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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『名将言行録』「伊達政宗」

『名将言行録』とは

『名将言行録』(めいしょうげんこうろく)は、戦国時代の武将から江戸時代中期の大名までの192名の言動を浮き彫りにした人物列伝。幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた。
全70巻と補遺からなり、主に武田信玄、上杉謙信、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、伊達政宗、徳川家康などの天下を競った戦国大名から、森長可といった安土桃山時代の戦国武将、江戸時代の譜代大名で老中を務めた戸田忠昌、赤穂浪士の討ち入りを指揮した大石良雄など、多くの時代の人物について、その人物の言行、逸話を記録している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『名将言行録』は江戸時代末期に書かれたものですが、多くの時代の人物について言行・逸話を残しております。戦国時代の項については時代が離れていることもあって、史実とは考えがたい記述も多数ありますが、江戸時代中に普及していた武将たちの逸話がどのようなものであったかを理解するのに役立つ本です。
政宗言行録系に載っていない逸話・相違がある記述などもありますので、比べてみるのもよいかと思い、原文だけ上げておきます。
当然ですが、江戸初期人である成実や政宗とは語彙が違いまして、結構文字打ちに苦労しました(笑)。

原文

底本は岩波文庫版(第3巻153p~181p)を使用

岡谷繁実『名将言行録』「伊達政宗」

 左京大夫輝宗の子、陸奥守に任ず。後従三位権中納言と為り、仙台城に住し、六十四万石を領す。寛永十三年五月二十四日薨、年七十。

 政宗、幼名梵天丸と曰ふ、五歳の時城下の寺に参詣し、仏壇の不動を見て、近臣に、是は何たるものぞと最も猛々敷姿なりと問ふ。近臣、是は不動明王と申て、面は猛々敷座ませども、慈悲深くして衆生を救はせ給ふと答ふ。政宗聞て、偖は武将たるべき者の心得と成るものなりと言はれけり。聞く者是を奇成りとす。八九歳小学に入り、礼楽を学び、詩を誦し、射御を習ふ、一を聞て十を知る、才能人に過ぐ。然れども性寛仁人に対し羞色あり、近臣、或は其将器にあらざるを誹る者あり。独り片倉景綱其英姿不凡を歎ず。後皆景綱の鑑識に服すと云ふ。

 天正十五年、長井の鮎貝太郎、政宗に反く。政宗之を討んとす。老臣等皆曰く、最上より定めて援兵来り候べし、其上御家中に鮎貝の外に、又最上へ内通致し居る者も之あるやに承はりたる間、御探索ありて、御人数御手配の上、御出馬然るべくと。政宗曰く、各申所尤もなれども、左様の延引も時に依ることなり。今火急の節なり。軍は不意を挫くを以て勝利を得ることあり。又物は定まりて、定まらぬものなり。最上より加勢必定と思ふことも、品により其期延ることもあらんか、又加勢あるとも、小勢の折りか、又取掛らん抔評議の内に、急に押散らさんこと第一なり、延引して敵の謀成就しての後は六ヶ敷からん、且つ家中に鮎貝が外に敵に通ずる者あるべきや、と各推量なれども、知らぬ行末計らんよりは、指当ることを為さんには如かじ、目前の鮎貝を差置、事広まり、爰彼所に謀叛の者起らば、一同に退治せんこと難かるべし、時を移さず行ふは、勇将の本望なり、早や打立つべしと触出し、出馬せしにより、家中追々一騎駈の如く駈付け打寄せけれども、最上よりの加勢一人も来らず、鮎貝一人にて敵対すべき様なく、取るものも取りあへず最上へ引退きしに付長井中無事に治め、仕置して帰陣せり。人皆其神速の工夫に感ぜり。

 十七年、須賀川の役、敵将二人善く戦ふ、向ふ所披靡す。政宗遙に之を見て曰く、壮士なり。其一人は二十許り、その一人三十余歳なるべし、田村月斎、橋本刑部をして生擒せしめ、其年を問ふ。大浪新四郎二十一、遠藤武蔵三十五、果して其言の如し。人其故を問ふ。政宗曰く、一人は勇を恃み、難夷を択ばず、弱冠の所為なり、一人は強を避け、弱を駆り、進退度を失はず¥、壮年にあらざれば爰に至らずと。

 政宗、既に会津を亡し、疆土広大になりぬれば、老臣、宿将等相議して、政宗に向ひ、古と違ひ、今は御手も広く、諸大将参会申され候上、他家よりも使者多く候に、御城小さく、殊に粗末にて剰へ御城下も狭く候間、御普請ありて御城下をも、御開きありて然るべし、今の通りにては第一御外聞も如何に候と言ふ。政宗聞て、何れも異見の所は尤もなれども、政宗は城普請に心を費さんとは思はず。城抔に年を入るるは、小身なる侍が、彼方此方申合はせ、敵寄せば助勢賜はり候へ抔、互に言合はする者は、成程堅固に普請致すが能きなり。予が心は、昔より近国の大将を頼み、助を得て国を持怺えんとは思はず、敵押寄せ来らば、境目に於て尋常に合戦して打果すか、様子悪くは引退き、敵を領分に引入れ、家中の者共に申合はせ精入れて有無の合戦を遂げ、敵を挫くか、左なくば討死して滅亡と兼ねて究め居るなり。籠城して敵に取籠られ、数月を送るとも、家中騒立ち助くべき隣国もなくば、空く城にて餓死すべしと。況や、其許等申如く手も広く、軍勢も昔に十倍せり、近国に於て恐らくは、我領分へ手出すべき人は覚えず。予、又此城を取り立て迂闊々々として、爰に居住を定めんとは思はず、来春に至らば、諸軍を率ゐ、向ふ所を敵とし、従ふ所を味方として、関東に旗を立て、新に土地を開かんとす。故に予が心を費すは、軍旅の掟、軍用の費、諸将の忠功を賞し、不忠不義の誡何れも道に当らんことを、朝夕之を思ふなり。第一諸士述懐し恨みを含むことのなき様にと思ふ計りなり、古き家々の破るるを見るに、家中に恨を含む者ありて、主君に背き、敵に内通し、夫より家中騒立ち、終に身を亡せし者少なからず。禍は内より起りて、外より来らず、他家の者来りて此城郭の粗末なるを謗り笑ふべきことは、予も恥しけれども、国の為めには替え難き恥なり、予が手の広がるに従ひ、各も少しながらも、領地加増を取て、妻子をも育むは、各精を出して、我に奉公する蔭を以ての故なり。古歌に『人は堀、人は石垣、人は城、情けは味方、怨は大敵』とあり。誠なりと言て、笑はれけり。諸臣、何れも歎服して退けり。

 小田原の役、政宗間行して小田原に至り、底倉に屛居す。秀吉、人をして遅参のことを詰問せらる。政宗一々に陳謝し、以て命を待居りし時、千利休が秀吉の供して下り居りしに就て、茶の湯を稽古せり。秀吉聞て、政宗は遠国田舎の住居にて、夷狄の風に墜ち、無道の者と聞き及びし所、聞きしに事替り、万事心の付きたる仕方、鄙の都人と言はんものぞと、褒称せられけり。

 此役終らば、秀吉会津発向に付、先達て小田原表より、出勢之あり、諸大名宇都宮近辺へ着陣あると均しく、政宗領分へ物聞、目付等を差遣はしけるに、一段と物静にして、出勢籠城の支度箇間敷こととては少も之なくに付、諸陣共に不審を相立しとなり。然る所秀吉、宇都宮の城へ着陣ありければ、政宗、家老の片倉小十郎景綱、只一人召連れ手廻り人少にて、宇都宮へ至り、城下を隔てたる禅院に止宿し、大谷吉隆方へ、景綱を使者として申送りけるは、先日は初て御意を得、品々御取持に預り候段、過分の至りに候、其節申述候通り我等儀公儀軽しめ申すと之あるにては之なく候へ共、一向の田舎育にて、事の辨なく、奥州辺の国風に任せ、私小兵を動し候段、今更恐入、後悔仕る外之なく候、去るに依て、蘆名領の義は申すに及ばず、本領米沢の城地ともに、今度差上申候間、宜御沙汰あられ、伊達の名跡相続の義に於ては、偏に其元の御取持に預り申度候、此段前以て御意を得べく候へ共、道中より病気、之に依り其義に能はず、先づ小十郎を以て申入候となり。景綱は、其口上を申終て後、封印したる箱二つを持出づ。一つの箱の封を切り、是は蘆名旧領の絵図目録帳面にて候とて、吉隆へ渡し、又箱一つ是は政宗、先祖より伝へたる米沢領絵図目録にて候と申し、封を切らんと致したるを、吉隆見て之を押え、其箱の義は先づ封印の儘にて、我等預かり置き申べくと之あり留置き、政宗へは、景綱を以つて御申越の趣、逐一承届け候、是より申承はるべく候、病気保養油断あられ間敷旨、返答に及び候となり、右の如く、政宗、降人となり、宇都宮へ参陣のこと、奥州筋所々へ聞え渡りたるに付、出羽、奥州にあるとあらゆる大小の武士ども、大に驚き、我も我もと宇都宮へ出勢致し、或は名代を以て音信物を送て、秀吉の機嫌を相伺ふ如く罷成りたるに付、秀吉は前後宇都宮城に逗留致されながら、奥羽両国悉く、手に入り申されしとなり。其後吉隆方より秀吉公御対面之あるに付、片倉を召連れ明早天登城致さるべくとのことに付、翌日に至り、政宗出仕の所、秀吉対面あり、其上岡江雪相伴にて、政宗、景綱へ料理賜はり、茶抔も相済み候、已後又秀吉前へ政宗を呼出され、吉隆、件の箱を持出、政宗前に差置く。秀吉申されけるは、蘆名旧領の地は召上げ候、其方持参り候、本領米沢の義も今度差上ぐると雖も、手前心入を以て返し与へ候條、相替はらず領地尤もなり、我等も追付帰京候條、早早帰り然るべきとて、首尾能く暇を賜はりたるに付、政宗其箱を押戴き、一礼を述尋ねければ、景綱曰く、黒川を始め、其外の城々の義も、悉く明け候て、城番の侍足軽、少々居残候までの義に候間、明日にも差上ぐべくと申たり。政宗は申すに及ばず、景綱も只尋常の者にては之なしと、其頃取沙汰せしとなり。

 十九年、葛西大崎一揆起る。蒲生氏郷討て之を平ぐ。政宗、右一揆の棟梁たりとの聞えあるにより、秀吉怒り、政宗の敵に交通せし書牒を以て、政宗を詰問せられしに、政宗陳して曰く、箇様の無実あるべきことを計り、某が判形の鶺鴒に心印を付け置きしが、謀書の判には、其印なし。其印と申は鶺鴒の眼を針にて突て瞳と成したり。此頃人の方へ遣はしたる書牒と引合はせ、御覧あるべしとの趣なり。然れども、氏郷より分明の注進あるにより、秀吉、政宗に上京あるべしとのことなり。此時政宗、金銀の上箔にて包みたる磔柱を行列の先に立て上京せり。是は政宗程の者が磔に掛らんに、並々の様にては口惜きとの用意なり。折節、秀吉、伏見の城を築き、其役を見て居られしが、政宗上り来るを聞き、是へ来るべしと言はる。政宗猶予せる気色もなく、秀吉の前に出ければ、秀吉、杖取直して、政宗の頭に押当て、其元上京せざるに於ては、斯の如くすべしと思へども、時刻移さず馳上りし上は、宥免するなりと言はれけり。

 文禄四年、関白秀次謀叛の聞えありし時、政宗も之に与みせしとの説あり。秀吉怒り、政宗の封を伊予に移す。政宗、伊達上野外一人を以て、徳川家康へ斯の如く仰付られたり。伊達家の浮沈此時に極りぬ。賢慮を仰ぎ奉るより外なしと請ふ。家康聞て両使に茶飯等を賜る。暫くありて、両使暇を告げ政宗嘸ぞ待遠に存候はん、疾く罷帰り御返事を申聞かせ度と存ずると申せば、家康大声にて己々が主の越前と曰ふ男は、当りは強き様に見ゆるが、腰の抜けたる男にて、後の弱き故に、左様には狼狽の付くことなり。四国へ行て魚の餌に成るがましか、爰にて死したるがましか能く分別あるべしと言へと、重ねて秀吉より催促の有る時の返事の様を、細々と示教ありて、両使は罷出る。追付家康、秀吉の所に至らる。又た秀吉より政宗へ使にて、昨日の請如何、早々予州へ下るべしとのことなり。此使政宗宿所へ参り見るに、門前に弓、鉄炮、鎗、長刀を帯したる者ひしと並居て、只々打出ん有様なり。御使あると聞て政宗は無刀にて出迎ひて、座に請じて、御使の旨を聞て涙をはらはらと流して申けるは、上様の御威勢程世に有り難きことは侍らず、人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙る程の不幸はなく候、今日こそ存なして候へ。某に於ては仮令此御不審を蒙りて首を刎られ候ても、異儀に及ぶべきや、況や国郡を下し賜はりて、所を替ふるとの義、何の子細か候うべき、なれども譜第の家僕等、何れも訴申候、何條数十代の御領を離れて、他国へ流浪することやあるべき、速に是にて腹を切られ、我々も一人も生きて所を去り渡すべき所存はあらずと申切て、平らに自害を勧め申に付、色々に理を尽し申聞かせ候へ共、家臣等一向に同心仕らず、各々御覧の通り、狼藉の至りなる様にて候、去れば偏に当時御勘当の身に罷成候へば、数十代の家人さへ、下知を用ひず忽諸に仕候こと、是非に及ばず候と述ぶ。其使罷帰りて、此旨を申せば、家康如何にも左様にこそ承り候へ、政宗一人の義に於ては、上意を違背候て、旧領を去り渡し奉らざるに於ては、某に仰付られ候はば、即時に彼旅宿へ押寄せ、踏み潰し候に、何の事か候べき。此度此所へ供仕りたる、千に足らざる小勢にてさへ、家臣ども左様の存切候へば、旧国に残り留りたる郎従等、国を退くべきことには得こそ申間敷候へ、彼郎従を追払ひ給ふべき賢慮さへ御座候はば、政宗に於ては某に仰付らるべきものか、然りと雖も、累代の所領を没収し給はらんこと、彼の郎従の愁訴仕候所も、不便に存奉り候へば、枉て此度は、御赦免もあるべきものかと申されしかば、秀吉、兎も角も家康が計らひ給ふに若くは候はじとありければ、国替のこと沙汰なくして、其事止み、其後勘当も免されしとぞ。

 秀吉、大なる猿を飼ひ、諸大名登城の時通る辺に繋置く。猿歯をむき飛掛りし時、諸人狼狽する体を、秀吉透見せられけり。政宗之を聞き、病と称し登城せず。猿引を百方手にいれ、密に猿を借り玄関に繋置き、政宗通りければ、猿歯をむき飛び掛らんとす。政宗策を以てしたたかに打すくめたり。斯く度々しければ、彼猿後には政宗を見て屏息す。斯の如く仕込み、猿を返せり。偖登城しければ、秀吉右の事は知らず、政宗様子如何と透見せられければ、政宗玄関を上る時、猿飛び掛らんとせしに、政宗はつたと睨みければ、彼猿萎縮して退きたり。秀吉、之を見て曲せ者めが、又先へ廻りたると言て、笑われしとぞ。

 秀吉、嘗て舟遊に出づ。政宗にも供すべきとのことなりけるに、遅参して、舟の出たる跡を来りけり。之に依り、馬引寄せ打乗て、只一騎舟に目を掛け、住吉の方へ乗行きけるに、秀吉見て、大方政宗なるべしと言はる。舟住吉にも着られず、又漕戻さるるに依て、政宗も又乗返し、着船せられし所に参りければ、秀吉只今の馬は政宗にてありつるか、武者振見事なり、定めて草臥たるべしとありて饅頭の入たる折を賜はりける。政宗頂戴して折を傾け、我着物の前を広げ、饅頭を移し、入れ包みて立退き、我内の者を呼び寄せて、上様より拝領申たるぞ、汝等も有難く存じ頂戴せよと言て、残らず与へたり。何れも其厚志に感ぜり。

 会津の役、政宗急ぎ本国に帰り、搦手より攻入るべき由の命を受け、大阪を打立ち、夜を日に継て馳下る。白川より白石に至りて、皆敵の中なれば、道塞りぬ。常陸を廻はりて岩城相馬を経て、国に帰らんとするに、相馬又累代の仇なり。然るに、政宗僅五十騎計り引具して常陸を経、岩城と相馬への境に至り、先づ相馬が許に使者を立て、此度徳川殿上杉を攻め給ふにより、政宗搦手に向ふべき由の仰を承はりけれども、路既に塞りし程に、漸漸此地に馳着きぬ。余りに早めて道を打し故、疲れ候、願くは城下に旅館を賜らばや、馬の足を休めて、明日国に帰り入らんと存ずると言はせたり。長門守義胤是を聞き、天晴運の尽きたることぞかし、去らぬだに、伊達は相馬が年頃の敵なり。況や味方を撃たんとて、一方の大将承はりたると言ふ者を、いで一と夜討して案内知らぬ奴原を一人も残らず討取て、年頃の仇に報い、又今度の賞にも預らばやとて、頓て仮家を出来迎入れ、人々を集めて夜討の評定したりけり。爰に水谷三郎兵衛進み出、末座の異見恐入て候へ共、既に詮議の座に連りて候へば、所存を残すべきにあらず、抑抑窮烏懷に入る時は、猟師も之を殺さずとこそ申候へ、政宗ほどの大将、年来の恨を捨てて君を頼み来りしを誑り、やみやみと撃んこと勇者の本意にあらず、長き弓箭の瑕瑾ならずや、又彼が国境駒ヶ峰に至らんに、行程僅に三里、今日、日未だ未の時に下らず、政宗が国に入らんとだに思はば、日夕ならざるに至るべし。夫に僅の勢にて止まること、深き慮なからんや、只此度は能きに、警固して国に返し、重ねて戦に臨ん日、勝敗を天運に任せらるべきやと申ければ、一座の人々皆此議に同じ、兵糧秣藁塩魚に至るまで、積置き、篝を焼て夜廻はりす。義胤が士共、政宗余りに静まり返りたる体こそ、心悪けれ、いざ試みんとて、夜深て後馬二匹取放ち、人々走散りて、以の外に騒罵る。政宗小童一人に燭持たせ、白き小袖を上に打掛け、左の手に刀を提げ立出、相馬殿の御人や候と言ふ。是に候とて行向へば、物音高く候、政宗が下人原狼藉候はんには、能く静めて賜はり候へとて、又内にぞ入りたりける。夜明れども、立も遣らず巳の刻計りになりて、義胤の許に使して一礼し、偖静に馬を打て行く、密に人を付て窺はしむるに、彼国の境駒ヶ峰のあなたに、伊達家の軍兵雲霞の如く、充々て出向ひぬ。斯くて関ヶ原の軍終て、相馬既に上杉に心合はせたれば亡ぶべきに極る。政宗訴申されしは、相馬は年頃政宗が敵なり、石田、上杉に与したるが、一定ならんには、政宗彼が為めに撃るべし。然るに君の仰承はりて馳下る由を聞て、深き恨を忘れ、新恩を施しき。彼が逆謀にあらざるの証に候はずや、又累代の弓箭の家、永く断んこと不便の至りと、度々嘆き申せしかば、本領を相馬に賜はりてけり。

 大阪冬役、政宗馬上にて城を巡見せし時、銃丸飛び来るに、覚えず、身を引きしを無念に思ひ、夫より歩行立になり、城の際へ行き堀を眺め入て銃丸繁く来る所に暫らく居て退けり。

 此役、和睦になりて諸大名皆閑暇なり。之に依り陣中出合咄に、何れの方にても景物の香合はせあり、其所に政宗参られければ幸なり、香御嗅あれとて勝負せり、何れも鞍泥障弓箭抔を景物に出すに、政宗は腰に付けたる瓢箪を出す。何れも笑き景物とて取る者なし。亭主の家来之を取て事済みぬ。偖政宗帰る時、乗来りし馬飾の儘にて、瓢箪から駒が出しなりとて、瓢箪取りし者に与へられたり。初め奥州の大将の景物とて笑ひし者、此時に至り羨みしとぞ。

 大阪夏役、陣触の時、政宗嘉例とて、仙台より七里出で宿す。其所へ行着く時分、火事出来たり。政宗日頃の山臥出立にて、貝を吹かせて、鬨の聲を揚げよとて、揚げさせ、目出度ことなり、我往前に火の手が揚りたりとて、機嫌能く、其次の在所に宿せりとぞ。

 夏役、大和口の大将は徳川上総介忠輝なりしに、臆して戦場をも見ず、政宗も先陣にて、其機を察せしにや、誰にても逆心の者あらんには、追掛け擊取り申べくと言ふ。聞く人早き見様なりと誉めり。其故は忠輝には、政宗の聟なりしかども、此時の様子を疑ひ、其跡に付くことを嫌ひてのことなりとぞ。

 此役、政宗手にて味方の神保を打亡したりとのことにて、咎めらる。政宗曰く、如何にも打取りたり。仔細は向より来る者は、敵の外にはあるまじと存じ、打取れと下知仕りたり、箇様の大軍には敵味方見分けられずと申ししとぞ。

 此役、政宗、家康に向ひ、今度の大軍の内に逆意の者之なく、御手柄結構なることなりと申す。家康此様なる勝軍の時は、敵は死にたれば、逆意の者も知れぬものなり、あるまじと思はれずとなり。政宗、如何にも上意の如くに候、我等抔の家来の内にも、若し逆心の者も之あるべく候へ共、御勝軍故、敵に口かなければ知れぬこともあるべく候、と答え申ししとぞ。

 此役、政宗、奈良に於て、足軽頭を集め、鳥銃を放たするに、加藤太が組下三百人計り放さず、政宗之を見て糺明あれば、道中にて火を持てば、火縄の弊あり、薬を足軽に預れば、路に溢れて、多く廃る故に、倹約を考へ、両品共に包みて小荷駄に付て跡より来る故、不図期に後れしと言ふ。政宗大いに怒り只吝嗇を本として、職分を忘るるは士の道にあらず、以後懲悪の為なりと言て、直ぐに斬て衆人に侚へり。

 耶蘇教盛りに天下に行はる。政宗、南蛮を征し、其根を抜んと欲し、向井将監忠勝に依り、幕府より篙師十人を借受け、支倉六右衛門、松本忠作、西九郎、田中太郎右衛門等を呂宋に遣はし、其形勢を窺視せしむ。支倉等年を経て呂宋王の書及び、奇貨珍宝を斎らして返る。且つ曰く、南蛮風俗柔脆なり。之を征せんには腐朽を挫くが如くならんと言ふ。政宗其志を成さんと欲す。時に耶蘇を禁ずるの令甚だ厳にして、政宗其志を遂ぐることを得ずして止めり。

 加藤清正、嘗て曰く、政宗、上方より、団助と曰ふ遊女を呼下だし、歌舞妓を興行したるが、内府の気色に相応したると側に聞きたり。其故は石田等が乱を事故なく平げられ、既に六十余州掌の内に入られたることなれば、政宗如き国持を始め、太刀も入らぬ太平の世と思ひ歌舞遊興のみにて、日月を暮せば、心元なきことなしと思はるるが故なりとて、殊の外称誉し、頓て清正にも歌舞妓を催せりとぞ。

 元和の初、将軍鷹場近辺にて、政宗にも鷹場を賜はりしが、或時政宗、将軍の鷹場へ密に入りて鳥三つ四つ合わせ、鶴を取りたる所へ、家康は引違て余多の人を召具し、鷹使ひながら参られしを、政宗周章狼狽、鷹も鳥も取隠くし、漸漸と遁去り、竹藪の陰に潜まり居る間、家康は馬を急がせ過られけり。其後登城の時、家康、先日は其元の鷹場へ鳥を盗みに入り込みたる所を、其方に見付けられ、はうはうに逃んとせしに、其方竹藪の陰に踞まり居たれば、態ざと見ぬふりしたると思ひ、息を限りと逃たりと言はれければ、政宗承はりて、左様のことに候べしや、某も其日は御鷹場へ盗み狩りに参りしに、御成の様子を見て、息をこらし隠くれ居たりと申ければ、家康大に笑はれ、其時互に斯くと知らば、逃ながらも、少しは息を休むべきものを、双方咎人なれば殊の外周章たりと、家康も、政宗も聲を発して笑ければ、伺公の輩も、皆々腹を抱たりとぞ。

 七年正月、政宗江戸の邸災に罹る。政宗、改築せんとす。諸老臣諫めて曰く、近歳の軍費少なからず、然るに、又土木のこと起る。若し一朝事あらば、如何せらるべしと。政宗曰く、是よりは四海無事なり、若し事あらば、幕府に請て其軍費を弁ぜん、或は敵を打ち、糧に敵に拠るに何のことかあらんとて、笑われけり。

 寛永四年二月、加藤嘉明会津に封ぜらる。是日政宗、殿中にて嘉明が子、明成に行き逢いしかば、足下父子に会津の地預け給ひたると承はる。会津は全く陸奥の鎮衛の地なれば、此老耄を能く防げとの御事なりや、足下父子の為に、容易は防ぎ留められまじと言て、大声を発して笑たり。明成、其聲の下より、老黄門、若し今の禄に倍して百二十万石をも領し給はば、今にても取掛け申すべきをと申けりとぞ。

 十二年正月、家光、政宗の邸に臨む。政宗には今日の亭主故、家光一と役と言はれしかば、畏り候とて、観世左吉に太鼓を持たせ、其跡に引続き、舞台に出て、役者と同く御前に向ひ拝せしかば、家光、大声にて誉めらる。階上階下に並居たる大小名も、均く声を揚げて褒めたり。政宗は暫らくの間、只座して小刀を抜き、爪を取りながら、観世左吉と物語りして居たるを見られ、前後箇様の役者は有間敷とのことにて、早や太鼓太鼓と言はれければ頓て太鼓を打始め、静に打すまし、果てて桴をからりと舞台へ投棄て、其儘仕手と脇師の間を会釈もなく押通り御前へ参り、ぬかづきしかば、偖々気味の能き役者よとて、人々褒めあえり。其時家光、偖も偖も聞及びたるよりも膽を潰したり。今より能き役者を見付け、大慶之に過ぎずとて、からからと笑はる。政宗拝謝して、先刻も太鼓の役にひたもの御意を伺ひ候、政宗ながら能くも仕り候様に覚候と申上げしに、役義終りて、早々舞台を下り、爰に出たる挙動感に堪ぬと言はれ、其後は打解けられたる物語にて、頻りに盃を重ねられ、何れも腹を抱て笑つぼに入られしとなり。又兼ねては御座の辺りさばかり抔盤狼藉として、山海珍羞を所狭く積み重ぬることなるべしと思ひしに、左もなく作り花付けし洲浜様の物二つ計りのみにて、最と手軽きこと是れと云、彼れと云、去りとは諸人感じ入りしとなり。

 政宗、嘗て江戸城にて酒井忠勝に行き逢ひ、讃岐守殿、相撲一番参ろうと言ふ。忠勝聞て、公用ありて只今御前を退きたり。重ねてのことに仕らんと辞退せしかど、政宗承引せず、忽ち組付ぬ。諸大名列座にて、政宗、忠勝の相撲なれば、晴れごとなり、時に井伊直孝進み出て、若州負け給ひては、御譜第の名折ならん、我等関相撲に出、陸奥守殿を投げ申さんに、手間は取るべからずと申けるが、忠勝は力量ある人なれば、政宗を大腰に掛けて投られける。政宗むくと起上り、御辺は思ひの外相撲功者哉、と言て誉めたり。又或時政宗、忠勝方に茶の客に行き、利休の茶杓を見、繰返し見て、此茶杓は埒もなき者なりと言てへし折られたり。忠勝も驚きしかども、戯の体にて、事済みたる。政宗帰邸の後、先刻は御茶賜はり忝き仕合に候、興に乗じ粗忽の義致し候、右代りに茶杓進上申とて、紹鴎の茶杓を贈られけり。

 政宗、名物の茶碗を見るとて、取落さんとせし時、心を動かせしかば、名器と言ひながら、無念のことなり。政宗一生驚くことなかりしに、此茶碗の価千貫目と曰ふに、心を奪はれて驚きたるは、口惜とありて其茶碗を庭石に打付け、微塵に碎き捨られたり。

 政宗、江戸城大広間の溜の間に在りし時、徳川頼房の臣、鈴木石見と曰ふ者、頼房の刀を持して、其座に在り。目を放たず政宗を見居る故政宗、不審に思ひ、石見に向ひ、其方我等に目を放さず見られ候、如何様のことに左程見られ候や、其方は何者ぞと問ければ、石見、我等事は聞きも及ばれ候べし、水戸殿の内に、鈴木石見とて隠れなき者にて候、御自分のこと、音には聞きしかど、見ることは今が始めなり。然れば、水戸は奥州の御先手にて、奥州に逆心をすべき者は、御自分より外になし。之に依て御自分の顔を能く見覚置き、若し逆心あらば、其方御首を取るべき為めに斯の如く見申候、水戸の内にて其方御首を取るべき者は、拙者ならではなしと答ければ、政宗大に感じ、我ならで奥州にて逆心者はなきと見られ候は、如何にも能き目利にて候と申され、偖何つ何日に参らるべしとて、則ち頼房にも、断わり申て、私邸に招き、自身給仕をして、殊の外、馳走し、終日顔を見せられしとぞ。

 政宗、内藤左馬助政長が方に招請にて往きし時、兼松又四郎も参りたり。政宗兼松が側を通るとて、袴の裾、兼松が膝を引けるに、怒て扇子にて政宗の袴の腰を打つ。人々打寄り色々取扱ひ、政宗に趣意なき上はとて、和睦の盃に成たり。其時政宗いで肴申さんとて、曾我を舞はれける。打て腹だに得るならば、打てや打てや犬坊と舞はれしとぞ。一座の人々、流石政宗なりと言あへり。

 政宗少しの病にても必薬を服し。或日物語に病気抔少しとて油断すること不覚悟なり、物事小事より大事は発るものなり、油断すべからずと言はれけり。

 政宗曰く、惣て武士は仕合はせ能き時は、領中家屋敷に至るまで、事の欠ざる様なれば宜し、何事にてもあれ、仕合はせ悪きことか、又国替屋敷替抔あらんには、陰々までも塵を置かぬ様に掃除し、家作を致し、領中の沙汰をも、弥弥言付け破れたる所は塗直して去るべし。夫は跡の批判を遁れん為めなり。武士の名を惜まぬは沙汰の限なり、父子兄弟の中にても、時移り代替る時は、他人よりも猶恥ヶ敷ものなりと。

 家光嗣ぎ立、年尚少なり、人皆徳川頼宣の異心あらんことを疑ふ。是に於て、政宗大臣巨室の者に命じ、其養士の多寡を算せしむ。蓋し用ふる所あらんとすればなり。一日頼宣を訪ひ、将に帰らんとする時、頼宣玄関まで送られしに、広間所々、座敷々々に家中の歴々伺公せしを見て、偖も偖も御家中衆に目を驚かしたり。是程の御人数を持たせらるれば、仮令如何様の大国へ御取掛けあるとも、御勝利疑ひ有間敷なり。然し万々一幕府へ御等閑の義之あるに於ては、箇様申年寄日頃国元に秘蔵仕置たる郎等共を召連れ、真先掛て、紀州へ押寄せ参るべくの間、左様御心得候へと言て、大に笑て去れり。此事府下に伝播し、疑ふ者皆釈けり。家光之を聞て、甚だ其志を称せり。

 政宗、少より老に至り、未だ嘗て横臥するを見ず、希に柱に靠り仮寝することあり、片時を空く過ごさず、常に手に巻を釈てず、性、強識、外臣商売と雖も、一見の後姓名風芥必ず失忘せず、政宗詩歌を好み、常に騒筵を設け、詞客を招く、僧虎渓、林信春などと唱酬せり。

 政宗嘗て江戸に赴く、千手を過ぐ。将軍家光、千手に狩りす。従者政宗に謂て曰く、今日将軍遊猟すと、請ふ疾く馳て其未だ至らざるに及ばんと。聴かず、故らに徐々として過ぐ。家光方に鷹を臂にし𨻫間に立ち、従臣未だに来り属せず、時に政宗輿に在り、見ざるまねして過ぐ。後ち家光に謁す。家光曰く、日者吾鷹を千手に放つ、卿何為知らざるまねして過ぐ、対て曰く、臣千手を過ぐる時、唯一男子、鷹を臂にするを見る。未だ嘗て、殿下を見ざるなり。家光曰く、是乃ち吾なり。政宗、偽り驚き、謝す。因て諫めて曰く、公、天下の重を任ぜられ、遊猟を好み給ひて、数々軽出し給ひ、警衛を須ひられず、臣恐くは一旦不測の変あらんことを、公の為めに之を危ぶむと。家光之を嘉納せり。

 政宗、老臣某と書院の作事出来して掃除する時、見物に出でしに、掃除人共椽下の塵を掃出すに、政宗立て居らるる故に、恐れて敢果取らず、某聲を掛けて念入れて掃くべし、何事も人の見ぬ所とて、粗略にするは悪きことなり、人の目の届かぬ所程、念入ること誠の奉公なれと言へり。其後、政宗、某を呼び、其方事国政を任せ置く所に、彼下賤なる者にも、人の見ぬ所程、念を入れよ抔言ふは、軽々敷ことなる、何事も政事の響きになることは明かならず、闇からぬこそ善けれと言はれければ、某大に感歎して、過を謝しけり。

 政宗恩顧の町人若狭に在り、佐渡屋某と曰ふ。或時政宗の許へ茶道、陸阿弥取次にて家隆の真蹟名歌百首の巻物を献ぜり。政宗甚だ重宝し、諸大名にも馳走に出さる。偖陸阿弥へ言はれけるは、斯の如き宜き道具は、何方にもあるべからず、右佐渡屋へは過分の礼謝あるべきとのことなり。陸阿弥誠に勝れたる御道具なり、佐渡屋は質物を取り候故、色々右の外にも宜き品を所持仕り居る由承はり候と申ければ、政宗大に驚き、今までは嘗て知らざることなり、価を以て買取りたるか、または持伝へたるを呉れたると思ひけるに、質物に取りたるとあれば、少し心掛りなり、汝より書簡を以て、右の巻物買主の名知れ居りしや、佐渡屋へ尋ぬべしと言はる。乃ち佐渡屋へ申し遣はしければ、若狭浪人今川求馬、近年困窮に及び、質物に入れ候ひしを、年限立し故、手に入りしを直ぐに奉りたる由なり。政宗、早速飛脚を以て金五両相副へ、今川求馬を尋ね差戻されけり。佐渡屋は如何なることにやありけんと迷惑しけれども、詮方なく陸阿弥まで密に尋ねければ、少しも心に挟むべからず、其方志は請け入れ給ひぬ。御道具になりて後、求馬には返されたる由申越す。斯くて後、諸大名の中にて、右の百首の物語出づれば、政宗、最初爾々の由にて手に入れ候へども、質物に取りたる物の由承りけるまま、我心に掛り、右の道具困窮にて質物に入れし者は、嘸々手放しては叶はぬ義理合もあるべきことなりと押返し承はり候へば、今川求馬と申浪人の家珍の由に付、不便に存じ、金子少し相副へ、差返したる由言はれければ、一座の人々大に感ぜられける。其後政宗へ礼謝お為め、求馬若狭より下りければ、逢はれて、念頃に挨拶あり、滞留中の料に二十人扶持を賜はる。此今川、南蛮流の外科を覚居たり。其上学力もありて、用に立つべき者なれば仕ふ間敷や否を問はしめけるに、固より恩に感ずることなれば、大に喜びて仕へけり。後勤労積みて足軽大将に経上りたり。政宗不思議の思慮にて、能き人を得られたりと、人皆言あへり。

 政宗、一日侍臣に語て曰く、小田原陣の時、某兎角小田原へ上り、太閤へ帰服せんと言ふ。家老共何んの御気遣かあらん、そこそこへ人数を出だして守り防がば、太閤を容易く寄せさせ間敷と言ふ。否々太閤は只者にてなし、降参の志を見せんとて打立つ、然らば多勢にて然るべくと言つれども、僅に十騎計にて、早速上り酒匂に一宿し、供の者を大方残し置き、金襴の具足羽織を着し、太閤の御前近く出たり。取次は富田左近なり、左近腰の物を是へ給はれと言ふ。何ぞ侍に刀脇差を脱けとはとて聞入れずして進む。太閤は床几に腰掛けておはせしが、某を遙に見て、伊達殿上られたるか、是へとなり。其時其儘刀脇差を傍へ投棄て往く。太閤否苦しからずとて、某が手を御取り、偖も奇特に参られたりとて、指当る咄抔ありて、奥州の事心元なし、早く帰られよとて、暇を賜はる。忝しとて早速酒匂へ帰て、帰国せしなり、是一つ。秀次公御生害の時、某を太閤御疑ありしに、十騎計りにて上る枚方へ石田、富田、施薬院三人御使にて来り、其方は秀次公と別て親しきこと隠れなきに依て、委細を尋ねよとの御事なりと言ふ。某申は、如何にも秀次公と親しきなり、太閤の御発明にて、御目鑑違たる故か、箇様成らせらるる秀次公に、天下を御譲り関白までに任ぜられたれば、吾等が片目にて見損じたるは道理と存ずる。其上万事を秀次公へ仰付られて、御隠居とあるからはと存て、折角秀次公へ取入りたり。若し之を咎め思召さば、是非なきなり、私が頸を刎られよ、本望なりと言ふ。施薬院、左様には申上られまじ、何にとぞにべもあらんやと言ふ。某施薬院をはたと睨み、其方は病人のことこそ功者にてあらん、武士道のことは知るまじ、有の儘に申上げよと言ふ。其故三人共に返りしが、翌日富田左近方より、明日山里にて御茶下さるべきとの御意と申越に付、只二騎召連れ、大阪へ行く。左近方より案内者とて侍一人来るを連れて城中へ行く。案内者何れへか行て見えず、只一人森の中に在り、定めて爰にて打殺さんとなるべし、それも儘よと思うてありしに、茶童の様なる者来りて、刀脇差を所望す、なんの侍に刀脇差をおこせとはとて、聞入れぬ体にて居たる所に、太閤来り給ひ、和尚出られたるかとて、殊の外御機嫌なり、そこにて刀脇差を投棄てて御傍へよりて、直ぐに御供致す、御茶賜はりて後、奥州の事心元なしと暇を賜ふ、是二つ。家光公へ御茶を上ぐべしと仰付られし時、御勝手へ佐久間将監御茶入の箱に入りたるを持参して、是を政宗に下さるの間、之にて御茶上ぐべくとの御意と言ふ。某先づ能く候とて、将監方へ押戻どす、将監再三言へども、弥弥受けず、此由を将監言上す。家光公尤もなり、そこに置けと御意成されたる由なり。後御直に御袂の内より木葉猿と曰ふ御茶入を出だし賜はる。其御手より直に拝領して、偖々忝き御事なりとて、謹みて頂戴し、先刻将監御意の由にて、何やらん持参仕りたれども、御道具を御台所の畳の上にて拝領せんは、恐多くて、先づ頂戴致さずありしと申上る。家光公、殊の外御感の体なりし、是三つ。吾等あなたこなたにて少々功ありしことども、人口にありと雖も、左程のことと思へず、右の三つは大事の場にてありしに、某所存を究めて思ふ儘に致し、利を得たり。惣じて大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが善しと言はれけり。

 寛永の頃、幕府にて、政宗は歴世の宿将なればとて、優待並々ならず、恩遇頻りにて、屡々召されて茶を賜はり、又は酒宴に預りけるが、政宗は老年に似合はしからざる大脇差を好みけるが、家光の前にては、何つも其脇差を脱して進みけるを見られ老年のこと故、苦しからねば、此後は脇差を帯したる儘進むべし、汝は如何様なる心あるやらん、知らねども、予は政宗のこと少しも、気遣には思はず、脇差差して出でずば、盃をば遣らず、と戯られしかば、政宗、感涙を止めあへず、是まで御両代の間、政宗、不肖ながら身命を抛て汗馬の労を致せしことは、身に覚あれど、今の上様には、何にもさせる忠勤箇間敷こと少しも申上げず。然るを御代々の御余恩と、老臣が残喘の衰態を愍ませ給ひ、斯くまで有り難き御恩遇を蒙ること、死すとも忘るべからずとて、其日は殊更大に酩酊し、前後も知らず御前にて鼾かきて熟睡したる間、側に脱置きし彼大脇差を近習の輩密に抜きて見れば、中身を木刀にて造りありしとぞ。

 征韓の役、政宗一梅を載せて帰り、之を後園に栽ゑ詩を賦し、其事を、紀す。『絶海行軍帰国日。鐵衣袖裏□*1芳芽。風流千古余清操。幾歳閑看異域花』又醉余口号。『馬上少年過。世平白髪多。残躯天所許。不楽復如何。』

 政宗、狀貌魁偉、人となり胆略あり、弓馬の道に長ぜしのみならず、又敷島の道にも長ぜり。年内立春と云題、『年の内に、今日立つ春の、しるしとて、軒端に近き、鶯の声。』又八月十五夜松島にて、『心なき、身にだに月を、松島や、秋の最中の、夕暮の空。』又武蔵野月、『出るより、入る山の端は、いづくぞと、月にとはまし、武蔵野の原。』題又知らず、『山深み、中々友と、なりにけり、小夜深け方の、ふくろふの声。』又関の雪、『ささずとも、誰かは越えん、逢坂の、関の戸埋む、夜半の白雪、』後水尾法皇、集外歌仙を撰み給ひし時、此の関の戸の歌を入れさせ給ひしとぞ。

*1:つつむ