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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『名語集』3:召使の利鈍

3:召使の利鈍(奉公人の利発なことと愚鈍なこと)

原文:

一、或時の御咄には、「世上にて人々の人を召使ふに、これは利根者、鈍なる者とて、分けて召使ふ。たとへば、当座の浪人者たりといふとも、物事、其の主人の気に入れば、これこそ利根者とて能くつかひ、代々の譜代たりといふとも、これは鈍なりとて、おし除けてつかはず。尤も召使といふとも品々多し。かりそめの口上をいひ付くるにも、長きことなりとも、右の利根者には一通りいひ聞かせ遺し、鈍なりとて、短き事をくりかへし、手間をとり教へ遺す。げに尤もこれは面白さうに聞こえ侍る。然れども能く分別して見よ。一国をも持つ大将の心に能き事が、家中の為によからんや。当座、気にあはぬ見ぐるしき事とて、代々の者、其の品もなしに押しのくる事、これ以ていはれなし。人おほくは、其の身その身に似合ぬ心付こそならずとも、親しく詞を掛け、秘蔵せぬは勿体なし。或は当座の事たりといふとも、其の主人に対するほどの儀あるに、利根なる者ばかり用に立ち、鈍なりと目利する者、用に立ち申すまじく候にや。いかに鈍なる者なりとも、代々かぎらぬ侍が、底までも鈍なりとも目利せんや。結句、利根と秘蔵せらるる者の、慣れつまっては鈍になるは疑あるまじきと思はる。身のあつくなるほど、心持かはるべし。よくよく試して見よ。鈍なりと目利きせられたる者は、代々を思ひ、義理にてするもやあるべし。又人によりて、日頃の意地出るも有るべし。当世にても、是は何とも分けがたし。かやうの事、我等には下手なり。刀・脇差其の外、諸道具の目利とは、格別なり。人を分けるの目利は無類の事かな。いかに当座、気はたらかずとも、代々の侍は、はたらく所、別にあるべし。たとへば、おしかすめて置くとも、上ぐる所はおほからん。磯の千鳥を見よ。浪あらきとて、山に住む事なし。いかに手当あしくとも、代々の侍が、主を脇にはなすまじきなり、我等などは下手なる故か、世上の様子には相違なり。先づ、人を鈍・利などといひて、分けべき者一人もなし。すぐれたる利根者、すぐれたる鈍なる者とては、此の年までは一人も見ず。たとへば、利根者使ひつけて、其の者なき時は、鈍なるとて使はずしてあるべきか。人に余るといふ事、あるまじき儀なり。何事も主人のしかけにある事なり。只人は其の身その身のえものを、能く見分けていひつけて見よ。何れも得しょくはこざかしく致さん。しかあれば、一人として怨みする者もあるまじければ、主人の為に大きなる徳なり。徳あれば、主も名をとる事多し。只、人を捨つるはあしきなり。尤も為いで叶わぬ事は格別の事なり。我等などの心には、当座の口上いひつくるにも、我が詞のおひはてぬに、返事心ある者には、二度も三度もいひつけて、静かに返事する者には、一言にいひ付くる様に一通り申付け候。是にも品々おほし。たとへば、詞の下より返事する者は、方々へ心をかよはし、或は返事あまさぬ様にとおもひ、詞のすえを聞くべしとおもひ、あなたこなたと弾みまはる故、さきへばかり行くにより、ながき短き口上によらず、はやあとを取り失ふものなり。さるによって、二度も三度もいひ付けて、静かに能く聞く者には、とくと合点よくする様にいひ付けつかはす。其の人は、長き事を一度申付けても、合点よくする故、其の身の分ほどとりまはすなり。まして外様衆などは、あまりにこなたを恐れ過ぎ候故、かたの如くいひ付けたると思へども、猶以てゆかしきまま、其の人に伝へん者を以て、今の品々はかくの如くなりと、重ねて又いひ聞かせ候。我が身、当座のむづかしきとて、粗相に事をいひ聞かせては、其の者うかうかしき故、先にて用もはたらかず。第一は其の身の為なり。我等いひ付くる間に、聞きわづらふか、又は不合点なる事あらば、幾度もおしかへしてよく聞きて合点せよ。押返し聞くほど、こなたは嬉しきぞ。ここを気遣ふは、こなたを敬ふにもなきぞ。恐れてあしき儀なり。只、人に怪我なき様に、用も叶ひ候様にとばかりの心持なり」と御咄なされ候。

語句・地名など:

利鈍(りどん):利発なことと愚鈍なこと
世上(せじょう):世の中・世間/あたり一帯
利根者(りこんもの):利発な賢い人
当座(とうざ):その場・その席
品々(しなじな):さまざまなものがあること/そのもの
尤も(もっとも):道理にかなっていること/ただし〜

現代語訳:

あるときのお話では、
「世間で人々が人を召し使うときに、こいつは利口なもの、こいつは愚鈍な者と、態度をわけて召し使う。たとえば、そのときかぎりの浪人であっても、その主人の気に入れば、これこそ利口な者としてうまく使い、代々仕える譜代の者であっても、これは鈍い者であるとして、どかせて使わない。
ただし、召使いといっても、いろいろな者がいる。短い伝言を言いつけるにも、長い内容のものであっても、右の利口な者には一通りいいきかせて伝え、鈍い者に対しては短いことをくりかえし、手間をかけて教え伝える。これは本当に面白いことのように聞こえる。しかしながら、よく分けて考えよ。一国を所有する大将の心がまえによいことが家中のためによくないことがあろうか。
最近、気に合わない見苦しいことといって、代々使える譜代の者が、その品格もそなえず、人押しのけることは、いいことがないやりかたである。多くの人はその身その身に似合わない気遣いこそなくても、親しくことばをかけ、大事に扱わないことはもったいない。
あるいはその席かぎりのことであっても、そのあるじに対するほどの事があったときに、利口な者ばかり仕事をし、愚鈍であると思う者が仕事をしないということがあろうか。どれほど愚鈍な者であろうとも、代々使えてきた侍が、そこまで愚鈍であると思えるだろうか。
結局、利口と大事にされた者が、慣れきってしまって愚鈍になるのは間違いないと思われる。昇進するほど、気持ちはかわるものである。よくよく試して、判断せよ。愚鈍であると判断されたものは、代々を思い、するべきことをやることもあるだろう。また人によって、日頃の心根が出ることもある。
近頃であっても、これは何とも判断しかねる。このようなことが、私は下手である。刀や脇差、そのほか道具の目利きとはまったく違うものである。人を判断することは何よりも難しいことである。どんなにそのときに気が働かずとも、譜代の者が役に立つところは他にもある。
たとえば無理矢理にかすめとって置いておいても、役に立つことは多いだろう。磯の千鳥を見てみよ。波が荒いからといって山に住むことはない。いかに手当がわるくとも、譜代の侍が主を脇にするべきではない。
私などは下手なためか、世間の様子とは違う。
第一に、人を愚鈍・利口といって、分けていい者はひとりも居ない。人並み外れた利口者や愚鈍者など、この年までひとりも見たことがない。たとえば、利口な者を使い、その人がいないときは、愚鈍だからといって、使わないということがあってはいけない。人が余るということはあってはいけないことである。なにごとも、主人のやりようによることである。
ただ、人は、そのひとりひとりの得意なものを、よく見分けて命令してみればいい。どの人も納得した仕事は抜け目なくするであろう。ならば、ひとりとして人を恨むような者がなければ、あるじのためには大きな得である。得があるなら、あるじも名誉を得る事が多い。理由もなく人を捨てることはよくないことである。しかしながら、やってみてできないことは別である。
私のようなものの心がけとしては、さしせまっての言いつけをするにも、私のことばが長いので、返事をよくする者には二度も三度も言いつけ、静かに返事する者には一言で言いつけるようにひととおり言う。これも人によってさまざまなことがたくさんある。
たとえば言ってすぐに返事する者は、いろんなことを心配して、あるいは全部返事をするように話の終わりを聞かねばと思い、あちらこちらへと話がとぶので、先の話ばかり気にするため、長いもの短いものによらず、失敗してしまう者である。なので、二度も三度も言いつけて、静かに聞く者には、しっかりと理解するように命令して伝える。その人は長いことを一度で言いつけてもしっかり了解しているので、その身分に応じてきちんとする。
まして外様衆などは、あまりに私のことを恐れるので、このように言いつけたと思っても、相変わらず昔のままにしようとするので、人を遣わして、今の様子はこのようであるからと何度も言い聞かせている。
私は、さしあたって難しいときだからといって、あわててものを言ったなら、その者は思慮が浅いため、先々もきちんとできない。一番には、その人自身のためである。
私が言いつけているときに、聞き損ねたり、または理解できないことがあるときは、何度もくり返してよく聞いて理解せよ。何度もくりかえし聞かれるほど、私は嬉しく感じる。ここで気を使うことは、私を敬うことにはならないのだ。大変こわい、悪いやり方である。ただ、人が傷つかないよう、こともうまくいくいくようにと思う気持ちである」
とお話された。

メモ:

人を使うことに対する政宗の信条を語った一段になります。
普通の人は利口な人・愚鈍な人とわけて扱う人が多いが、自分はそうは思わず、こうしている…という話です。
「自分は下手であるから〜」と謙遜していますが、利口そうな人でも、鈍そうな人であっても一長一短あり、きちんとその人の適性を見抜いて使うことが大切である、と述べています。