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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』102:須田伯耆の素性

『伊達日記』102:須田伯耆の素性

原文

一須田伯耆と申者は大浪大膳家中に候。御洞御弓矢之砌大膳逆心仕候所。親伯耆後は道苦と申者大膳に背き直に御奉公に罷成。大膳家中故百番切の奉公並にて御年頭に一度御前へ罷出。御弓矢の時分も指南備に罷有体のものに候。然処に輝宗公御生害の砌米沢より百里程へだて。信夫の内策切場と申所に在所仕候が追腹を仕候由申上候。政宗公も御首尾の御覚は之無く不審に思召され候へども。追腹仕候由申候間。死骸の夏狩へ思寄られ。輝宗御同前に葬礼仰付られ候。世上には道苦追腹何の御首尾に候と申唱候。遠藤山城子共内馬場右衛門子共には少しながら御加増下され候へども。彼伯耆には左様の儀も之無く候。かねて親御供仕候に少々御心付も之無き由申廻り候由承候。伯耆二番目の子小十郎と申者拙子に奉公仕候に付細々出入仕候。惣別機持不定者に候。ケ様の御忠節を申候はば政宗切腹をも成られ。我等は天下より御知行をも下さるべくと存。少も之無き事申出候と存候。

語句・地名など

現代語訳

須田伯耆という者はもともと大浪大膳の家中の者である。親戚の間で戦が起こったとき、大膳は反逆し、伯耆の親で後に道苦(道旬)という者は大膳に背いて本家に仕えるようになった。大膳の家中なので、百番切の奉公であり、年に一度目通りする程度の者であり、戦の時にも与力付きの備にはいるような者であった。
そして輝宗生害事件のとき、100里程はなれた、信夫の策切場(菜剪場)という在所にいたのだが、殉死をしたと言ってきた。政宗も道苦が殉死するような立場だった覚えはなく、不審に思われたけれども、殉死したという事であるから、死骸を夏刈へ呼ばせ、輝宗と同じように葬礼させた。世間では道苦はどうして殉死したのかと噂になった。
遠藤山城の子や、内馬場右衛門の子には少ないが加増をしたのだが、この伯耆には加増はしなかった。かねてから親がそのようであったので、心付けもないことを言い回っていたことを耳にした。
須田伯耆の二番目の子である小十郎というものが私に奉公していたので、何度か出入りしていた。特に気持ちが定まらぬ者であった。
このような裏切りをしたならば、政宗の切腹もあり得て、自分は天下人から地合をくださるだろうと思ったのか。浅はかなことを言うものだと思った。

感想

氏郷に訴えでた須田伯耆の素性について書かれています。ここで興味深いのは、殉死する人には、ある程度人から「殉死するべき人」であると認められている人とそうでない人がおり、ある程度資格があったようです。そうでなかった伯耆の父道苦は政宗からも不審に思われていたことが書かれており、他2人の殉死者には加増があったのに、伯耆にはなかったことになっています。
須田の縁者(『政宗記』では弟、ここでは子小十郎)が成実に一時期仕えていたけれども、粗忽者であったということです。