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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』69:摺上合戦

『伊達日記』69:摺上合戦

原文

一五日の朝御談合成らるるべき由にて家老衆いずれも召出され候。然る処に会津より御座働候由申候。昨日もいつはりを申候由申候処に。人数見候由申来候間。両の屏ぎはへ罷出見申候へば備数多見え候。政宗公摺上の方見え候やぐらに御座候而伺公致働と見え申候。御人数相出られ候哉と申候へば。先手は猪苗代弾正。二番は小十郎。三番は我等。四番は白石若狭。五番は御籏本。六番は浜田伊豆。左手右手は大内備前。片平助右衛門仰付られ候。小十郎も我等と同前に御前を罷立帰宅仕候へば。内々老とも疾に支度仕相待居候而。則具足を着申候而打出候へば。会津衆二つ橋北の山に段々に相備。北の原の方には在家之無く候間猪苗代より出候人数を見候而。ばんだい山の方へ人数を引上候而。猪苗代より出候人数へ向押懸摺上を越候而参合戦初候。小十郎衆は合戦仕。我等人数と若狭人数は双方の後へ相詰候。然る処に小十郎。弾正人数足戸悪崩左右に候間。若狭我等我等人数会津衆の真中へかかり候に付。会津まぐれ摺上迄追付候処に。摺上之下会津旗本の備候押太鼓を打押返され候処に。政宗公旗本の御人数を以押通。摺上の上迄敵も引除ながら合戦仕候へども。摺上を追をろし候而より崩申候を追討に成られ候。北方をさし各逃候。拠無く存候者は二つ橋は引。中々人間の通るべき川に之無く候へども。川へ逃入水におぼれ死申候。川を越申候者も候哉。向の岸渡申候我等のかな川の方へ参罷帰に川の様子は見申候。

語句・地名など

二つ橋:二橋・新橋(にっぱし)

現代語訳

5日の朝会議をするということで、家老衆はみな呼ばれた。そうこうしているうちに、会津から働きがあったことが伝わってきた。昨日も偽の情報が来たので、今回も間違いだろうと言ったところ、軍勢が見えたと言ってきた。両方の塀ぎわへ出て見たところ、備えがたくさん見えた。
政宗は摺上の方が見えるやぐらに上がり、側に行き、戦闘があると思われます。軍勢を出されますかと行ったところ、先手は猪苗代弾正、2番は片倉景綱、3番は私、4番は白石宗実、5番は旗本衆、6番は浜田景隆、左右は大内定綱・片平親綱にお命じになった。
景綱も私と同じように政宗の前から下がり、帰ったところ、老いたものも含め急いで支度し、待っていた。すぐに鎧を着け、出立した。
すると会津衆は新橋北の山に段々に備えを構えていた。北の原っぱの方には、家がないので、猪苗代からでた軍勢を見たので、磐梯山の方へ軍勢を引き上げて、猪苗代から出た軍勢へ向かい押しかけ、摺上へ越えてきて合戦が始まった。
景綱の手勢が合戦していた。私と白石宗実の手勢は双方の後ろへ詰め、た。すると景綱と猪苗代弾正の勢は足もとが悪く、崩れそうになっていたので、若狭と私は軍勢を会津衆の真ん中へ駆け込んだ。会津の衆摺上まで追い付けたところ、摺上の下、会津旗本の備えがあり、押し太鼓を打ち、押し返された。すると政宗の旗本衆がやってきて押し通り、摺上の上まで敵も退きながら合戦したが、摺上を追い下りたところから崩れたところを追い討ちにした。敵は北に迎ってそれぞれ逃げた。行くところなく思う者はなかなか人が通ることができる川ではなかったので、新橋が落とされていたので、川へ逃げ入り、水に溺れ死んだ。川を越えた者もいたのだろうか、川向こうの岸まで渡った者も居た。
私は金川の方に行き、帰りに川の様子を見た。

感想

ついに摺上合戦が開始です。一報を聞いてやぐらにのぼり様子をうかがう政宗、それを見て戦闘用意に入る景綱・成実。
戦がどう行われ、どのようになっていったかが非常に臨場感ある描き方で記されています。
ラスト、橋が落とされた川で溺れる者たちを見る成実の感慨が非常に興味深いです。