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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』65:大越紀伊守の動向

『伊達日記』65:大越紀伊守の動向

原文

一常隆公小野に御在馬之内。大越紀伊守末々岩城従小野大越の御抱成がたく存られ。政宗公へ御奉公申さず候ひては身の大事に存。三春に本田孫兵衛と申者御座候。その子本田孫市は大越紀伊守に近奉公仕候。其筋を以月斎。田村宮内大夫父子へ申され候は。不慮の儀を以田村を相そむき候。去り乍ら代々親類の事に候間。御免なされ候様に政宗公へ御訴訟成られ預かるべき由申され候。其に就き宮内大輔より白石若狭へ状越申され候。若狭我等に逢申候中途へ出合預かるべき由申越され候。宮内状をも我等へ越申され候間。白石へ罷るべく候日限は成実次第追而申越すべき由返答申候間。罷出然るべき由申越され候に付。四月九日白石へ両人共罷出候。宮内も参られ申され候は。右の品々紀伊守より孫兵衛を以申され候は。政宗公召し出さるるべく候者。岩城衆車龍子山に二頭。大越警固に差置かれ候間町に在陣候。門沢従大山続に候。本丸へ直に御人数引込未明に町へ押置。二頭の衆打果御奉公仕るべく間。本々の如く知行下され候様にと申され候へども。我等親子共の首をねらい相馬へ御奉公申さる間。合点は仕らず候へども御耳に立てぬこと如何存。旁へ申由申され候。若狭申さるは。ケ様の義中々目出度候。首をねらひ申され候衆頼まれ申され候事誉に候。早々米沢へ仰上られ然べき由申され候。宮内少は大越取違之段に申され迷惑之由に候へども。若狭我等頻に申に付。左候はば御両人より右の品々米沢へ仰せ上げらるるべき由申され候間。青木不休と申久敷田村に御扶持成られ。其後米沢へ罷越候者を使に申付。白石より上申候処に。政宗公初より大越相馬へ申組。田村引付候も一人の様に聞召され候間。口惜思召れ候。去り乍ら宮内大輔へ申組。岩城衆へ打果御奉公仕るべき由申上げられ候ば。本の如く知行之通下さるべき由御印判相調罷帰。則不休を田村へ指越御印判宮内大夫へ相渡。孫兵衛に其御印判を持たせしめ、門沢へ罷越。大越へ人越候へば岩城衆番を付孫市出候事罷成らず候。常隆公従大越へ仰付られ候は。田村へ草調儀成らるるべく候間。御人数遣わさる由にて北江刑部少参られ。大越の城へ直に取入紀伊守に相尋ぬるべき義候間。小野へ参べき由御意候由申され候而引立召連小野へ参られ候。則紀伊守岩城へ遣はされ候。彼一儀げんきゃう申候儀。宮内大輔の状紀伊守懐中申され。此中にて落申され候。女房衆見付。舎弟大越甲斐守へ見せしめ申され候。手替の状に候間。此状預かるべき由申候て返し申さず。其状を常隆公へ上げ申候。其節に大越を甲斐守に下され。彼甲斐守は紀伊守小舅にて親類被官に候へども。筋目を違身上を存常隆公へ忠節仕候。

語句・地名など

現代語訳

岩城常隆公が小野に居られた間、大越紀伊守は代々岩城に従い、小野大越の支配を行うことが難しいと思い、伊達政宗公へ仕えることをしなかったので、身代を続けることが難しいと思った。
三春に本田孫兵衛という者がいた。その子の本田孫市は大越紀伊守に近侍している者であった。そのつてをたどり、月斎・田村宮内大夫の親子へ行ってきたのは、思いもかけないことによって、田村に背いた。しかしながら、代々親戚の間柄であるので、許してくれるように、政宗公へ訴え、預かってくれるよう言ってきた。
それについて田村宮内大夫より白石若狭宗実へ書状を送ってきた。白石宗実は私に会いにくる途中でそれと出合い、預かってきたことを申し上げた。宮内大夫の書状も私へ渡すようにとおっしゃったので、白石へ行く日は私成実次第で、追って連絡するよう返答した。
そして白石へ行くように政宗公が仰られたので、4月9日白石へ二人ともやってきた。宮内も来て、いうには、この詳細を紀伊守から孫兵衛をもって言うのは、政宗公召し出されるのは、岩城衆の車龍子山に二頭おり、大越の警固の為に差し置かれたので、町に在陣した。門沢からは大きな山が続いている。本丸へ直接手勢を引き込み、未明に町に置いた。二頭の衆を討ち果たし、奉公すると言ったので、納得はできなかったが、お伝えしないのはどうかと思い、ほうぼうへ言うよう言われた。
若狭がいうには「このようなことは大変目出度いことである。首をねらっている衆から頼まれることは、名誉のことである。早く米沢へお伝えするべきである」と言った。宮内少は大越を取り違えたときに大変であっただろうが、若狭や私を頼ってきたので、そのようならば、「お二人からこの詳細を米沢へお伝えくださいますよう」と言われたので、青木不休という長らく田村から扶持をもらっており、その後米沢へやってきた者を使いに命令し、白石若狭から申し上げたところ、政宗公は初めから大越紀伊が相馬へ言い合わせ、田村が引き付けているのも一人であるようにお聞きになったので、口惜しくお思いになった。
しかしながら田村宮内大夫と言い合わせ、岩城衆を討ち果たし、奉公するべきであると言ったところ、もとのように知行を下すように印判状をお書きになると、帰った。
すぐに青木不休を田村へ送り、印判状を宮内大夫へ渡し、孫兵衛にその印判状を持たせ、門沢へやってきた。
大越へ人がやってきたので、岩城衆は見張りを付けて孫市は出ることができなかった。
常隆公は大越より仰られたのは、田村へ草調儀をするべきなので、手勢を送るようにと北江刑部少が来て、大越の城へ直接取り入り、紀伊守に尋ねるべき事があったので、小野へ来るようにと仰ったので、連れられて小野へ来た。すぐに紀伊守は岩城へ遣わされた。このことはかれが元凶であると言ったので、紀伊守は宮内大夫の書状を携え、この中で落としたのを、女房衆が見つけ、大越紀伊の弟である大越甲斐守へ見せたところ、寝返りの書状であったので、この書状を預かるべきであると言って、返さなかった。その書状を岩城常隆公へ渡し、そのときに大越城を甲斐守に下された。この甲斐守は紀伊守の小舅で、親類での被官であったのだが、考えを違え、身代を心配して常隆公へ仕えていた。

感想

大越紀伊守の動向が記されております。