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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『治家記録』寛永11年2月23日条

『治家記録』寛永11年2月23日条

原文

廿三日庚辰。天気好、寅の刻(午前4時)伊達安房殿成実宅へ御出、数寄屋に於て御茶饗し奉らる。亭主御花を望み申し、水仙花と梅を出さる。水仙は長く、梅は短く伐て出されしを、公山礬是弟梅是兄といへる事ありと仰せられ、水仙を短く伐り、梅をば長く継て入れ玉ふ。
巳刻(午前10時)表へ御出、御能仰付らる。竹生島・兼平・井筒・鵺・道成寺・小袖曾我・杜若・邯鄲・見界、以上九番あり。安房殿より大夫に時服二重、□惣役者に一万匹、舞台に於いて賜へり。
公より安房殿へ御時服十御夜着一賜ふ、安房殿より御馬一匹黒毛、綿百把、板物三十端献ぜらる。
子刻(午後12時)御帰。
今夜、寅刻安房殿宅出火、家屋不残焼亡し、肴町一町裏向かひ類火す。先刻、公御帰りの時分、今夕は火事御心許なく思召さる。用心せらるべき旨仰せられ、鎖間へ御入り、炉の底を御手自取り玉へり。火事と言ふを聞かせられ、安房殿宅なるべしと仰せられ、即ち御使を遣さる。又井上九郎兵衛を御使者として、御懇に仰遣さる。其後佐々若狭を以て、早々仙台屋敷へ移さる様にと仰遣さる。今日安房殿宅に於て怪異あり。御能以前、未明に桜井八右衛門はしかかり、幕の内より舞台を見るに、はしかかりに二三箇所黒き所あり、高井十右衛門に見すれか血なりと云ふ八右衛門も寄りて見る。又屋上の箱棟に生首二つ見えたり。今日翁の面を懸るに穢なりと思ひ、十右衛門は幸いに奈良の禰宜なり、祓い清めさせ、翁を勤む。箱棟の生首を夜明て見れば、鳶の二羽止り居れるなり。人々奇異の思をなすと云々。
また兵部殿宗勝小袖曾我の能を舞はる。小野宗碧見て殊の外に褒美し、且つ公へ向て不敬の言を申す。公聞召し付けられざる体に御座せば、猶以て再三高声に申す。因て御立腹あり。御腰物鞘の儘に彼が頭を撃破らる。伺候の輩宗碧を御陰へ引立去る。公鎖間へ入り玉ひ、中島監物貞成、佐々若狭元綱を以て御申の時節斯くのごとくの事、近比御心許なく思召さるといへども、御能見物の中には他国の者もあるべし、不敬の挙動其儘には差置れ難し。因て斯くのごとくに、罰せらる。亭主心に懸けられまじき旨、安房殿へ仰遣され、宗碧をば即ち桃生郡深谷荘大塚浜へ差遣さる。
然るに先年越後少将忠輝朝臣へ台徳院殿御成の時、兼日御手水前の木を公の御物数寄を以て植置る処に、宗碧兄道巴と云ふ者、公の御物数寄なる事をしらざるにや、散々の植様なりとて植直したり。台徳院殿此木は誰が植たると向ひ玉ふ。道巴が植直したるとは御存知なく、公の植玉へる由を忠輝朝臣仰上らる所に、植様悪く思召さるの旨上意あり。其後公聞召し及ばれ、植直したる事を口惜しく思召さるといへども、台徳院殿へ仰分らるにも及ばざれず。此事に就て、年来御心底には宗碧をも悪み玉へり。然るに今度宗碧妻子御預けの時宗碧が甥上方より参りたる者の由申す。尋問はるれば道巴の子なり。公聞召され、道巴が御意に違いたるを存しながら、其者の子を数年隠し置事後闇き仕形なりと憎み思召され、宗碧並びに子供甥共に死罪に行はる。
廿四日辛巳。伊達安房へ書状送る。
廿八日乙酉。伊達安房殿を饗せらる。安房殿へ書院を造り賜ふべき旨仰出され、御絵図を成し遣はさる。

現代語訳

『治家記録』寛永11年2月23日条
23日。天気良く、寅の刻から伊達安房守成実宅へお出かけになり、数寄屋において茶席の饗応をうける。亭主の成実が花を望み、水仙花と梅を出した。水仙を長く、梅を短く切ってだしたところ、政宗は「山礬は弟、梅は兄と言うことがある」と仰り、水仙を短く切り、梅の方を長くして継いでお入れになった。
巳の刻表へ出られ、能会が始まった。竹生島・兼平・井筒・鵺・道成寺・小袖曾我・杜若・邯鄲・見界、以上の九番の演目が演じられた。成実から大夫に時服二重、すべての役者に□一万匹を舞台の上で与えた。
政宗から成実へは時服十と、夜着一つを与えた。成実は黒毛の馬一匹、綿百把、板物30端献上した。
子の刻お帰りになった。
この夜、寅の刻安房屋敷から出火し、家屋残らず消失し、肴町一町うらむかいに類焼した。先ほど、政宗が帰るとき、今日の夕方は火事のことを心もとなくお思いになった。用心するようにとご命令になり、鎖の間へお入りになり、炉の底を御自分の手でお取りになった。火事であるとお聞きになって「安房殿の屋敷だろう」と仰り、すぐに使いを送った。また井上九郎兵衛を使者として、非常に手厚く扱った。その後佐々若狭を以て、早く仙台屋敷へ引っ越すようにと仰ってきた。
この日、安房殿屋敷に於いて、怪異があった。能の前、未明に桜井八右衛門がはしかかり、幕の内から舞台を見たところ、はしかかりに二三ヶ所黒き所あり。高井十右衛門はそれを見て血なりと言った。八右衛門も寄って見た。また屋上の箱棟に、生首が二つ見えた。今回翁の面をかけるのに、穢れであると思い、十右衛門は幸いにも奈良の禰宜であり、祓い清めさせ、翁を務めた。箱棟の生首を夜明けて見れば、トンビが二羽止まっているのであった。人々は気持ち悪いと言い合った。
また、兵部殿宗勝小袖曾我の能を舞った。小野宗碧はこれを見て非常に褒め称え、かつ政宗に向かって不敬の言葉を言った。政宗は聞こえないふりをしていたが、さらに再三大きな声で言うので、ご立腹なされ、刀を取り、鞘の儘に宗碧の頭を打ち破った。控えていたものたちが宗碧を陰へ引っぱっていき、立ち去った。
政宗は鎖の間へお入りになり、中島監物貞成、佐々若狭元綱を以て仰ったのはつぎのような事であった。
この頃老いについて心もとなくお思いであると思うが、今回の能見物には他国の者もあるであろうし、不敬の言動を、そのままにしておくことはできない。なのでこのように罰した。亭主が気になさることないようにと成実へ仰り、宗碧をすぐに桃生郡深谷荘大塚浜へ送った。
それに、先年越後少将松平忠輝へ台徳院秀忠御成のとき、手水前の木を政宗の見立てで植えさせていたのだが、宗碧の兄道巴という者が、政宗が数寄に通じていることを知らなかったのだろうか、散々な植えかたであると言って植え直した。
台徳院はこの木は誰が植えたと面と向かって聞いた。道巴が直したとは知らず、政宗が植えたと忠輝が申し上げたところ、植え方が良くないと思うとの御言葉であった。その後、それを政宗は聞き及び、植え直したことを口惜しくお思いになったけれど、台徳院へ言い訳することも出来なかった。
このことについて、日頃心の底では宗碧をも憎んで居られた。すると、今回宗碧の妻子を預けるとき、宗碧の甥上方から来たとの知らせが来た。尋ねてみれば、道巴の子であった。政宗はそれを聞き、道巴のことを政宗が良く思っていないことを知りながら、その子を数年隠していたことを後ろ暗いところがあったのかと憎く思われ、宗碧並びに子供・甥ともに死罪にした。
24日伊達安房成実へ見舞いの書状を送る。
28日伊達安房を饗せらる。書院を作る様にと仰り、絵図をかきお渡しになった。

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