[sd-script]

伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『正宗公軍記』2-5:大内備前、御下へ参りたく御訴訟申上げ候事附同人苗代田へ再乱の事

『正宗公軍記』2-5:大内備前、政宗の配下になりたいと訴えてきたことと、苗代田への再びの襲撃のこと

原文

天正十五年、最上・大崎は御弓箭に候へども、安積表は先づ御無事の分にて、何事もこれなく候間、苗代田・太田・荒井三箇所は、成実知行致し候。敵地近く候へども、御無事に候間、何れも百姓共を返し在付け候。苗代田は阿児が島・高玉敵地にて、近所に候間、古城へ百姓共集め差置き候間、田地を仕り候。大内備前、我等所へ申され候は、不慮の儀を以て、正宗公御意に背き候て、斯くの如きの身上に罷成り候。小浜を罷退き候時分、会津三人の宿老衆、異見申され候は、何とも塩の松の抱なり難きに、其上正宗公、岩津野の地を召廻られ、地形を御覧なされ候由承り候、定めて御攻めなされ候か。近陣なさるべく候由、思めされ候と相見え申し候。左様に候はば、近陣候てはやはや二本松への通路なり難く候。尤も取られ候ては、小浜を引退き候事なるまじく候間、会津宿老松本図書助跡絶え候。此知行、明地に候間、下され候様にと申し候て、会津の宿老に仕るべき由申され候條、罷退き候所に、知行の事は申すに及ばず、御扶持方なりとも下されず、餓死に及び候体に御座候間、正宗公御下へ、不図伺候致したく候。少々御知行をも下され、召仕はれ候様にと、成実を頼み入れたく候。去乍ら御意に背き、斯様申上げ候とも、御耳にも入るまじく存じ候間、某弟片平助右衛門御奉公仕り候様に、申すべく候間、夫を以て、某をも御赦免なされ候様にと、申され候に付いて、片倉小十郎を以て、拙者申上げ候趣は、大内備前儀は、召出され然るべく候。其仔細は、清顕公御遠行此方、田村無主に候間、内々区々の様に承及び候。大内備前、本意を仕りたき由存じ候て、弓箭の物主にも罷成り候はば、如何に存じ候。其上、片平の地は、高玉・阿児が島よりは、南にて御座候間、片平助右衛門御奉公に於ては、右の両地は持ち兼ね、会津へ引退き申すべく候。左様候へば、高倉・福原・郡山は、御味方の儀に候間、御弓箭なされ候とも、御彼って一段能く御座候。備前に御知行を下され、召出され、然るべき由申上げ候へば、御意には、大内口惜しく思召され候へども、去年輝宗公、御果なされ候砌、佐竹・会津・岩城御相談を以て、本宮へも御働なされ候。此御意趣、御無念に思召され候間、御再乱なさるべく候由思召し候條、尤も片平御奉公に於ては、大内事、御赦免なさるべく候條、具に申合すべき由御意に候。右使仕り候者を以て、大内備前へ、追て早々申越さるべく候由申遣し候。斯様の儀、白石若狭へ知らせ申さず候ては、以来の恨を請候儀、如何に存じ候とて、若狭へ物語申し候へば、若狭、一段然るべく候。塩の松百姓、大内備前譜代に候間、万事気遣申し候。御下へ参り候へば、大慶の由申し候間、拙者も左様に存じ候て、米沢へ申上げ候由申し候。然る所に、大内備前より申し候は、彼の一儀洩れ候事遺憾候。只今会津に於て、其隠なく申廻り候。此分に候はば、切腹仕る儀も計り難き由申越し候。拙者挨拶申し候は、別して他言申さず候。白石若狭、只今は小浜に居られ候間、其方御奉公の品、彼方へ申さず候ては、取成ならず候間、白石若狭に物語り申し候。若狭、其口へも物語り申され候由と存じ候由申越し候。其後白石若狭、我等に申され候は、大内備前、我等を頼み罷出でたき由申され候由、若狭物語に候間、一段然るべく候。罷出でられ候へば、御為に然るべき由挨拶申し候。白石若狭分別は、大内備前は、覚の者に候。田村間近く候間、数年佐竹・会津御加勢なく、自分に弓箭を取候事、度々合戦候て、勝ち候事、正宗公も御存じ候間、若し塩の松を返下され候儀も、計り難く候間、若狭指南を以て、御奉公申され候か、左様に之なく候はば、会津に於て切腹申され候様にと存ぜられ、告げ申され候由見え候。夫故其年中は、大内罷出で候事相留め候事、其年の押詰に、大内備前気遣仕り、会津を御暇申請け、片平の城へ罷越され候。
天正十六年戊子二月十二日、片平・阿古ヶ島・高玉三箇所の人数を以て、大内備前、苗代田へ未明に押懸け、古城に居り候百姓共、百人計り打果し、本内主水と申す者、物主に差置かれ候を、切腹致させ、放火再乱申され候間、太田・荒井の者共も、又玉の井へ引籠り候。同二月末、大内備前、成実所へ申され候は、去年の申合せ、巷説にて切腹に及び申すべき体に候間、迷惑に存じ候て、会津への申分に、御領地へ手切仕り候。此上も免許申し候て、米沢への御奉公なされくれ候様にと、度々申され候へば、拙者挨拶には、何方へも手切申されず、成実知行所へ手切申され、本内主水に切腹致せられ候間、成実申繕に罷成るまじく候。誰ぞ頼み申され然るべき由申候へば、右より使は、本内主水親類の者仕り候。彼の好身共、玉の井に差置き、境目の彼の者共、我等へ訴訟申し候は、玉の井の百姓共、二本松右京殿譜代の者に候間、草を入れ申すにも、告げ申すべしと気遣申し候。其上片平助右衛門御奉公申され候へば、一廉の事に候。阿古が島・高玉も持ち兼ね申すべく候間、大内備前兄弟御馳走申し、然るべき由申付けて、重ねて米沢へ、小十郎を以て申上げ候所、御意には、苗代田打散らし候事、口惜しく思召され候へども、片平助右衛門まで、御奉公仕るべき由申候間、召出さるべく候。若し片平助右衛門御奉公仕らず候はば、大内計り召し出さるまじき由、御意候條、其通り申遣し候所に、助右衛門御奉公落居申候て、近所の村四五箇所望書立て越し申し候間、米沢へ申上げ候へば、大内備前には、保原を下され、助右衛門には望みの所御印判下され、小十郎越し申され候間差し越し候。其後片平助右衛門もうさるるに、瀬上丹後御勘当申し候へども、某婿に致し、名代渡し申すべき由約束仕り候條、御赦免なされ候様にと申され候。其通り申上げ候へば、御意には中野常隆親類迄も、口惜しく思召され候。其上、眼前の孫にて、召出さるまじく候由仰せられ候。其通申越し候へば、片平助右衛門申され候は、左様に候はば、御奉公仕るべく候。御印判戴き候も、上げ置き申すべき由申され候に付いて、二十日計りも事延び、漸々瀬上丹後事、御前相済み、片倉小十郎も二本松へ罷越し、備前・助右衛門罷出で候を、相待ち申すべき由、我等に申合せ候。

語句・地名など

分別:推量、物事をわきまえること

現代語訳

天正15年、最上と大崎とは戦になっていたが、安積方面はおおよそ平穏であり、何ごともなかったので、苗代田・太田・荒井の3箇所は成実が知行していた。敵地に近かったが、何ごともなかったので、みな百姓たちを返し、戻らせた。苗代田は阿久ケ島・高玉が敵地で、近くにあったので、古い城に百姓たちを集め、置いていたので、田を作らせていた。
大内備前定綱が私のところへ「思わぬことで政宗の命令に背き、このような身の上になりましてございます。小浜を退いたときに、会津の3人の家老衆は、なんとも塩松を抑えることは難しい。そのうえ岩角の地をまわり、地形をごらんになったと聞く。きっと攻めるだろう。近くに陣を惹こうと思っていると思うと言った。そうであるならば、近くに陣を惹いて、早々と二本松への道は通りにくくなります。尤も取られたなら、小浜から退くことは出来ないでしょうから、会津宿老の松本図書助の跡継ぎが絶えて、空地になっていたので、これをくだされ、会津の宿老になるようにと言われたので、退いたというのに、知行のことはもちろん、扶持もいただけず、餓死しそうな様子でございます。なので、政宗の配下で、御側近くお仕えしたいと思う。少々領地をくださり、仕えさせてくださいますようにと、成実を頼りたい。しかしながら、命令に背き、このようにもうしあげても、お耳にはいらないだろうと思いますので、私の弟片平助右衛門もお仕えするように致しますので、それでどうか私をお許しくださいますように」と言ってきたので、片倉小十郎を介して、私は「大内備前のことは、家臣にする方がいいと思います。どうしてかというと、田村清顕がお亡くなりになって以降、田村は主がいない状態であり、内部はバラバラのようになっていると聞きました。大内備前は心から仕えたいと思っていると思い、戦の侍大将にもなるならば、どうでしょうか。そのうえ、片平の地は高玉・阿久ケ島よりは南ですが、片平助右衛門がこちらに仕えるのであれば、このふたつの地は保ちかねて会津へ退却するのではないだろうか。そうなれば、高倉・福原・郡山は味方であるので、戦になったとしても、一段よくなるでしょう。備前に領地を与え、家臣とするべきです」と言った。すると、政宗は内心では大内のことを口惜しく思われていたが、去年輝宗公がお亡くなりになったとき、佐竹・会津・岩城が相談して、本宮へ戦をしかけられた。このことを大変無念に思っているだろうから、再び戦がおこるであろうと思われていた。使いの者にこの通り伝え、大内定綱にすぐにこちらへくるようにといい遣わした。このことは、白石若狭へ知らさなかったら、その後恨みを受けるのではないかと思ったので、若狭にこのことを話したところ、若狭はこの件は層であるべきでしょう、塩松の百姓は大内備前に代々つかえていたので、すべてのことについて心配していた。定綱が政宗の家臣となるなら、大喜びであると言ったので、私もそう思い、米沢へ申し上げたことを言った。
そうしているところに、大内備前から、この寝返りのことが噂になっており、大変残念である。いま会津においてすべてがばれている。それが正しいのなら、切腹させられることもあるかも知れないと言ってきた。私は誰にも言っていないと返事をした。白石若狭はいま小浜を収めているので、定綱が寝返ることについて、白石若狭に伝えなくては無理であったので、白石若狭に言った。若狭はそちらへも話したのだと思うと言って送った。その後、白石若狭が私に言ったところによると、大内備前が私を頼りこちらへ来たいといったので若狭は話したので、その件はそうであったのでしょう。こちらへやってきたら、無駄になるであろうと言ってきた。若狭の考えとしては、大内備前は頭の良い者である。田村の近くにあるので、数年佐竹や会津の加勢なく、自身でいくさのしており、たびたび合戦をして勝っているのは、政宗も御存知のと折りである。なので、もし塩松をお返しなされることもあるかもしれないので、若狭の指示でお仕えするのか。そうでないとしたら、会津にて切腹させられるだろうと思い、告げたということのようだった。そのため、その年のうちは大内定綱は移っていることは出来なかったので、その年の年末に、定綱は心配して、会津へ暇をもらい、片平の城へ移った。
天正16年2月12日、片平・阿久ケ島・高玉の3箇所の兵で、定綱は未明に苗代田へ押しかけ、古城にいた百姓たちを100人ほど討ち果たし、大将として差し置かれていた本内主水という者を切腹させ、放火し再び戦となったので、太田・荒井のものたちも、また玉の井へ引きこもった。同じ2月末、定綱は「去年のお約束は、噂になってしまったので、切腹になりそうになったので大変だと思い、会津への言い訳にあなたの領地に戦闘をしかけました。どうかお許しいただいて、米沢にお仕え出来るようにお願いしますと何度も私のところにいってきたので、私は「他の所でなく、私の領地へ戦闘を仕掛け、本内主水に切腹させたので、私はもうとりもちをすることはない。だれか他の人間を頼むように」と返した。
すると、使いとして、本内主水の親類の者がやってきた。かれの親しいものたちは、玉の井に於いて、境目のかの者たちが私に「玉の井の百姓たちは、二本松右京どのに代々仕えていたものであるので、草をいれるにも、密告されるかと心配である。そのうえ、片平助右衛門が寝返ると言うことなら、それはすごいことです。阿久ケ島・高玉も保ちかねるだろうから、大内備前兄弟の面倒を見てやるべきです」とのことを言ってきた。
再び米沢へ小十郎を介して申し上げたところ、苗代田をうち散らしたことは口惜しいと思われたが、片平助右衛門まで内応するのであれば、召し抱えるべきで、もし片平助右衛門がネガらないのであれば、定綱だけ召し抱えはしないとお思いになられたので、その通り言って送ったところ、助右衛門は納得したので、近くの村4,5箇所を望むという場所について列挙して送ってきたので、米沢へ申し上げると、定綱には保原、助右衛門には望みの所を与えると印判状を送られ、小十郎が送ってきたので、私が送った。その後片平助右衛門が言うには、瀬上丹後がいま勘当されているが、私の婿にし、跡継ぎにするよう約束していますので、お許しになってくださいますようと言った。その通り政宗に申し上げると、中野常隆の親類までも腹立たしいと思われ、そのうえ、丹後は孫であるので、召し抱えることはできないと仰った。その通り伝えたところ、片平助右衛門はそうしてくださるなら、お仕えする。印判いただいたけれども、これはいったん置いておくと言ってきたので、20日ほど伸びて、ようやく瀬上丹後のことが片付いた。片倉景綱も二本松へやってきて、備前と助右衛門がやってくるのを待とうと私に約束した。

感想

会津でも冷遇され、逃げ場所のなくなった大内定綱が伊達を頼ってきたところです。成実も景綱も大内定綱・片平親綱兄弟のために尽力しているところ、なんと会津への言い訳とは言いながら、成実の領地に攻め入りました。
親綱の治めている片平は非常に重要な土地であったため、政宗も片平親綱も内応するのでなければという条件を付けています。親綱の方は親綱の方で政宗と堂々渡り合っており、面白いところです。