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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』119:蒲生騒動

『伊達日記』119:蒲生騒動

原文

一会津蒲生氏郷殿御遠行候而家老蒲生四郎兵衛。藤三郎殿をとり立申候所。飛騨殿小姓頭に召遣され候和田利八右衛門と四郎兵衛公事を仕披露及ばず候付。秀吉公御意にて和田利八右衛門を切腹仕候。蒲生四郎兵衛は嶋津兵庫頭へ預をかれ候。藤三郎殿は家康公御聟に候。御若年にて御洞六ヶ敷候間。先々御国召上らる由仰出られ。宇都宮へ十八万石にて御国替候。飛騨殿は奥州のをさへと思しめされ会津仙道訖百十五万石下しをかれ候。其跡長尾景勝へ下され候。蒲生殿は浅野弾正殿与力に候。景勝は石田治部少与力に候。仕置のため両人衆会津へ御出候。政宗も大崎葛西一揆取乱候を下されかうらい迄渡候條。罷下仕置仕るべき由仰出され。弾正殿御同心にて御下候。弾正殿と治部少輔下り候。兼而御中悪候。

語句・地名など

現代語訳

その頃会津の蒲生氏郷がお亡くなりになったので、蒲生四郎兵衛郷安は藤三郎秀行を立てて行こうというところ、氏郷の小姓頭であった亘利八右衛門という者と四郎兵衛が訴訟をはじめ、家来を抑えることが出来なかったので、秀吉のご命令により亘利八右衛門を切腹に、蒲生四郎兵衛郷安は島津兵庫頭義弘に預け置かれた。
藤三郎秀行は家康の婿であり、若いため、家中を治めることが難しいというので、さきざき国を召し上げられると御命じになり、宇都宮18万石へ国替えなされた。
氏郷は奥州の抑えとして、会津・仙道115万石を与えられていた。その後に長尾景勝へお与えになった。蒲生は浅野弾正の与力であったが、景勝は石田治部少輔三成の与力であった。仕置のため2人は会津へ行かれた。政宗も大崎・葛西一揆取り乱したところを与えられ、高麗まで渡海したのだから、国の仕置のために下れと言われたので、浅野長政と一緒にお下りになった。弾正と治部少輔は下ったが、かねてから仲が悪かった。

感想

文禄4年、蒲生氏郷が死に、家中で問題があったため、会津を召し上げられ、宇都宮18万石に移され、空いた会津に上杉景勝が入ることになりました。