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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』29:評定にて

29:評定にて

原文

一 天正十六年正月十六日大崎へ仰付られ候御人数、伊達上野介、泉田安芸守両大将に仰付られ、粟野助太郎、長井月鑑、高城周防守、大松沢左衛門、宮田因幡、飯田三郎、浜田伊豆、軍奉行小山田筑前、御横目に為しめ、小成田惣右衛門、山岸修理、其外諸軍勢を遠藤出羽守城松山へ遣わされ候。大崎に伊達御奉公は氏家弾正、湯山修理亮、一栗兵部少、一廻伊豆、宮野豊後、三々廻之、富沢日向何も岩出山近辺の衆に候。其外は義隆公に候。松山従りは手越候間、此人数打加べき地形にも之無く候。松山に於いて上野介、伊豆、安芸守、其外いずれも寄合評定には、今度大崎御弓矢黒川月舟御奉公申され候はば、幸四竈尾張も申寄られ候條、岩出山へも間近候。然るべき儀に候へども、月舟逆意仕られ桑折の城へ入伊達勢押通候はば、川北の室山にこもり候衆へいひ合せ防ぐべき由存ざると相見え候間、はたらきの調儀何と候はんと評定に、遠藤出羽守申候は新沼の城主上野甲斐私の妹聟に候間、御当家へ代々御忠節のものに候間、室山に押を差置かれ中新田へ打通られ候はば、別儀あるまじき由申され候。上野申され候は、中新田へ二十里余の通、敵の城を後に両地指置押通候事機遣の由申され候はば、泉田安芸守所存は、上野久敷我等と中悪候。其上今度大崎の弓矢の企我等申上、御人数相向はれ候。月舟は上野介の舅に候。彼是今度の弓矢上野情に入間敷由存ざれ、出羽守申さるる所尤に存候。氏家岩出山に在陣仕伊達勢の旗先をも見申さず候はば力を落、又義隆へ御奉公申さるるも計り難く候間、室山には押を差置かれ打通られ然るべき由申され候間、是非に及ばず中新田への働に相さだまり候。

語句・地名など

現代語訳

一、天正16年1月16日、大崎へ向けて命令された軍勢は、伊達上野介・泉田安芸守を両大将にお命じになり、粟野助太郎・長井月鑑・高城周防守・大松沢左衛門・宮田因幡・飯田三郎・浜田伊豆、小山田筑前をいくさ奉行とし、小成田惣右衛門・山岸修理を目付役にした。そのほか諸軍勢を遠藤出羽守の城松山へおつかわしになった。
大崎で、伊達に内応を決めていたのは氏家弾正・湯山修理亮・一栗兵部少・一廻伊豆・宮野豊後・三々廻之・富沢日向、いずれも岩出山近くの衆である。そのほかは義隆についていた。
松山からは手越えになるので、この人数が通れる地形ではなかった。
松山において、上野・伊豆・安芸その他全員で行った評定で、今回の大崎の戦で、黒川月舟斎がこちらへ内応するというのなら、幸い、四竈・尾張もこちらへ寄ってくるだろうから、岩出山へも近い。しかし、もし月舟斎が裏切り、桑折の城へ入り、伊達勢を押し通すならば、川の北の室山に籠もっている衆へ言い合わせて防ぐのがいいだろうと思っていると見えたので、どのように戦略を調えようかと話し合いになった。遠藤出羽守は「新山の城主上野甲斐は私の妹聟でありますので、伊達家へ代々仕えているものでございます。なので室山に抑えをおかれ、中新田へ通られるのであれば、危険なことはないでしょう」と言った。
伊達上野介政景は「中新田へ20里あまりの間、敵の城を後ろに、両地をさしおいて押し通るのには心配である」と言ったので、泉田安芸は「上野は長く私とは仲が悪い。その上今回の大崎の戦の計画を私が申し上げ、軍勢を向かわせることになった。月舟は上野の舅である。かれは今度の合戦では情を入れるべきではない」と思い、出羽守のの言うことがもっともであると思った。「氏家が岩出山に在陣し、伊達勢の旗を見つけることができなければ、力を落とし、また義隆の方へ寝返るかも予測しにくいので、室山には抑えを置き、通るべきである」と言ったので、仕方なく中新田への働きが決まりました。