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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』5-4:窪田番手持附矢文事

『政宗記』5-4:窪田の守備の組み合わせと矢文のこと

原文

されば伊達より窪田に、取手やらひを取立給ひ然るべしとて、窪田の川を外に構ひ堀を堀、土手を築、柵を付けり。故に伊達の侍大将各召寄給ひ、取手の番を鬮取にさせ玉ふ。其衆は浜田伊豆・原田左馬介・富塚近江・遠藤文七郎・片倉小十郎五人をば目の前にて取せ給ひ、田村孫七郎・白石若狭・成実、三人をば召も給はて、後鬮に取せ玉ひは、浜田伊豆・原田左馬介一組、富塚近江・遠藤文七郎一組、白石若狭・片倉景綱一組、田村孫七郎・成実一組に取合、一日一夜づつ取手の番手持なり。然に、小十郎「御前にての鬮なれども、今後の御恩に某をば成実と組合下さるならば、有難候べき」とて頻の訴訟に付て相済、鬮を取替成実・片倉景綱は同番なり。若狭は孫七郎へ組合けり、扨後に聞ば、小十郎相手を嫌は、合戦を望んで其分ならんと、御方の惣軍唱ひける由。七月二日の初番には、富塚近江・遠藤文七郎番にて何事も無く、三日は田村孫七郎・白石若狭番にも恙無、四日は景綱・成実当番なれば、御方の惣軍如何様にも、今日は何事か有んとて、各早朝より其心掛に候由。されば景綱・成実役所へ来る程に、「対陣の始は郡山手詰次第に、有無の防戦と究まり、今又通路不自由なるに、左もなかりければ、対陣の効はなし、一合戦如何有るべきぞ」と申ければ、小十郎「敵は大軍御方は無勢、中々合戦大事なり、通路は不自由なれども、要害別に手詰りならねば、只城内手詰次第に」と申す処へ、成実郎従遠藤駿河「敵取手の番は、会津の家老平田左京なり、一年会津へ使に参り知人にて、小旗迄を見知たり」と申す。景綱「さらば矢文を遣はすべし、其子細左京処へ敵軍より矢文参りたりと唱へなば、其方の御方にて必ず疑心をなさんいざとよ」。さらばとて、景綱文言に「一筆啓令候。先年会津え使者之砌、御懇浅からず其後御軍に罷成、殊更今日御近所に為すと雖、世上柄にて貴面遂ず、御床敷候、窪田の当番伊達成実・片倉景綱両人なり、一度御和睦希事他無き事、平田左京亮様、遠藤駿河」と書せ矢に結付、招いて射ければ、其矢を取て内へ入、少し徘徊射返しけり。「御状忝候、仰せの如く相近なれども、御目掛けぬ御残多き」と計にて、如何にも麁相なる返事なり。景綱推量如き気遣とみへたり。その文取て、小十郎政宗へみせ参らせんとて、懐中して我役所へ帰る。爾る処に、仙道岩瀬の郡長沼の城主新国上総鎧武者七八騎に、歩立百余人にて、郡山の南より東へ北の取手の要害と、窪田やらいの間を通る、扨もよき中立かなと存知、人数を出し上総を取手へ追入ければ、小十郎も勢を遣す。敵軍是をみて両取手より打て出合戦を取結ぶ。其より敵の惣軍一所となり掛りけるに、政宗は本宮の要害に御坐て、行水をし給ひける由、田舎道三十里なれども、鉄砲頻りに聞へければ、伊東肥前を召て「南に当て鉄砲頻りに聞ゆるは、如何様にも不審なり、急ぎみて参れ」と宣ふ。後聞はば、前畏て罷立、政宗聞給ふ様に、成実と景綱を同番に成し給へば、事出間敷と覚し召けるは御不覚也とて、其より鎧かためて打立ける由、窪田へ馳来て景綱・成実取組なるを、肥前敵味方の境を乗分、引取んとしけれども、乱合なれば、引取ける事相叶はず、肥前も余り深入して討死をなす。故に政宗も本宮より早蒐し給ひ、自身助合給ふ。七月四日の辰の刻より合戦始まり、未の刻迄、取合雑兵共に頸二百余討取、味方も五十余人討死なり。然りと雖も、敵の取手へ両度迄追入、味方は一芝も取られずして物別れなり。さらば其の日の暮に、政宗より使者を以て「成実処へ、家人に死人手負数多有べく不便の到り、上下共に労倦ならん、其ため浜田伊豆・原田左馬介を遣しけり、成実・景綱には陣場を渡しいそぎ参れ」と宣ふ。去程に罷帰りければ、家老の面々田村月斎・成実共に召寄給ひ、「今日の合戦に勝利を得給ふ程に、迚も後代の聞へのため、佐竹・会津の陣場へ一働仕掛けるべし」と宣ふ。原田休雪「惣じて御対陣をも、御無勢なれば旁々大事を積り、御無用」とこそ申けれども、頻りの御存分に依て是非なし御尤とは申上けり。然りと雖も、其刻も合戦をば必慎み給ふべしと、各申けるに存の外今日の合戦を持掛なば、利を失はん事実必定也、必御慎み然るべしと申す。田村月斎・休雪「御異見十分なり、只今迄の御武勇残る処なきに、若此上急事も出来なば、跡の御誉皆消果けるに、明日の御働堅く止られ候らはんや」と申す。何も是を承り「月斎・休雪申分理なり」とぞ同じける。又「御誉のため合戦なき様に、働き給ひて好るべし」と、一両人は申しけれども、大事を積る旁多かりければ、割なく相止給ふ。故に政宗其の夜成実処へ御書を以て、「今日の合戦敵大軍なるを、取手の要害へ両度追込、御辺と景綱扱比類なき事云に及ばず、先程口上に申す如く、家中に死人手負数多有べき事、笑止の至り也、将又明日の働臆病異見に任、相止けるは残り多き事、是のみ心にかかる」と宣ひ下され候事。

語句・地名など

取手やらい:砦矢来
辰の刻:午前8時
未の刻:午後2時

現代語訳

すると伊達から、窪田に砦矢来を作りなさるようすべきとして、窪田の川を外にして堀を堀、土手を築き、柵を付けた。
そのため、伊達の侍大将をそれぞれお呼びになり、砦の見張り番をくじ取りで決めようとなされた。そのメンバーは浜田伊豆景隆・原田左馬助宗時・富塚近江宗綱・遠藤文七郎宗信・片倉小十郎景綱の五人であった。五人に目の前でくじをとらせ、田村孫七郎宗顕・白石若狭宗実・成実の三人は呼ばずに、あとでくじをとらせなさった。
浜田景隆・原田宗時がひと組、富塚宗綱・遠藤宗信がひと組、白石宗実・片倉景綱がひと組、田村宗顕と成実がひと組となり、1日一晩ずつ交代し、砦の守備をするのである。
しかし、片倉小十郎景綱が「政宗の御前でのくじではありますが、今後の御恩に私を成実と組み合わせくださるならば、有り難く思いますでしょう」と言って、しきりに訴えてきたため、くじを取り替え、成実と景綱が同番となることになった。白石宗実は田村宗顕と組み合わせた。そのことを後に聞くと、小十郎景綱が相手を嫌ったのは、合戦を見越してそうしたのであろうと、味方の軍では噂になった。
7月2日の初めての番は、富塚近江宗綱・遠藤文七郎宗信が番であったが、何事も無かった。3日は田村孫七郎宗顕・白石若狭宗実の番のときにもなにごともなかった。4日は景綱と成実が登板であった。味方の総軍は何としても今日は何事か有るだろうとそれぞれ早朝より、そのようにこころがけていたのである。すると景綱と成実が戦陣の詰め所にきたときに「対陣のはじめは郡山が困難になるかどうかによる。否応無しの防戦と決まり、いままた道をとおるのが不自由であるので、要害に問題が無ければ、ただ城の攻め方次第で」と言っていたところで、成実の家臣遠藤駿河が「敵の砦の番は会津の家老平田左京なり。1年前会津へ使いに言ったとき、知り合った人出、小旗まで知っています」と言った。
景綱は「では矢文を遣わししましょう。何故かというと、左京の元に敵陣から矢文が来たと噂になれば、その方の伊方であると必ず疑いの心がうまれるでしょう。さあ」
それではと、景綱は「お手紙差し上げます。昨年会津へ使者を送りましたところ、大変親しくして頂き、その後戦になってしまいまして、さらに今日近くに近陣するといっても、事情によってお会いすることができずお会いしたい気持ちでおります。窪田の当番は伊達成実と片倉景綱のふたりであります。一度和睦をお望みしていることはほかでもありません。平田左京亮様、遠藤駿河」と書かせ、矢に結びつけ、中の者を招いて射かけたところ、その矢を取って中に入り、少しうろうろしたかと思うと射返してきた。
「書状有り難く思います。仰るとおり、とても近いけれども、お会いできないこと、残念でございます」とだけあって、いかにも素っ気ない返事であった。景綱が想像していたような心配があったからだろうと思えた。
その文を持って、小十郎景綱は政宗にお見せにいきましょうと、もって自分の番所へ帰った。
そうこうしているうちに、仙道岩瀬軍長沼の城主、新国上総貞通が鎧武者7,8騎と徒立の兵100人余りを連れて、郡山の南から東へ、北の砦の要害と、窪田の矢来の間を通った。さてはよい中立だなと思い、手勢を出し、新国上総を砦に押し入れたところ、小十郎も勢を遣わした。
敵軍はこれを見て両砦より飛び出して、合戦となった。
それから敵の総軍はひとつになりかかってきたところ、政宗は本宮の要害にいらっしゃって、行水をしておられた。田舎道30里の距離があったが、鉄砲の音が頻りに聞こえてきたので、伊東肥前を呼び、「南の方面から鉄砲の音がしきりに聞こえるのは、いかにも不審である。急いで見てこい」と仰った。
あとできいたところによると、出発したところ、政宗がお聞きになったように、成実と景綱を同じ当番にしたところ、事は起こらないと思っていたのは不覚であると、それから鎧に身をかため、出発しようとしたとき、窪田へ駈けてきて、景綱と成実が戦闘しているのを、伊東肥前は敵と味方の境を乗り分け、味方を引き上げさせようとしたが、非常に戦闘が混戦となったため、退却させることは出来ず、伊東肥前も深入りして、討ち死にしてしまった。
そのため政宗も本宮より早駈けして、御自分も援軍になられた。
7月4日の辰の刻から合戦が始まり、巳の刻まで続いた。雑兵も含め、首200余りを討ち取り、味方も50人ほど討ち死にした。しかし、敵の砦へ二度まで追い込み、味方はひとつの陣地もとられないまま、戦闘は終了した。
その日の夕暮れに、政宗から使者が来て「成実のところへ、家臣に死傷者多くあるだろう。気の毒の極みである。身分の高い者も低い者も、非常に疲れているだろう。そのため浜田伊豆景隆と原田左馬助宗時を遣わした。成実と景綱は陣場を二人と交代し、急いでこちらにきなさい」と仰った。
なので、政宗の陣所に帰ったところ、家老の面々が、田村月斎と成実をともにお呼びになり、「今日の合戦に勝利を得たので、さらに後の世によく伝わるよう、佐竹・会津の陣場へ一戦しかけなさい」と仰った。
原田休雪斎は「この対陣もこちらが無勢であるので、それぞれ大変なことになった。出陣はおやめ下さい」と言ったけれど、政宗が頻りにそれを言うので、仕方ないとも申し上げた。
しかし祖は言っても、そのときも戦は絶対に辞めるべきであるとそれぞれが言ったところ、考えを変え、また今日合戦をするのであれば、勝利を失うだろうと思われたので、くれぐれもおやめくださいませと言った。
田村月斎と休雪斎は「政宗の意見はわかります。今までの戦闘の素晴らしいことは思い残しがないほど素晴らしいですが、もしこのうえ急なことがおこれば、いままでの名誉がみな消え果ててしまうでしょう。今日の活動はかたくおやめになっていただけないでしょうか」と言った。
みなこれを聞いて「月斎と休雪斎の言っていることはもっともである」と同意した。
また「名誉のため合戦がないように働きなさることがよいでしょう」と二人は言ったが、おおごとになるだろうと想像するものが多かったので、仕方なくその日の合戦は中止になった。
そのため、政宗はその夜成実のところに書状で「今日の合戦は敵が大軍であったのに、砦に二度も追い込み、あなたと景綱の働きは比べるものがないほど素晴らしいことはいうまでもありません。さきほど口頭でいったように、家中に死傷者が多くでたこと、大変だと思います。あとまた明日の働きが臆病なる意見にまかせ、辞めてしまったことは、残念です。これだけ気にかかっております」と仰り、書状をくだされたのであります。

感想

窪田での戦いの様子です。
戦いの様子はさておいて、この始めに行われたくじびきが、非常にオモシロエピソードです(笑)。
8人で番を決めるというときに二人ひと組に分けることになって、くじ引きが行われたのですが、行われたあとで、片倉小十郎景綱が「成実と組みたい」と言いだし、組を変えてもらうのです。「頻りに訴訟」とあるので、変えてもらうまで何度も訴えたのでしょう。
希望の組み合わせがあるならくじ引きをする前に言え。むしろくじびきを作る前に言え。という感じですねww
小十郎のこういうとこおもしろくて好きです。
政宗は合戦を強く望んでいるのに、周りの評定衆に止められて、「残念」と言っているのが、合議制でものが決まっていた伊達家の評定の様子がわかるようでおもしろい。
夜に政宗が成実に送った書状の書き方で、政宗の不満が見えるようです。
あ、あと新国上総のよみかたは「にいくに」ではなくて「にっくに」だそうです。