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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『白達記』白石宗直と伊達成実の争論

『白達記』は、白石家に伝わる家記をまとめたもの。野村紘一郎『白達記 登米伊達伝承禄/登米藩史料第2集』日野廣生/2004として刊行されています。
二段組になっていて、上に原文、下に現代語訳、後に補注がついており、とても読みやすい本です。

今回は、その中に書かれている、「白石藤三郎と伊達成実の争論」についての記事です。

原文(102p5l〜)

(前略)
此夜は野陣なり。六日の未明に片倉小十郎より大坂一戦の由宗直へ申来る。其時旗持早川丹助下知して中間大田小一郎に小旗持たせ成実の小旗指越進み出るを成実見、藤三郎に云へるは其元の九曜は出過あししと引込やうにと藤三郎いへるは、其恰好などのことは常の事、此乱れ軍に何の行義のよきが入べきやとて肯はず。其時成実のいへるは政宗公へ申上る外なしと也。藤三郎の挨拶には其元の心まかせといへり。丹助申越は宗実代より世上の旗の後に立きなし。夫は成実公覚あるべしと争論也。互いに刀に手をかけ内乱とみえる。藤三郎臣下に右馬之允と云ふ者、成実に向ひいへるは、内々の兎や角とはちがえり、今日は大切也、湛然あるべきと云て早道明寺まで押かけての働、日もくれる也。
(後略)
(原掲載文は漢字とカタカナ、句読点なしですが、句読点を補いました)

補注(107p)

白石藤三郎と伊達成実の争論:「白石家戦陣略記」には「白石殿」とだけあり、「藤三郎」の名は見えない。「白達雑記」の「米谷注記」は、藤三郎は初陣なので無勢であろう、父宗直ならば円居をもっているから、この場合は宗直であることは明らかであるとしている。

現代語訳は原本に載っているのでそのままの転載はしません。

大坂の陣の最中、白石家の旗持ちが前に出たことを、成実が「そこもとの九曜紋の旗は出過ぎていていけない、引っ込むように」といったところ、旗持ちが「恰好をつけるのは平常時のことで、このような乱戦の中ではどうして行儀よくしている必要があるのか」と返した。成実は「今回の戦陣はわが勢が命ぜられているのに、それを無視するには政宗公に申し上げるほかない」と言ったが、白石藤三郎は「そこもとの思うようにしたらよいだろう」という。白石家家臣丹助が「わが家の旗は宗実の代より他家の旗の後ろに立ったことはない。このことはあなたも御存知のはずです」と言ったため、論争が高じて互いの刀の柄に手をかけ、あわや内乱となりそうなときに、白石家家臣太郎丸右馬之允という者が成実に向かい「内々で争うのは違います。今日は天下の大事な合戦の日です。耐えるべきです」と言って、場を収め、道明寺まで押しかけた。

ということです。

注記により、この白石藤三郎は白石宗直であるとしています。
白石宗直はこのような人→白石宗直 - Wikipedia

『白達記』には他にも、

  • 宗直が政宗に厚く奉公しているのに恩賞はほとんどないこと。
  • その鬱屈から、宗直がさらに政宗に対し侮ることが多くなり、禁漁区に入って獲物を打ち散らすなどした宗直に政宗は苛立ちを感じていたものの、和賀の乱の責任を宗直に背負わせたことから、宗直の横暴を聞いても我慢していたこと
  • 寛永6年、宗直が数々の横暴に対する政宗の怒りをなだめてもらうようにお詫びをしたいと東昌寺の和尚に頼んだが、聞き入れられなかったこと
  • その後宗直が病を得て死んだとき、政宗は鷹狩りに出かけていたが、鶉を捕った。そこへ宗直の死去の報がきたため、「もし宗直が生きていたら、このようにしてやろうものを」と手にした鶉を引き裂いたこと

(但し「登米伊達十五代史前編」では原稿朱書注記に「この説妄説なり」とある)

  • 政宗の怒りがすさまじいので、もしかしたら棺を暴かれるかもしれないと、宗直の遺骸を東昌寺境内に隠し埋め、空の棺を登米へ下し、それを養雲寺沢へ葬った。宗直の本当の墓が東昌寺のどこにあるか不明であること
  • 政宗は怒りのため登米領主から伊達姓を取り上げ、一門から一家に降格し、白石姓に復させたこと

などが書かれていて、
政宗が宗直に対し、激しい怒りを抱いていたことが書かれています。
白石家は一時一家に降格しますが、その後忠宗の四男五郎吉が継ぎ一門に復しますが夭折したため、正保5年五男辰之助(宗倫)が跡を継ぎます。この宗倫がのちの伊達騒動で伊達式部として登場しますが、その話はここでは割愛します。

「政宗公に申し上げるほかない」と告げる成実は、成実や成実に近しい家臣たちの記録などでは出てこない、冷酷さを感じさせます。「○○するほかない」構文もですし、政宗に訴えたらどちらを取るかわかっているあたりが…いや…成実…こわ…てなります。
見る人が変われば、見えてくる人物像は変化する…というのがよくわかる記述です。