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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』41:大内定綱の望み

『伊達日記』41:大内定綱の望み

原文

天正十五年最上。大崎は御弓矢に候へども、安積表は先御無事分にて候。苗代田。太田。荒井三ヶ所は私知行に候。敵地近候へども御無事に候間。何れも百姓どもを返し在付候。苗代田は阿子ヶ島高玉の敵城に近候間。古城え百姓共を集指置候処に。大内備前我等所へ申され候は。不慮の儀を以政宗公の御意をそむき此如くの体に罷成候。小浜を罷除候時分会津宿老松本図書介跡絶候間。此知行を下され候様に申。会津の宿老に仕るべく候由会津宿老共申候間罷除候処に。扶持をさへ下されず飢に及び死体に候間。政宗公御下へ伺公申度候。少々御知行をも下され召仕さるる候様にたのみ申由申さるる。去りながら唯今ケ様に申上候ても御耳にも入間敷候間。我等兄弟に候片平助右衛門御奉公仕候様に申すべく候間。我等をも御赦免成られ候様にと申せられ候に付片倉小十郎を以右の通申上候に。拙子申上候は。大内備前召し出され、然るべく存候。其子細は清顕公御遠行以来田村主なしにて心々の様に承り及び候。備前本居仕度存。弓矢の物主にも罷成候へば如何に存候。其上片平の地は高玉阿子島よりは南にて御座候間。片平助右衛門御奉公に於いては右の両地持兼会津へ引除申すべく候。左候はば高倉福原郡山は御奉公の儀に候間御弓矢成られ候共御勝手一段能御座候間。備前に御知行を下され召し出され然るべき由申上に付而大内口惜思し召され候へ共。去々年輝宗公死去の砌。佐竹。会津。岩城相談を以本宮へ御働候。此意趣御無念に思し召され候間。御再乱を成さるるべき由思し召され候間。片平御奉公に於いては備前事も御赦免成らるるべき由具に申聞為しむべき由御意に候間。右使仕候者以大内備前へ追而品々申し越らるるべき由申遣候。此儀白石若狭に知らせしめ申さず候はば。以来恨を請候儀如何に存候間。若狭へ物がたり申候処に。若狭申候は。一段然るべく候。塩の松百姓共大内譜代に候間万事に機遣申候。御下へ参られ候へば大慶の由申され候間。我等も左様に存候。米沢へ申上候由申候。然処に備前より申越され候は。彼一儀洩候事迷惑候。会津に於いて其隠れなく申廻候。此分に候はば切腹仕候儀も計り難く申し越され候。拙者あいさつ申候は。別而他言は仕らず候。白石若狭唯今は小浜に申され候間。其方御奉公の品々彼方へ聞こし召さず候ては取成申されず候間物語申候。若狭其口へも存知申され候哉と存候由申越候。其後若狭我等申され候は。大内備前我等を頼罷出度由物語候間。一段然るべく候。誰を以も罷出られ候へば御為能候由挨拶申候。若狭分別には。備前は覚のものに候。田村近居数年。佐竹会津御加勢無く自分弓矢を取候間。度々合戦にも勝候事政宗公御存候間。若塩の松を通下され候儀はからいがたく候間。若狭指南を以御奉公申され候か。左なく候はば会津に於いて切腹もされ候様にと存され告申され候と見へ申候。其故其年中は大内罷出候事相延候。其年の暮大内機遣仕会津を御暇申請。片平へ罷り越され候。

語句・地名など

現代語訳

天正15年最上・大崎とは戦をしていたけれども、安積方面は何事も無く無事であった。苗代田・太田・荒井は私の領地であった。敵の地に近かったのだけれども、無事であったので、いずれの地も百姓たちを村に返していた。苗代田は阿久ケ島・高玉の敵の城に近かったので、古城へ百姓たちを集め、置いておいたところ、大内備前定綱が私の所へ来ていうには、「想定外の出来事で、政宗公のご命令に背き、このようになってしまいました。小浜から退却するとき、会津の宿老松本図書介の後が堪えたため、この知行を私にくださるように仰り、会津の宿老にしてやろうかと会津の宿老たちがいうので、退却したところ、扶持さえいただけず、飢え死にの危機にあります。そのため、政宗公の所へ伺いたく思います。少しの知行をくだされ、召し使っていただけるようお頼み申します。
しかしいまこのように申し上げても、政宗の耳には届かないだろうから、私の兄弟である片平助右衛門親綱も政宗に仕えるようにいいますので、私もお許しくださるようにお願いします」といったので、片倉小十郎景綱を通して、以上のことを申し上げた。私が申し上げたのは、「大内備前を召し抱えるのがよいと思います。というわけは、田村清顕が死んで以降、田村領は主なしの地となり、人の心はバラバラになっていると聞いております。備前が元居たところと思い、戦の当人となったならば、どう致しましょう。その上、片平の地は高玉・安子ヶ島より南にあり、片平親綱が政宗に仕えるのならば、この領地を保つことが出来ず、会津へ退却することでしょう。そうしたら、高倉・福原・郡山はもともと味方であるので、若し戦となったとしても、政宗の思う通りに出来るのではないかと思います。なので、定綱に領地を与え、家臣にするべきではないか」と申し上げたところ、大内に対しては口惜しい思いをさせられたのだが、一昨年輝宗公がお亡くなりになられたとき、佐竹・会津・岩城が語らいあって本宮で戦を起こしたことを大変残念に思われていたので、再び戦を起こすことを考えて居られた。其のため、片平を召し抱えるのならば、定綱のこともお許しになるべきであることを詳しく知らせるようにと仰せになった。このことを使いの者を通して、大内備前へ後から詳しく申し付けるということを言って返した。
このことを白石若狭宗実に知らせなかったとしたら、これから恨みをもたれるであろうと思ったからである。宗実へ語ったところ、宗実は「そうするべきだと思います。塩松の百姓たちは大内氏譜代のものであるので、すべてのことに気遣いが必要です。政宗の配下になるのであれば、とてもよいでしょう」と仰ったので私もそう思い、米沢へ申し上げたことを言いました。
すると定綱よりいってきたのは「このことがもれて大変なことになっています。会津においても全部ばれて伝わっております。この調子では切腹させられるかもしれません」と言ってきた。
私は返答として「私は他言していない。白石若狭宗実は今小浜にいるのでおまえが政宗に寝返るのであれば、その詳細を隠していては取りなすこともできないので話したのである。若狭が会津方へも知らせたのかもしれない」ということを知らせた。その後若狭宗実が私に「大内備前定綱は私を頼みに政宗に寝返りたいと言っていたので、それがよいと思った。誰を介してでもこちらに付くのならば政宗の為によいと対応した」と言った。
若狭は、備前は名に覚えのある名将であるので、田村に近く住まいして数年、佐竹や会津の加勢無く自分で戦を取り仕切ってきたので、合戦にも強いことを政宗公は御存知であるだろう。もし塩松を下されることは難しいとおもわれるので、若狭の手引きで寝返ると思ったのだろうか。
そうでなければ、会津にて切腹されるかもしれないようだと思って知らせたように思える。
その年中は大内の御目見得は延期となり、その年の暮れに大内は心配して会津から暇を乞い、片平の地へ引っ越した。

感想

大内・片平兄弟の伊達への内応について書かれています。政宗は大内に対し複雑な感情を抱いていたようですが、成実が定綱の手腕を買って説得していたことがわかります。また、親綱が支配している片平の地の地の利も考慮にいれていたようです。
ここで少し白石宗実と成実の間で一悶着があったことが書かれています。『政宗記』でもこのことは書かれているのですが、少し調子が変わっています。ちょっと成実も気にしているようす…。