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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』40:月舟斎のその後

『伊達日記』40:月舟斎のその後

原文

黒川月舟逆心故、大崎の御弓矢思し召され候様に之無きに付き、内々月舟を御退治成られ、大崎へ御働なるるべきと思召候へども、佐竹、会津。岩城、石川、白川打出本宮迄働候間、大崎御弓矢に取組れ候はば、亦彼大名衆御出馬たるべき由思し召され、指置かれ候。其翌年仙道の御弓矢勝利を得られ、候て会津迄御手属せしめらる。関東の御弓矢に思し召され候間、大崎の事は御言にも出られず候。然る処に葛西。大崎。木村拝領申され候間、月舟。伊達上野所へ懸入御訴訟申上られ候儀。月舟逆心故諸軍勢打死仕候而。是非月舟首を召し上げらるべく候由仰出られ候。秋保の境の玄蕃に相渡され候。上野米沢へ参られ大崎にて月舟恩賞を以浜田館宮内我等迄身命相助候。我等親子に候間旁我等知行一宇召上げられ月舟命相助けられ候様にと頻に申上らるに付き、上野介首尾に相談られ玄蕃手前より上野請取利府へ帰られ候。其後月舟にも堪忍分下され仙台にて御屋敷を下され、御前へも折々に罷出られ候。八森相模は桑折城にて月舟へ強異見申候由聞召され候。其上政宗公の御指小旗の紋を其身の紋に仕候故。深口惜思召され、小国へ遣わされ、上郡山民部少に相渡され、相模妻子共に死罪に行われ候。

語句・地名など

現代語訳

黒川月舟斎の逆心ゆえに、大崎との戦をお考えになられたとは思えない。うちうちに月舟斎を退治され、大崎へいくさを行うべきであると思っていらっしゃったけれども、佐竹・会津・岩城・石川・白川が出発し、本宮まででてきたので、もし大崎との戦に取りかかるのならば、またかの大名たちが出陣してくるだろうと思われ、そのままにしておかれていた。
その翌年、仙道での戦で勝利し、会津まで手に入れられ、関東への戦を考えるようになられたので、大崎のことは御言葉にもでないようになった。そうしているうちに、葛西・大崎を木村伊勢守吉清が拝領した。そのため月舟斎は伊達上野介政景の所へかけいり、助けて欲しいと訴えた。
月舟斎が反逆したため沢山の兵が討ち死にしたので、政宗公は月舟斎の首をはねるよう政景にい、、秋保の境野玄蕃に預けなさった。
政景が米沢へ来て、「大崎にて月舟斎のおかげで浜田・館・宮内や自分が命が助かったのである。私たちは親子であるから、私の知行をすべて召し上げられてもよいので月舟斎の命を助けてくださいますよう」と何度も申し上げたので、政景の事情を鑑みて、玄蕃の所から政景は月舟斎を引き取り、居城の利府へお帰りになった。
その後月舟斎にも堪忍分を下されるようになり、仙台にて屋敷をいただくようになり、政宗の元へもときどき呼ばれるようになった。
月舟斎の伯父である八森相模は桑折の城にて月舟斎へ無理に意見をしたことをお聞きになり、そのうえ政宗の使っておられる小旗の紋を自分の紋にしていたので、政宗は深くいまいましく思ったため、西置賜の小国へ送られ、相模の妻子ともに死罪になった。

感想

月舟斎が助けられたその後の話が書かれています。その後政宗から呼ばれたりしていた模様。