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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『正宗公軍記』1-5:佐竹義重公・岩城常隆公・石川昭光公・白川義近公仰合され、須賀川へ御出馬、伊達一味の城を御攻め候事附右合戦に付伊達加勢遣され、観音堂に於て、茂庭左月を始め討死、成実手柄の事

『正宗公軍記』1-5:佐竹・岩城・石川・白川が須賀川へ出陣し、伊達の城を攻めたことと、観音堂での軍で茂庭左月らが討死したこと、成実が手柄をたてたこと

原文

霜月十日の頃、佐竹義重公・会津義広・岩城常隆・石川昭光公・白川義近仰合され、須賀川へ御出馬なされ、安積表伊達へ、御一味の城々へ御働なされ、中村と申す城御攻め、落城仕り候。右の通り、俄に小浜へ申来り候に付いて、正宗公、岩津野へ御出馬なされ、高倉へは、富塚近江・桑折摂津・伊藤肥前に、御旗本鉄砲三百挺差添へられ候。本宮の城へは、瀬上中務・中島伊勢・桜田右兵衛相籠られ候。玉の井の城へは、白石若狭相籠られ候。拙者事は、二本松籠城候間、八丁目抱の為め、渋川と申す城に差置かれ候が、小浜在陣申し候故、何れも不人数にて候間、早々参るべき由、御書下され候條、渋川に人数過半相残し候て、塩の松へ廻り、小浜へ参り候御所に、早や御出馬なされ候御跡に参り候。御留主に御人数差置かれず候間、成実人数を残し申すべき由、仰置かれ候に付いて、青木備前内馬場日向を始め、馬上三十騎程残し候て、岩津野へ参り、御目見仕り候へば、御意には、前田沢兵部も身を持替へ候て、会津へ一味致し候間、定めて明日は、高倉か本宮へ働かすべく候間、罷り返るべく候由、仰せられ候條、糖沢と申す所に、其夜は在陣申し候。彼の前田沢兵部と申し候は、本二本松奉公の者にて候間、義継切腹の砌、伊達へ御奉公仕り候所に、佐竹殿出陣に付いて、又替返り候。同月十六日、前田沢南の原に、敵、野陣懸けられ候ひし。高倉への働にこれあるべき由、申来るに付いて、正宗公、岩津野より本宮へ相移され候。本宮は、其頃は只今の町場は畑にて、人居もこれなく小川流候所に、外矢来にて、内町計り人居候。高倉へ働かすべき由、申すに付いて、助け候為めに、本宮の人数観音堂へ打上げ、見合次第に、高倉へ討入るべき様子にて、太田の原に備を立て候。我等も、高倉へ助け入るべくと存じ、高倉海道山下に備を相立て候。敵五千騎余にて、三筋に押通り候間、高倉に籠り候衆申され候ひしは、当、本宮、御人数に候間、爰計りの人数を出し、くひ止め候て、見申したき由申され候。又なるまじき由、申す衆も候へども、富塚近江・伊藤肥前申し候は、縦ひ押込まれ候とも、本宮へ通り候人数留り申すべく候はば、苦しからざる由両人申し、人数を出し申し候所に、其如く敵を押縮め候。然るに、岩城の衆入替り候て、押籠め候間、両小口へ追入れられ、味方二三十人討たれ申し候。敵の人数大勢故、前田沢より押し候人数は、観音堂より出で候衆と戦ひ候。又荒井を押し候人数は、成実との合戦両口にて候。合戦始まらざる前に、下郡山内記、我等場の向に、小高き山の所へ乗上り、見申し候へば、白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐三人の指物見え候て、馬上六七騎・足軽百五十人計りにて、本宮の方へ高倉より参り候。其跡に一町程隔てて、大勢人数参り候。敵とは存ぜず、扨又、何者にて候と疑ひ候。去りながら、敵と味方との境の様に見え、其間一町余隔て候間、不審に存じ候て見候へば、其間にて鉄砲一つ打ち候の間、扨は敵味方の境の由存じ候て乗返し、山の上より敵是迄参り候。小旗をさせさせと呼び候の間、其時、小旗を差し候て相待ち候所へ、若狭・伊豆・壱岐三人共に、我等纏へ逃げ込み、直に御旗本へ罷り通られ候。観音堂より出で候人数、太田の原に備へ候の所に、敵大軍故、こたへ候事ならず、敗軍候て、観音堂を押下げられ、御旗本近く迄追ひ申し候。茂庭左月を始めとして百余人討たれ候。左月は験は取られず候。伊達元安・同美濃・同上野・同彦九郎・原田左馬之助・片倉小十郎を始めとして、歴々の衆相こたへ候故、大敗軍は之なく候。成実備は、味方は一人も続かず、左は大川にて七町余、敵の後になる。成実十八歳の時にて、何の見当も之なく候の所に、下郡山内記、我等に馬を乗懸け、馬の上より我等小旗を抜き、観音堂の衆、追崩され押切られ候間、早々退き候へと申し候て、小旗を歩の者に渡し候。成実存じ候は、相退き候ても討たるべく候間、爰にて討死仕るべき由存じ、引退かず候。然れば敵より白石若狭・高野壱岐・浜田伊豆三人を追立て候て、敵、山下迄参り候間、成実人数を放し懸け候へば、敵相退き候。爰に伊庭遠江とて、七十三に罷り成り大功の者候が、真先に乗入れ、敵両人に物討致し、一人内の者に、頭を取らせ、山の南さがり五町計り、橋詰迄敵を追下げ候所に、橋にて敵追返し、又味方、山へ追上げられ候所に、羽田右馬之助、敵味方の境を乗分け、崩れざる様に、馬を立返し立返し相退き候へば、鎗持一人進み出て、右馬之助馬を突き候所を、取返し取返し突き外し、前へ走り懸け候を、右馬之助、一太刀に物討仕り候。其者も家中の者に物討、其身の家中も一人討たれ、相退き候て、本合戦始め候所へ又追付かれ候。又夫より返し候て、鉄炮大将萱場源兵衛・牛坂左近両人、敵の真中を乗入れ、馬上二騎づつ物討仕り候へども、具足の上にて通らず候や、敵、退口になり、又本の橋迄追下げ候て、北下野、馬を立て候所へ、歩の者走り出て、下野馬を突き候間、下野も引退き候間、味方退口になり候。伊庭遠江、味方崩れざる様にと、殿を致し、取って返し取って返し余り味方に離れ候。甲を着け候へば、老後故目見えず候とて、其日はすつふりにて罷り出で候故、敵乗懸け頭を二太刀切り候。こらへ候事もならず、引退き候間、味方夫より又、本の所へ追付かれ候。左候へば、観音堂へも物別仕り候間、敵引上げ候條、成実も押添はず、人数を打廻し引上げ物別致し候。観音堂は誰々如何様に仕り候や、別筋に候の間存ぜず候。遠江は罷り帰り相果て候。不思議の天道を以て、一芝も取られず、観音堂同前に物別致し候。合戦の様子、細には記さず候。荒々書付け候。其後、観音堂へ敵備を上げ、高倉の海道川切に備を直し候間、一戦これあるべきかと存知じ候所に、正宗公、御備五六町隔り候故か、何事なく打上げ候。此方の御人数も、御無人数にて候故、押添はず候。彼の下郡山内記と申すものは、本輝宗公へ御奉公申し、相馬御弓矢の時分、鉄炮大将仰付けられ候。度々の覚を仕り候。其頃、御勘当にて、成実を頼み、まとひに居申し候。其日も味方遅れ候時は、馬を立返し立返し、味方の力になり、敵を押返し候時分も、最前に乗入れ、敵と両度物討仕り候。家中に首を取らせ類なきかせぎ仕り候。
同又三月*1十七日の晩、正宗公も岩津野へ引上げられ候。夜半頃に山路淡路を御使者にて、御自筆の御書下され候。御口上にも、今日の扱比類なく候。敵の後にて合戦致し敗軍仕らず候事、前代未聞の事に候。畢竟其方故、大勢の者共相助け候。定めて手負・死人数多これあるべく候。殊に明日、敵方より本宮へ近陣候由、聞かせられ候。誰々残されたく思召し候へども、誰々御見当余これなく候間、大儀乍ら本宮へ入申さるべく候。伊達上野も遣され候由、仰付けられ候。又淡路申し候は、今日の御合戦、味方の者何と仕り候や、引添ひ候て参り候事罷りならず、両人是非なく敵に紛れ罷越し候。敵方にて其様子は存ぜず。何れも相談には、明日本宮を近陣なされ、二本松籠城衆を差退けらるべき相談、具に承り候。日も暮れ候間、漸く敵陣を逃れ参り候由申上げ候に付いて、只今斯くの如く仰付けられ候。本宮に籠城せられるべく候間、其支度申すべき由、申し候へども、俄の事にて、心懸も罷り成らず、十八日の未明に、本宮城へ入り申し候。敵働き遅く候間、物見を越し候やと承り候へば、夜の内より付け置き候へば、夜の内より付け置き候由申し候。然れば火の手見え候間、陣移り候かと存じ候所に、物見早馬にて参り、佐竹・会津・岩城衆引退かれ、結句前田沢も引退き候由、申し候に付いて、前田沢へ人を越し見させ候へば、一人もこれなく引上げ候。正宗公本宮へ御出馬なされ、御仕置仰付けられ候所に、数多御前に居候所にて、浜田伊豆申し候は、昨日の合戦、中村八郎右衛門比類なく仕り候。八郎右衛門故、味方五十も六十も助かり候由申上げ候。其時、八郎右衛門、何とも御意もこれなきに、刀を抜き敵二十騎切り申し候由にて、岩打損指申し候を御覧なされ、御加増なさるべき由御意にて、塩の松に於いて知行下され候。若し又、此上にも敵働き候事、計り難き由御意にて、岩津野に両日御座なされ候へども、何事なく小浜へ御帰陣御越年なされ候。
天正十四年丙戌、渋川に拙者居候所へ、元日に二本松より、昼時分乗懸け候。私働き候て、先へ馬上一騎歩十人計り参り候て、陣場の末の水汲み候所へ乗懸け、水汲共を追廻し候。内より出会ひ合戦仕り候。二本松への海道に、柴立の小山候て、道一筋候所を追ひ候て、参り候所を、柴立の後に、馬上百騎計り足軽千余り差置き、押返され候間、道は申すに及ばず、川々へも追散され候。鹿田右衛門存じ候は、遊佐佐藤右衛門兼ねて聞及びたる者に候。仕様を見申すべき由、思ひ候て少し高き所へ、右衛門乗上げ見申し候所、佐藤右衛門近辺生の者にて、案内は存じ候間、各追ひ候筋より西の方へ引退き、敵追過ぎ参り候者を、田一枚の内にて、三人に物討致し、二人首を取り、夫より敵を追上げ候て、敵一人佐藤右衛門物討致し、右衛門居候所迄追付き候。右衛門も怺え兼ね相退き候由申上げ候。野路へ追入れられ候。志賀大炊左衛門真先へ乗入れ、四人に物討仕り候。羽田右馬之助助余所へ参り遅く懸付け、脇より乗入れ、五人に物討仕り、其所にて三十計り頭を取り、夫より敵の足並あしくなり候。八丁目より助け来り候者、只今の海道を、二本松へ押切り候様に、野地を越え候。合戦城は、二本柳*2より東にて候間、押切らるべき由存じ候て、二本松衆崩れ候間、追討致し候。鹿子田右衛門飯出井の細道に馬を立て、逃散り候もの押返し、物別を致させ候。さ候へば、はやはや日暮れ候て味方も引上げ、頭二百六十三取り、二日に小浜へ上げ申し候。鹿子田右衛門罷り帰り候て、佐藤右衛門事、馬迄達者にて、兼ねて聞及び候程の者に候と、物語の由後に承り候。同年二月、二本松に籠居り候蓑輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・同下総・堀江越中、五人の者共相談仕り、正宗公へ申上げ候は、御味方仕り城を取らせ申すべく候間、蓑輪玄蕃屋敷へ、御人数入れらるべく候。地形も能く候間、御人数差越さるべく候由申上げ候て右の五人の人質を上げ候條、御人数を夜中に差越され候。四人の居り候所は、城下にて抱へらるべき所もこれなきに付いて、蓑輪玄蕃屋敷へ引退き候所に、その近所の者共、玄蕃屋敷へ計り入られ、人多く候て鎗を取廻すべき様もこれなく詰り候。又繰ヶ作と申す所、手替り候ものに候。急にこれなく候とも、落城計り難く候へども、繰ヶ作は堅固に持ち候て、玄蕃屋敷は、本城と繰ヶ作の間に候間、抱へ兼ね、明方に、城中より玄蕃屋敷を攻め候引退き候。小口詰り大勢本口計りならず候て、塀を押破り、険難の所より人に人が重り転び、男女ともに四五十人踏殺され引退き候。城中は堅固に抱へ候。
正宗公、少々御気色余快らず候に付いて、二本松への御働、相延び候て4月初になされ候。内々近陣なされたく思召し候へども、去年の如く、佐竹・会津・岩城より、安積へ御出馬に候はば、城を巻ほごし、安積へ御出でなさるべき事を、如何に思召され、北・南・東三方よりも五日に御攻めなされ候へども、内より一人も出でず。やらい懸などは、二三度候へば、城能く候條、御攻めなされ候も成り難く候て、小浜へ御引籠なされ候。然る所に、相馬義胤より御使者にて、実元煩ひ候へども、義胤御頼み候に付いて小浜へ参り、御無事御取扱に候。別して御たいもくもこれなく、二本松籠城相退き候様にと御取扱いにて、同年七年十六日、本丸計り自焼候て、会津へ引退かれ候。地下人は思々に相退き候。拙者に城請取り申すべき由仰付けられ候間、其日に罷り越し、本丸に仮屋を仕り、正宗公七月廿六日に、二本松へ御出で御覧なられ候て、其日帰らせられ候。塩の松は白石若狭拝領申し候。其中数多諸人へ御加増に下され候所も御座候。二本松は成実に下され候。先づ安積表御無事の分にて、往来候者、送を以て罷り通り候体に御座候。
同年霜月、清顕公頓死なされ候に付いて、正宗公福島まで出御、田村へは御使者を以て、仰せ届けられ、則ち帰城なされ候。

語句・地名など

岩津野:岩角
天道:天の帝、運命、天の理
飯出井:飯土井?
繰ヶ作:栗か作
巻きほごす:(意味不明)
題目:条件

現代語訳

11月10日のころ、佐竹義重公・会津義広・岩城常隆・石川昭光公・白川義近申し合わせ、須賀川へ出陣し、安積方面の伊達に味方する城々へ戦をしかけ、中村という城を攻め、落城した。以上の知らせが急に小浜にきたので、政宗は岩角に移動され、高倉へは富塚近江・桑折摂津・伊藤肥前に、旗本鉄炮衆を300挺付き添えなされた。本宮の城へは瀬上中務・中島伊勢・桜田右兵衛が籠もることになった。玉の井の城には、白石若狭を詰めさせた。私は二本松が籠城していたので、八丁目の支配のため、渋川という城にいるよう指示がでたが、小浜に在陣していたため、どこも人数が少なかったので、すぐに来るようにと書状をいただいた。なので渋川に手勢を半分残して、塩松へまわり、小浜へ来たところ、已に出馬されていたので、後を追いかけた。留守のあいだに兵をあまり置かれなかったので、成実の兵を残すよう言い置かれていたので、青木備前・内馬場日向をはじめ、馬上のもの30騎ほどを残して、岩角へ行き、政宗と面会した。お聞きしたところ、前田沢兵部も寝返って会津へ味方したので、きっと明日は高倉か本宮へ戦闘が起こるであろうから、引き返すようにおっしゃった。なので糠沢というところにその日は在陣した。この前田沢兵部というのは、もともと二本松つかえていたものであるが、義継が切腹したときから伊達へ寝返ったところ、佐竹が出陣したというのを聞いて、また寝返った。
同11月16日、前田沢の南の原っぱに、敵は野陣をしいた。高倉への戦の準備であるだろうと政宗に言ったところ、政宗は岩角から本宮へお移りになった。本宮は、そのころは今は町になっているところが畑であったので、人もいないところで小川が流れていた。外には矢来が仕掛けられていたので、内の中だけに人がいた。高倉へ動かすべきであるといったところ、援軍のために本宮の兵を観音堂へ動かし、様子をみて、高倉へ討ち入ろうとしているようすだったので、太田原に兵をしいた。私も高倉へ援軍を送るべきであると思い、高倉街道の山の下に陣をしいた。敵は5000騎で、三筋に分かれて押し通ったので、高倉に籠城していた者たちは、本宮は人がすくなかったので、こちらから兵を出して、食い止めてみたいと申し上げた。またそれは無理だという者もいたが、富塚近江・伊藤肥前はたとえ押し込まれても、本宮へ通る兵を止めるたら、楽になると2人がいい、兵をだしたところ、そのように敵を押し込めた。すると、岩城の兵は入れ替わり、押し込めたので、両方の出口へ追い入れられ、味方から2,30人が討たれた。
敵の兵の数は多勢であったため、前田沢から出陣した兵は、観音堂から出てきた兵と戦いとなった。また荒井を攻めた兵は成実との戦いとなり、二つの入り口両方の戦となった。合戦が始まる前に、下郡山内記は私の陣場の向いにあった、小高い山の上へ登り、見たところ、白石若狭・浜田伊豆。高野壱岐の3人の旗指物が見えて、馬上6,7騎・足軽150人ばかりで、本宮の方へ高倉からやってきた。その後ろに1町ほどへだてて、たくさんの兵が来ていた。敵とは思わず、さてまた何者だろうと疑った。しかしながら、敵と味方との境のように見えたため、その間1町あまり隔てていたので、いぶかしく思い、見たところ、そのあいだで鉄炮ひとつ打ったところ、さては敵味方のさかいであると思い、乗って帰ってきて、山の上から敵のところまで来た。小旗をさせといってきたので、そのとき小旗をさしてまっていたところ、若狭・伊豆・3人がともに私の陣に逃げ込み、直接旗本衆のところへ通った。
観音堂から出た兵は、太田原に備えていたところ、敵が大軍であったので、堪えることが出来ずに、敗軍し、観音堂を攻められ、政宗の近習たちの近くまで追ってきた。茂庭左月をはじめとして、100人以上が打たれた。左月は頸は取られなかった。伊達元安斎元宗・同美濃・同上野・同彦九郎・原田左馬助・片倉小十郎をはじめとして、家中の主立った人々は必死に堪えたので、大きな敗軍はなかった。成実の陣は援軍ひあひとりも来ず、左は大川で、7町あまり敵の後ろになった。私成実は18歳の時で、ろくに判断できずにいたところ、下郡山内記は馬でやってきて、馬の上から私の小旗を抜き、観音堂の兵は追い崩され、押しきられたので、早く退くべきであると言って、小旗を徒歩の者に渡した。成実は、退いたとしても討たれるであろう。ここで討死しようと思い、退かなかった。
すると、敵から、白石若狭・高野壱岐・浜田伊豆3人を追いかけて、敵が山下までやってきたので、成実の兵を放ちかけたところ、敵は退いた。
ここに伊庭野遠江という、73になった軍功のある者が真っ先に乗り入れ、敵二人に取りかかり、うち一人の頸を配下のものにとらせ、山の南の下から5町あまり橋のところまで攻めて退かせたところ、橋のところで敵を追い返し、また味方が山へ老いアッげられた。そこへ羽田右馬助敵味方の境目を乗り分け、崩れなかったので、馬を立ち返し立ち返し、退いたので、槍持ちが一人進み出て、右馬助の馬を突いた。右馬助は取り返し取り返し突き外した前へ走りかかったところを、右馬助はひと太刀で切り落とした。その者も家臣の者に討たれ、向こうの家中も一人討たれ、退いたところ、戦を始めたところへまた追い付かれた。またそこから引き換えして、鉄炮大将の萱場源兵衛・牛坂左近の二人は敵の真ん中に乗り入れ、馬上の者を2騎ずつ斃そうとしたが、具足の上だったので、突き通すことはできなかったのだろうか。敵は退きはじめ、また元の橋まで追いかけて退かせた。北下野は馬で追いかけたところ、徒歩の者が走り出て、下野の馬を突いたので、下野も退き、味方も退きはじめた。伊庭野遠江、味方が崩れないようにと、殿をつとめ、行ったり来たりを々、味方から離れてしまった。冑を付けたら年取って居るので目が見えないというので、その日は兜をつけずに出陣していたので、敵は近くまでやってきて、頭をふた太刀切った。堪えることもできず、退こうとしたら、味方はそれからまた元のところへ追い付かれてしまった。なので、観音堂の戦いも決着付かずわかれ、敵が引き上げたので、成実も追いかけず、兵を集め、引き上げ物別れとなった。
観音堂はだれがどのようになったのか、別のところにいたので、わからなかった。伊庭野遠江は帰ってきて、そこで絶命した。
不思議な神の再拝によって、ひとつの隊もとられず、観音堂の戦と同じように、物別れとなった。合戦の様子は細かくは記さない。おおざっぱに書き付けた。
その後、観音堂へ敵を追い上げ、高倉の街道の川のほとりに陣を直したので、また一戦あるかと思っていたところ、5,6町離れていた政宗の兵は、何ごともなく退いた。こちらの兵の数も少なかったので、追いかけなかった。
この下郡山内記という者は、もともと輝宗へ仕えていて、相馬との合戦の際は鉄炮大将に任命され、たびたび報償をいただいていた。しかしそのときは勘気をこうむったため、成実をたより、成実の陣にいた。その日も味方が遅れたときは馬を何度も立ち返し、味方の力となり、敵を押し返すときも、真っ先に乗りかかり、敵と二度も取っ組み合った。家臣に頸を取らせ、比べる者のない軍功を上げた。
また同17日の晩、政宗も岩角へ引き上げられた。夜中ごろに山路淡路を使者にして、自筆の感状をくださった。「今日の戦い方は比べる者がいない。敵の後ろから戦をし、負けなかったことは前代未聞のことである。そのためあなたのおかげで大勢のものが助かった。怪我をしたもの・死者の数もきっと多くいるだろうが、とくに明日、敵方から本軍へ陣をひいたと聞いた。誰々を残されたいと思うけれども、誰がいいか見当もつかないので、大変だとは思うが、本宮へ入って欲しい。伊達上野も使わされた」と口上にて仰った。また淡路は今日の合戦、味方の者はどうなったか、付き添ってくる必要はなく、二人とも仕方なく敵にまぎれてやってきた。敵であるので、その様子はわからない。どちらも話していたのは、明日本宮に近く陣をしき、二本松に籠城している兵を退けられることについて詳しく話した。
日も暮れたので、ようやく敵陣を逃れてきたことを申し上げたところ、ただいま此様にご命令になった。本宮に籠城されるべきなので、その支度をすると言ったが、急のことであるので、心づもりもできず、18日の未明に、本宮の城へ入城した。敵の動きが遅いので、物見を寄越しただろうかと尋ねたところ、夜の内から付けていた。すると火の手が見えたので、陣を移したかと思ったところ、物見が早馬に乗ってやってきて、佐竹・会津・岩城の者たちは退却し、結局前田沢も退いたということを言ってきたので、前田沢へ人を送り、調べさせたが、ひとりもおらず引き上げた。政宗は本宮へお移りになり、仕置をなさったところ、多くの家臣がいたので、浜田伊豆は「昨日の合戦では、中村八郎右衛門が比べるもののない活躍をした。八郎右衛門のおかげで、味方は50も60も助かった」と申し上げた。そのとき八郎右衛門はご命令もなく刀を抜き敵を20騎ほど切り倒したせいで、岩を打ちそんじた刀をごらんになり、加増するべきであると命じられ、塩松に領地をいただいた。もしまた、この上も敵が戦をするかもしれないとお思いになったので岩角に2日間いらっしゃったのだが、何ごともなかったため小浜へ帰られ、年を越された。
天正14年、渋川の私のいるところで、元日に二本松から昼頃やってきた者がいた。私が働きかけるとまず馬上1騎、徒歩の者10人ほどがやってきて、陣場のはしの水くみ場へ乗り掛けて、水くみの者たちを追い返していた。城の中から兵をだし、合戦にあった。二本松への街道に、柴の小山があり道が一筋になったところを追いかけてきたところ、柴立のあとに、騎馬100騎ほど、足軽1000人あまりがおり、押し返された。道はいうに及ばず、川の方へも追い散らされた。鹿田右衛門は「遊佐佐藤右衛門は兼ねてから聞いていた者である。やり方を見るべきである」と思い、少し高いところへ右衛門は乗り上げ、見たところ、佐藤右衛門はこのあたりの生まれの者であったので、あたりのことをよく知っており、それぞれ追いかける道筋から西の方へ退き、敵が追いかけて通った者を、田んぼ一枚のなかで、3人に取り付き、2人の頸を取り、それから敵をおいあげ、敵1人を佐藤右衛門がとらえ、右衛門の居るところまで追い付いた。右衛門も堪えかねて、退いたと言った。野の中の道へ追い詰められた。
志賀大炊左衛門は真っ先に乗り入れ、4人に取りかかった。羽田右馬助は他を助けに行っていたので遅くかけつけ、脇から乗り入れて5人に取りかかり、その場所で30ほど頸を取り、そこから敵の足並みはわるくなった。八丁目からきた援軍は今の街道を、二本松へ押しきるように野の道を越えた。合戦城は二本松より東にあったので、押しきられるだろうと思い、二本松の兵が崩れたので、追かけて討った。鹿子田右衛門飯出井の細道に馬を立ち、逃げ散った者たちを押し返し、物別れした。
すると早々と日が暮れて味方も引き上げ、頸263取り、2日に小浜へ送り申し上げた。鹿子田右衛門は帰って、佐藤右衛門のことを馬の得意な者であると、かねてから聞いていたほどのものであると語っていたとあとで聞いた。

同年2月、二本松に籠もっていた蓑輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・同下総・堀江越中の5人は相談をし、政宗項へ「寝返って、二本松城をお取りになられるようするので、蓑輪玄蕃屋敷へ兵を入れられるように。地形もよいので、兵をお寄越しになりように」と言ってきたので、この5人の人質を取った上で、兵を夜中に送られた。4人のいるところは、城下で人を隠せるような場所も無かったので、玄蕃の屋敷へ退いたところ、その近所に住んでいる者たちが玄蕃屋敷へ示し合わせて入り、人多くいて、槍を回すことも出来ないほど詰めていた。また繰ヶ作というところも、願える予定だった。急ではなくとも、落城は難しいと思われたが、繰ヶ作は堅く籠城し、玄蕃の屋敷は二本松の本城と繰ヶ作のあいだにあったので、守ることが難しく、明け方に城中から玄蕃屋敷を攻めたので、退いた。出口は詰まり、本来の門からでることが出来なかったので、塀を押し破り、険しいところに人と人が重なり転びあい、男女ともに4,50人が踏み殺され、退却した。城は固く守られていた。
政宗は少々調子が良くなかったので、二本松への攻めは延期になり、4月の初めになった。うちうちに近く陣をしきたいと思われていたが、去年のように佐竹・会津・岩城より、安積方面へ出陣してきたら、城をまきほごし、安積へ出陣するのはどうかと思われ、北・南・東三方からも5日にお攻めになったけれども、城内から1人も出てこなかった。やらいに攻めかかるのは2,3ど行ったが、城が良かったため、お攻めになるのも難しかったため、小浜へお戻りになった。
そうしているうちに、相馬義胤から使者があり、実元はそのとき病気であったのだが、義胤の頼みに際して小浜へ来て、無事に仲介なされた。特に条件もなく、二本松の籠城していた者たちが退くようにとのいうことだったので、同年7月16日、本丸のみ自ら妬いて、会津へ退却した。領民たちは思い思いに退いた。私に城の受け取りをするようご命令になったので、その日にやってきて、本丸に仮屋を作り、政宗項は7月26日に二本松へ来られ、様子をごらんになって、その日お帰りになった。塩松は白石若狭が拝領した。その中多くの者が加増を下されたのもあった。二本松は成実に下された。とりあえず安積方面はなにごともなくなり、往来する者送り状を持って通るようになった。
同じ年11月、田村清顕が急死なさったので、政宗は福島までお出でになり、田村へは使者を送り、言葉を届けられ、すぐにお城にお帰りになられた。

感想

人取橋合戦から、二本松城開城までの様子が書かれています。
ここでおもしろいのは、

渋川の小競り合いのとき、柴立のあとにいた敵の人数、
『正宗公軍記』『伊達日記』:騎馬100騎・足軽1000人
『政宗記』:騎馬200騎・足軽24,500人

渋川合戦で取って小浜へ送った頸の数
『正宗公軍記』『伊達日記』:263
『政宗記』:340余り

と数が変わっているところであります。
これはおそらく『政宗記』の時点で盛ったのだなと思われます。
また『正宗公軍記』『伊達日記』の時点では出てこない「人取橋」の名称が見られ、おそらくこの二つのときにはまだそう呼ばれていなかった名称が『政宗記』執筆までに定着していたのではないかと予想できます。

*1:13年か

*2:松カ