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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『正宗公軍記』2-2:氏家弾正、義隆を恨み奉り、伊達へ申寄り御勢を申請け一揆起し候事

『正宗公軍記』2-2:氏家弾正、義隆を恨み、伊達へ言い寄り、援軍を受け、一揆を起こしたこと

原文

氏家弾正所存には、扨々移り替る世の中にて、刑部一党、伊達を賴入り、義隆へ逆心を存立て候砌は、拙者一人御奉公を存じ詰め、名生の御城籠城たるべく候間、岩手山を引移り、御切腹の共仕るべき由存じ詰め候所、案の外、義隆、某を御退治なさるべき御企、是非に及ばず候。此上は、某、伊達を賴入り義隆を退治し申し、命を免れたく存じ候て、弾正家中に、片倉河内・真山式部と申す者に申付け、米沢へ相上せ候。片倉小十郎を頼入るべき由申上げ候所、不慮に刑部、義隆を生捕り、伊達御忠義変改仕り、義隆を取立て申すべき所存に付いて、某、滅亡に及ぶべき体に候條、正宗公御助勢下され候はば、大崎容易く、正宗公御手に入るべき由、申上候に付いて、則ち小十郎、其由披露申候へば、正宗公、年来義隆へ御遺恨の儀といひ、刑部一党の親類共、御忠節違変仕り候事、口惜く思召され候。彼是以て、氏家弾正引立つべき由仰出され候。小十郎、則ち弾正使河内式部に御意の通り申し渡し候。両人喜び候て、急に岩出山へ罷下り、弾正に御意の通り聞かせ候へば、弾正、尋常ならず大慶申し候。名生の城は、義隆、新井田へ御越以来、明所となり候を、義隆の御袋御東と申せし御方と、御台と御子庄三郎殿を、人質の如く名生の城に抑へ置き、御守りには弾正親参河・伊庭惣八郎とを相副へ差置き候。
弾正所存には、不慮の儀を以て、譜代の主君に相背き、伊達へ御奉公仕る事、天道も恐しく存じ、流石主君の御子庄三郎殿を某御供申し、正宗公へ参り、傍輩になり奉るべき事、天道にも違ひ、仏神三宝にも放さるべき事を感じて、新井田の御留主居南條下総所迄、庄三郎殿を送り奉り候。二人の御方は、義隆にも庄三郎にも、放させられ候て、明暮の御歎にて御座候。御自害と思召し候も、流石左様にも罷ならず、御涙のみにて候。
天正十五年丁亥正月十六日、大崎へ大人数仰付けられ候。大将には、伊達上野・泉田安芸両人仰付けられ候。其外栗野助太郎・永井月鑑・高城周防・宮内因幡・田手助三郎・浜田伊豆、軍奉行として小山田筑前、御横目として小成田惣右衛門・山岸修理、其外諸軍勢共、遠藤出羽居城松山へ着陣仕られ候。大崎にて御忠節の衆は、氏家弾正・湯山修理亮・一栗兵部・一廻伊豆・宮野豊後・三の廻の富沢日向、何れも岩出山近辺の衆より外は、義隆奉公に候條、松山よりは手越に候間、此人数へ打加はるべき地形これなく候。松山に於いて、伊達上野・浜田伊豆・泉田安芸、其外何れも寄合ひ評定には、今度大崎弓箭月舟、御味方に候はば、幸四竈尾張も申寄られ候間、岩出山へも間近く候て、然るべき儀に候へども、黒川月舟逆意仕られ郡城へ入り、伊達勢押通り候はば、川北の諸山に籠り候衆、参りあはさせ防ぐべき由存じ候由、相見え候間、働き候儀も、調儀と候はんと評定に候。遠藤出羽申し候は、新沼の城主上野甲斐は私妹婿にて、御当家へ代々御忠節の者にて御座候間、室山に押を差置かれ、中新田へ打通られ候とも、別儀あるまじき由申し候。上野申され候は、左様に候とも、中新田へ二十里余の道に候。敵の城を後に当地を差置き、押通り候事、気遣の由申され候へば、泉田安芸所存には、上野殿久しく吾等と間さなく候。其上、今度大崎への御弓箭の企、某申上げ候て、御人数相向けられ、月舟事は上野介舅に候。彼といひ是といひ、今度の弓箭御情入るまじき由存じ候間、出羽申し候所尤に存じ候。氏家弾正、岩出山に在陣仕り、伊達勢の旗先を見申さず候はば、力を落し、義隆へ御奉公も計り難く候間、室山には押を置き、打通られ然るべき由申し候間、是非に及ばず、中新田へ働に相極め候。
黒川月舟逆心仕り候意趣は、月舟伯父に黒川式部と申す者、輝宗公御代に、御奉公仕り候飯坂の城主右近大夫と申す者の息女契約候て、名代を相渡すべき由、申合され候へども、息女十計りの時分、式部三十計りに候間、未だ祝言もこれなく候、右近大夫存分には、殊の外年も違ひ候。式部年入り候て、其身隠居も早くこれあるべく候。正宗公へ御目懸にも上げ候て、彼の腹に御子も出来、名代共相立て候様に申上げ候はば、家中の為に能くこれあるべき由思案致し、違変申し候に付いて、黒川式部迷惑に存じ、月舟所へも参越さず後へ引切り申し候。此恨、又月舟は、大崎義隆へ継父に候。義隆御舎弟義康を、月舟の名代続にと申され、伊達元安の婿に致され候て、月舟手前に置かれ候間、義隆滅亡に候へば、以来は其身の身上を大事に存じ、逆心を企てられ候と相見え申候。

語句・地名など

現代語訳

氏家弾正は「さて移り変わる世の中であるので、刑部一党が伊達を頼み義隆を裏切ろうとしていたときは、私ひとりでも奉公をし、名生の城に籠もろうと岩出山から移り、切腹の供をしようとまで思い詰めていたが、想定外に義隆が私を退治なさるよう企てをなさったとあらば、仕方ない。この上は私は伊達を頼り、義隆を退治し、生き延びたいと思う」と思ったので、弾正家臣に片倉河内・真山式部という者に申し付け、米沢へ行かせた。
片倉小十郎を頼むよう言っていたところ、予想とちがって刑部が義隆を生け捕り、伊達への寝返りの約束を破り、義隆を取り立て申し上げると思ったため、私は滅ぼされるだろうと思ったので、政宗がお助けしてくださるならば、大崎領はたやすく政宗の者になるだろうと申し上げた。すぐに小十郎がそのことを申し上げたところ、政宗は常日頃から義隆へ恨みを持っていたといい、刑部の一味の親類たちが裏切りの約束を違えたことを口惜しく思われていた。かれこれあって、氏家弾正の味方をすると仰った。小十郎はすぐに弾正の使いである河内式部にご命令のとおり言い渡した。2人は喜んで、急いで岩出山へ戻り、弾正にご命令の通り聞かせたところ、弾正は大変悦んだ。名生の城は義隆が新井田へ着て以降、空き城となっていたところを、義隆の母御東の方と、正室と子息庄三郎を人質のように名生の城へおさえ置いて、首尾には弾正の父参河・伊庭惣八郎とをつけてさしおいた。
弾正は思ってもみなかったことで、代々仕えた主君に背き、伊達へ寝返ることは、天の神も怖ろしく思い、さすがに主君の子である庄三郎をお伴いたし、政宗のところに連れて行き、同じ身分になるのは、天の道に背き、仏神の三宝にもみはなされるべき事であると思い、新井田の留守居役である南條下総のところまで庄三郎をお送りした。2人の女性は義隆とも庄三郎とも離されて、1日中嘆き悲しんでおられた。自害しようと思っても、さすがにそのようにはできずに、泣かれるばかりであった。
天正15年1月16日、政宗は大崎へ大軍勢を送られた。大将として伊達上野・泉田安芸の2人に命じられた。そのほか栗野助太郎・永井月鑑・高城周防・宮内因幡・田手助三郎・浜田伊豆、いくさ奉行として小山田筑前、目付役として小成田惣右衛門・山岸修理、そのほか諸軍勢共、遠藤出羽の居城である松山へ着陣した。大崎で寝返ったのは、氏家弾正・湯山修理亮・一栗兵部・一廻伊豆・宮野豊後・三の廻の富沢日向など、いずれも岩出山近辺の者遺骸は、義隆に仕えていたものであったので、松山からは通るのも難しい狭い通路であったので、この兵に加えるべき場所はなかったのである。松山にて、伊達上野・浜田伊豆・泉田安芸、そのほかみなが集まった話し合いでは、今回の大崎の戦は月舟斎が味方ならば、幸い四竈・尾張も言い寄ってきたので、岩出山へも距離が近くて、然るべきことであるが、黒川月舟斎が心替えをして、城へ入り、伊達勢がおし取ったならば、川北の山々に籠もっている兵が集まってきて、防ぐだろうと思い、そう思えたので、戦闘を仕掛けるのも、工作をしなくてはならないと話し合いになった。
遠藤出羽は「新沼の城主上野甲斐は私の妹の婿でありますので、伊達家へ代々忠節を誓っている者でありますので、室山に押さえを置かれ、中新田へ通られようとも、何か問題があることはない」と言った。上野は「そうであっても、中新田へは20里あまりの距離である。敵の城を後ろにしてその地を差し置き、押し通ることは心配である」と言ったところ、泉田重光は「上野介は長らく私たちと親しくしていなかった。そのうえ、今回の大崎への戦の企ては、私が言って兵を向けられた、月舟は上野介の舅である。あれこれといい、今回の戦に情けを入れるべきではない」と思ったので、出羽の言っていることがもっともだと思った。氏家弾正は岩出山に在陣し、伊達勢の旗先を見ないというならば、力を落とし、義隆へ再び仕えるかもしれないので、室山には押さえをおいて、押し通るべきであると言ったところ、仕方なく、中新田に戦を仕掛けることになった。
黒川月舟斎が伊達に逆らった理由は、月舟斎の伯父に黒川式部という者がいた。輝宗公の代に仕えており、飯坂の城主右近大夫という者の娘と婚姻の約束をして、跡継ぎとするように約束していたのだが、娘が10ばかりの頃、式部は30ぐらいになっていたので、まだ祝言もあげていなかった。右近大夫は思っていたより年齢差があるし、式部は年も取っているし、隠居も早いだろう。娘を政宗の妾にでもあげ、子が生まれたらそれに跡を継がせようと思ったら、家中のためにもそれがいいと思いはじめ、約束を破ったため、黒川式部は大変不快に思い、月舟斎の所へもこず、縁を切ったのである。その恨みの上、月舟斎は大崎義隆にとって継父であった。義隆の弟義康を月舟斎の跡継ぎにといい、伊達元安斎元宗の婿にして、月舟斎をそばに置かれたので、義隆が滅亡するのなら、将来の身の上をおおごとに思い、寝返りを計画したのだと思われた。

感想

氏家弾正の立場と素性について書かれた章です。
伊達上野こと留守政景と、泉田重光との確執や、氏家弾正の寝返りへのためらいなども描かれ、ドラマチックな場面です。