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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『正宗公軍記』2-3:下新田に於て小山田筑前討死附伊達勢敗北の事

『正宗公軍記』2-3:下新井田において、小山田筑前が討ち死にしたことと伊達勢敗北のこと

原文

氏家弾正は、伊達の御人数遣さるべき由、御意候へども、今に村押の煙さきも見えず、通路不自由故、何方よりの註進もこれなく、今や今やと相待ち、二月も立ち候間、朝暮気遣い致し候。然る所に、二月二日、松山の軍勢、打出川を越し、先手の衆段段、室山の前を打通り、新沼に懸り中新田へ相働き候。下新田の城葛岡監物、其外加勢の侍大将には、里見紀伊・谷地森主膳・弟屋木沢備前・米泉権右衛門・宮崎民部・黒沢治部、此者共籠り候て、伊達の人数、中新田へ押通り候はば、一人も通すまじき由、広言を申し候へども、流石多勢にて打通り候間、出づべき様もこれなく、抑をも置かず候て、打通り候跡の室山の城へは、侍大将古川弾正・石川越前・葛岡太郎左衛門・百々左京亮籠め置き候。川南には、桑折の城主黒川月舟籠る。城主飯川大隅といふものなり。両城、道を挟み候故、伊達上野・浜田伊豆・田手助三郎・宮内因幡、四百騎余りにて、室山の南の広畑の所に相控へ候。先手の人数、中新田近所へ押懸かり候間、内より南條下総と申す者、町枢輪より四五町出て候所を、先手の人数、一戦を仕り、内へ押込め付入り致し、二三の枢輪町構迄放火仕り候。下総、本丸へ引籠り堅固に持ち候。敵の城共数多打通り候條、跡を気遣に存じ候て、小山田筑前下知仕り、総手を川上へ段々にまとひを相立て候。氏家弾正は、俄の働にて、中新田迄とは存ぜず、取る者も取敢ず罷出で付入りに仕り、方々焼払ひ引上げ候間、伊達の人数も押加へず引上げ候。其頃、日も短く、殊に深雪にて、道一筋に候間、伊達の人数、急に引上げ候事もならず候て、七つさがりになり候。下新田の衆、通りし勢を返すまじき由、申遣し候へども、伊達勢、ものとも存ぜず、出で候人数を、追入れ追入れ通り候。上野・浜田伊豆の人数へ打添ふべき由存じ候所に、跡の人数、疾に引上げ候間、室山より罷出で、二重の用水堀の橋を引き候故、通り候事ならず、新沼へ引返し候跡に於て、下新田衆に合戦候所に、切所の橋を引き候由承り、味方諸軍勢足並悪しく候へども、小山田筑前、覚の者に候間、引返し合戦候故、大崩はこれなく候。筑前返し合せ戦ひ、敵を追散し、歩の者一人側へ逃げ候を物討仕るべく存じ候て、其者を追懸け、十四五間脇へ乗り候所に、深田の上に雪降り積り、平地の如く見え候所へ、追懸け馬をふけへ乗入れ、馬逆になり候故、筑前二三間打貫かれ候て馬に離れ候。筑前、手綱を取り引上げんと致し候へども、叶はざる所を、敵、見合せ打返し、筑前を討たんと懸かり候間、手綱を放し太刀を抜いて切合ひ候。敵、後ろへ廻り、筑前片足を切つて落され、則ち倒れ候。去りながら太刀を捨てず切合ひ候。老武者の殊にて、息をきり打出し候太刀も弱り候間、四竈の若党走り寄り、首取らんと仕り候を、太刀を捨て引寄せ、脇差を抜き只中を突止にして、両人同じ枕に臥し候を、跡より参り候者、首は取り候。敵方の者共、川より南に相控へ、軍破れざる前は、川をも越さず居候ひしが、味方負色になり候を見合せ、川を越し下新井田衆へ加はり候故、日は暮れ懸り、小山田筑前討死故、味方敗軍仕り、数多討たれ申し候。切所の橋を引かれ、新沼へ引籠り、軍勢共籠城致し候。
小山田筑前討死の朝、不思議なる奇瑞候。宿より馬に乗り十間計り出で候所に、乗りたる馬、時の太鼓は、早やおそきおそきと物をいひければ、筑前召連れ候者、興を醒まし申し候。筑前聞いて、今日の軍は勝ちたるぞ、目出度と申し候。討死以後、其馬を敵方へ取る。見知りたる者候て申し候は、此馬は、一年、義隆御祈祷の為、箟嶽の観音へ神馬に引かせられ候御馬の由申し候。義隆聞召し、其馬を引寄せ御覧候へば、誠に神馬に引かせられ候御馬の由覚えられ候。何方を廻り、筑前乗り、此軍に討死仕り候や、神力の威光あらたの由、何れも申し候。義隆、筑前指物を最上義顕へ遣され候。義顕、彼の筑前は、兼ねて聞及び候名誉の覚えの者に候由仰せられ、黒地に白馬櫛の指物を、出羽の羽黒山へ納められ候。冥加の者の由申す事に候。
上野介・浜田伊豆、先の人数を引付けたく存ぜられ候へども、早や口*1は暮れ候。川を越し北に備へ候間、桑折室山より出で候はば、退兼ぬべき由存ぜられ候。月舟は上野舅に候間、上野より使者を以て申され候は、爰許引退きたく存じ候。異議なく御退かせ預かりたく候と申し候所に、月舟より挨拶には、尤も貴殿御一人引退かるべく候。其外罷りなるまじき由申され候。重ねて上野申され候は、浜田伊豆始めとして一両輩、同備の衆御座候を相捨て、拙者一人罷り退くべく候や、とても拙者を相通さるべく候はば、彼の方々も相退かれ預かるべく候。左様なるまじきに於ては、討死に相極め候由申され候。左候へば、月舟の伯父八森相模申し候は、上野殿を始めとして、討果し弓矢の実否相付け然るべく候。大崎は洞区口に候。正宗公は大身にて御座候間、終に月舟の身上相助くべきの儀にもこれなく候。仕るべき事を控へ、滅亡詮議なきの由、頻に異見申し候へども、月舟、流石婿を討果し候事、痛はしく存ぜられ、左様に候はば、其許に相備へられ候衆、何れも上野同心相退けらるべく候由、申され候に付いて、引退かれ候所に、中新田衆切れ候て、横に引かれ候故、思の外、新沼へ籠城を致され候。
新沼籠城の衆、五千に及び候間、新沼小地にて食物もこれなく、餓死に及び候体に候。正宗公内々御人数をも遣され引出されたく思召し候へども、仙道へ御気遣にて、左様にもならせられず候。新沼の衆申し候は、室山を押通り向ふ敵を切払ひ、松山へ引退くべき由申候所に、深谷月鑑申され候は、桑折・室山両地、退口狭く候。左様候とも、地形能く候はば苦しからず候。大河を越し候砌、双方より仕懸け候はば、手も取らず、犬死を仕るべく候間、先づ様子を見合せられ然るべき由、申され候に付いて相延し候。
百々の鈴木伊賀・古川の北江左馬之助、中途へ罷出で、新沼へ使を越し、大谷賀沢呼出し候て申し候は、泉田安芸・深谷月鑑両人を、人質に相渡され候はば、諸軍勢は引退かすべき由申し候。大谷賀沢引籠もり、其由申し候へば、泉田安芸家中湯村源左衛門と申す者申し候は、中々に多勢切つて出て、討死は覚悟の前にて候。諸軍勢を退かせ候て、安芸一人、末には介首を切られ申すべく候間、死後迄の恥辱に罷成り候條、安芸合点申さるまじき由申し候。月鑑申され候は、我等共両人証人に渡り、諸軍勢相収め申す事は、正宗公迄御奉公に罷成り候間、是非証人に渡り申すべく候。安芸殿は、何と思召し候と申され候、又源左衛門申し候は、貴殿の御心中、疾に推量申し候由にて、口論仕り候所に、安芸申され候は、源左衛門申す事無用に候。我等は人にも構ひ申さず、一人にても人質に相渡り申すべく候。諸勢を相助け申すべき由申し候て、其通り、鈴木伊賀・北江左馬之助所へ申断り、右より月鑑は人質に相渡るべき由申され候間、両人共に、二月廿三日に新沼を出て、蟻ヶ袋と申す所へ参られ候間、諸勢松山へ引退き候。浜田伊豆・小成田宗右衛門・山岸修理、米沢へ伺候致し、大崎弓箭の様子申上げ候。御意には、今度余りに深働仕り、越度を取候。重ねては氏家弾正に仰合され、桑折・室山二箇所の城を取らせられ、弾正に打加はり候様に、なさるべしとの御意にて御座候。
最上より義顕御使者として、延沢能登と申す衆を、蟻ヶ袋へ差越され候。能登、永井月鑑へ会ひ候て、何と談合申され候や、月鑑は深谷へ帰り候。泉田安芸一人、小野田へ同心申し候。小野田の城主玄蕃・九郎左衛門両人に、安芸を渡し申され候。其夜、能登・安芸へ罷越し申され候は、貴様引取り申す事は、相馬・会津・佐竹・岩城申合され、伊達殿へ弓箭を取り申すべき由にて、相馬より使者として橡窪又右衛門と申す者差越され候。貴殿御好身の衆、仰合され候て、逆心をなさるべき由申され候。安芸申し候は、某は主君の奉公に一命を捨て、新沼籠城候諸軍勢を相助け申し候。御弓箭の儀は存ぜず候。拙者首、早々召取られ下され候様にと、頼入る由申候へば、能登申し候は、安芸申す様比類なき儀に候由、褒美申され候。安芸存じ候は、此様子、正宗公へ御知らせ申したく存じ、齋藤孫右衛門と申す者、忍使に米沢へ相登らせ候て、具に申上げられ候。最上義顕公は、正宗公御伯父にて候へども、輝宗公御代にも、度々、御弓箭に候。然れども、近年は別して御懇に候。去りながら、義顕公は、家の足下兄弟両人迄、切腹致させたる大事の人にて、油断ならず候。正宗公、二本松・塩の松の御弓箭強く候て、佐竹・会津・岩城・石川・白川、御敵に候故、右の諸大名仰合され、今度伊達へ御弓箭をなされ、長井を御取りこれあるべき由、思召し候所に、結句大崎に於て、伊達衆討負け、諸勢の人質として、泉田安芸を最上へ相渡され候間、此砌、米沢への手切と思召され、最上境鮎貝藤太郎と申す者申合せ、天正十五年三月十五日に、鮎貝藤太郎手切仕り候。正宗公聞召され、時刻を移しなるまじく候條、則ち御退治なさるべき由、仰出され候。家老衆申上げ候は、最上より御加勢これあるべく候。其上又、最上へ申寄候衆も、御座あるべく候間、様子御覧合せられ、御出馬然るべき由申上げ候所、尤も申す所拠なく候へども、左様に候はば、米沢を出で候事なるまじく候間、此節、鮎貝に於て、是非を相付けらるべき由御意にて、則ち出発せられ候所に、最上より一騎一人も、御助これなき故、藤太郎、頻に御人数残され候様にと、最上へ申上げ候へども、遺されず候。其上正宗公、米沢を御出で候由、藤太郎承り、則ち最上へ引退き候故、長井中仔細なく候。
深谷月鑑は、相馬長門殿御為めには、小舅にて候。下新田に於ても、月鑑の者共は、無玉の鉄炮を打ち候由、正宗公聞召され、左様の儀もこれあるべく候。深谷は大崎境目に候。相馬殿へも縁辺に候間、逆心の存分計り難き由、思召され候て、秋保摂津守と申す者に預け置かれ、切腹仰付けられ候。
氏家弾正親参河は、子供にも違ひ、大崎義隆へ御奉公仕り、名生の城に居候て、城を抱き義隆へ御奉公仕り候。正宗公氏家弾正に御疑心なされ候所に、弾正申上げ候は、親参河、義隆へ奉公仕り候間、御尤に存ぜられ候。去りながら私に於て、異議を存ぜず候由、度々起請文を以て申上げ候に付いて、聞召し届けられ候故、御横目を下され候様にと申上げ候。夫に就いて、小成田惣右衛門、岩出山へ差越され候。其以後、氏家弾正病死申し候に付いて、惣右衛門、岩出山の城主の如く、同前に万事申付け相抱へ候所に、関白秀吉公、小田原御発向なされ、大崎・葛西を、木村伊勢守拝領仕られ候間、小成田惣右衛門も岩出山より罷下り候。

語句・地名など

七つさがり:ななつすぎ、午後四時頃/空腹
突き止め:突き刺してうごかなくさせる
時の太鼓:時刻を知らせる太鼓
区々なり:ばらばらであること、小さいこと
なかなか:ちゅうとはんぱに

現代語訳

氏家弾正は、伊達の軍勢を遣わせるようとご命令があったが、まだ村を押さえる様子もなく、通路も不自由であったので、何らかの連絡もなく、今か今かと待ち、ふた月も経ったので、1日中心配していた。そのところに2月2日、松山の軍勢が出発して川を越え、先鋒の兵がじょじょに室山の前を通り、新沼にかかり、中新田へ動いた。下新田の城主葛西監物、そのほか加勢の士大将として里見紀伊・谷地森主膳・弟八木沢備前・米泉権右衛門・宮崎民部・黒沢治部、このものたちが籠もり、伊達の軍勢が中新田へ押し通ったならば、1人も通さないことを広言したが、さすがの多勢にて通っていったので、城から出てくる様子もなく、押さえも置かなかったため、通った跡の室山の城へは、侍大将の古川弾正・石川越前・葛西太郎左衛門・百々左京亮を置いた。川の南には、桑折城主黒川月舟斎が籠もった。城主は飯川大隅というものであった。両城は道を挟んでいたので、伊達上野・浜田伊豆・田手助三郎・宮内因幡、400騎あまりをつれ、諸山の南の広畑に控えた。先鋒の兵が中新田の近所へ押し掛かったので、内から南條下総という者、町枢輪から4,5町でて来たところを、先鋒の兵は一戦を行い、内へ押し込め、付けいり、2,3の枢輪と町構まで火を放った。下総は本丸へ籠もり、固く籠城した。敵の城々を多く通っていったので、後ろを心配して、小山田筑前が命令し、総軍を川上へ徐々に陣をたてた。氏家弾正は急な戦闘であったので、中新田までとは思わず、取るものも取りあえず出陣して付けいった。あちこち焼き払い、引き上げたところ、伊達の兵もそれ以上は攻めず、引き上げた。その頃、日も短く、特に雪が深かったので、道は一筋になって伊達の兵は急に退くこともできず、七つ過ぎになった。
下新田の衆は通った軍勢を返さないよう言い遣わしてきたが、伊達勢はものとも思わず、出てきた兵を追い入れ追い入れ通った。伊達上野・浜田伊豆の兵へ合流しようと思っていたところに、あとの兵がすばやく引き上げたので、室山から出て、二重の用水堀の橋を落としたので、通ることが出来ず、新沼へ引き返したところで、下新田衆と合戦になったところ、難所である橋を落とされたことを聞き、味方の軍勢の足並みがわるくなったが、小山田筑前は賢い者だったので、引き返し合戦をしたので、大崩れはしなかった。筑前は引き換えして戦い、敵を追い散らし、徒歩の者が1人そばへ逃げてきたのを取り付こうと思い、その者を追いかけ、14,5間脇へ乗ったところ、深い田の上に雪が降り積もり、平地のように見えたところに追いかけ、馬を深い田に乗り入れてしまい、馬は真っ逆さまになったので、筑前は2,3間うち貫かれて馬から離れてしまった。筑前は手綱を取り、引き上げようと思ったが、出来なかったところを、敵は見て引き返してきて、筑前を討とうとやってきた。手綱を放し、太刀を抜いて斬り合った。敵は後ろへまわり、筑前は片足を切って落とされ、たちまち倒れた。しかしながら太刀を捨てずに斬り合った。老武者であったので、息は切れ、振るった太刀も弱っていたが、四竈の若い武者が走り寄り、頸を取ろうとしたのを、太刀を捨てて引き寄せ、脇差を抜き、身体の芯を突き刺して動けなくさせ、2人同じように倒れたところ、あとから来た者が頸を取った。
敵方の者たちは川から南に控え、戦が始まる前は川も越えず居たのが、味方の敗色がこくなったところを見て、川を越えてきて下新井田衆へ加勢したので、日は暮れ掛かり、小山田筑前が討死したため、味方は負け、たくさんの兵が討たれた。難所である橋を落とされ、新沼へ引き籠もり、軍勢は籠城した。
小山田筑前が討ち死にした朝、不思議な兆候があった。宿所から馬に乗り、10間ほど出てきたところに、乗っていた馬は時の太鼓はもうおそいおそいとものを言ったので、筑前の家臣たちは驚いた。筑前はこれを聞いて今日の戦は勝ちであるぞ、めでたいと言った。討死したあと、その馬は敵方へ渡ってしまった。見知った者がいて、いうには、その馬は一年義隆が祈祷し箟岳観音へ神馬としてお送りになったものだといった。義隆はそれをお聞きになり、その馬を引き寄せてごらんになったところ、まことに神馬になる馬であったので、覚えていた。何処をまわって越前がのり、この戦にて討死したのだろうか、神力の威光ははっきりとしているとみな言った。義隆は筑前の差し物を最上義光へ遣わした。義光、かの筑前はかねてから名の知れた名誉の者であることを言い、黒地に白馬櫛の指物を、出羽の羽黒山へ納められた。神仏の恵みを受けた者であると言った。
上野介・浜田伊豆は、先鋒を引き付けようと思ったが、既に日はくれていた。川を越え、北に備えていたが、桑折の室山からでてきたならば、退却しかねると思った。月舟斎は上野の舅なので、上野から使者をもって「われわれは退却したいと思っている」と伝えた。問題なく退却させたいと言ったところ、月舟斎からの返事は「あなただけひとり退却しなさい。その他の者たちは駄目だ」と言った。上野はさらに「浜田伊豆はじめとして、同じ備えの同僚たちも全員棄てて、私ひとりが退く訳にはいきません。私を通してくれるのであれば、他の人たちも退かせてくれるべきである。そうでないのであれば、討ち死にする」と言った。
すると月舟斎の伯父八森相模は「上野殿をはじめとして、討ち果たし、戦の勝ち負けを付けるべきである。大崎は家中がばらばらであります。政宗は大名であるので、最終的に月舟斎の身の上を助けるべきときでも、おそらくしないでしょう。するべきことをやめ、滅亡するのは仕方ない」と頻りに意見したが、月舟斎はさすがに婿を討ち果たすことは痛ましく思われ、そうなったら、そこに備えられた兵は何れも上野と供に退却するべきだと言ったので、退却したところ、中新田衆が切れて、横に惹かれたので、想定外に、新沼で籠城することになった。
新沼籠城の兵は5000に及んでいたが、新沼は小さなところで、食べるものもなく、餓死になりそうになった。政宗は内々に兵を送り、連れ出そうと思われたけれども、仙道方面への心配があり、それはできなかった。新沼の衆がいうには、室山を通り、向かう敵を切り払い、松山へ退くべきと言ったときに、深谷月鑑斎が「桑折・室山の土地は退き口が狭い。そうであっても地形がよいときは難しくないが、大川を越えるとき、双方から仕掛けられたら、手もとらず、犬死にをするだろうから、とりあえず様子を見るべきである」と言ったので、延期された。
百々の鈴木伊賀・古川の北江左馬之助は中途へ行き、新沼へ使いを遣わせ、大谷・賀沢を呼び出して、泉田安芸・深谷月鑑の2人を、人質にして渡されたならば、諸軍勢は退却させると言ってきた。大谷・賀沢は籠城し、その旨を言ったところ、泉田安芸の家臣湯村源左衛門と言う者が、中途半端に多勢で切って出て、討ち死にするのは覚悟の上である。諸軍勢を退却させ、安芸1人、のちには頸を切られるだろうから、それは死後までの恥辱になるだろう。安芸はそれを受け入れるべきではないと言った。
月鑑斎は私たち2人は人質になり、諸軍勢を収めることは政宗への奉公になるので、是非人質になるべきである。安芸はどのように思っていらっしゃるのかと言った。また源左衛門は、あなたの心のうちはとっくにわかっているいい、と口論になったときに、安芸は源左衛門の言うことは無用である。私は人にはかまわず、1人であっても人質になり、諸軍勢を助けると言った。鈴木伊賀と北江左馬之助のところへ断ってきた。もとから月鑑斎は人質になると言っていたので、2人とも2月23日に新沼をでて、蟻ヶ袋というところへいき、諸勢が松山へ退却した。浜田伊豆・浜田伊豆・小成田宗右衛門・山岸修理は米沢へ帰って大崎合戦の様子を申し上げた。政宗は、今回あまりに深入りし、失敗した。再び氏家弾正に申合せ、桑折・室山2箇所の城を取らせ、弾正に加わるようにしろとのご命令があった。
最上より義光の使者として延沢能登という者を蟻ヶ袋へ遣わした。能登は長井月鑑と会って、なんと話し合ったのだろうか。月鑑は深谷へ戻った。泉田安芸1人が小野田へ連れて行かれ、小野田の城主玄蕃・九郎左衛門の2人に安芸は引き渡された。
その夜、能登は安芸のところに来て「あなたを引き取りするのは、相馬・会津・佐竹・岩城が言い合わせ、伊達へ戦をしようということで、相馬から使者として橡窪又右衛門という者が送られてきた。あなたの兵も言い合わせて政宗を裏切るべきである」と言った。安芸は「主君への奉公に一命を捨てて、新沼に籠城している軍勢を助けた。戦のことは知らない。私の頸を早く召し捕ってください」と頼んだので、能登は「安芸の言い様は比べる者がないほど素晴らしいことである」と褒めた。安芸はこの様子を政宗に知らせたいと思い、斎藤孫右衛門という者を忍びの使いとして米沢へ送り、詳細をお伝えなさった。最上義光は政宗の伯父であるけども、輝宗の時代にも度々戦になっていた。しかし最近は特に親しくしていたが、義光は家中の家臣や兄弟を2人とも切腹させるような酷い人で、油断するべではない。政宗は二本松と塩松の戦にて圧勝し、佐竹・会津・岩城・石川・白川が敵となり、右の諸大名は言い合わせ、今回伊達へ戦を仕掛け、長井を取ろうというのだろうと思われたので、結局大崎に於いて伊達衆は負け、諸税の人質として泉田安芸を最上へ渡されたのである。このとき、米沢との合戦になると思われ、最上境の鮎貝藤太郎という者と言い合わせ、天正15年3月15日に、鮎貝藤太郎は手を切った。
政宗はこれをお聞きになり、時がたっては行けないと思われ、すぐに退治しなくてはと仰せられ、家老衆は、最上から加勢があるはずだと言った。そのうえまた、最上へ言い寄った者たちも居る様子をごらんになったので、出陣するべきと申し上げたところ、根拠がなかったので、そうなるなら、米沢を出ることはすべきではないので、このとき、鮎貝において、勝敗を付けるべきとお思いになり、直ぐに出発された。すると、最上からは1騎1人も助けはなく、藤太郎は頻りに兵を遺してくださるようにと最上へ申し上げたが、遺すことはしなかった。そのうえ政宗が米沢を出発したと藤太郎は聞き、直ぐに最上へ退却したので、長井領内は問題なかった。
深谷月鑑斎は、相馬長門義胤の小舅であった。下新田においても、月鑑の者たちは玉の入っていない鉄砲を打っていたと政宗はお聞きになりり、そのようなこともあるだろう、深谷は大崎との境目であり、相馬とも近いので、裏切る可能性があるだろうとお思いになったのか、秋保摂津守という者に預けられ、切腹を仰せつかった。
氏家弾正の親参河は、子どもとも争い、大崎義隆へ仕え、名生の城に居て、城を保ち、義隆へ奉公した。政宗は氏家弾正に疑いなさったときに、弾正は「私の親の参河は義隆へ奉公しているので、お疑いになるのは尤もでございます。しかしながら、私は寝返る気はありません」と度々起請文をもってさし上げ、目付役をおつけになさいますようにと言ったので、それについて、小成田惣右衛門が岩出山へ遣わした。その後、氏家弾正が死んだので、惣右衛門は岩出山の城主のように、同じようにすべてを命令し、城をかかえていたところに、関白秀吉が小田原を出発なされ、大崎・葛西を木村伊勢守に拝領したので、小成田惣右衛門も岩出山より戻った。

感想

これは成実の文章全体に言えることなのですが、死んだ家臣・傍輩について、非常に詳しく書いています。このときの戦には成実は参加していないと思われますが、それでも詳しく書いています。
執筆の動機に、鎮魂もあったのではないかと思います。

*1:日か