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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『正宗公軍記』1-3:青木修理御味方仕り、塩の松、御手に入り候事

『正宗公軍記』1-3:青木修理が味方になり、塩松が手に入ったこと

原文

天正十三乙酉七月初に、米沢へ、拙者、使を上げ候て、猪苗代の儀、相違仕り候て迷惑に存候。会津に御敵は御座なく候間、大内備前を御退治なされ然るべく候。御尤に思召され候はば、備前家中の内、迷惑致候者、御奉公仕候様に、一両人も申合すべく候。如何之あるべき由申上候へば、御意には、会津に御敵は之なく、御馬を収められ候事、口惜く思召され候。此上は、塩の松へ御出馬と思召され候。尤も御忠節仕り候者、遣すべき由、猶以て然るべき儀に候の間、早々才覚申すべき由、仰下され候間、元来、塩の松より罷り出で候大内蔵人・石井源四郎と申す者御座候。此両人に申付け、刈松田の城主青木修理と申す者の所へ、申遣し候へば、尤も御味方仕るべき由、合点致し候て、知行など望み申候故、御判形相調へ差越し候。大内備前、田村境の城主よりは、久しく人質取り申され候。正宗公御意に背き候ては、塩の松中残なく、城主共より証人取り申候。彼の青木修理も、十六に罷成候弟新太郎と申す者は、頃日の青木掃部の事にて候。五歳に罷成候子供を差添へ、両人小浜へ証人に相渡し申候。修理存じ候様には、米沢御奉公仕候へば、彼の人質相捨て候事、迷惑に存候。証人替へ申したく存候て、大内備前家老の子中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内次郎吉と申す者三人へ、状を越し、只今追鳥の時分に候間、慰に罷越し然るべき由申遣す。何れも若き者共故、以後の分別も之なく、八月五日の晩、刈松田へ罷越し、六日の朝追鳥を仕り、帷子十四五取り、料理候て、夜半時分まで大酒を仕り候所に、青木修理申す事には、何れも御酒に酔ひ候の間、過もあぶなく候。刀・脇差を渡し候へと申し候へば、三人の者共、少しも苦しからざる由申候へども、修理は底意御座なく*1候。殊に下戸にて、御酒は給べずと、無理に脇差・刀を取り、長持へ入れ、三人の者沈酔致し、臥し候て、覚えず夜を明し候。修理は、内証へ家中十人計り呼び、具足を着せ、三人臥し候所へ押懸け、起し候て、修理申す分には、大内備前殿への恨の儀候て、逆心仕り、米沢へ御奉公申候。御存じの如く、弟新太郎並びに子供、小浜に人質に置き申候間、証人替に申したく候。命の儀は、御気遣あるまじく候由、申理り候。三人の者共、相果てたき由、申上候へども、刀・脇差を取られ、仕るべき様之なく、絆を打たれ刈松田に居り候。其日に修理、小浜に向つて、火の手を揚げ手切仕候て、我等処へ註進申候の間、則ち米沢へ飛脚を以て申上げ候。御出馬迄*2は遅き由、御意なされ、小梁川泥蟠・白石若狭・原田左馬之助・浜田伊豆差越され候條、我等右四人の衆、同心致し罷越し、刈松田近所飯野に在陣致し、我等はたつこ山と申す所に在陣仕り候。正宗公、十二日に福島に御出馬なされ候。青木修理に、成実使を差添へ、福島へ上げ申候て、則ち御目見仕らせ候所に、今度御忠節の儀、御大慶の由にて、御腰物下され候。其上、塩の松の絵図を仕上げ申すべき由仰付けられ、昼書を宿へ差越され候に付いて、大方、書立て上げ申候へば、絵図を御披見なされ、刈松田近所より、御働なさるべき由、思召され候所に、田村より御手を越され、今度は清顕公と御同陣なさるべく候由、仰合され候間、小手森へ御働なさるべき由、仰せられ候間、川俣へ御馬を移され、御働前に、清顕公へ蕨平と申す所にて、御対面なされ候。小手森へ廿三日に御働なさるべく候由、仰合され候へども、大雨にて相延べ、廿四日に小手森へ御働き候所に、小浜の火勢、会津・仙道・二本松の人数、小手森近所迄助け来る。小手森へは、大内備前自身に籠り、城中堅固に見え候。近々と相働かれ候へども、内より一人も出でず、城中多人数に見え候間、此方よりなされ*3懸るべき様も御座なく、押上げられ候所、後陣の衆へ、内より人数を出し、合戦仕懸け候間、総人数打返され合戦御座候。会津助の勢も打上げ、城中より申合すと見え、両口より合戦仕懸け、助の衆は二本松先手にて候。田村衆は東より、伊達衆は北より働き候。其間に大山候て、田村衆は合戦に用立たず候。然る所に、正宗公、御不断鉄砲五百挺程召連れられ、東の山添より押切り候様に、横合に御懸りなされ候間、城中より出づる人数敗北候故、矢来口へ押入り、頭五十余討たれ候。多くも討たせらるべく候へども、小口へ入らず、南へ逃げ候列*4は、二本松衆との合戦候間、追過候へば、助の衆押切られ候條、追留め候て少々討たせられ候。大内は其夜に小浜へ帰る。其夜は五里ほど引上げられ、御野陣なされ候。夜懸も之あるべきかと、辻々芝見を差置かれ候へども、何事なく候。廿五日に押詰め御働きなされ候へども、城中より一人も出合はず。会津衆も助け来り候へども、なる*5くきと申す所に相備へ、下へは打下げず、通路は城中へ候へども、人数たる人は参らず候。其日は何事もなされず打上げられ候。又野陣へ少し御寄り候。左様に候へども、田村衆と出会ひ候事ならず候。六日又、御働きなされ候へども、内より出でず候間、内の様子御覧なされ候為めに、鉄砲御懸け然るべき由、片倉小十郎申上げ候に付いて、七八百挺程、内の横追へ御懸りなされ候へども、城中堅固に持ち候間打上げられ、又御野陣へ少し御寄りなされ候。拙者申上候は、明日は南の竹屋敷へ越し、通路を留め申すべき由、総陣へ相告げられ然るべき由、申上候へば、御意には、左様に候はば、助の人数打下げ妨ぐべき由、思召され候。左様に候はば、城中よりも出づべく候間、両口の合戦は、如何たるべき由仰せられ候。又申上候は、左様に候とも苦しからず候。竹屋敷へ、陣を移し候へば、田村衆も出会ひ候間、城中より定めて私陣所へ懸り申すべき條、田村衆も拙者に相任せらるべく候。助の人数とは、総御人数を以て、御合戦なさるべく候。両口の御合戦に候とも、御気遣之あるまじく候。其上、助の衆打上げ候地形も切所に候間、合戦仕りにくく之あるべく候。一昨日も城中へ押込まれ候二本松衆の合戦、強く仕懸申さるべく候へども、御気遣か引上げ申され候う由、申上候へば、原田休雪申候は、陣を越し候事、返す返す御無用に候。御戦は御大事にて候間、日数を以て、後には左様然るべき由申候。半分は成実を御越させ然るべき由申し候。又休雪申し候を、尤のよし申す衆も候て、落居仕らず其日は打上げられ候。翌日廿七日、昨日竹屋敷へ陣を移し、通路を切り申すべき由申上げ候所、半分は然るべき由申上げ候へども落居仕らず候。余り悪しき道には之なく候條、御意を請けず候へども、未明に竹屋敷へ陣を越し申候に付いて、伊達上野、拙者陣所へ引続き陣を移し、総陣を相詰べきの由仰付けられ、陣具を持運び候。総御人数は、常々御働の如く、備を取り候て、夫兵は野陣を相懸け候。然る所に、内より敵一人罷り出て候て、成実陣所へ、小旗を振り招き候間、人を越し尋ね候へば、我等家中に、遠藤下野に会ひ申したき由申候。斯様に申候者、石川勘解由にて候。兼ねて懇切の者に御座候間、下野を遣し会はせ申候の所に、勘解由申す事には、此城に小野主水・荒井半内を始めとして、大内備前近く奉公仕り候者共、数多籠り申候。通路を切られ候上は、落城程あるまじく候間、御侘言申し、城を相渡し、小浜へ相退きたく候間、拙者を頼み申すの由、申すに付いて、御前へ使を上げ申候て、斯様御訴訟申候。召出さるべく候哉と申上候所、御弓矢の渉参り候様にと、思召され候間、御退をなさるべく候。去ながら城中の者共、小浜へは遣さるまじく候。伊達の内へ罷退かるべき由、御意に候の間、石川勘解由を呼出し、御意の通り、申候へば、又勘解由罷出で、城中の者共申候は、伊達へ罷越し候事、命乞にて候。大内備前切腹も、程あるまじく候間、腹の供を仕りたく存候て、御訴訟申し候間、去り迚は我等前之あるべく候。右申上候如く小浜へ遣され下さるべき由、申候に付いて、其通り、申上候へば、右の通り、仰出され、小浜へは差越さるまじく候。伊達の内へ引退き申すべき由、御意なされ候。其時遠藤下野、門二重内まで罷越し、其様子申断り候所に、御前より又御使を下され、城中の者共にこわき事をなされず候故、申したき事を申候の條、御攻めなさるべく候。若し本丸まで御取詰なされ候はば、其時は異儀なく、伊達へも引退き申すべく候間、総手へも仰付けられ候由、御意に候間是非に及ばず、城へ取付け候。下野は漸々内より罷出で候。我等手前より早や火を付け候故、山城にて則ち吹上げ、方々へ吹付け候。其外押籠め申候所に、何方にても火を付け候故、存じの外、内の者共、役所を離る。未の刻より御攻め、申の刻に本丸落城申し候。撫切と仰出され、方々へ御横目を差置かれ、男は申すに及ばず、女房・牛馬に至る迄切捨て、日暮れ候て引離れ候。味方に紛れ生き候者は如何、敵と見え候者、一人も残らず打果され候。其夜、新城・木こり山、敵地に御座候。両城共、自焼仕り引退き候。廿八日未明に仰出され候は、木こり山へ相移らるべきの由、御触御座候間、各陣場取に参り候。我等も家中四五騎先へ越し候所へに、馬上一騎、敵方より参り候て招き候間、成実家中の者、乗向ひ尋ね候へば、服部源内と申し候て、我等もと、扶持仕り候者にて、塩の松へ本意仕り候者に候。築館の城を引退き候間、早々追駈け申すべき由、申すに付いて、早早引退く。から城へ乗入り、其由申上げ候へば、築館へ御馬を移され、御休息なされ候。築館に御逗留の内、青木修理抱へ置き候右三人の者共の儀、小浜へ内通申すに付いて、大内備前も、修理弟と子供相返し候事、無念に存じ候へども、家老の者共の子供を相捨て候事ならず候て、日限を申合せ、小瀬川と申す所へ、双方より罷出で、御横目を申請け、弟新太郎と子供を請取り、九郎四郎と新八郎・次郎吉取替へ候て、帰り申候。
斯様に、塩の松は御弓矢に候へども、八丁目親実元居り申し候二本松境は、手切之なく候。其仔細は、右に書付け候通り、二本松・塩の松は、弓矢の強き所へ身上を持ち、相立ち候に付いて、義継、大内備前に加勢なされ候へども、伊達の弓矢つのり候はば、伊達へ御侘申上ぐべき分別と相見え候。又親実元分別には、会津・仙道の衆、塩の松へ相助け候。田村は敵に候の間、二本松領計りを通り候間、義継に疑心申す様にと、思案候て境を静め申候。其存分、正宗公へは申遣され候へども、我等は若輩の間、聞かせ申されず候。此境、手切れ候はば、弥々以て強くなるべく候間申上げ、手切仕るまじく候由、拙者両度迄折紙を致させ、八丁目二本松境無事に仕られ候。
清顕公より仰せられ候は、小浜には助の衆、多人数に候。其上、塩の松の者共、方方より引退き候て、小浜へ集り候間、御働なされ候とも、御敵はあるまじく候條、田村へ御廻りなされ、備前抱の小城共、御取なされ然るべき由、仰遣され候に付いて、築館を九月廿二日に御立にて、黒籠と申す城、田村御抱に候の間、それへ御馬を移され、廿三日には御休息なされ候。小浜に替の衆候て、人数を引籠め申すべき由、片倉小十郎を以て申上げ候に付いて、成実と白石若狭・桜田右兵衛・小十郎四人は築館に相残され、小浜を取り申すべき由、仰付けられ候。
黒籠より廿四日におうばの内と申す城へ、御働きなされ候。彼の地へ二本松衆助入り候。少々内より人数を出し、合戦候へども、強くもなされず候故、物別仕り候て、其日は何事も之なく、黒籠へ打上げられ候。築館に差置かれ候四人の衆も、小瀬川と申す所へ働く所に、正宗公御働遅く候て、片倉小十郎、其砌無人数にて、手勢二百計りを以て、無兵儀に小浜近所迄参り候所に、小浜の人数押立て、小瀬川迄五里計り追懸け候。四手の衆川を越え合戦仕り候。小浜衆は五六百騎も参り候へども、正宗公御気遣を存じ候て、早く打上げ候。此方の衆は、無人数にて候間押添はず、双方へ首十計りづつ取り申し候。
廿五日に、岩津野へ御働きなされ候。地形を打廻り御覧なされ、近陣に御攻めなされ候て、彼の城を取らせられ候へば、二本松の通路不自由に罷成り候間、明日相移らるべきに極り、又黒籠へ打帰られ候。
小浜に於て助の衆相談には、岩津野を取られ候はば、引退き候事なるまじき由申す。会津衆、大内備前へ異見申し候は、今日正宗公、岩津野を打廻り御覧なされ候。彼の城を取らせらるべき由思召され候と相見え候。取られ候はば、何れも引退き候事罷り成るまじく候間、今夜引退き然るべく候。会津に於て松本図書之助跡、明地にて候間、之を下され、会津に宿老になされ候條、申上ぐべく候條、罷り退くべき由、頻に異見致す。其使には、中目式部・平田尾張両人を以て、催促申すに付いて、大内備前も、通路大事に存じ候て、抱の城共残なく其夜二本松へ引退き、塩の松の分は落居仕り候。

語句・地名など

一両人:ひとりかふたり
才覚:工作・うまくやる
刈松田:かりまた(飯野町飯野)
過:あやまち、しそこない
底意:心の底、心中
矢来口:矢来をしかけた出口
小口:城の出入り口
辻々:あちこち
芝見:忍び物見
落居:決定・落ち着くこと、落着
おうばの内:大波内
岩津野:岩角

現代語訳

天正13年7月の初めに、私は米沢へ使いを遣わし、猪苗代のことで行き違いがあり、大変困っている。会津に敵は居ないので、大内備前定綱を退治されるべきである。尤もだと思われるのであれば、定綱の家臣の中で、迷惑している者が寝返りをするようひとりふたりと言い合わせるべきである。如何しましょうかと申し上げたところ、政宗は「会津に敵はおらず、戦が終わってしまったことは口惜しく思う。この上は、塩松へ出馬しようと思っている。寝返りをする者は使わすように、それでもそうであるべきことであるので、早いうちに工作するべきである」と仰った。
もともと、塩松からきた大内蔵人・石井源四郎という者がいた。この二人に言いつけ、刈松田の城主である青木修理という者のところへ使わしたところ、寝返って味方になりたいということを同意し、知行のことなどを願い出ていたので、政宗に書状を調えてもらい、送った。
大内定綱は、田村領との境を治める城主から、長い間人質を取っていた。政宗の意思に逆らってからは、塩松領のすべてから城主たちから人質を取っていた。
かの青木修理には16になる弟新太郎という者がおり、それは現在の青木掃部の事である。5歳になった子どもをそえて、二人を小浜へ人質として渡していた。修理は「米沢の政宗に仕えることになれば、この人質たちが殺されるのは、大変困ることになる。人質の交換をしたい」と思い、大内定綱の家臣の子である中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内次郎吉という三人へ、手紙を送り、いまは追い鳥狩りの季節であるので、気晴らしにお越しになればよいと言ってよこした。いずれも若く、分別のない者たちであった。8月5日の晩、刈松田へやってきて、6日の朝追い鳥狩りをし、雉子14,5匹を取り、料理して、真夜中まで大酒を飲んでいたところ、青木修理は「お酒に酔っていらっしゃるので、なにか過ちがあっては危ない。刀と脇差をお渡しください」と行った。すると3人はみな大丈夫であると行ったが、修理は心の中で考えがあった。とくに私は下戸なので、お酒は飲めませんと無理に脇差と刀を取り、長持ちにいれた。3人は酷く酔って眠り、臥したまま、目覚めることなく夜を明かした。
修理は内密に家臣を10人ほど呼び、鎧を着せて、3人が寝ているところへ押しかけ、起こして、修理は「大内定綱どのへの恨みがあって、裏切り、米沢の政宗へ使えることにした。知っているように、弟新太郎と子どもが小浜に人質として捕らえられているので、人質交換したい。命のことは心配することはない」と言った。
3人はここで死にたいと言ったが、刀と脇差を取られ、できることがなく、つなぎ止められて刈松田に留め置かれた。その日に修理は小浜にむかって火の手をあげ、戦闘体勢に入り、私の所へ連絡してきたので、すぐに米沢へ飛脚で政宗に申し上げた。
御自身の出陣は遅くなるとお思いになり、小梁川泥蟠斎・白石若狭・原田左馬助・浜田伊豆を寄越されたので、私はこの4人の者たちと一緒に行動し、刈松田の近くの飯野というところに在陣し、私は竜子山というところに在陣した。
政宗は12日に福島に出陣なさった。青木修理に私の家臣を付き添わせて、福島へ連れていき、すぐに御目見得させたところ、今回の寝返りのことを大変お喜びになって、刀を下された。そのうえ、塩松の地図を作るように仰り、昼に書状を宿へよこされたので、だいたいのところ書き上がっていたので、絵図をごらんになり、刈松田近所から、戦闘を仕掛けるこよう思われた。
そこへ、田村から書状がきて、今度は田村清顕とともに陣をひくよう仰られたので、小手森へ出陣するべきであると仰られた。川俣へ行かれ、出陣前に、清顕と蕨平というところで対面なさった。小手森へ23日に戦闘を仕掛けるよう仰れたけれど、大雨だったので延期し、24日に小手森をお攻めになったところ、小浜の加勢・会津・仙道・二本松の勢が小手森近くまで助けにいた。小手森には大内備前が籠城しており、城の守りは堅固に見えた。そばへ寄られが、中からは1人も出てこなかった。籠城兵はたくさん居るように見えたので、こちらから取りかかる様子もなく、攻め上げたところ、後陣の者の所へ中から手勢を出し、合戦を仕掛けたので、総勢を返され、合戦となった。会津からの援軍もやってきて、城の中と言い合わせているようであり、両口から合戦をしかけ、援軍は二本松衆が先陣であった。田村勢は東から、伊達勢は北から攻めた。その間に大きな山があって、田村勢は合戦の訳には立たなかった。
そうしているところに、政宗は不断鉄砲衆を500挺ほど連れて、東の山のそばから押しきったところ、横合わせにとりかかったので、城からでてきた勢は敗北したので、矢来口へ押し入り、大将50人あまりが打たれた。もっと討ちとるよう思われたが、城の入り口へは入らず、南へ逃げた者は二本松衆との合戦となったので、追いかけたところ、援軍は押しきられたので、追うのを止めて少々討たれた。大内定綱はその夜に小浜城へ帰った。
その夜は5里ほど引上、野宿の陣をひかれた。夜討ちもあるだろうかとあちこちの辻に見張りの忍びを置かれたけれども、何ごともなかった。
25日に、押して詰めかけ、戦闘を起こしたけれども、城中からは1人も出てこなかった。会津勢も助けに来たけれどもなるくきというところに陣を引き、下へは下がってこなかった。通路は城の中へ続いていたが、戦うべき人はこなかった。その日はなにごともせず引き上げた。また野陣へ少しちかよりなさったが、田村勢と出会うことはなかった。
6日(26日)にまた戦闘をしかけなさったが、城の中からはだれも出てこなかったので、中の様子をごらんになるために、鉄炮をしかけましょうと片倉小十郎景綱が申し上げたので、7,800挺ほど、中の横側へかかりなさったが、城は堅く守られていたので、途中でおやめになり、また野陣に少し近寄りなさった。
私は「明日は南の竹屋敷へ移り、通路を止めるべきであるとすべての陣へつげるべきである」といったのだが、政宗はそのようにしたら、援軍の手勢を防ぐであろうと思われた。そうであれば、城中からも軍勢が出てくるだろうから、両方の入り口での合戦はどうだろうかと思われた。
また私は「そのようになっても大丈夫です。竹屋敷へ陣を移したなら、田村勢とも合流でき、城からきっと私の陣所へ攻めかかるだろうから、田村勢も私に任せてくださいますよう。援軍とは総勢で合戦をすべきである。二箇所での合戦になったとしても、心配することはなにもない。そのうえ、援軍が退却する地形も難所であるので、合戦をするのには難しいと思われる。一昨日も城中へ押し込まれた二本松勢との合戦を強く仕掛けるべきですが、護身@愛ならば引上なさったらいい」と申し上げると、原田休雪斎は「陣を移すことは何度もいうが不要である。合戦はおおごとであるので、日にちをかけて、そのようになるのを待つべき」と言った。半分は成実を寄越させるべきだといい、また休雪斎のいうことが尤もだという者もいて、決まることはなくその日は打ちきった。
翌27日、昨日竹屋敷へ陣を移し、敵のとおるところを切るべきであると申し上げたので、半分はそうすべきであると申し上げたが、議論の決着はつかなかった。あまり分の悪いようになるとは思わなかったので、ご命令はなかったが、未明に竹屋敷へ陣を移したことについて、伊達上野政景は私の陣所に続いて陣を移した。政宗はすべての陣を詰めるべきであると仰せになって戦道具を持ちはこんだ。総勢はいつもの戦闘のように、備えを取って、兵は野陣をしかけた。
そうしているうちに、うちから敵が1人でてきて、成実の陣所へ小旗を振りながら招いてきたので、人を送り、聞いたところ、私の家臣の遠藤下野に会いたいと行ってきた。こう言ったのは石川勘解由であり、以前から親しくしていた者だったので、遠藤下野を送ったところ、勘解由は「この城には小野主水・荒井半内をはじめとして、大内定綱の近くに仕えている者たちが多く籠城している。通路を切られたからには、ほどなく落城するだろうから、懇願し、城をお渡しして、小浜へ引き上げたい」と私を頼ってきたと言うので、政宗の御前に使いを送り、その旨を申し上げた。お呼びになりますかかと申し上げたところ、戦に死傷がでてはいけないと思われたので、止められた。しかしながら、城の中の者たちを小浜に使わすのはできなかった。伊達の内に退くべきであると思われたので、石川勘解由を呼び出し、ご命令の通り言ったところ、また勘解由はやってきて、城内の者たちは「伊達へ行くのは命乞いです。大内定綱が切腹するのももうすぐでしょうから、切腹のお伴をしたいと思い、お願い申しているが、そのために私は御前におります」と言っていると申し上げたところ、そのように仰り、小浜へは退却させず、伊達の領内へ引き上げるようご命令になった。
そのとき遠藤下野は門の二重の内までやってきて、そのようすをいって断ったところに、政宗の御前からまた使いをくだされ、城の者たちに強く攻め上げなかったので、言いたいことを言ったため、お攻めになるべきで、もし本丸まで攻めたなら、そのときは異議なく伊達に引き上げるので、すべての勢に言われ、ご命令になったので、仕方なく城へ攻め上げた。
下野はようやく城からでてきて、私たちのところから早々と火を付けたが、山城であったので直ぐに吹き上げ、あちこちへ火が移った。そのほか押し込めていたところへすべての出口から火を付けたので、思った以上に中の者たちは任せられたところから離れた。未の刻から攻めて、申の刻に本丸が落城した。
撫で切りをせよと仰せになり、あちこちへ見張りを付け、男はもちろん、女房・牛馬に至るまで切り捨て、日が暮れて離れた。味方に紛れて生きていた者はどうなったか、敵と思える者は1人も残らず討ち果たされた。その夜、新城・樵山は敵地であったが、二つの城とも自ら火を放ち、退いた。
28日未明に「樵山へ移るべきである」とご命令になったので、それぞれ陣場とりを大古なった。私も家来が4,5騎先へ行ったところ、馬に乗った大将が1人敵方よりきて、招くので、私の家臣が向かっていき御尋ねたところ、かれは服部源内といい、私のところで仕えていた者で、塩松へ寝返ったものであった。築館の城から退いたので、早々と追いかけるべきであるといって、早々と退いた。からの城へ乗り込んで、そのことを申し上げたところ、政宗は築館へお移りになり、お休みになった。
築館に逗留なさっている間に、青木修理が捕まえていた前述の3人の者たちのこと、小浜へ申し渡したところ、大内定綱も修理弟と子どもを返すこと、大変無念と思うが、家老たちの子息を棄てることはできないといい、日にちを決め、小瀬皮というところで双方からやってきて、政宗の見張りをつけ、青木新太郎と子どもを受け取り、九郎四郎と新八郎を取り替えて帰った。
このように、塩松とは戦をしていたが、八丁目の実元がいた二本松の境は戦闘にはなっていなかった。その詳細は、書き付けたとおり、二本松・塩松は戦の強いところにすりより、成り立っていたので、畠山義継は、大内定綱に加勢していたが、伊達の勢いがあがってきたので、伊達を頼るのがよいとおもったのだろう。また、私の親の実元が健在であった頃には、会津・仙道の衆は、塩松を助けていた。田村は敵であったので、二本松領ばかりを通るので、義継に疑心を抱かせると、考えて、境界をおさめていた。そのことを、政宗へは伝えていたが、私は若輩であったので、聞かされていなかった。この境界が戦闘状態に陥れば、ますます強くなるだろうと申上、手切をするべきではないと私に二度も書状をださせ、八丁目と二本松の境は無事であった。
清顕が「小浜には援軍が多く居る。そのうえ塩松の者はあちこちから退いて、小浜に集まっているので、もし戦闘をしかけても、敵ではない。田村へお回りになって、大内定綱が抱えていた小城どもをとられるべきである」と仰せになったので、築館を9月22日に出立され、黒籠という、田村支配下の城があったので、そちらへ移動し、23日はそこでお休みになった。小浜の敵に、伊達勢を引き入れようとしている者が居ると片倉小十郎景綱を介して申し上げたところ、成実と白石若狭・桜田右兵衛・小十郎4人は築館に残され、小浜を落とすようにとご命令になった。
黒籠より24日に大波内という城へ戦闘を仕掛けられた。彼の地に二本松衆が援軍に入っていた。内から手勢を出し、合戦となったが、あまり強く攻めなかったので、物別れになった。その日は何ごともなく、黒籠へ引き上げられた。築館に差し置かれた4人の衆も、小瀬川というところへ攻めたところ、政宗の進軍が遅かったので、片倉景綱、その頃あまり兵がいなかったので、手勢200ばかりを連れて、指示なく小浜の近所まできたところに、小浜の勢がやってきて、小瀬川まで5里ほど追いかけた。4人の衆は川を越えて合戦をした。小浜衆は5、600騎も来たが、政宗が来ることを心配して、早く引き上げた。この衆は少なかったので、襲うことなく、双方とも頸10程度取っただけだった。
25日に、岩角へ攻めかけられた。地形を見廻りごらんになって、近くに陣を引きお攻めになって、この城をお取りになったので、二本松勢の通路は不自由になったので、明日移ることにし、また黒籠へお戻りになった。
小浜では援軍の衆は「岩角を取られたならば、退くことは出来ないだろう」と相談していた。会津衆は大内備前に「今日正宗が岩角を廻り、見ていたそうだ。彼の城をとらせようと思っているようだ。もし城が取られたら、みな引き上げることが難しくなるので、今夜退くべきである」と相談していた。会津の中で、松本図書之助のあとが、空いているので、会津の宿老にさせてやるので、退くべきだとしきりに意見した。
中目式部・平田尾張の2人を介して催促してきたので、大内定綱は通路のことを大事であると思って、抱えていた城に詰めていた者たちをみなその夜二本松へ退かせ、塩松の件は落着したのである。

感想

話の流れはだいたいのところ『政宗記』と同じですが、ひとつの記事が大変長くなっています。
4,5記事、つまりほぼ一章分をひとつにしているような感じです。
そして一人称に「拙者」「我等」を使っているところも『政宗記』『伊達日記』系にはないところです。
少しおもしろいのは、小手森城の城攻めのところ、『政宗記』では午の刻から酉の刻なのに対し、『正宗公軍記』『成実記』では未の刻から申の刻となっています。
『成実記』が覚書で、『政宗記』が最終形態だとすると、『政宗記』プロトタイプであろう『正宗公軍記』はそのままで、『政宗記』のときにちょっと盛ったのでしょうか?(笑)
よく死者の数が話題になる小手森の撫で切りですが、成実の記事では数が出てきません。

*1:これありカ

*2:待てカ

*3:取りカ

*4:者カ

*5:がカ