[sd-script]

伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『正宗公軍記』1-4:二本松義継降参の事附輝宗御生害の事

『正宗公軍記』1-4:二本松の畠山義継の降参の事と、輝宗が殺されたこと

原文

九月廿六日、正宗公、小浜の城へ、御馬を移され候所に、二本松義継より、拙者親実元方へ、仰せられ候は、代々、伊達を頼入り候て、身上相立て候へども、近年、会津・佐竹・岩城より、田村へ御弓矢に候。我等も清顕公へ御恨の儀候て、佐竹の見方を仕り、度々御同陣致し候。併、跡々の御首尾を以て、輝宗公、相馬へ御弓矢の時分、両度御陣へ参り、御奉公仕り候間、身上別儀なく立て置かれ下され候様にと、御頼に付いて、親実元、右の通り、輝宗公へ申上げ候へば、御挨拶には、相馬へ弓矢の砌、御越も御覚なされ候。併、今度大内備前御退治の砌、小手森に於いて、両口の合戦に、一口は義継先手に候。又大場の内へ働き候砌も、二本松へ御働なさるべき由、仰せ払はれ候。然りと雖も、種々御侘言に付いて、左様に候はば、南は杉田川を限り、北は由井川切に揚げ渡され、中五箇村にて相立てらるべく候。其上、御息、人質に米沢へ差越さるべく候由、仰せられ候。重ねて義継御申越し候は、南なりとも北なりとも、一方召上げられ下され候様にと、御侘言候へども、罷りならず候に付いて、輝宗公御陣所宮森と申す所へ、十月六日に、不図懸入られ候。十月六日の晩、輝宗公、正宗公の御陣屋へ御出でなされ候て、御台所へ家老の衆召寄られ、義継御侘言の様子、御訴訟なされ候。拙者若輩に候へども、相加へられ候事は、此御使者、右親実元仕り候間、義継への御使を仕るべき由、輝宗公仰付けられ候。拙者申上げ候は、若輩にて万事十方なき体にて、斯様の大事の御使仰付けられ候儀、迷惑の由申上げ候へば、実元取扱の首尾に候の間、御使仕るべく候。御差引万事輝宗公なさるべき由、仰せられ候間、是非に及ばず、御意に任せ候。義継、拙者を以て御訴訟には、右の如く、北なりとも南なりとも、一方差添へられ下さるべく候様にと、御侘に候。罷り成らず候に付いて、左様に候はば、只今差置き候家中の者共を、本の知行を下され、召仕はれ下さるべく候。只今迄奉公仕り候者、乞食致させ候事、迷惑の由仰上げられ候へば、夫も罷りならず候に付いて、爰許へ伺候申上げ候。切腹を仕り候とも、御意を背くまじき由、覚悟仕り参り候間、何分にも御意次第の由、申上らるるに付いて、漸く相済み候。義継御申候は、身上相済み忝く存じ候條、御目見え申したき由、仰せられ候間、其通り申上げ候へば、尤も御参会なさるべき由御意にて、義継、拙者陣所へ、十月七日の八つ時分御出で、彼是時刻移り、蝋燭立て候て、会ひ御申し参りなされ、宮森へお帰なされ候。同八日早天に、義継より御使に預り候て、我等宮森へ参り候。輝宗公御裃を以て相済み候。此御礼をも申上度候。又見廻申度き所も、数多御座候間、相済み罷帰り、子供、米沢へ登らせ申す支度をも申度き由、仰せられ候間、輝宗公の御陣所へ、拙者、伺候致候所に、伊達上野、其外家老の衆、数多宮森へ参られ、二本松迄落居御目出たき由、輝宗公へ申上げ候。能き御次に候間、義継、拙者方へ仰せられ候趣申上げ候へば、早々御出で候様にと、御左右申すべき由、御意候條、其通申越し候へば、義継、輝宗公御陣所へ御出でなされ候。義継供の衆、高林内膳・鹿子田和泉・大槻中務三人、御座敷へ召連れられ候。和泉参り候時、義継へ耳付に何をか申し候て、座敷へ直り候。輝宗公御下に拙者、上野も居候。何も御雑談も御座なく御立ち候所、御門送に御立ち候に、内にて御礼なさらず候。御左右には、御内の衆居申し候故、捕へ申す事もならず候や、表の庭迄御出で御礼なされ候所に、道一筋にて、両方竹唐垣にて、御脇通るべき様もこれなく、詰り候の所へ御出でなされ、拙者・上野両人も、御庭へ罷出で候へども、通り申すべき所これなく、御後に居申し候所に、義継、手を地に御つき、今度いろいろ御馳走過分に存じ候。左様に候へば、拙者に切腹仰つけらるべき由、承り候と仰せられ、輝宗公の御胸を、左の手にて捕へ、右にて脇差を御抜き候。兼ねて申合すと見え、義継供の衆、後近く居候者共七八人、輝宗公の御後へ廻り、上野・成実を打隔てて引立て出で候。腋を御先へ通るべき様もこれなく、門を立て候へと呼び候へども、左様にも致しあへず、急に出で候間、是非に及ばず、各各跡を慕ひ参り候。小浜より出で候衆は、武具を以て早打仕り候。宮森より御供申し候衆は、武具をも着申すべき隙もこれなく、多分すはだにて候。討果し申すべき由申す衆も之なく、呆れたる体にて、取巻き申し候て、十里計り高田と申す所迄御供申し候。正宗公は、御鷹野へ御出で、御留主にて候故、御*1野へ申し上げ候て御帰り候。二本松衆に、道具持は、半沢源内と申す者、月剣にて一人遊佐孫九郎と申し候もの弓持一人、其余は抜太刀にて、輝宗公義継取巻き参り候。然る所に、取巻き参り候内より鉄砲一つ打ち申し候。打ち果し申すべき由、申す者も之なく候へども、総ての者懸り候て、二本松衆五十人余相果て、輝宗公も御生害なされ候。正宗公も、其夜は、高田へ御出馬なされ候。各家老申上げ候は、先づ小浜へ御引籠もり、御吉日を以て、二本松へ御働然るべき由、申上げ候に付いて、十月九日未明に、小浜へ御帰なされ候。輝宗公御死骸、其夜、小浜へ御供申し、長井の資福寺にて御葬礼なり。遠藤山城、内馬場右衛門追腹仕り候。須田伯耆は、百里隔てて在所にて追腹仕り候。八日の晩、義継死骸、御尋なされ候。方々切放し候を、籐を以て連ね、小浜町の外に磔に御揚げ、数多番を附け申され候。義継抱の地本宮・玉の井・渋河、八日の晩に、二本松へ引退き候。米沢へ人質に差越さるべき由、御合され候国王殿と申す十二になられ候子息を、譜代の衆守り、義継従弟に、新庄弾正と申す者、兼ねて覚のものに候。彼の者、物主になり候て、籠城いたし候。
十月十五日に、二本松へ御働なされ候へども、内より出でず、堅固に相抱へ候間、何事なく打上げられ候。川を越え高田へ総人数を引き、陣を相懸け候。明日の御評議承るべき由存じ候て、拙者も高田へ参り候。其夜の陣場は、いほら田と申し候て、二本松より北、高田よりは各別の所なりければ、八丁目の抱に付けて、差置かれ候。成実人数、北へ上り候に付いて、城中より出で合戦仕り候。双方数多討死致し候。高田の衆も相返され候に付いて、城内より出で候人数、遠やらいまで押入れ、物別れ仕り候。十五日夜半時分より、大風吹き出で候て、明方より大雪降り、十六日より十八日迄、昼夜共に降り続き候の故、馬足叶はず、御働もならず、廿一日に小浜へ御引籠り、年中は御働きなるまじき由にて、境々の衆、残なく相返され候て、御休息なされ候。
翌年の七月まで、二本松の城相抱へ候。仔細は高玉阿児ケ島、会津奉公仕りて、深山伝いに二本松へ通路仕り候。内々、通路へ附城なりとも、なされたく思召し候へども、義広・義重・常隆御出馬を、御気遣を以てなされず候。其上、高き山にてみはへ通路を留むべきやうなく、人数をも越し候へども、罷り通らず候。人数もこれなき時は、見切り候て通り候間、米なども少々通り候ゆゑ、翌年七月まで、相抱へ候。

語句・地名など

早天:早朝
すはだ:甲冑をつけずに/はだかで

現代語訳

9月26日、政宗公が小浜の城へ移動なさったところ、二本松の畠山義継から、私の親実元のところへ「代々伊達を頼みにして、身上を立ててきたけれども、近年は会津・佐竹・岩城から田村へ戦を仕掛けていた。私も清顕に対し、恨みに思っていることがあり、佐竹の味方をし、度々陣を同じくしています。あわせて、後々の詳細をもちまして、輝宗公が相馬へ戦を仕掛けられたとき、二度陣へ参り、お仕えしたので、身上について変わらず置いてくださるようお願いできないでしょうか」と言ってきたので、実元はこの通り輝宗へ申上なさったところ、お返事として、相馬との戦の時、参陣したことも覚えている。それにくわえ、今回の大内定綱退治のとき、小手森において両方からの戦になったとき、片方は義継が先手であった。また大場の内へ戦闘を仕掛けたときも、二本松へ戦闘を仕掛けるべきことをお断りになった。しかし、さまざまな侘び言についてそのようにするのならば、南は杉田川を限り、北は由井川を境に献上し、その中の5ヶ村にて身上を立てるべし、また子息を人質として米沢へ寄越すようにと仰られた。再び義継が行ってきたのは、南でも北でも、一方召し上げくださるようにと侘び言を言ったが、それはならないという話について、輝宗が陣所としていた宮森城というところへ、10月6日、急に駈け入ってきた。
10月6日の晩、輝宗は政宗の陣屋へおこしになって、御台所へ家老衆をお呼びになり、義継の侘び言のようすを訴えなされた。私は若輩者だけれども、その話し合いに加わったのは、私の父実元がしていた使者であったので、義継への使いをしなさいと輝宗公が仰られたのであった。私は「若輩者なので、何ごともうまくできないので、このような大事な使いを承るのは、大変である」と言ったが、実元が取り扱っていたことであるので、使いをするようにとのことだった。責任はすべて輝宗がとるので、と仰られたので、仕方なく、お使いをすることになった。
義継は私を介して訴えてきたのは前述のように「北でも南でも、一方はどうかお許しください」という侘び言であった。それはならないということを告げると、そうであるならば、今使えている家中の者たちを、伊達家に知行を与えていただき、召し使ってくださらないでしょうか。今まで仕えてくれた者たちを乞食にするわけにはいけませんと言ったところ、それも無理であると言うことを言われ、私の所へやってきたのである。
切腹を申し付けられても、意志を変えることはないと覚悟して来たので、ご命令のことをどうにかしてくれないかと申し上げたので、ようやく事が済んだ。義継は身上について問題なく住んだので、輝宗に御目見得したいと言ったので、その通り輝宗に申し上げたところ、会った方が良いだろうという意志で、義継は私の陣所へ10月7日の八つ頃やってきて、かれこれ時間が過ぎ、ろうそくを立てて、会われになり、宮森へお帰りになった。同じく8日の早朝に、義継から使いがやってきて、私は宮森へ行った。
「輝宗公が裃で応対してくださった。この御礼も申し上げたく、また見廻りしたいところも多くあるので、いったん帰って、子どもを米沢へ送る支度をしたい」と言ったので、輝宗公の陣所へ私が伺候していたところに、伊達上野政景、そのほか家老の衆がたくさん宮森へ来られ、二本松のことまで決着がついたことは目出度いと、輝宗へ申し上げた。よき取次であったので、義継が私のところへ行ったきたことを申し上げたところ、早く来るようにと、いうようにとご命令になったので、そのとおりにお伝えしたところ、義継は輝宗公の陣所へお越しなさった。義継の供の衆は、高林内膳・鹿子田和泉・大槻中務3人を座敷へ連れてきていた。和泉が来たとき、義継に耳をつけ、何ごとかを言って、座敷へ座った。輝宗の下座に私と上野も居た。とくに雑談もなく、出発するというので、輝宗は門まで送ると立ち上がったので、内では御礼をしなかった。左右には身内衆がいたので、捕らえることもできなかったのか、表に庭までお出になって礼をなされたところに、道一筋に、両方が竹の垣になっており、脇を通ることもできず、つまっているところへお出になり、私と上野ふたりも、お庭へ出たけれども、通るところがなく、後ろに居た。義継は手を地につけ、「此度いろいろ尽力いただいたこと、身に過ぎたことだと思います。そのように言えば、私に切腹をご命令になるとのことをお聞きしました」と言って、輝宗の旨を左の手で捕らえ、右の手で脇差を抜いた。もとから言い合わせていたと思われ、義継の供の者は後ろ近くに7,8人輝宗の後ろへまわり、上野・成実をへだてて引き立てて出ていった。脇を通って先へ行くこともできず、門を閉めよと読んだが、そのようにもできず、急に出発したので、仕方なく、それぞれあとを慕って追いかけた。小浜より出てきた者は武具を持っており、すばやく出立することが出来た。宮森から着いてきた者は、武具さえ着る時間もなく、ほとんどが甲冑を着けていなかった。討ち果たしもうしあげるべきという者もおらず、呆然として取り巻いて、10里ほど高田というところまで音もした。
政宗は鷹野へお出になって留守だったので、鷹野へ連絡したところ、お帰りになった。二本松衆のうち、武器を持っていたのは、半沢源内という者で月剣でひとり遊佐孫九郎という者が弓を1人持っており、残りは太刀を抜いて輝宗公と義継を取り巻いていた。そうしているうちに廻りを取りまいていた中から、鉄炮が一度打たれた。討ち果たすべきであると言う者はいなかったが、すべての人が戦闘に加わり、二本松衆を50人あまりが死に果て、輝宗も命を落とされた。政宗も、その夜は高田へお越しになった。それぞれ家老はまず小浜へ引き上げ、良い日を選んで二本松へ攻めかけるべきであると申し上げたので、10月9日未明に小浜にお帰りになった。
輝宗の遺骸はその夜小浜へお連れいたし、長井の資福寺にて葬礼を行った。遠藤山城・内馬場右衛門が追い腹を遂げた。須田伯耆は100里隔てた在所で追い腹をした。8日の晩、義継の遺骸についてお尋ねになり、あちこち切り離した遺体を籐を使ってつなげ、小浜の町の外に磔にし、さまざまな当番をお付けになった。義継が治めていた本宮・玉の井・渋川の者は8日の晩に二本松へ引き上げた。米沢へ人質に連れてこられる予定であった国王どのという12になる子息を譜代の衆は守り、義継の従弟新庄弾正という、頭の良い者がおり、この者が代表となって籠城した。
10月15日に二本松へ戦闘を仕掛けなさったが、人が内から出てこず、堅く籠城していたので、何もなく切り上げた。川を越え、高田へ総勢を置き、陣をかけた。明日の評議が行われることを聞いて、私も高田へ行った。その夜の陣場はいほら田(伊保田)といって二本松より北、高田とは別々のところであるが、八丁目の領内だったので、差し置かれた。
成実の手勢は北へ上ったのを契機に、城内より兵が出てきて合戦となった。双方多くの死者をだした。高田の衆も返されたので、城内からでてきた兵は遠やらいまで押し入り、物別れとなった。15日真夜中から大風が吹いてきて、明け方から大雪が降り、16日から18日まで、一日中雪が降り積もったため、馬で動くことも出来ず、攻めかかることも出来ず、21日に小浜へ引き籠もり、年内は戦闘がないだろうということで、境目の宗は残らず返されて、政宗はお休みになった。
翌年の7月まで、二本松の城は籠城していた。詳細は高玉・阿久ケ島・会津の方へ奉公し、深山づたいに二本松へ通る道があった。うちうち通路を付けて城を攻めようとも思われたが、蘆名義広・佐竹義重・岩城常隆が出陣してくるのを心配して実行されなかった。そのうえ、高い山であったので上から見られ、通路を止めることができず、兵を送ったが、通ることはできなかった。兵も足りないときは見切れて通ることができたので、米なども通ったので、翌年7月まで籠城したのだった。

感想

畠山義継による輝宗傷害事件のその発端から結末までの詳細が書かれています。成実は義継との取次の仕事を任され、一度は辞退しますが、輝宗に説得され、取次を引き受けています。何度も義継とやりとりし、事件が起こった日も、留守政景とともに輝宗のそばにいます。
その様子は実際そばで見ていた臨場感を感じさせます。
政宗は昼は小浜近辺の鷹野へ行っていたこと、夜は高田にいて輝宗を弔ったことが書かれていますが、発砲された瞬間にいたかどうかははっきりとはわかりません。このあたり、いろいろ説がありますが、興味深いです。
政宗が語ったものを記した『木村宇右衛門覚書』では政宗は追い付いたことになっています。

*1:鷹の一字脱カ