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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』73:会津の家老たちの動向

『伊達日記』73:会津の家老たちの動向

原文

一三橋御在馬中。会津の宿老富田美作。平田不林。同周防御奉公仕るべき候條。只今相抱候知行。其上備付之与力之身上相立られくださるべく候由申され候。内々政宗公も大分の訴訟と思召され候へども。須賀川に義重公御在馬。小野に常隆御在馬にて田村へ日々御働候間。若松を一刻も早く取ら為しめられ度思召御合点に候。彼の衆申され候は。若松へ御はたらきならるるべく候はば。火を付御備へ加り申べき由申合候。余御無人数に候間名取の人数をも呼ばせしめらるるべき由仰付られ候処に。六月十日の晩義広公若松御抱成らず候や。白川へ御除成られ候。義広公は本田川の名代に相定候処に。会津御名代に其後相済候。白川御除候事長沼の城主新国上総も其比迄義広公へ御奉公候間御心易引除かれ候。十一日政宗公若松へ御打入成られ候へども。田村へ佐竹殿。岩城殿御働候間。白石若狭。我等参るべき由仰付られ候。若松より直に田村へ罷越候。其以来も節々御働に付若松より原田左馬介。平田周防遣はされ候。方々の城へ伊達衆もこもり候へども。浮人数四五百騎候間。深御働に候はば一戦仕るべき由内談申候へども左様にも之無く候処に。常隆公下枝へ御働引上られ候所へ。下枝の者押添方々の山路を押切々々打出候処に。岩城しんがり衆敗軍仕。田村右衛門大夫初頸五十余打取候。下枝は三春より遠候間。警固の衆迄にて助勢参らず候故少打申候。

語句・地名など

現代語訳

政宗が三ツ橋にいる途中、会津の宿老富田美作・平田不休左京亮・平田周防の3人が伊達へ寝返るということになり、その見返りに現在抱えている知行と、付けられている与力の分の知行もくれないだろうかと言った。
政宗も内心相当の申し出だとお思いになったが、須賀川に義重が、小野に常隆がいて、田村に日々戦闘を仕掛けているので、会津を一刻も早く取らせたいと思われたため、その望みに合意した。
かれらが言うには、会津若松へ戦闘を仕掛けるのであれば、火を付けて陣に加わるという約束をした。人がいないので、名取の軍勢も呼ぶようにとご命令になったところに、6月10日の晩、芦名義広が若松を抑えきれなくなったのだろうか。白川へ退いた。義広は本田川(白川)を継ぐと決まっていたのだが、会津の跡継ぎになり、会津の家を継いでいた。白川へ退いたことは長沼の城主の新国上総貞通もその頃までは会津へ奉公していたので、白川への退却も心安く出来ていた。
11日、政宗が若松へ打ち入ったが、田村へ佐竹・岩城が戦闘を仕掛けていたので、白石若狭宗実と私が行くように仰せになり、会津から直接田村へ行った。それ以降も、何度も戦闘が起こったので、会津から原田左馬助宗時と、平田周防をお遣わしになった。
あちこちの城へ伊達衆が入ったのだが、空いた人数は4,500騎くらいであったので、敵陣深く戦闘をするならば、一合戦しなくてはいけないだろうと内々で話していたのだが、そのようにならないでいたところ、岩城常隆が下枝へ働き、引き上げられたとき、下枝の者は、あちこちの山道を押しきり、攻めたところ、岩城のしんがり衆は敗軍し、田村右衛門大夫を筆頭に、50余りの首を討ち取った。下枝は三春から遠いため、警固の衆も援軍を送ることが出来ず、打つ者も少なかったと言った。

感想

会津の家老たちがどのように身を立てていったかが書かれています。