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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』20:渋川合戦

20:渋川合戦

原文

一 天正十四年渋川に我等居候処へ、元日に二本松より昼時分乗懸候様に働候か。先へ馬上一騎、歩者十人計参陣。場の末にて水汲候者どもを追廻候所へ内より出合戦候。二本松への海道に小山候て柴立にて道一筋を追候て参候処に、柴立の後に馬百騎計、足軽千余にて備候衆に押返され、道は勿論脇へも追散され候。鹿子田右衛門は遊佐左藤右衛門兼てより聞及候者に候間、仕様を見申すべきと存。高き所へ乗上見候へば、左藤右衛門生所にて案内は存候間、各追立られ候筋より西の方へ引除敵追懸参候を、二人打取一人を手を負せ敵を押返。又一人物付仕鹿子田が招候処へ追付候。右衛門もこらへかね相除、谷地へ追込候志賀大炊左衛門も遅懸着、横合に懸入五人物付仕候。彼是敵三十人計打取候。敵負色に成候処所へ、八町目より馳来候味方、海道を二本柳へ押切候様に谷地を越候。是を見二本松衆崩候間追付に仕候処に、鹿子田右衛門飯土居の細道にて馬を立直し、逃散候者共を押返物別致させ候。早日昏候間味方も引上候。頭二百六十三取。二日に小浜へ上申候。佐藤右衛門左様鹿子田罷帰。聞き及ぶ程の者にて候と物語の由にうけたはり候。

語句・地名など

現代語訳

一、天正14年渋川に私がいたところに、元日に二本松から昼ごろ乗り掛けるように戦闘があったようだ。
陣場のはしの方で水を汲んでいて者たちを追いかけ回しているところへ、城の中から出て合戦となった。
二本松への街道に小山があって、柴が茂っているところに一本道があり追い掛けて行ったところ、柴の茂みのあとに、馬100騎ほど、足軽1000騎ほどの控えていた者たちに押し返され、道はもちろん脇にも追い散らされました。
敵の鹿子田右衛門は遊佐佐藤右衛門がかねてから見知っていた者であったので、佐藤右衛門は様子を見ようと思い、高いところへ乗り上げて見たところ、佐藤右衛門は生まれた場所であるので、まわりの様子はよく知っていた。それぞれ追い立てられたところから西の方へ退却しているのを敵は追い掛けてきたのを、二人打ち取り、一人を負傷させ、敵を押し返した。またひとり取り付き、鹿子田右衛門が招いたところへ追い付いた。鹿子田右衛門もこらえかねて、退き、谷地へ追い込んだところを志賀大炊左衛門も遅く駆けつけ、横から五人に仕掛けた。
かれこれ敵を30人ほど討ち取った。敵の敗色が濃くなってきたところに、八丁目城から駈けてきた味方が、街道を二本柳へ押しきるように谷地を越えてきた。
これを見て、二本松の者たちは崩れたので、追い掛けていると、鹿子田右衛門は飯土井の細道で馬を立て直し、逃げ散る者たちを押し返し物別れとなった。既に日が昏くなっていたので、味方も引き上げた。首を263個取ったので、二日に小浜へお伝えした。佐藤右衛門がそのようであったので鹿子田は帰った。名の聞こえた程のものであるなあと、政宗が物語っていたとお聞きしました。

感想

天正14年正月元日に行われた渋川合戦の詳細です。『伊達日記』『成実記』では省かれていますが、12月11日に成実は火災で手の指がくっつくほどの火傷を負った直後のことです。さすがに本人は出陣はしていないみたいですが。
柴の後に隠れていた者の数、『政宗記』では騎兵200騎、足軽2千4,500という記述に変わっています。
また、この戦で取った首の数が、『伊達日記』では「263」というえらくはっきりとした数字ですが、『政宗記』では「340余り」という記述。
少し盛ったのかな?(笑)という感じですね。