[sd-script]

伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

感想『仙台藩の武家屋敷と政治空間』

岩田書院さんのDMを見て、今年の2月にこんな本が出ていたのを知り、購入しました。

いや〜〜これはすごい。おもしろい本です。私みたいな素人でもおもしろくて一気に読んでしまいました。
目次は以下の通り(岩田書院のページから転載)。

序 章 仙台藩の武家屋敷と政治空間 -武士の「居場所」への注目- 野本禎司 藤方博之
第一部 城下武家屋敷の利用実態
 第一章 仙台城跡川内地区の土地利用の変遷 菅野 智則
 第二章 考古資料からみた仙台城下の武家屋敷地区 菅野智則 柴田恵子
 第三章 仙台藩重臣層の武家屋敷の変遷と利用 野本 禎司
 第四章 法令からみる仙台城下の武家屋敷 藤方 博之
 第五章 明治初年における仙台城下の武家地 -小三区の払い下げ出願を事例として- 荒武賢一朗
第二部 仙台藩の政治空間と「家」
 第六章 伊達政宗当主期の意思伝達と家臣 -茂庭綱元関係文書の検討を通じて- 黒田 風花
 第七章 近世前期仙台城二の丸中奥の構成員とその処遇 清水翔太郎
 第八章 仙台藩宿老の役割 -後藤家文書を中心に- 野本 禎司
 第九章 登米伊達家「御家政方一件」における家臣団の動向 藤方 博之
 第十章 給人家中(陪臣)の足跡 -岩沼古内氏・中畑家の事例から- 荒武賢一朗

個人的に興味深いと思ったところ、各章ごとに。

一章
仙台藩では町奉行所は設置されず、就任者の自宅がそのまま役所になった(公私未分離)/家作も家臣には帰属しておらず、屋敷を明け渡す際には建具や敷物に至るまで置いていく必要があった/妾の処遇は実子との関係に規定される側面が多く、忠宗在世中は二の丸中奥で生活したが、当主没後は子の「家」で生活し、その「家」の構成員として処遇された/青葉山一帯は最上古道を通じて広瀬川を越えて東方に通じる街道が位置していた/二の丸造営以前には四男宗泰の屋敷があったという伝承あり。元和6年以後は伝宗泰屋敷の北側にいろはの居館である西屋敷が造られる/寛永15年に宗泰の屋敷跡に二の丸造営されいろは死後西屋敷には蔵や作業所など二の丸に附属する実務的な施設が置かれる。元禄年間、西屋敷敷地は二の丸に取り込まれる/西屋敷には池のある庭園あり

二章
片倉家のような明らかな上級家臣の武家屋敷内にも掘立柱建物が存在していた/道路に面した門や塀に関しては瓦葺きの部分があり、それ以外は柿葺きなどの板葺きであると考えられる/埋土出土遺物は19世紀前半代を中心とする。磁器は肥前産を中心に瀬戸産などが認められる/陶器は大堀相馬・相馬系・東北系の産地のものが主体/動植物遺存体はヒラメ・カレイなどの骨、サンショウ・クルミ類・クリ・ウメ・モモなどの食用栽培植物のほか、薬用のものとして利用されたアンズ・スモモ・カボチャの種子、ノブドウの種子が大量に出土/明治維新後に直ちに全ての武家屋敷の建物が撤去されたわけではないこと、明治9年には屋敷建物が残っていた/明治15年には陸軍省用地となり、建物が存在してなかったと思われる/武家屋敷地区の発掘調査では池跡をしばしば確認できる

三章
片平地区は家格の高い門閥層の居住地であり、川内地区は四代藩主綱村の親政に伴い奉行職などの重職や側近就任者が居住する地域となっていた/役職に就任すると中心部に転居、解任されると縁辺部に転居する/例外として「重臣層」であるのに川内地区に居住していない者もある(石母田・茂庭・古内・遠藤)/茂庭と遠藤は江戸時代当初から屋敷替えを一度もせず、片平地区の同じ地区に屋敷を構え続けた。片平地区において同じ場所に屋敷を構え続けた家は、他には基本的に藩政に関与しない一門衆しかおらず、両名は特別な存在であったと言える/当主が留守であっても必要が生じれば屋敷替えが進められた(その後奉行職に)/後藤家の屋敷門は仙台城下では有名で、「後藤の玄関、安房の門」と言われ、「決して其構造を同ふしたるものなかりし、それ故二千石の禄には似合はしからざる玄関なりといひはやされたるなり、実に仙台第一の名物玄関として其名は世に聞こえし」(仙台風俗志)/屋敷内で日常的に武術訓練をすることができる馬場などが設置されていた/下屋敷を持つ者もおり、下屋敷への出御あり(鷹狩を終えて立ち寄る場所である「仕廻場」として機能)

四章
禄高に合わせて屋敷交換がなされた(届出制)/所持している屋敷に住まず貸屋敷にすることはたとえ親兄弟であっても不可としている

五章
明治の払い下げなどについて

六章
茂庭綱元は仙台における留守居として、政宗不在の仙台で領内統治の任にあたった。綱元は奉行衆よりも上位の席次で、権限も上であり、奉行衆が藩政の中心となるのは、綱元が藩政から離れた後と考えられている/天正期は白石宗実と政宗への取次・奏者を務める/従属国衆や一門が指南として、外様国衆などからの連絡の窓口となり、当主に近い家臣が子指南として、指南から当主への連絡を仲介する。実元と二本松畠山氏と指南関係にあったと指摘されている/朝鮮出兵後金山の管理を命じられる/種を伴って伏見へ出奔/大條実頼・湯村親元(親元と綱元が仙台留守居である可能性)/慶長7年景綱の白石、成実の亘理への移城を命じた際の命令を奉じる立場/処分の統括を担うのは綱元であり、実行するのが「奉行衆」、政宗への申次・奏者をつとめるのが山岡重長、という役割分担/元和4年高野山に登り、下山後は了庵と号する。元和4年以降に藩政の表舞台から退き、奉行が藩政の中心となる?/仕官や知行地の加増、家格上昇の希望が綱元を通じて政宗に伝えられることがあったのでは?/綱元は家臣の知行地などについての要望を政宗に伝える役割を政宗から期待されていたと考えられる/綱元が政宗の意思決定に影響を与える機会があったのでは?/宗綱・宗清・宗泰・宗高と綱元/「鷹ノ事御功者」「鳥之法度」鷹場の管理を監督する立場/秀宗が他の家臣を通じて政宗に頼んだことが断られたとき、綱元を通じて再度頼む=ほかの家臣とは異なる返事を得られると期待?

七章
側室は御一門格とされる(5代吉村から)/忠宗庶出子はすべて仙台生まれ。「隠し物」に近い存在である庶出子/政宗時代にはない嫡出子と庶出子との間の格差/綱宗の嫡出子扱い/初入部時の仙台城着城に際しては、一門・一家・一族の家臣が名取川まで綱宗を迎えに出たが、綱宗の兄弟はいずれも仙台城下に近い笊籬川までとされた/綱宗が庶出の兄弟との血縁的なつながりを重んじていた様子/「御袋様」

八章
宿老の就任者は着座のうち一番座に位置する遠藤家・但木家・後藤家の三家/仙台藩では病気になった際は回復するまで20日おきに病気届を出し続けることになっていた(宿老を通して)/家を継ぐと同時に、幼年である場合は元服してから宿老に命じられた/正月の行事を司る

九章
登米伊達家内部の対立について/白石三弥

十章
古内家中中畑左家について(在郷陪臣論)



いやあ…これは綱元好きは必読ですよ…!! 六章!!!! 政宗との関係とその特別な立場をはじめから最後まで…!!
あと個人的に気になったのは、三章の中にある、寛文9・10年の地図から見た伊達屋敷の居住者変遷の表で、片倉屋敷の隣が伊達土佐になってて、あれ?安房邸じゃなかった?と思ったら、土佐ってことはあれか。安房の子の土佐か。2代目宗成が死んだのが寛文10年だから、この土佐は3代目基実ということでいいのかな。
それと伊達安房家(亘理伊達家)好きの私としては、後藤家の話ででてきた「後藤の玄関、安房の門」てとこなんですが、『仙台風俗志』見ないといけないとは思いますが、(めちゃめちゃすごい)後藤の玄関と比べられるほど安房家の門がすごかったってことでいいんですよね?? 風俗志読みます!!(笑)