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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』47:再びの本宮合戦

『伊達日記』47:再びの本宮合戦

原文

一四月五日之晩大内備前不図懸入候に付而。会津衆安積へ罷出られ、須賀川へ申合働候由其聞候に付。片倉小十郎大森に居申され候間左右を申候処に。則二本松へ罷越され信夫の侍早早罷越べき義申触られ候へども。俄故か一人も参られず候。小十郎と我等計本宮へ罷越候。高倉へ人数を籠度由申候へども。差置申べき者之無く候間。我等八丁目の家中ともに十騎余。鉄炮五十挺差越候。四月十七日に高倉近江本宮へ参られ候。本二本松譜代にて会津安積之事具に存候者にて候間。明日の働何方へ之在るべき義たづね候へども。近江申され候は。会津須賀川衆計にて候條千騎には過申間敷候。会津にも境の衆は窕申まじく候。須賀川も田村境の衆は参まじく候間多人数には有間敷候。大形本宮迄は働申間敷候。高倉の働に之在るべき由申され候。左候はば此方へ人数の手扱により。観音堂へ打上高倉へ助入申すべければ見合次第に候。若又本宮之働に候はば。此方の人数引籠候て出ず候者定観音堂へは敵の備相立つべく候。下へ人数下候はば尤の事に候。左なく候はば少々内より人数を出し敵へ仕懸敵を町口迄引付合戦をはじめ申すべく候。左候はば、羽田右馬助人数を以先手を仕。跡を小十郎人数にて仕。我等人数は合戦に構はず西の脇を観音堂へ押切候様に人数を出すべく候間。定而敵の足戸悪之在るべく候。左候はば高倉より敵の跡を付切申さるべく候。大勝は明日に之在るべく候。高倉の城高く候間何方へ働も見え*1べく候。又高倉へ人数越候はば。城の西に飛火をあげ申さるべく候。本宮への働に候はば。東に上申さるべき由申合候て高倉近江は相返し申候。十八日に高倉の城西に飛火上げ申候間。扨は高倉への働と見え候由。観音堂の下迄人数を打出候処に。又東に飛火上げ候。さては本宮へ働に候哉と人数を引返べしと申候へども。きおいが廻り候間。此儘合戦仕るべき由申候間備を相立候。我等小十郎観音堂へ打上見候へども段々に人数押来候。鹿子田右衛門一騎先へ抜け候て足軽四五十人召連参り候。石川弥平に申付候ば。鹿子田を引払申すべく候。するすると参候はば我等は下へ引下がるべく候間。其乗参候はば本合戦仕るべき由申候て。羽田右馬助人数を足軽三十人余指添候而越候処。鉄炮打合そろそろと弥平。敵味方の境を乗廻し乗廻し引上候間。右衛門初は一騎に候へども。後は十騎計足軽百余に成候て。小十郎も我等も下へをろし候へども。敵弥平右馬助どもを追立観音堂迄参候而人数を敵かけ候。敵くづれ候。右馬助小姓文九郎と申十六に罷成候者。馬上付候処に取て返し候。文九郎を切候。歩の者二三人返し首を取候処を右馬助乗入。歩の者二人切候故敵引除候。文九郎首は取られず。其内一人打取候。ひとり橋より此方へ越候。人数は備をほごし崩候て橋を逃越。又そなへを立ならし候故又押返され候処を。田沢勘五郎と申政宗公御小姓に候が。御勘当にてわれらを頼み居候。馬を立廻立廻相除候。横に馬を引まはし候処を鑓持一人走り懸り馬のふと腹を突候と同時に。鉄炮方のもみ合に当打返られ候。勘五郎下立具足をすぎ家中共に相返。その身は手鑓を持馬上を一騎つきをとし。則勘五郎頸をかき我等に見せ申候。又本の観音堂へ追付られ候処。牛坂左近。右馬助。弥平三騎返合敵を追返し。ひとり橋迄追付頸四十三取候。味方は三人打たれ物別申候。十七日の相談のごとくに申候者残りなく討申すべき処に。とひ違へ候而大勝申さず候事。于今くやしく存候。そののちとひの事たずね候へば。今日働の由しらせ申合べく。西へ飛火あげ申由申候。其は昨日知候事に候。入らぬ事と申候へども返さぬ事に候。会津衆は一働申候而片平助右衛門老母を人質にとり罷帰らず候由後に承候。大形人質取申べき計に会津より罷出られ働申されかと存候。まけはづし申され候而若松へ引籠申され候う。小十郎は廿一日迄本宮に居申され候へども。会津衆引こもり候由申来候間。廿二日米沢へ罷帰られ候。

語句・地名など

弥平→『政宗記』では弥兵衛

現代語訳

一、天正16年の4月5日の夜、大内備前定綱は急に伊達へかけいって来たので、会津衆は安積へ出てきて、須賀川と申し合わせて出陣したことが知らされてきたので、片倉小十郎景綱が大森に居たので、詳細を言ったところ、すぐに二本松へ来て、信夫の侍集を急いで来させるべきであると知らせたのだが、急なことであったので、一人も来なかった。小十郎と私だけが本宮へ来た。
私たちは八丁目の家中と合わせて10騎余り、鉄炮50人ほど連れてきていました。
4月17日に高倉近江が本宮へ来た。もともと二本松に代々仕えていた者であったので、安積のことを良く知っている者であった。明日の働きは何処へあるだろうかと聞いたところ、近江が言うには、「会津と須賀川衆だけであるので、1000騎を越えることはないでしょう。会津も境の衆を留守にすることはできないでしょう。須賀川も田村も、境の衆はこないでしょうから、大人数にはならないはずです。おそらく本宮までは来ないでしょう」高倉だけの戦闘になるであろうと言った。
「そうであるならば、こちらへ来ている手勢を使い、観音堂へ向かい、高倉へ援軍を使わすが、どうなるかによる。もしまた本宮での戦になるのであれば、こちらの人数が引きこもってでないのであれば、本宮へは敵が陣取るだろう。下へ手勢が下るのももっともである。そうでないのであれば、少し中から手勢を出し、敵へしかけ、敵を町の入り口まで引き付け、合戦を始めるのがよいだろう。そうなったならば、羽田右馬助は手勢を以て先手をし、後を景綱の手勢で引き受ける。私の手勢は合戦にかまわず西野脇を観音堂へ押しきるので、手勢をダスので、きっと敵の足下は悪いだろう。
そうなったならば、高倉から敵の後ろにつっきるのが甥だろう。明日は勝たねばならない。
また高倉へ軍勢が到着したら、城の西にのろしを上げるよう。本宮への出陣になるのであれば、城の東に上げるように」と話合い、高倉近江は帰っていった。
18日に高倉の城西に烽火が上がったので、では高倉への出陣と思ったので、観音堂の下まで手勢を出発させたところ、また東にのろしが上がった。では本宮への出陣なのかと手勢を引きかえすべきと言ったが、勢いがまさってできなかったので、このまま合戦するべきであると言い、備えを立てた。私と景綱は観音堂へ上がり、見たのだが、徐々に敵の軍勢が押し寄せてきた。
鹿子田右衛門は一騎先へ抜けてでてきて、足軽4,50人を連れて出てきた。石川弥平に「鹿子田を追い払い、するすると行けば、私は下へひきさがり、その調子であるならば、本合戦になるだろう」と言い、羽田右馬助の手勢を足軽30人程付けて送り出したところ、鉄炮を打ち合わせ、弥平は敵と味方の境を乗り回して、じょじょに引き上げた。鹿子田右衛門は1騎であったが、徐々に増えて10騎、足軽は100人余りになった。景綱も私も下へくだったけれども、敵は弥平・右衛門たちを追い立てて、観音堂まで来て、人数を敵はかけてきた。敵は崩れた。
右馬助の小姓で文九郎という16になった者が居たのが、馬上の武者を突いたところ、取り返され、文九郎を切った。かちの者を2,3人返したため、敵は引き下がり、文九郎の首は取られなかった。そのうち1人を打ち取った。ひとり橋からこちらへ来た。手勢は備えを崩してしまい、橋を逃げて越えた。また備えを立ち直したので、また押し返されたところ、田沢勘五郎と言い、政宗の小姓であったが、勘当されて、私のところへやってきた者が、馬を立ち廻し、立ち廻して、退却した。横に馬を引き回したところ、鑓持ちが一人走り懸かり、馬の太腹を突いたのと同時に、鉄炮方のもみ合いに当たり、返された。勘五郎は下におり、具足を脱ぎ家臣に渡した。手槍を持ち、馬上の武者を一人突き落とし、すぐに勘五郎はその首をとり、私に見せた。
またもとの観音堂へ追い付けられたところ、牛坂左近・右馬助・弥平3騎が戻ってきて、合戦を追い返し、ひとり橋まで追い付け、首を43取った。
味方は3人討たれ、物別れとなった。
17日の相談のように、言った者は残りなく討つべきであったのに、間違えて大勝できなかったのは、今であっても口惜しく思う。その後飛火のことについて尋ねたところ、今日戦があることを知らせるべく西へのろしを上げたと言った。それは昨日知ったことであり、必要ないと言ったけども、返さなかった。
会津衆は一働きして、片平助右衛門の老いた母を人質にとり、帰らなかったと後に聞いた。おそらく人質をとるためだけに会津から出てはたらきしたのだろうかと思った。負け外したので、また若松へ引き込んだのだろう。
片倉小十郎景綱は21日まで本宮にいたのだが、会津衆が引きこもっていたことが知らされてきたので、22日米沢へ帰った。

感想

二度目の本宮合戦です。
この記事ではただの「橋」となっていますが、『政宗記』では「人取橋」となっており、『政宗記』がかかれた時期には既に「人取橋」という名称ができていたことがわかります。

*1:ユか