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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『名語集』5:身なりを慎む

『名語集』5:身なりを慎む(身なりを慎む)

原文:

一、或時の御咄に、「常世とて、老若共に、髪ふたふたとだてに結ひ、帯を引き下げて、身にもあはぬ裄を長く、袴をはねさせ、直刀差し、滑り道をも反りて歩く。これ一つとして羨む所なし。先づ、年寄りたる者は年に似合はぬとおもへば、何とよき人もあさくなるなり。若き者は猶以てあさき事。ましてあしき人は、高下共に其の身生れつきの姿にて、嗜みたるこそ、一入見られたる者なり。惣別人は、髪を結ひ、大小をさし、小者をつれ、馬に乗りたるは、皆よき人をまねたき願ひなるに、よき人が徒若党のまねをするは、先づさかさまなり。侍の公儀所といふは、いかやうなるあしき物にても、よく襟を重ね、裄丈身に恰好して、帯高々と引きしめ、上下著るとも、其所ちがはぬ様に著べし。尤も、髪も一日くつろがぬ様に、引きしめて結ひたる物、見物なり。いはんや、身近う使ふ者などは、不断結構なるものばかりはならぬなり。何なりとも、似合はしき物を、ぬしと物数寄して、襟元よく著たるは、見ても気味よし。其の身もきよからん。物数寄の心、少しづつも無きは、穢き心なり。日に幾度も、髪のそそけをなほし、襟元をなほして、奉公する者は、心も知れて頼もしきなり。小袖上下までも、其の所みだりにむざと著たる者見て、よきなりといひがたし。唯、侍は生れ付のすがたにて、心をかぶかせたるが本意なり。身にあはぬ事する人は、心も知れて、遊女の夫にはよからん。侍の道はなし。生れ付かぬ姿に、何ととり付けても、よきとは申しがたし。たとへば鼻なしにつくり鼻付けて、見よからんや。其のままにてこそ一入なれ。さだめて、我が家中を東者とて、世上にては笑うべきが、こなたは笑はれても、まねぬがよし」と御咄遊ばされ候事。

語句・地名など:

常世:永遠にかわらないこと、いつまでも続いているもの/死後の国
ふたふた:扇や鳥が羽ばたいたりしたときに立てる音やそのさま/ばたばた
裄:着物の、背縫いから袖口からの長さ
直刀:真っ直ぐで反りのない刀
猶:まだ、やはり元の通り
あさし:深さがない/程度が軽い、充分でない/思考などが単純で表面的である
高下:身分の高いことと低いこと/すぐれていることと劣っていること
一入:ひときわ、いっそう
惣別:すべてのもの、あらゆること/おおまかなことと細かなこと、まとめることと、分けること
徒若党:徒歩で仕える侍。主君に徒歩で供奉する、中間小者より上位の下級武士
公儀:おおやけごと/朝廷/将軍/世間
見物:見て素晴らしいと感じるもの、見るに値するもの
不断:物事が絶えないこと/いつもおなじようであること、日常
結構:組み立てて作り上げること/意図/支度/実現すること
そそけ:ほつれ、ほつれた髪
むざと(むさと):うっかりと、かるはずみに/むやみに、やたらに/ちゃんとしていないようす
本意(ほい・ほんい):本心/まことの意味/あるべきさま、相応しいありかた
世上:世の中、世間/あたり一面

現代語訳:

あるとき、このようにお話されたことがあった。
「いつものことだが、老いた者も若い者も、髪をばさばさと派手な風に結い、帯を引き下げて、身に合わない裄を長くし、袴をはねさせ、真っ直ぐな刀をさし、滑るような道でも背を反らして歩くようなような者がいる。これはひとつとしてよいなあと憧れるところがない。
まず、年を取っている者は、年に似合わないと思えば、なんと心ばえのよい者であっても、底が浅く感じられる。若い者はそれ以上に底が浅く感じられる。まして悪い人は身分の低い者も高い者も、生まれつきの姿でいることこそ、ひとかどに見てもらえる者である。
総じて人は、髪を結い、大小を差し、小者をつれ、馬に乗っていることは、みんなよき人を真似たいという願いであるので、よき人が若い徒武者の真似をするのは、そもそも逆なのである。
侍の公的な姿というのは、どのような身分の低い者であっても、しっかりと襟を重ね、裄の丈などを身に合わせて、帯をたかだかと引き締め、裃を着るときも、そこのところを間違わぬように着るべきである。なるほど、髪も一日中くずれないように、引き締めて結っているのは、見ていてすばらしい。常日頃よく使う者などは常日頃から見事にしている者ばかりにはならない。どんなものであっても、似合うだろう物をしっかりと選んで、襟元もきっちりとして着ているのは、見ていても気持ちが良い。その身も清潔であるだろう。物を見定める力が少しもないのは、品がない。
日に何度も髪のほつれを直し、襟元を直して仕える者は、その性格も知ることができて、頼もしい。小袖・裃までもきっちりとせず、だらしなく着ているものを見ると、よいとは言いにくい。
ただ、侍は生まれつき、心を傾かせているのがあるべき姿である。身に合わないことをする人は、その性格もしれて、遊女の夫には良いだろうが、侍として生きるのには相応しくないだろう。生まれつきではない身に、何をとりつけても、よいとは言いにくい。
たとえば、鼻のない者につくり鼻をつけても見栄えがいいということはない。そのままでいることかいっそう良いのである。
よく、私の家臣たちを「あずまもの」として世間では笑っている者がいるようだが、おまえたちは笑われても、真似をしない方が良い」

感想・メモ:

政宗が、奇抜な格好をする人を批判している章です。
帯をゆるませたり袴をはねさせたりというのはいまでいうところの腰ばきみたいなものでしょうか。そういう若者の格好はみっともないと言っています。
武士は生まれながらにして武士であるのだから、きちんとしていればそれだけでいいと政宗は思っていたようです。
ここで「伊達な」という形容詞が出てきます。
よく俗説には政宗の言動以降、「伊達」が派手な・格好のいい等といった肯定的な意味に使われるようになった…といわれていますが、実際はそうでなかったことがよくわかります。「伊達な」がいい意味になって使われるようになるのは江戸時代になってからでしょう。
また興味深いのは、仙台藩の藩士に対して、「東者」と馬鹿にする人がいたということです。田舎者に都会の人が厳しいのは昔から変わらないようです。