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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』6:竹屋敷移陣と小手森攻め

6:竹屋敷移陣と小手森攻め

原文

一 廿七日昨日はまちまちにて落居申さず候へども、我等存分悪は之有る間敷と存。御意をも請けず、未明竹屋敷へ陣を移申候間、伊達上野介我等に引続陣を移申され候に付、惣陣を相詰べき由仰付られ、惣人数は備を立、夫兵は野陣を懸候処に内より一人罷出、我等陣所へ小旗を振招候間、人を越たずね候へども、石川勘解由と申者にて候。我等家中遠藤下野に会申度と申候間、下野に会なされ申候はば、勘解由申候は、此城に小野主水・荒井半内を始備前近奉公仕候者共数多籠申候。通路を切られ、落城程有間敷候間、城をわたし小浜へ罷除度候。此段たのみ候由申候に付、御前へ使を以て申上候へば、御弓矢のはか参候様にと思召候間相出されるべく候。去ながら小浜へは遣はされ間敷候。伊達の内へ罷除くべき候由御意候間、石川勘解由をよび出し、御意の通申候へば、伊達へ罷除候事は命乞に候間、備前切腹も程有間敷候間、腹の供を仕度候間、小浜へ遣わされ下され候様にと申に付、又其通申上候へば、是非小浜へ遣はされ間敷由御意に候間、遠藤下野門二重の内迄罷越申理候。勘解由本丸へ参御意の通申理候処に、御前より我等に御使下され、城内の者共こわき事を成られず候間、申度ままに申候。御攻成られるべく候。本丸迄は落申さず候共、城中の者共伊達へ引除申すべく候。早々惣手へ仰付られ候由御意に候間、是非に及ばず城へ取付候條、下野も漸内より罷出候。我等手より火付方々へ吹付候処に、何方よりも火を付押込候間、内の者共役所を離未刻より御責申の刻に落城申候。なで切と仰付られ、男女牛馬迄切捨、日暮候て、引上られ候。其夜は新城木こり山の敵城共に自焼仕引除候。廿八日未明に木こり山へ相渡され候由、御触御座候。各陣場取に参られ候間、我等も家中四五騎先へ越候処に馬上一騎築飯の方より参候て招候間、我等者乗向たずね候へば、服部源内と申者、我等本扶持仕候。四本松へ本居仕候者築飯も引除候間、早々追懸申すべき由申に付而押懸候へども早引、途から城へ乗入其由申上候へば、則築飯へ御馬を移され御休息成られ候。

語句・地名など

築飯とあるところは築館(福島県安達郡東和村木幡築館)

現代語訳

一、26日、昨日は意見がまちまちであったので、落城させることは出来なかったけれども、私は思っていることは悪いことではないと思った。ご命令を受けずに私が未明に竹屋敷へ陣を移したので、伊達上野介政景は私に引き続き陣を移されたので、政宗は総陣を以て詰めるとご命令になり、総軍は備えを立て、その兵は野陣をかけたところ、城の内から人がひとり出てきて、私の陣所へ小旗を振り呼んでいたので、人を送って訪ねたところ、石川勘解由という者であった。
私の家臣、遠藤下野に会いたいと行ったので、遠藤下野に会わせたところ、勘解由は「この城には小野主水・荒井半内をはじめ、大内備前に近侍している者たちが沢山籠もっております。通る道を切られ、落城するのは間違いないようになったので、城を渡し、小浜へ退きたく思います」と言った。この頼まれたので、政宗に使いを遣わして、申し上げたところ、戦というのはそういうものであるとお思いになったので、出城せよと仰せになった。しかしながら、小浜へ遣わされるのではなく、伊達のうちに退散するようにと仰ったので、石川勘解由を呼び出し、仰ったとおりに言った。伊達へしりぞくのであれば、命乞いであります。備前の切腹もそれほど先のことではないと思うので、切腹の供をしたく思いますので、どうか小浜へ送りくださいますようにと言うので、その通りに申し上げたところ、小浜へはおくるべきではないと思われたので、遠藤下野を二重の門の内まで引き入れ、申し付けなさった。勘解由は本丸へ参上すべきことを仰せられたので、政宗は私に使いを下され、城内の者たちは弱いということを言いたいように申し上げ、お攻めなさるように。本丸までは落とせずとも、城の者たちを伊達へ退けるべきだと言いました。早く総攻めをするべきですと言ったところ、同意なされ、仕方なく城へ攻めかかったところ、遠藤下野がやっと城から出てきたのです。私の手のものから火を付け、方々へ吹き付けていると、すべてのところから火を付け押し込んだので、籠城していた者たちは見張るべき所から逃げ、未の刻から攻め、申の刻には落城した。
政宗は撫で切りにせよと仰ったので、男女・牛馬まで切り捨て、日が暮れたので引き上げられた。
その夜は新城の樵山の敵の城も同じく自ら焼き、退却した。
28日の未明に樵山へ行かれることをお触れなさった。
みな陣場を取りにきたので、私も家臣を4,5騎先へ送ったところ、馬に乗った騎馬武者が一人築館の所から来て、呼んだので、私の家臣が乗り向かって聞くと、服部源内という、私の家臣の者であった。塩松にいた者たちは築館からも退き、早く追い掛けるべきであると言うので、押しかけたが、彼らは早く退き、途中から城へ入城し、そのことを申し上げたところ政宗はすぐに築館へお移りになり、お休みになった。