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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』30:黒川月舟斎について

30:黒川月舟斎について

原文

一 黒川月舟逆意の底意は、月舟伯父式部大夫を、輝宗公御代に御奉公に上げられ候飯坂の城主右近大夫息女に誓約仕、名代を相渡すべき由申合され候へども、息女十計の時分三十計の人に候間、今に祝言之無く候。右近大夫存分には年もことの外ちがひ候。式部太夫年入候間、その身の隠居もはやく之在るべく候。政宗公御目かけにも上げ候はば、彼腹に御子も候はば名代に相立、家中のため能之在るべき由思案申され候。遠返申され候に付、式部大夫迷惑に存。月舟所へ参られずを後へ引切申され候。此恨又月舟は大崎義隆御為に継父に候。義隆御舎弟義安を月舟の名代続にと申され伊達元安の聟に申され候て、月舟手前に置申され候間義隆滅亡候へば、已来は其身の身上を大事に存られ、逆心をくはだてられ候由相見え申候。

語句・地名など

義安→義康

現代語訳

一、黒川月舟斎晴氏の裏切りの真意は、輝宗公の時代に、月舟斎の伯父式部大夫を奉公にさしあげていた。飯坂の城主右近大夫の息女と約束し、跡継ぎにするよう約束していたのだが、娘はまだ10ほどだったのに、式部は30ほどであったので、まだ祝言を行っていなかった。飯坂右近は年があまりにも違うと思っていた。式部大夫は年をとっているし、右近大夫は隠居も近いだろうとなった。政宗公の側妾にさしあげたならば、その腹に子どもができたなら、跡継ぎにすれば家のためによいだろうと思いました。
約束を破られ、式部大夫は大変なことだと思い、月舟斎のところにも戻らず、縁を切った。この恨みの上、月舟斎は大崎義隆の継父であり、義隆の弟義康を養子とし、伊達元安斎の聟にして、月舟斎の手元に置かれていたので、もし義隆が滅亡したならば、未来の自分の身上を大事に思われ、裏切りを企てたように見えるからである。

感想

黒川月舟斎晴氏については詳しくはこちら。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E6%99%B4%E6%B0%8F
この系譜の図をみてもわかるように、伊達家の親族および大崎家と深く繋がっていた人です。
小田原参陣せず、領地を没収されましたが、政景の庇護で余生をすごしたそうです。
この話題になっている式部と娶せられるはずだった娘が政宗の側室飯坂氏だと思われますが、たしかに10歳の子を30過ぎの人と婚約させるのはちょっと無理があった…かも…。