[sd-script]

伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』51:相馬の田村攻め失敗

『伊達日記』51:相馬の田村攻め失敗

原文

相馬義胤築山に御座候間、其内弥田村衆申合られ御北様へ御内談と相見え候。五月十一日義胤従御使之由申候て。相馬家老に候新館山城。中村助右衛門と申者三春へまいり。其夜町にとまり申候。いづれも下々に申唱候は。伊達衆をも相馬衆をも三春へ入間敷由申定られ。両人衆参られ候は。明日義胤御見廻候様に御出城を御取成られ候由申候。十二日早天に山城助右衛門城へ罷上候。刑部少は切腹と存詰未明に参。三人共に奥方へ参酒をひかへ居申候。刑部少のものども五人三人宛鉄炮弓鑓武具持候而城へ入候。月斎。梅雪。右衛門太輔は参られず候。助右衛門。山城者も五十人計城へ参候へども道具は持たず候。義胤御出候由申に付。内へ入候者ども役所付候様に居候。梅雪其時城へ上申され候。奥方より刑部罷出られ候。義胤者城の下迄召懸候。宵より大越の人数城の東の林の内深き谷へ七八百程鉄炮弓鑓を持引付置候。然る所に刑部少輔。梅雪の手を取。兼て伊達衆をも相馬衆をも入間敷由仰合され。義胤を入御申之在るべき哉と申候へば。梅雪いやいや入申間敷由申され候。兼而梅雪も御見廻候様にて城を取らせしむ申すべき由申合為しめられ候へども。刑部少大功の者に候間入申すべき由申候はば即打たるるべきと存ぜられ。入間敷とは申され候と見え申候。刑部少其言に付具足を着申候に付。何も城へ入由者ども武具を着もふし候。義胤城半分程召上られ候処に。鉄炮弓を打懸防候間。御供衆三十騎計袴懸にて召連られ候へども罷り成らず。義胤御馬の平頭に鉄炮あたり。其より召廻し東の小口へ御出候へども。彼口も其通殊に地形悪候故成らず候。御跡に馬上三百騎余武具にて鉄炮も多く召連られ候へども遅候而用立たず。築山へも御帰無く直に相馬へ引除かれ候。大越伊賀守*1罷出御立寄られ候へと申候へども直に御帰候。新館。中村は城にて討たるるべきかと存候て。ケ様に御色立有るべき義になく候。御出御無用之義申すべきとて足早に出候を。鑓を付懸候へども。刑部少無用之由申候て押出。城は堅固に持候。田村より若狭所へ其段申来候間。早馬を以大森へ申上られ候條夜の四つ過ぎに相きこえ。則御早打成られ。若狭居城宮森へ翌日五つ時分召着れ。伊達信夫之人数参築山へ両日御働成られ候。田村に人数入候儀計難き由御意にて我等は十二日白石へ早打仕。そのまま指置かれ候間両日御供申さず候。十六日に小手森へ御働候間。参るべき由仰下され候條小手森へ参候処に。城を召廻御覧成られ。御責成らるべき由仰付られ。我等は築山より助の押へに差置れ候。其外の御人数御旗本衆迄相放られ。御責成られ候而落城仕放火なされ候。今度は取散に仰付られ宮森へ打返され。翌日田村の内大蔵と申城田村右衛門弟彦七郎と申衆居申され候。心替申候衆数多候へども手切れ申されず候。此彦七郎は築山へ節々参。今度義胤三春へ御越候御供も仕候而彦七郎城を御責なされ候。小口懸を成られ。町へ引こもり候から家も十計焼せられ候へども。内より一騎一人罷出でず。脇より助の衆も之無く候処に。卜雲と申田村より出家参られ候。彼出家を以月斎我等頼入御侘言申され罷出らるべきに落居申候へども。日暮候て宮森へ打返され候。惣人数はにしと申所に野陣仕候。つぎの日は石沢に相馬衆こもり候。御働成らるべき由打出られ候処に。彦七郎罷出られ候事おそく候間。御蔵の道つるいに惣手備を立罷出ず候者御責成らるべき由仰付られ候処に。彦七郎罷出御目見え申され。石沢への御先手致され候。石沢は田村の内にて小地に候へども。城能相馬衆相抱候而人数も多見え候間。近陣成らるるべき由にて其夜は西と申城。若狭抱の地へ御在馬成らるるべき由仰付られ候処。然るべき家之無きに付俄に東の山に御野陣成られ候。然る処に大雪仕。何も迷惑申候処に築山に火の手見え候間物見を遣候所。築山引除候而一人も居らぬ由申上候。石沢も除くべき候間いそぎ人数つかはされ候処に。軍勢参らず候。先に引のき候弾正親居候とうめきも引除候。弾正抱の地のこりなく落居。田村の内二ヶ所相済。宮森へ打返され御在馬なされ候。

語句・地名など

早天:夜明けの空。夜明けの頃。早朝

現代語訳

相馬義胤が月山にいらっしゃるので、その内ますます田村の者たちは申し合わせて北の方と内々の相談をなされたようだった。5月11日に義胤から使いを送って、相馬家老である新館山城・中村助右衛門という者が三春へ来て、その夜は町に宿泊した。下々の者たちは「伊達衆も相馬衆も三春へ入れないという事を定められたというのに、二人の使いが来て、明日義胤が見廻りに来るのであれば、城をお取りなさるつもりなのだろう」と言いあった。
12日の早朝に山城と助右衛門は城へ登った。橋本刑部少輔は切腹すると思い詰め、未明に登城した。三人共に、奥の方へ来て、酒を控えていた。刑部少輔の手下の者太刀は5人3人ずつ、鉄炮・弓・鑓といった武具を以て城へ入った。月斎・梅雪・右衛門大輔は来なかった。助右衛門と山城は50人ほど城へ参上したのだが、武器は持っていなかった。義胤が出発したと聞いて、城内へ入った者たちはそれぞれ役目についていたようである。梅雪はそのとき城へ上った。奥の方から刑部少輔が出てきた。義胤は城の下まで取りかかっていた。夜の内から大越の手勢が城の東の林の中の深い谷へ7,800ほどの鉄炮・弓・鑓をもち、持たせ備えておいた。
すると刑部少輔は梅雪の手を取り、かねてから伊達衆も相馬衆もどちらも入れるべきでないということをお約束され、義胤を入れるべきではないのではないかと言ったところ、梅雪は絶対入れるべきでないと言った。かねてから梅雪も見廻りのようにして城を取るべきであると語らいあっていたけれども、刑部少輔は武功の者であったので、聞き入れたならすぐに討たれるであろうと思い、入れてはいけないと言ったと思われる。刑部少輔はその言葉を聞いて、具足を着けたので、みな城へ入った者たちは鎧を着用した。
義胤が城なかほどまでに入られているところに、鉄炮・弓を打ちかけ防ごうとしたので、義胤の御供衆は30騎ほどいたが、袴を着ていたので連れてこられたけれども役に立たなかった。義胤の馬の平頭に鉄炮があたり、引き返し東の小口へ出られたけれども、その入り口も特に地形が悪かったため、脱出できなかった。その跡に鎧武者300騎余り鎧を着て鉄炮衆も多く引き連れて来たのだが、遅れ役に立たなかった。月山にもお帰りにならず、直に相馬へ退かれた。
大越紀伊守は義胤に立ち寄りくださいと言っていたのだが、直接お帰りになった。新館・中村は城の中で討たれるだろうかと思い、このように大がかりになるとは思わなかったため、入るのは止めておくべきと思い、足早に然られたのであろう。
鑓をつけかけたけれども刑部少輔は無用であると下知し、押し出し、城は堅く守られた。
田村から白石若狭のところへその様子をいいにきたので、早馬を使って大森へ申し上げたところ、夜の四つすぎにお聞きになり、すぐに出発なされ、若狭の居城宮森へ翌日の五つ頃に御到着なさった。伊達・信夫の手勢が来て、月山へ二日間戦闘をしかけられた。田村に手勢を入れることは難しいとお思いだったので、私は12日白石へ出発し、そのままそこにいるよう言われたので、二日間とも御供はしなかった。
16日に小手森へ戦闘するので、来るようにと言われたので、小手森へ参上したところ、政宗は城を廻り御覧になられ、攻撃するよう仰られた。私は月山から援軍が来たときの押さえにさしおかれた。その他の手勢や旗本衆まで放たれ、城をお攻めになられたので、落城し、火を付けられた。今回は撫で切りではなく、取り散らしにするようにと仰って、宮森へお帰りになられた。翌日田村のうち大蔵という田村右衛門の弟彦七郎という者がいた。心替えするものが多く居たけれども、関係を壊すほどではなかったが、この彦七郎は月山へ何度も参り、今回義胤が三春へ来たときも御供をし、彦七郎は城を攻めた。小口懸かりをし、町へ引きこもり空き家を10軒ほど焼かせたのだが、中からは一騎も一人も出てこなかった。脇からの援軍もないところに、卜雲という僧侶が田村より来た。その僧侶を介して月斎や私を頼み、訴えを申し上げた。おいでになるべきに落ち着いたけれども、日が暮れたので政宗は宮森へお帰りになった。総軍は西というところで野陣なさった。次の日は石沢というところに相馬衆は籠もった。戦闘しようと出立なさったのだが、彦七郎が出てきたが、遅かったので、蔵の道つるいに総人数を立て、出てこなかったのは、攻撃することを仰られたところ、彦七郎はでてきて、御目見得なされ、石沢への先陣を仰せつかった。石沢は田村領で、小さな土地ではあったが、城はよく、相馬衆を頼っている者も多くいるようだった。近陣しようということで、其の夜は西という、白石若狭の持つ地の城へ滞在するとのことを仰られた。しかし相応しい家がなかったので、急に東の山に野陣を敷かれた。そうしているところに大雪が降り、みな大変困っていたところに月山で火の手が上がったので、物見を派遣したところ、月山は全員退却し、一人も居ないということを申し上げた。石沢も退いたのではないかと、急いで手勢を使わされたところ、軍勢は来なかった。先に退いていた弾正の親がいた百目木も同じく退却していた。これで弾正が持っていた土地は残らず攻め落とされた。
田村の中の二ヶ所が片付き、宮森へ戻られ、ご滞在になった。

感想

相馬義胤が休戦協定を破り、田村へ攻め入ろうとして失敗した話がかかれています。
大雪が降ったということがかかれているのですが、もう5月なのに!?と驚いてしまいます。なんかの異常気象だったのでしょうか。

*1:紀伊守