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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『正宗公軍記』2-7:大内備前御訴訟相済み御目見申され候事

『正宗公軍記』2-7:大内兄弟の件が落着したこと

原文

同年三月廿三日、玉の井の合戦見候て、帰り候小十郎は、大内備前・片平助右衛門罷出でられ候を、相待たるる由にて、二本松へ罷越し候て、逗留致し候所に、四月五日の晩に、かち内弾正と申す者、大内備前甥にて候が、片倉小十郎宿へ参り候て、大内備前、今夜本宮へ参り候、明日は片平助右衛門、手切申すべき由申すに付いて、片倉小十郎同道にて、本宮へ罷越し候。備前に、六日の朝面談候所に、備前申し候には、助右衛門も御奉公仕るべき由、堅く申合せ候へども、少しの儀出来、兄弟間に罷成り候拙者に、腹切らすべしと申すに付いて、漸々相退き参り候由、申され候。総別、助右衛門、御奉公仕るまじき覚悟に候を、備前身上の為計りを以て、助右衛門御奉公と申され候や、大内参られ候上は、助右衛門も御奉公仕られ候か。又片平の地を、会津より盛替へられ候か、如何様、只今の分にては、差置かるまじく候。兄弟の分別違ひ候由、小十郎と両人の噂を申し候。大内罷出で候て、無人数なりとも、一働申さず候ては如何に候間、阿児ヶ島へ働き申すべき由申合せ、白石若狭・片倉小十郎・我等三人の人数を以て、阿児ヶ島へ働き申し候へども、内より一人も罷出でず。此方より仕るべき様これなく、引上げ候。又翌日働き申し候へども、塩の松の内に居り候石川弾正と申す者、相馬へ身持替へ、白石若狭知行の内へ手切仕り、火の手見え候間、若狭は、働の中途より帰り申され候。我等小十郎計り働き候へども、何事なく打上げ候。小十郎、八日に大森へ帰り申され候。大内備前は、米沢へ伺候仕り、御目見え申したき由申され候條、我等家中遠藤駿河と申す者差添ひ、米沢へ相登らせ申し候。
石川弾正、四月十四五日時分、白石若狭抱の西と申す城へ草を入れ、其身も罷出で、しごみ居り、朝早々、内より一両人罷出で候ものを、草にて討たれ、城中より出会ひ候所に、弾正助合ひ、内より出で候衆を追込み、城へ取付き攻め候。鉄炮頻に聞え候間、白石若狭、助合ひ候を、弾正見合せ引退き候所へ、駈付け合戦候て、若狭打勝ち、首二十計り討取り申し候。成実も、二本松にて鉄炮を承り、早打を仕り候へども、遠路故遅れ候て、罷帰り候所へ駈付け候。若狭悦び候て、宮森へ我等を召寄せ、殊の外、馳走候て罷帰り候。此石川弾正と申す者は、もと、塩の松の主久吉と申し御大名の家中にて候。大内備前と傍輩にて候。久吉、無徳に付いて、家中の者共、相談を以て追出し候。大内備前親、其頃、伊達を頼入れ、石川弾正親は、田村清顕公を頼入れ候。其以後、伊達御洞弓箭の砌、大内備前も、田村清顕を頼入れ候。御近所に居申され候間、別して御奉公仕り候所に、片平助右衛門家中と、田村右馬頭家中岩城殿御弓箭の時分、野陣に於て喧嘩御座候。右馬頭殿、家中を御成敗なされ候様にと、申上げられ候へども、御合点なきに付いて、御恨に存じ、翌年より会津・佐竹を頼入れ候て、弓箭に罷成り候。石川弾正は、相変らず田村御奉公仕り候。左様候へども、正宗公、塩の松を御取りなされ候間、石川弾正知行は、皆塩の松の内にて候。田村さへ、御名代正宗公へ相渡され、御子候はば、田村へ御越し申しなされ候様にと、御約束に候間、石川弾正も知行に付き、正宗公へ御奉公仕り候様にと、清顕公御意を以て、相付けられたる者に候。其外にも、寺坂・山城・大内・能登を始めとして四五人、塩の松の者にて、久吉家中に候。引退き田村へ御奉公仕り候者は、何れも伊達へ相附けられ候。其者共、白石若狭給主に相附けられ候。石川弾正一人直に召仕はれ候。本領共に、前々の如く返下され候事。
天正十四年霜月に、清顕公御遠行以来、三春の本城には、御北様御座なされ、御女儀様故、去乍ら万事の差引は、田村月斎・同梅雪・同右衛門大輔・橋本刑部少輔、此四人に候。其頃、正宗公御夫婦中然なく候。内々御北様御恨に思召され候。月斎・刑部少輔、縦ひ御夫婦中然なく候とも、正宗公を頼入れず候ては、田村の抱、なるまじき由分別に候。梅雪・右衛門大輔、御北様は、相馬義胤の伯母に御座候。御女儀なりとも押立て、相馬を頼入れ候はば、正宗公へ違ひ申し候とも、田村は苦しからざる由、分別致し候。上には、伊達を頼入れ候様にて、底意には、相馬へ申寄られ候。其手より月斎方、梅雪方と底意は二つに別る。上は押並べて、伊達御奉公と申す様に候。然る所に、大越紀伊守と申す者、田村一家にて、相馬義胤には従弟にて候。田村にて二番の身体に候。此者、相馬へ申合せ、内々繰仕り候。其外にも、田村中に相馬の牢人、城を持ち程の者、四五人も御座候間、皆相馬方に候。一番の大身梅雪の子息田村右馬頭と申し候て、小野の城主に候。此両人、相馬へ申合され、ある時、月斎・刑部少輔、若狭に物語申され候は、大越紀伊守、相馬へ申合せ、逆心歴然に候間、大越紀伊守を相抱へたき由申され候。其通り、米沢へ申上げられ候。然る所に、正宗公より、某所へ御書下され御用候間、使を一人上せ申すべき由、仰下され候間、則ち上せ申し候。御意には、大越紀伊守を相抱へたき由、月斎・橋本刑部申上げ候。無用の由御意なされ候へども、若し不図相抱へ候はば、田村の急時になるべき由、思召され候。又月斎かた絶え候事も如何に候。田村は二頭を引立て候様に、御持ちなさるべく候由思召し候。然候へば、紀伊守其方を以て、御奉公立を申上げ候。御油断もうさざる様に知らせ候て、然るべき由仰付けられ候。兼ねて我等家中に、内ヶ崎右馬頭と申すもの、大越紀伊守に久しく懇切に候。紀伊守より使には、大越備前と申す者、幾度も右馬頭方へ参り候條、状を越し、少し用所御座候間、大越備前を差越さるべきの由申遣し候。則ち備前参り候間、我等田村の様子相尋ね、腹蔵なく物語り申し候て、正宗公仰越され候通り、申し理るべき由存じ、備前に会い候て、田村の様子相尋ね候へば、一圓相包み候て申さず候條、大事の儀を直に申す事、気遣に存候て、右馬頭に其様子物語致させ候て、備前罷帰り候。夫より大越紀伊守、三春への出仕を相止め、誠に引籠り罷出でず候間、田村四人の年寄衆より、紀伊守へ使を相立て、如何様の儀を以て罷出でず候。存分候はば、有の儘に申さるべき由、申理られ候へば、初めは何角申候へども、頻に仔細を尋ねられ候て、後には成実より三春へ出仕候はば、相抱へらるべく候間、出仕無用の由、御知らせ候故、罷出でず候由申すに付いて、田村四人の衆より我等所へ申越され候は、大越紀伊守出仕申し候はば、相抱へらるべく候條、罷出で候事無用の由、御知らせに付いて、罷出でざるよし申し候。如何様の儀を承れ、左様に紀伊守所へ申越し候やと、申越され候條、我等挨拶には、いかで左様の儀申すべく候や、田村御洞何角六ヶ敷候間、如何様にも相勤められ候様にと存じ候。六ヶ敷事知らせ申すべき儀に之無く候う由、返答申し候。左候へば、四人の衆、紀伊守所へ申され候は、理の通り、成実へ申理り候へば、努々左様の儀申さず候由、理られ候間、出仕致し然るべき由、申され候所に、内ヶ崎右馬頭を以て、左様御知らせ候由、申さるるに付いて、重ねて我等所へ、紀伊守申候通りを承り候條、田村衆への挨拶には、右馬頭に様子承り候へば、其事は、久しく紀伊守殿へ懇切に御座候。世上に於ては、紀伊守殿、御心替り候様に申候間、左様の御存分候はば、三春の出仕御無用に候。御生害なされ候か、相抱へらるべき儀計り難きの由、自分御意見には申し候。成実より、左様には申されず候。大越備前承り違ひに之あるべき由申じ候間、其通りを田村衆へ返答申し候所に、田村の四人の衆申され候は、左様に候はば、内ヶ崎右馬頭と大越備前と相出し、対決致させ、然るべき由承り候條、尤も備前相出でられ候はば、右馬頭も差越し申すべき由返事申し候。三月初めに鬼生田と申す所へ、大越備前罷越し候間、田村より検使御座候かと尋ね候へば、御検使は参らず候由申し候間、御検使これなく候はば、右馬頭出し申すまじき由、申し候に付いて大越備前も罷帰り候。其後、田村へ拙者使を差越し、此間右馬頭出し申すべく候へども御検使を差添へられず候由承り候間、相出し申さず候。重ねて備前に検使を差添へられ、相出され然るべき由、申越し候へば、田村衆も満足申され、検使両人、備前に差添へ鬼生田へ罷出で候間、右馬頭も罷出で候。対決申し候事は、備前申し候は、其方を以て、成実御断には、三春へ出仕申すまじき由、御知らせに候と申し候。右馬頭申し候は、御存分違ひ候はば、出仕御無用の由、自分に意見申し候所に、御出仕なされず候はば、逆心御企て候と相見え候。只今にも御存分違ひ申さず候はば、三春へ御出仕なさるべく候。三春に於て、御相違はあるまじき由、申し候て帰り候。斯くの如く御洞六ヶ敷候故、田村に於て各打寄り、伊達を頼入るべく候や、如何様に仕るべき由、相談の所に、常磐伊賀と申す者申し候は、御相談に及ばず候。清顕公御存命の砌、御名代正宗公へ渡し申され候間、御思案に及び申さず候。去乍ら各御分別次第と申し候條、誰も別に申出づべき様これなく、何れも伊賀申す通り、尤もの由落居申し候。去乍ら上には伊達へ付き、内々は過半相馬へ相引け候。其仔細は、相馬に牢人格の表立ち候衆は、多分相馬衆に候。梅雪右衛門大輔、内々相馬へ申合せ候間、相馬牢人衆と申組まれ候。仙道佐竹・会津の牢人、何れも梅雪・右衛門大輔へ懇に候。其様子を、石川弾正、もと傍輩に候間、存の前に候間、当然清顕公御意を以て、正宗公へ御奉公仕り候ても、夫々身上大事に存じ、其上御北様相馬義胤の伯母にて、正宗公御夫婦間然なき故、御恨に思召し候を、弾正存じ候て相馬へ申寄り、四月七日に手切仕り候。

語句・地名など

総別:おおよそ、万事

現代語訳

同天正16年3月23日、玉の井の合戦を見て、帰った小十郎は、大内定綱と片平親綱がやってくるのを待つために二本松へやってきて、逗留していたところ、4月5日の晩に、鍛治内弾正という、大内備前の甥が、片倉小十郎の宿所にやってきて、大内定綱は今夜本宮へ来ます。明日片平親綱が手切するだろうことを言ってきたので、片倉景小十郎が付き添って本宮へやってきた。備前に6日の朝面談し、備前が言うには「助右衛門も来るようにと固く約束していたのだが、少し不都合が起き、兄弟ゲンカになり、私に切腹させようというので、ようやく退却してきたところです」と言った。
おおよそのところ、助右衛門は寝返るをすることはできないと覚悟していたのに、備前の身の上のためだけを思って、助右衛門も寝返ると言っていたのだろうか。定綱が申す以上、助右衛門も奉公するのだろうか。または片平の地を、会津から帰られるのか、どのような状態であるか、今の時点ではわからなだろう。兄弟の考えが違うことを、小十郎と2人の噂をした。
定綱は、少人数であっても、ひと働きせずにいてはどうだろうと思い、阿久ケ島へ戦闘仕掛けることを約束し、白石若狭・片倉小十郎と私3人の兵で、阿久ケ島へ戦闘をしかけたが、中から1人もでてこなかった。こちらから出来ることもなく、引き上げた。翌日また仕掛けたけれども、塩松領内にいた石川弾正という者が、相馬へ寝返り、白石若狭の領内へ戦闘を仕掛け、火の手が見えたので、若狭は戦闘の途中であったが、帰った。
私と小十郎だけで戦をしかけたが、何ごとも起こらず、引き上げた。小十郎は8日に大森へ帰った。定綱は米沢へ参上し、面会したいと言ったので、私の家臣遠藤駿河というものを付き添えさせ、米沢へ行かせた。
石川弾正は4月14,5日ごろ、白石若狭の領地、西という城へ草を入れ、自分自身もやってきて、忍んでいた。朝早々と中から2人出てきた者が草の手によって討たれ、城中からでてきたところに、弾正は助け合い、うちから出てきた者たちを追い込み、城へ取り付き、攻めた。鉄炮の音がしきりに聞こえてきたので、白石は助けようとしたところ、弾正はそれを見て退いた。そこえへ駆けつけ合戦となったが、若狭が勝ち、頸20ほどを討ち取った。
成実も二本松で鉄炮の音を聞き、急いでやってきたが、遠かったので遅れてしまい、若狭がかえってきたところへ駆けつけた。若狭は喜んで、宮森へ私を呼び、非常にもてなして帰った。
この石川弾正というのは、もと塩松の主久吉という大名の家臣で、大内定綱と同輩であった。久吉が、特がなかったため、家中の者たちは相談をして久吉を追い出した。備前の親はそのころ伊達を頼って、石川弾正の親は田村清顕を頼った。その後、伊達家の中で戦が起こったとき(中野宗時事件)大内備前も田村清顕を頼った。近くであったので、とくに奉公していたところ、片平助右衛門の家臣と、田村右馬頭の家中が岩城の戦のとき、野陣で喧嘩となった。右馬頭は定綱を成敗するようにといったが、合意が得られなかったので、恨みに思い、翌年から会津・佐竹を頼み、戦になった。石川弾正は相変わらず田村に仕えていた。しかし、政宗が塩松をお取りになったので、石川弾正の領地はみな塩松の中にあった。田村は名代を政宗に渡し、もし小友が生まれたら、田村氏を嗣がせようと約束されたので、石川弾正も領地について政宗へ仕えるようにと清顕が命令してお付けになった者である。其外にも、寺坂・山城・大内・能登を初めとして4,5人、塩松のもので、久吉の家臣であった。引き続き田村へ仕えようというものはみな伊達へつけられた。そのものたちは白石宗実のところにつけられた。石川弾正ひとりが直臣として召し抱えられた。本領も前のように戻して返された。
天正14年11月に清顕がお亡くなりになって以来、田村の本城には北の方が折られ、女性であったので、すべての差配は、田村月斎・田村梅雪・田村右衛門大輔・橋本刑部少輔の4人が行っていた。そのころ、政宗夫妻は仲がよくなかった。うちうちにそのことを北の方は恨みに思っていた。月斎と刑部少輔は、たとえ夫婦の仲が良くなくとも、政宗をたよらずには、田村の城を保つことはできないと思っていた。梅雪と右衛門大輔は、北の方は相馬義胤の伯母であるので、女性であっても盛り立てて、相馬を頼るならば、政宗に背いたとしても、田村は大丈夫だと思っていた。
表面上は伊達を頼るように見せかけ、本心では相馬へ言い寄っていた。そのため、月斎方と梅雪方と本心が2つに分かれた。表面上はみな、伊達に仕えようといっていた。そこへ大越紀伊守という者、田村の一族で、相馬義胤の従弟であった。田村では2番目に力を持っていたものであった。この者は相馬と話し合い、内密に操っていた。その他にも田村領には相馬の浪人で、を持つほどの人が4,5人もおり、みなかれらは相馬方であった。1番の重臣は梅雪の子で、田村右馬頭といって、小野の城主であった。この2人が相馬と言い合わせて、あるとき、月斎と刑部少輔が若狭に行ったところによると、大越紀伊守は相馬へ言い合わせ、寝返ろうとしているのは歴然なので、大越紀伊守を生け捕りにしたいと言った。その通り米沢へ申し上げた。そこへ、政宗から、私のところへ書状が来て用事があるというので、使いを1人寄越すようにと仰せになったので、すぐに送った。政宗は、大越紀伊を捕らえたいと月斎と橋本刑部が言ったのは、無用のことであると思うが、もし意図せず捕らえたならば、田村の危機になるだろうとお思いになった。また月斎の味方が居なくなったのもどうか。田村は2人の頭を引き立てているのでなりたっているとお思いであった。なので、紀伊守を使って奉公している。油断せぬようにとしらせ、そのように仰せ付けられた。
かねてから、私の家臣の中に、内ヶ崎右馬頭という者が、大越紀伊と長く親しくしていた。紀伊守から使いには大越備前という者が何度も右馬頭のところへ来ていたので、書状をおくり、少し用があるので、大越備前を呼んでこいと言い遣わした。直ぐに大越備前がやってきたので、私は田村の様子を尋ね、洗いざらい話したところ、政宗の言ってこられたとおり、断ろうとしていると思い、備前にあって、田村の様子を尋ねたところ、すべて包み隠してなにもいわなかった。だいじなことを直に話すことを、心配したのかと、右馬頭にその様子をかたらせたところ、備前は帰った。
それから大越紀伊は三春へ来るのを止め、城に引き籠もり、出てこなくなったので、田村の4人の家老衆から紀伊へ使いを立て、どのようなことがあってでてこないのか、思うところがあるならば、ありのままに言うべきだと言ったところ、はじめは何かといっていたが、しきりに詳細を尋ねられて、あとには成実が三春にやってきたら、捕らえられるので、出仕無用であるとしらせたので、出てこない様子を言った。
田村の4人の衆から私のところへ「大越紀伊が出仕したならば、捕らえられるから、行くことは無用であると知らせがきたので、やってこない理由を言った。どのようなことを聞き、そのように紀伊のところへ遣わしたのだろうか、と言ってきたので、私たちは「どうしてそのようなことをいうだろうか。田村の家中は何かと難しい状態であるので、どのようにも勤められるようにと思う。難しいことを知らるべきとは思っていない」と返答した。すると、4人の衆は紀伊へ「言っているとおり、成実のところへ言って断ったならば、ゆめゆめそのようなことは言わないと断ったので、出仕するべきである」と言ったところ、内ヶ崎右馬頭を介してそのように知らせたことをいうと、再び私のところへ、紀伊が言ったとおりのことを聞いた。田村への連絡には、右馬頭に様子を聞いたので、そのことは長く紀伊と親しくしている。世間に於いては紀伊は心変わりしたかのようにいわれているが、そのように思われるのであれば、三春の出仕は必要ない。殺されるか、捕らえられるかわからないということを私の意見として言った。成実からはそは言わなかった。大越備前は之を聞き、間違っていると思ったので、そのとおりを田村衆へ返答したところ、田村の4人の衆は「層であるのなら、内ヶ崎右馬頭と大越備前を連れてきて、対決さるのがよいのではないか」と聞いたので、もっとも、備前が出てきたならば、右馬頭も送られてくるだろうと返事した。3月初めに鬼生田と言うところへ、大越備前はやってきた。田村から検分の者が来たのかと聞いたところ、検分の者は居ないと言ったので、検分の者がいないのであれば、右馬頭を出すことはないというと、大越備前も帰った。
その後、田村へ私の使者を送り、このまえ右馬頭を出すべきであるといったが、検分の者が付き添っていなかったと聞いたので、出さなかった。再び備前に検分の者を添えて、出されるべきであると言って使わしたら、田村衆も満足し、検使が2人備前に付き添い鬼生田へやってきたので、右馬頭もやってきた。
対決することは、備前が言うには、その方を介して、成実が言ってきたのは、三春へ出仕するなと言うことを知らせに来たと言った。右馬頭は、思っておられるのと違うので、出仕むようであると私に言ってきたところ、出仕なされないのであれば、裏切りを企てているとおもわれたのだろう。いまでも思っておられることが違うのであれば、三春へ出仕するべきである。三春において、間違いはないということを言って、帰った。
このように、家中は難しいため、田村においてそれぞれがいいあって、伊達を頼むべきか、どのようにするべきか話し合っているところに、常盤伊賀という者は相談しなくていいと言った。清顕が生きていた頃、名代は政宗にお渡しになったので、考えることはない。しかしながら、それぞれ道理次第と言ったので、誰も取り立てて言い出すことなく、いずれも伊賀の言うとおり、もっともであると落着した。しかしながら、表面上は伊達につき、内心は半分以上田村へ引き付けられていた。その詳細は、相馬に牢人の表立っている者は多くは相馬衆であった。梅雪・右衛門大輔はうちうちに相馬へ言い合わせているので、相馬の牢人舅言い組んでいた。仙道・佐竹・会津の牢人は、いずれも梅雪・右衛門大輔と親しくしていた。その様子を、石川弾正はもと同僚であったので、思う前に当然清顕の意志で政宗へ仕えるとしても、それぞれ身上を大事に思い、そのうえ北の方は相馬義胤の伯母にて政宗夫妻が仲良くなかったので、恨みに思っていらっしゃるのを、弾正は知って、相馬へ言い寄り、4月7日に手切した。

感想

大内定綱・片平親綱の内応が落着したこと・清顕亡き後の田村家の内情について書かれています。
大内・片平と田村との確執など、いろいろな事情が入り乱れていたことがわかります。