいです。
若い政宗が四方八方へ気を配らせていたようすがいかにも大変そうです。