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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

湯浅常山『常山紀談』政宗関係記事

『常山紀談』とは

江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文25巻、拾遺4巻、それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」1巻よりなっている。著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『常山紀談』は江戸中期に成立した逸話集で、名将言行録のもとになっている部分も多々あるようです。有名武将の有名な逸話はこれ発信みたいなものも多いです。
現代語訳はいろいろなところで見られるので、政宗関係の原文のみあげておきます。
『名将言行録』同様、政宗言行録系に載っていないこと、特に政宗の情けない逸話なども載っておりまして(笑)、おもしろいです。

原文

「伊達家の士卒異風出陣の事」

朝鮮を伐るる時、関東の諸将も兵を出さる。伊達政宗は遠国たる故に、騎兵三十騎鉄炮百挺鎗百本と軍配を定められけるに千計の士卒を引具し、天正十九年正月八日岩出山を打立、二月十三日京に著く。小西加藤は先陣たり。岐阜中納言秀信を始として関東の諸将師を出さる。其道は聚楽より戻橋を大宮に押通る。政宗の旗三十本紺地に金の丸付たる具足著て、弓鉄炮の者も同じ出立に銀ののし付の刀脇差、金のとがり笠をかぶり、馬上三十人黒ほろに金の半月の出し豹の皮、又は孔雀の尾、熊の皮いろいろの馬甲かけ、金ののし付の刀脇差あたりもかがやく計なる。仲にも遠藤文七郎、原田左馬介ははき添に木太刀を一丈計に作り帯たりしが、鞘尻のさがりければ、金具を真中に設けて糸を結び肩にかけて馬に乗たりけり。見物の群衆政宗の軍兵押通る時目を驚かす出立なれば、一同にをめきとよめきけるとぞ。
 明の援兵朝鮮に来り、平壌に有て練光亭より日本の兵を望みしに、江上に往来する者大剣を荷ふ。日光下り射て電の如し。是は真の剣にあらず。白蝋を沃ぎたる物なりといふ事、懲毖録にしるせしは、伊達家の二士の木剣の事にや。

「氏郷伊達家の刺客を免されし事」

伊達政宗、蒲生氏郷の威に壓るる事を心中に深く憤りて、氏郷を殺すべき事を思案して、数代家に仕へし者の子に、清十郎といへる十六歳に成ける者、容貌勝れて艶なりしに、密にたくめる事を語り聞せ、田丸中務少輔が児小姓にだして奉公させられけり。田丸は氏郷と姻家の親しみあれば、来られん時便を伺ひて刺殺せ、との事なり。清十郎が父の方へ遣はしける書を関所にて改め見しより事起りて、其謀の泄たりしかば、清十郎を獄に押入、此事を秀吉に告るといへども、秀吉遠く慮りて強て伊達家と和平せさせられぬ。氏郷、清十郎を呼出し、吾過ちて罪なき義士を獄に入れ辱を与へたるよ。其君の為に命を捨て忠をいたす、賞するに余り有り。とくとく伊達家に帰るべし、と礼儀正しくもてなして帰されけり。
 記せし書に清十郎が姓をもらしぬ。をしき事なり。

「黒塚の歌の事」

(前略)〜又安立郡に川あり、向うに黒塚あり。安立は氏郷の領地なりしに、黒塚は伊達政宗の領地なりとて争のありしに、氏郷、平道盛の歌に、
 みちのくの安立が原の黒塚におにこもれりといふはまことか
とよめる事有り。いかに、と申されしに、聞く人、黒塚は安立が原に属したる事分明なり、とて政宗争ひをやめてけり。

「伊達政宗膽気相馬の城下に宿せられし事」

同じ時、伊達左京大夫政宗は急ぎ本国に帰り、からめ手より攻め入るべきよし仰せを承り、大坂を打つ立ち夜を日につぎて馳下る。白川より白石まで皆かたきの中なれば道ふさがりぬ。常陸国を廻りて岩城相馬にさしかかって国に帰らんとするに、相馬また累代の仇なり。然るに政宗僅に五十騎ばかり引具して常州を経、岩城と相馬の境に到り、先相馬が許に使をたて、此の度徳川殿上杉を征伐し給ふにより、政宗からめ手より向ふべきよしの仰せを承りぬ。路既に塞り候ひしほどに、やうやう此の地に馳著ぬ。あまりにはやめて道をうちしゆえ疲れ候。願はくは城下に旅館をたまはらばや。馬の足休めて明日国に帰り入らんと存ず、といはせたり。相馬長門守義胤これを聞き、あつぱれ運の尽たる事ぞかし。さらぬだに伊達は相馬が年比のかたきなり。ましてや味方討ん一方の大将承りたるといふものを、いでいで今宵一夜打して、案内知ぬ奴原を一人も残らず討取て年比の仇に報い、又今度の賞にも預らばや、とてやがて民家をしつらひて迎へ入れ、人々集めて夜討の評定したりけり。爰に水谷三郎兵衛といふ者、はるかの末座に候ひけるが進み出、末座の異見恐入って候へども、既に詮議の座に連りて候へば、所存を残すべきにあらず。抑窮鳥懐に入る時は、猟者もこれを殺さずとこそ申候へ。政宗ほどの大将年来の恨をすてて君を頼みて来りしを、たばかりてやみやみと討れん事勇者の本意にあらず。長き弓矢の瑕瑾ならずや。又彼が国境駒が峯に至らんに行程僅に三里、けふ日未だ未の時にさがらず。政宗が国に入らんとだに思はば日夕ならざるには至るべし。それに僅の勢にて止る事深き慮なからざらんや。只此の度はよきに警固して国に返し、重ねて戦ひに臨ん日、勝敗を天運にまかせらるべきにや、と申ければ、一座の人々此の議に同じ、兵糧秣わら塩魚に至るまでつみ置、かぶりを焼て夜廻りす。義胤が士ども、政宗あまりにしづまりかへりたる体こそ心にくけれ。いざ試ん、とて夜ふけて後、馬二匹とりはなち、人々走りちりて以の外にさわぎののしる。政宗小童一人に燭持たせ、白き小袖を上に打かけ、左の手に刀を提て立出、相馬殿の御ン人や候、といふ。是に候、とて行向へば、物音高く候。政宗が下人原狼藉候はんには、よくしづめて給はり候へ、とて又内にぞ入たりける。夜明れども立ちもやらず。巳の時ばかりに成て、義胤の許に使して一礼し、さてしづめて馬を打って行く。ひそかに人を付て窺はしむるに、かの国の境駒が峯のあなたに、伊達家の軍兵雲霞の如くみちみちて出むかへぬ。かくて関が原の事終りて、相馬すでに上杉に心合せたれば亡ぶべきに極る。政宗訴へ申されしは、相馬は年比政宗がかたきなり。石田、上杉に与したるが一定ならんには、政宗彼が為に討たるべし。然るに君の仰せ承りて馳下るよしを聞て、深き恨をわすれ新恩を施しき。彼が逆謀に非るの証に候はずや。又累代の弓矢の家永く断ん事不便の至りなり、と度々なげき申されしかば、後には本領を相馬に賜はりけるとぞ聞えし。

「伊達上杉陸奥国松川合戦の事」

慶長六年四月、伊達政宗奥州景勝の地を斬取んと、百姓を間者にしておこたりを伺れたり。松川は阿武隈川の枝川にて、伊達領の境なれば、本條出羽守、甘糟備後、岩井備中、杉原常陸、栗生美濃、岡野左内、五千計にて守りけり。政宗は国見峠を踰、信夫郡より瀬の上の川を渉り、五千の兵にて梁川の城を押へ、松川をさして押し寄する。物聞ども斯と告れば、本條出羽、城を出、川を渡してや戦ふ、川を前にして半途をや打ん、といふ処に、松木内匠、敵不意の利を謀て押寄せ候に、味方川を渡りて待ちかけなば、政宗思ひしにたがひて必ず引退くべきなり。川を渉らんこそよかりなめ、といふに、栗生同心せず。此の川中窪にて極めて渡す事たやすからず。政宗わたらんところを半途を打つに利あらん。岡野、いやいや敵大軍なり。爰に待んは敵を恐るるに似たり。勇士の志にあらず。とく川を渡して待設せん、と云ふ。栗生、孫子に少を以て衆に合ふこれを北と曰ふといふことあり。小勢にて無謀の軍せんは、大敵の擒とならんは必定なり、といふ処に、甘糟備後、杉原常陸もはせ来り、まづ物見を出せ、とて、猪俣主膳、本庄段右衛門、井筒小隼人、乗行きて馳帰る。猪俣は、政宗川を渉らじ、といふ。二人は政宗川を渡さん事半時計もやあらん、といふ。子細を問に、猪俣、敵馬の沓を取ず障泥をはづさず。羽壺を常の如く附けたり、といふ。井筒、本庄が云、我等見し所も同く候。されども政宗いまだ来らず。其の間五六町計もや候らん。政宗川際い押寄せて其の支度せんに、何の時刻を移すべき。且小荷駄を遠く引退たれば、戦ひを持ちたる敵なり。政宗二万の軍兵を帥て寄来り、空しく引返すやうや候、といふ。さらば川端二町計置て陣を整へて敵を待ん、といふ所に、岡野は切支丹を信ずる人なるが、南蛮人の贈りける角栄螺といふ冑を著、真先かけて川を打渉す。栗生、甘糟、川を渡るべからず、と下知すれども、布施次郎左衛門、北川図書、小田切所左衛門等二十騎計、真しぐらに川に乗入り打渡す。宇佐美民部鎗を横たへ、残る兵をば押しとめてけり。かかれば政宗押来り、先陣片倉小十郎透間もなく切ってかかる。岡野四百計真丸になりて鎗を打ち入れ、面もふらずをめきさけんで戦ひけれども、大軍に取かこまれ、左内僅に打ちなされ、切りぬけて引退く。北川馬の首を立直し小田切に向て、唯今討死せん。会津に残し候十四なる吾子をたのみ申すよ。是をかたみに送りてたまはり候へ、とて猩々皮の羽折を脱で小田切に渡しければ、小田切、若万死に一生を得候ならばたしかに送り候べし、とて羽折を腰にはさみけり。北川、今は思ひ置く事なし、とて追ひくる敵の中にかけ入て切死にしたりけり。是をはじめとして帰し合せ、火を散して戦ひけるが、討たるる者多し。政宗勇み進んで追かけられしに、岡野猩々皮の羽折著て鹿毛なる馬に乗り、支へ戦ひけるを、政宗、馬をかけ寄せ二タ刀切る。岡野ふり顧て、政宗の冑の真向より鞍の前輪をかけて切り付け、かへす太刀に冑のしころを半かけて斫はらふ。政宗刀を打折てければ、岡野すかさず右の膝口に切付けたり。政宗の馬飛退てければ、岡野、政宗の物具以ての外見苦しかりし故、大将とは思ひもよらず。続いて追詰ざりしが、後に政宗なりと聞きて、今一太刀にて討ち取るべきに、とて大に悔みけるとなり。岡野は川へ乗入たるに、政宗、又十騎計にて追かけ来り、きたなし返せ、と呼はりければ、岡野ふりかえりて、眼の明きたる剛の者は多勢の中へかへさぬものぞ、といひて岸に馬を乗上たり。宇佐美兵左衛門十六歳、松川の向ひの岸にて危く見えしかば、父の民部馬を川に打ち入れたり。栗生、いかに先には川を渉る者を止められしが、何事に渡され候や。名将の宇佐美駿河守の子息にはいかに、と問ふ。民部、謀も心より出候。あれ見られよ。一子の兵左衛門向の岸にてはやううたれぬべく見ゆれば、心の乱れたるぞや、といひも終らず川を渉り、打連て引返す。栗生は陣を整へて待かけたれば、片倉が軍兵を追崩し川に追ひたす。されども大軍見る内に重り攻め寄せしかば、上杉勢は福島をさして引退く。福島に至て行程いなか道十八里なりといへり。政宗、いづくまでもあますな、と馬煙を立てて追かけしかば、物具を道に捨る事数を知らず。息きれて行倒れたる者もあり。持鎗の長き柄はもち堪がたくて、多くは捨けるとぞ。青木新兵衛、永井善左衛門を始として、大剛の者ども馬を返しては追ちらし、とって返しては突はらひ後殿しけり。青木は小丈なる馬に乗、柄の短き鎗なりし故、殊に乗さがり幾度となく支え戦ひけり。甘糟備後は上杉家にて勝れし勇将なるが、白石の城を守りしに、会津に行きたりし跡にて、登坂逆心して白石を敵に取られし事を口惜く思ひしかば、今日とりわきて引さがり、取てかへして追退け、勇気をあらはしけり。福島の城下の川を渡る時、政宗の兵弥追詰て、われ先にと川に打入れたるが、永井を後より三刀切る。永井度々の軍に戦ひ疲れ、大軍打渡す川音にまぎれ此れをしらず。青木は鳥毛の棒の出しにて黒きほろかけたるが、乗寄て敵を追払ひ、川岸に打ちあがりて永井に斯といへば、驚きて従者に見すれば、ほろに三刀、鞍にも刀の痕あり。永井、けふは助けられし、とて一礼をぞ述たりける。小田切も敵に取囲れ、あはや討たれぬと見えしを、青木又かけ寄せて敵を追ひ払ふ。岡野は旗おし立て静に福島の城に入、甘糟、栗生も引入りければ、政宗やがて押寄たるに、殿の兵ども、柵をこえて城に入たりしに、青木は柵を越かねて只一騎ひかへ居たる所に、政宗馬を駈寄たり。青木十文字の鎗にて政宗の冑の立物三日月を突折しかば、政宗馬に諸鐙を合せてかけ通られぬ。青木後に政宗と聞て、今一と鎗にて突殺すべきに、口惜き事よ、とぞいひける。斯るところに梁川の城より須田大炊助長義討って出、政宗の兵阿武隈川を前に陣しけるが、此の川奥州第一の大河なれども、須田はよく地の利をしり、兵を二陣にわかち、須田は川上に打上りけるを見て、政宗の兵二ツに分れて防がんと色めく所を、一文字に渡して斬かかる。敵敗北しければ物具を始め多く分捕にせし中にも、伊達家に伝へし幕を、須田宇平次、中村仙右衛門奪取てけり。須田今年二十三、これより武名殊に世に高く聞えけり。政宗は松川にて、後に敵出たりと聞き引退く処を、本庄越前又かけ出て川を渡し追かけければ、政宗敗北し、信夫山に掛りて引き退く時、景勝後巻に打出て紺地に日の丸の旗山の上に見えしかば、政宗とる物もとりあへず仙台に引返されけり。後に政宗使を以て、攻取たる白石の城を幕と取換ん、と云送られしかば、景勝聞て、白石の城は鋒にて攻とられ候。幕も亦吾士卒の骨折て取得候へば、重て幕をも鋒にて取返されよ、と答えへられし後、小城一ツ攻落されしは恥にあらず。昔より名将も城を敵に攻落とされし事なきにあらず。武具を取られし事は弓矢とる身の大なる恥なれば、政宗我をたばかりて斯云しなり、と笑はれけり。台徳院伝上杉の館に御ン出有りし時、かの九曜の幕法華経の幕を厩にうたれしとぞ。其の後政宗、岡野に逢たりし時、松川の軍の有様語り出して、汝を斬つるはわすれじ物を、といはれしかば、岡野、大将の刀の跡と存候て、金糸にて縫あはせ、家の宝とせんと存るよしいひて、羽折を政宗に見せければ、政宗悦ばる。其の時岡野、冑のしころを吹返しかけてなぐり切にしたりき、と申しければ、政宗色を変じ、物語を止られしとかや。

「大坂夏御陣真田左衛門佐幸村勇戦の事」

大坂夏御陣、五月五日のあさ真田左衛門佐幸村が物見馳帰りて、旗三四十本、人衆二三萬計国府越より此方へ越来り候、と告。是伊達陸奥守政宗の軍勢なり。真田が士卒、すはや此陣を押出し給ふか、と勇む気色なり。されども障子に靠、片膝を立て居たりしが、静に答て、左あらん、と計にて他に言ばを出さず。午の刻ばかりまた物見馳来り、今朝のとは旗色かはり候が二三本見え、人数二万計、松かげ故不分明候が、龍田越を押下候、と告。是松平上総守忠輝なり。幸村虚見眠して居けるが目を開き、よしよし如何程もこさせよ。一所に集て討とらば心地よからんものを、とて是に取合ぬ有さまなりければ、皆早りたる心も悄静りぬ。是大敵を恐れしめず、味方を騒がしめざるとのことなるべし。夕炊然てのち、此備所は戦ふに便なし。いざ敵近く寄らん、とて一万五千余正奇を乱さず、前後を混じらず、■*1歩次第をととのへ押出せば、敵仮令十倍なりとも恐るるにたらずと思はれける。其夜道明寺表に陣をとり、明れば六日の早旦野村辺に至り、渡辺内蔵助糺は幸村に先達て、水野日向守とたたかふ。糺は勝茂を切靡ること五六十歩、勝成又守返して糺を衝退る。互に刀闘三度に及で糺は深手を蒙り、脇に備を引取、そなへを立直し、幸村へ使を以て、只今の迫合に疵を蒙候故、御人数駈引の妨と存脇に引取候。且横を討んとする勢を見せ候へば、味方の一助たらんか、と申遣す。幸村、御働目を驚候。是より我等受取候、と答ふ。備を進むれば政宗の多勢蒐りきたる。野の地形、前後は岡にて上平なり。中間十町ばかりひきくして、道左右田疇に連れり。幸村已に兵を前んとするとき、令を下して冑を著せず、鑓を取せず、馬の傍にひき添せて、下知せんときを待せたり。敵合十町計になりければ、幸村使番を以て、冑を著せよ、と云。爰に於て皆持せ置たる冑を取て打著、忍の緒をしめたりければ、勇勢新に加り、兵気ますます盛なり。敵合已に一町計にならんと思ふとき、幸村又使番を以て、鑓を取れ、といふ。諸士手手に鑓を取て穂先を敵方に差向たれば、面々いかなる堅陣剛敵なりとも打碎かん、と別に魂を入たるがごとし。此とき幸村が先手半過、岡の上に押上たる処に、政宗の騎馬鉄炮八百挺を、先手より一二町も前で一同に打立けるに、鉛子の飛は霰のごとく、火薬光電に似たり。煙は忽雲霞となりて丈尺の間も見えわかず。幸村先手の士混々と打斃されて、死傷するもの多かりしかども、一足も退心のなかりしが、冑を著鑓を取たる気勢の壮なるが故なり。幸村煙の中より、先手に爰をこらへよ、大事の場ぞ。片足も引ば全く没べしと下知する声耳に徹し、鑓の柄をにぎり、平伏になりてこたへたり。幸村下知して、炮声の絶間に十四五間ほどづつ走行居敷、炮声の絶間にまた斯くのごとくす。このとき、幸村が鑓さきより一尺進みたるものあらば、今日第一の功とせん、と言しに、一人も此先に出るものなし。政宗の騎馬鉄炮といふは、伊達家の士の二男三男、壮力のものを択て、本より仙台は馬所なり、駿足を勝りのせ、奥州にて所々の戦に馬上より鉄炮一放と定て打するに、中らぬ玉は希なり。打立られて備乱るる処を、煙の下より直に乗込で駈散すに、馬蹄に蹂躙せられて、敵敗潰せずと云ことなし。此とき騎馬鉄炮の士馬を入んと駈寄けれども、幸村の先鋒近々と備へて折敷たりと見て漂ふ所に、煙も稍薄くなれば、幸村此しほ合をや計けん、大音上再拝を振て、蒐れ、と言ふ。言の下よりみな起立て直に突かかり、政宗の先手七八町追崩せり。水野日向宗勝成、政宗をすすんで復戦はしむ。政宗、我軍労れたり。戦今日に限るべからず、とて従はず。勝成また忠輝を勇けれども果たさず。勝成は小勢なれば独たたかふこと能はずして止ぬ。幸村未の刻迄合戦を待居たりしが、夫より繰引に引とれり。其体粛然として追討こと能はず、慕はば却って彼為に挫らるべし。東軍の諸隊見るもの感賞せり。

*1:馬偏に歩く