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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『世臣家譜』片倉家:片倉重長(重綱)

『世臣家譜』片倉家、二代片倉重長の分です。

二代:片倉重長(かたくらしげなが)

天正12年12月25日(1585年1月25日)〜万治2年3月25日(1659年5月16日)
戒名:真性院一法元理居士

書き下し文

景綱子備中守(小字弥左衛門、又左門又は小十郎又は伊豆守又は小十郎を称す)、重長(初名重綱)元和元年五月又大阪の役有り。是時公江戸に在し、重長亦之に従ふ。公重長に先鋒を命ず。是月五日重長一千余人を卒し(軍数前年に同じ)、道明寺口(在大阪)片山麓に陣す。後藤又兵衛政氏(大坂党)赤色に装ふ。兵を率いて片山下に到る。片山伏兵声を発し、銃を放ち之を禦ぐ。敵、矢石を避けず山に登り、山上兵亦下之を追ふ。薄田隼人正兼、政氏を援く。合戦時を移し、重長家臣渋谷右馬允薄田隼人正兼を撃ち、之を殺す。併せて大小二刀を獲る。敵勢衰え敗走し、後藤政氏復備えを設け合戦す。政氏栗毛馬に乗り、梨地鞍を設け、我軍銃を放ち、政氏に中り斃れおわんぬ。敵兵襲来其骸を取り、黒半月立物を遺す。重長兵士進みて之を獲る。敵勢益衰敗走す。是時重長自ら是を撃ち、四騎を斃し、首を切ること凡そ九十三級。重長自ら之を記す。其余録さぬ者亦多し。翌日重長復兵を進め、之を攻める。須■城*1中火が起こり、城遂に陥す。是時重長首六十級を獲る。其家臣亦功有りと云ふ。(元和元年五月重長家臣佐藤治郎右衛門其弟大学数度の戦功を褒賞し、感状を賜ふ。各に田五十三石俸十口切府金一枚を賜ふ。後寛永二年十二月公佐藤兄弟に命じ、長く其家の賦金を除き、其書今二人の家に蔵すと云ふ。復其家家臣渋谷右馬允道明寺の役の功を褒賞し、黄金二枚を賜ふ)
是歳鹿児島候(松平薩摩守家久)京師邸を訪ひ、公饗す。鹿児島候重長を召見し、大阪の戦功を賞し、酒を賜杯す。且つ親ら当引長光と名する刀を賜ふ。是刀也太閤秀吉の遺物也。重長拝して之を受く。謝して曰く微臣何ぞ敢えて是器に当る。願い是、寡君に上ぐ。乃ち之公に献ず。(元和二年二月公重長の家臣佐藤治郎右衛門戦功有るを以て、凡封内経行、風雨霜雪を避けず、伝馬一匹を与ふを仮に赦し、公の黒印、今其家に蔵す)、寛永三年四月重長、上国浪士柴十右衛門を得、公召して見、田三百石を賜ひ、以て重長家臣と為す。是先重長大阪の役有りて功有り。公賞して田禄を以て欲し、而して一人重長に与ひがたく、是以て新しく浪士を得、公之田を賜ふを約す。是増田禄を加えるの意也。故に是を挙げて有り。(十右衛門の裔柴三太夫罪有りて、元禄十二年肯山公の時其田を収る)五年八月野谷地二百町桃生郡深谷を賜ふ。嘗て台徳廟に伏謁し、慇懃命を賜る。公之を喜び、六年三月親書及び佩刀(広正作)一口を賜ふ。十三年七月義山公襲封の時、重長大猷廟に伏謁し、後再び使いに江戸へ奉る(十六年九月十八年八月)。大猷廟に伏謁し、賜物有りて、嘗めて唐船番所事を掌す。また嘗めて銃二挺を賜ふ。正保元年正月、又江戸に使い奉り、大猷廟に謁し、時服二領を賜ふ。二年八月経界の余田を賜ふ。前に併せて一万六千十三石五斗二升の禄と為る。是月要山世子(義山公世子、諱光宗、早世、法名要山透関、円通院と号す)江戸において病し、公駕を発し江戸に赴く。是時公書を重長に賜ひ、留主と為し、国事の任せせしむ。慶安四年十二月重長大阪の役に従い、先鋒と為し、功有るを以て、吉兆と為す。命歳首遊猟毎、永世先鋒と為し、また毎年卯日の嘉儀、永世具足餅相伴と為し、明暦二年新田千三百四十三石七斗一升を賜ふ。前と併せて一万七千三百五十七石二斗三升の禄と為す。万治二年公江戸に在り、重長疾甚篤きを聞き、使者を仙台に使はし、慇懃命を賜ふ。其没に及び、公之悼み知るべき也。嘗牛脇丹波定顕有りて、官由緒有るを以て之重長に属す。貞山公後其子丹波定広を挙げて田禄を賜ふ。片倉氏を冒し、同姓の親と為す。其裔虎間番士となり、三百石の禄を保つ。今片倉五郎右衛門定矩を称す是なり。重長子無く、松前市正安広子を養ひ、外孫と為るを嗣と為す。

語句など

寡君(かくん):自分の主を謙遜していう言葉

現代語訳

景綱の子は備中守(幼名弥左衛門、左門・小十郎・伊豆守・小十郎を名乗る)重長である(初め重綱と名乗った)。
元和元年5月にまた大坂の陣があった。このとき政宗は江戸におり、重長もまたこれに従った。政宗は重長に先鋒を命じた。この月5日重長は1000人余りの兵を集め(兵の数は前の年と同じ)、大坂の道明寺口の片山の麓に陣をしいた。大坂方後藤又兵衛政氏は兵を赤備えにしていた。兵を率い、片山の下に至った。片山に伏せていた兵は声を出し、銃を撃ち、これを防いだ。敵は矢や石を避けずに山に登り、重長の家臣渋谷右馬允は薄田隼人正兼を撃ち、殺した。そして大小の2刀を奪った。敵の勢いは衰え、敗走したが、後藤政氏はまた備えを立て直し、いくさとなった。政氏は栗毛の馬に乗り、梨地の鞍を付けていた。我が軍は銃を放ち、政氏はこれに当たり、倒れた。敵兵がやってきてその遺体を取ったが、黒の半月の立物は遺された。重長の兵士は進んでこれを得た。敵の勢いはますます衰え、敗走した。このとき重長は自らこれを撃ち、4騎を斃し、93級の首を切った。重長はこのことを自ら記している。また記録されない者も多かった。
翌日重長はまた兵を進めて攻めた。須■城から火が起こり、城はついに陥落した。このとき重長は60級の首を奪った。またその家臣も軍功を挙げたという(元和元年5月政宗は重長の家臣佐藤治郎右衛門とその弟佐藤大学の数度の戦功を褒め、感状を与えた。それぞれに田53石俸10口切府金1枚を与えた。のち寛永2年12月政宗は佐藤兄弟に、長く賦金の免除を命じた。この書状は今二人の家に所蔵されている。またその家臣渋谷右馬允の道明寺の役の戦功を褒め、黄金2枚を与えた)。
この年鹿児島候(松平薩摩守・島津家久)が京屋敷を訪れ、政宗はこれを饗応した。島津家久は重長を召して、大坂の陣の戦功を褒め、酒を与えた。また自ら当引長光と号する刀を与えた。この刀は太閤秀吉の形見だった。重長は礼をし、これを受け取ったが、自分のような家臣はこの刀には相応しくありません。これを私の主に献上してもいいかと願い、これを政宗に献上した。
(元和2年2月、政宗は重長の家臣佐藤治郎右衛門に戦功をあげたことを理由に、封内を渡る時、風雨・霜・雪を避けることができないため、仮に伝馬1匹を与えるのを許した。この政宗の黒印状はいま佐藤家にある)。
寛永3年4月、重長は上総国の牢人柴十右衛門を得て、政宗はこれを召して会い、田300石を与え、重長の家臣とした。さきごろ重長が大坂の陣で戦功を立てたことを褒め、田禄を与えたいと思ったが、これ以上重長一人に田禄を与えづらかったため、新しく浪人を雇い入れ、それを与えるということを約束した。これはまた田禄を与えるというおぼしめしであった。(十右衛門の末裔柴三太夫は罪を犯したため、元禄12年肯山公綱村の時にその田を没収した)
寛永5年8月野谷地200町の桃生郡深谷を与えられる。また台徳院秀忠に拝謁し、丁寧な命を賜った。政宗はこれを喜び、6年3月書状と広正作の佩刀を一口賜る。寛永13年7月、義山公忠宗が跡を継いだとき、重長は大猷院家光に拝謁し、その後も使いとして江戸に何度か行く(寛永16年9月・18年8月)。家光に拝謁して、者を賜り、唐船番の当番にあたる。また銃2挺を賜る。正保元年正月、また江戸に使いとして上り、家光に拝謁し、時服2領を賜る。正保2年8月経界の余っていた田を賜った。以前のものと併せて16013石5斗2升の禄となった。この月義山公忠宗の子の要山世子(諱は光宗、法名円通院要山透関、早世する)が江戸において病となったため、忠宗は仙台を出発し、江戸に赴いた。このとき忠宗は書状を重長におくり、留守居役として国許の差配を任せた。
慶安4年12月、重長が大坂の陣に従い、先鋒となって戦功を挙げたことを吉兆であるとされた。毎年の年明けの遊猟などの毎に、永世の先鋒として、また毎年卯の日の祝いにおいて、永世の具足餅の相伴を努めた。
明暦2年に新田1343石七斗1升を与えられた。以前の禄と併せて、17357石2斗3升の禄をいただくことになった。
万治2年綱宗が江戸に在った頃、重長の病が悪くなったことを聞いて、仙台に使者を使わし、丁寧な命を賜った。重長の死に際しての綱宗の心労は大きかった。牛脇丹波定顕という男が関係があって重長に仕えていた。政宗はのちにその子丹波定広を跡継ぎとして、禄を賜った。片倉氏を名乗り、同姓の親となった。その末裔は虎之間に詰める番士となり、300石の禄を保った。いま片倉五郎右衛門定矩を名乗っているのがこれである。重長は子がなく、外孫である松前市正安弘の子を養子とし、跡継ぎとした。

感想

重長の分です。政宗・忠宗に仕えた二人目の小十郎です。鬼の小十郎はこちら。
秀忠と忠宗に与えられた「慇懃命」というのが具体的に何を指すのか少しわかりませんでしたが、与えてもらってよいものであるということはたしかです。政宗・忠宗に仕え、非常に愛された家臣であることがわかります。
綱宗にも仕えていますが、忠宗が死んだのが万治元年7月、重長が万治2年3月に死んだので、1年たらずの間だったようです(なので本文中万治2年の「公」は綱宗のはず)。主従、立て続けになくなったんですね。
成実とは烏帽子親・烏帽子子の関係であったとされています。その割に偏諱を与えられていないのは、政宗の指示だったからなのか、気を遣って成を付ける代わりに重を付けたのか。わかりません。重の字は景重などの名からわかるとおり、片倉家にとっては通字的な意味合いもあったのではないかと思われ、成の代わりと考えるのも難しいです。
どうなんでしょうね。

*1:漢字変換できず