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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』68:政宗の移動

『伊達日記』68:政宗の移動

原文

一常隆公三月より小野に御在馬成られ。佐竹会津へ度々仰合わされ。五月廿七日に佐竹義重公。会津義広公。須賀川へ御出馬成られ。常隆公へ仰合され。田村へ御働為しむべき由聞召され。伊達信夫刈田柴田の御人数新地より直に田村へ遣はされ候。六月一日小十郎二本松罷通に我等所へ使を越。猪苗代手切れ申由三蔵軒大森へ参申上候。政宗公も佐竹殿が出馬。猪苗代御奉公。彼是二本松か本宮へ御出馬成らるるべく候間其節猪苗代へ参らるべく候。我等に其段申伝ふべき由御意候間。我等爰元へ廻り候人数は猪苗代へ直に越申由申され候。朔日の七つ時分に候間其より人数を申付。其夜は荒井と申所迄罷越候へ共。一圓人数参合わさず候間翌日。阿子嶋迄罷越候。小十郎は二日。我等は三日に猪苗代へ参着申候。猪苗代替候由須賀川へ聞へ候。三日に義広公若松へ御入馬に候。四日の働の由申付小十郎へ使を越候へども昨日も左様に申候。偽に候。今日も其通為すべき由申され候へども。地形不知案内に候間見申よし存候而摺上へ罷越候へば。跡より小十郎も参られ候。境のもの共二三百人摺上近所へ参。から家抔をやき申候。我等小十郎を見申候。その者どもは引上申候間二つ橋引候様子。その辺の地形見申候て罷帰候。政宗公三日に阿子嶋へ御出馬の由にて布施備後御使に遣はされ候。小十郎備後を同心申我等所へ参られ候間。御口上之通うけたまはり候へば。猪苗代事切に付小十郎計指越され、御気遣に候間。其口へ御馬を移さるべく思召され候。義重。常隆。田村へ御働候へども。御人数遣はされ候條気遣なく候條。弥其元へ御越成らるべき由。御口上も御状も御同意に候。小十郎申され候は。爰元替儀之無く候間御馬を移され候儀御無用に存候。如何存ざれ候哉と申され候間。我等申候は。阿子嶋御在馬も手先過に候。義重若本宮へ御計も成がたく候間。本宮に御在馬然るべく候。猶以此方へ御移馬入らぬ儀候由申候に付。両人共同前右之通申上候。移馬然るべき儀候者。阿子嶋迄は三十里候間早々申上べく候由備後に申含相返候。政宗公思召候は。誠に両人共に御馬移され候事無用之由申上べく候間。是非御越為さるるべくと思召され候。中途へ御使を相出され。小十郎成実早々猪苗代へ相移され然るべき由申上候よし備後に仰付られ。備前参候而早々相移され然るべき由両人共に申上られ候由申され候。御意には今朝より両人のもの共。早々移候様にと申すべきと思召され候。其の如くに候両人の返状も御覧も成られず。早御移成らるるべき由仰出され候。守屋守伯今日は夫兵散申候間。明日未明に御移成られ然るべき由申上られ候へば。各具足着けるべく候。今夜一夜物進給間敷事は堪忍仕るべき由御意候間。兎角申すべき様もなく何も御前を罷立仕度を仕られ候。猪苗代へ其夜の五つ時分御馬移候由申来候。御無用之由申上候間何と存候処に。小十郎より今夜御越必々候。御迎に出候由知らせしめ申され候に付我等も罷出候。須川と申所にて御目懸。夜半時分に御着なられ候。猪苗代十三の子三日に人質阿子嶋へ上申候を四日に召し連れられ弾正に其夜返下され候。弾正申され候は。子共両人御座候。一人は我等を背会津へ引除御奉公仕候。此者返くだされ迚も手前に差置申候事。外聞内儀共に迷惑に存候間。小十郎殿へ相わたし申すべく候條。大森へ差越され預けるべく候。其外に子共候はば上申度候へども。上申すべき者之無く候間是非に及ばず候由申上候。

語句・地名など

現代語訳

岩城常隆は3月から小野に在陣し、佐竹・会津へたびたび言い合わせていた。5月27日に佐竹義重・会津の芦名義広が須賀川へ来て、常隆と申し合わせ、田村へ攻め入るということをお聞きになり、伊達・信夫・刈田・柴田の軍勢を新地から直接田村へお遣わしになった。
6月1日片倉景綱は二本松を通ったので、私のところへ遣いを寄越してきて、猪苗代が手切れをしたことを三蔵軒が大森へ来て申し上げた。
政宗も佐竹が出馬し、猪苗代が伊達に寝返ったため、二本松か本宮へ出馬なされるだろうから、このとき猪苗代へ行くようになっていた。
私にそのことを伝えるべきことを命じられ、私はこのあたりへ来て、手勢は猪苗代へ直接送ったことを申し上げた。
1日の7つごろであったので、それから人数をいいつけ、其の夜は荒井というところまで行ったのだが、まだ人が集まらなかったので、翌日の2日阿久ケ島まで来た。
景綱は2日、私は3日に猪苗代へ到着した。
猪苗代弾正が寝返ったことは須賀川へ伝わり、3日に芦名義広は会津若松へ出馬なさった。
4日の戦闘のことをいいつけて景綱へ遣いを送ったが、昨日も同様であったので、偽の情報であろう、今日もその通りにするべきではと言ってきた。しかし地形について不案内であるので、まえもって見ておくのが良いと思ったので、摺上へ行ったところ、あとから景綱もやってきた。
境のものたち2,300人が摺上の近所へ来て、空き家などを焼いた。私は景綱を見た。その者たちは引き上げたので、橋を2つ落とした様子であった。私たちはそのあたりの地形を見て、帰った。
政宗は3日阿久ケ島へ出陣され、布施備後を使いに送ってきた。景綱は布施備後を連れて、私のところへやってきたので、政宗の伝言を承った。
猪苗代が戦闘状態になったので、景綱のみ送って来たことを心配しているので、その場所へ移動しようとお思いになった。
義重・常隆が田村へ戦闘をしかけたとしても、軍勢を遣わされる心配は無いと言ったところ、余計こちらへお越しになるとの伝言も、書状もこのようにかかれていた。
景綱はここは変わったことはないので、こちらへ政宗が来る必要はないと思い、どうしましょうかと言ったので、私は阿久ケ島に在陣するのも行き過ぎであると思う。義重がもし本宮へ出陣を計画していても、成功しがたいであろうから、本宮にいらっしゃる方がいいであろうといい、またこちらへお移りになるひつようはないと言ったので、2人とも同じように、前述のように申し上げた。
移動するべきときは、阿久ケ島までは30里あるので、すぐに申し上げるために備後に言い含めて返した。
政宗が思ったのは、2人ともに移動することは無用であると言って寄越したので、いっそう行かなくてはいけないとお思いになられた。途中にお使いを出され、景綱と成実がはやく猪苗代へ移動するようにと言っていたと言うようにと備後にご命令になった。
備前は政宗の前に参り、早く移動するべきであると2人が言っていたということを言った。
政宗は朝から2人の言うように早く出立するようにとお思いになった。そのような様子であったので、2人の返事の書状も御覧になられず、早く移動するべきであると仰った。守屋守伯は今日はもう兵も散ったので、明日の朝早くにお移りになるべきであると申し上げたのだが、おのおの鎧を着け、今夜一晩物を食べることがないのを我慢しろと仰せになった。
とにかく言うこともなく、みな政宗の前から出立し、進軍の支度をした。
猪苗代へその夜の5つ頃馬をお移しになることを言ってきた。
政宗の移動は無用であると言ったので、何があったのかと思っていると、景綱から今夜政宗がこちらへいらっしゃるのがはっきりしたので、お迎えに出ることをお伝えしたと言ってきたので、私も迎えに出た。須川というところでお目にかかり、夜中ごろにお着きになられた。猪苗代弾正の13歳の子を3日に人質に送ってきたのを4日連れてこられ、猪苗代弾正にお返しになった。
弾正は、子どもが2人いると言った。「1人は自分に背き、会津へ退き、仕えることになった。この者をお返しくだされても、自分の所に置いておいては外にも内にも大変なことになるので、景綱へ預けたい」といったので、大森へ送り、預かることになった。そのほかに子どもが居れば、人質にお渡ししたいけれど、そうするべき子が居ないため、できなくて申し訳ないと言った。

感想

岩城常隆が出陣し、佐竹・芦名が動いたため、偵察にでかける小十郎景綱と成実。
2人が政宗の出馬は必要ないと言って返してきたのに、政宗は出陣を決めます。途中まで来ていた使いである布施備後を途中で引き留め、2人が助けを求めていると言い含め、2人の意見に反して出陣を決めます。なんだそれって感じの展開ですが、ここのやりとりがとってもおもしろいです。
政宗記などでは布施備後は布施清左衛門となっています。「(2人が)政宗の出馬を待ちかねていると言わないと手討ちにするぞ」とまで言われており、備後こと清左衛門は始終はてなマークですよね(笑)。