[sd-script]

伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

入間田宣夫『中世奥羽の自己認識』伊達家関連記述

入間田宣夫『中世奥羽の自己認識』(三弥井書店/2021)を読みました。
中世奥羽の各氏族がどのように自前の系譜認識を形成し、自らのアイデンティティを築き上げたのか、を論じている本で、当然伊達氏も各所に出てきており、興味深い本でした。
(主に織豊期に)途絶えた家と、その後生き延びた家との家祖伝説の違いや、時代による変化などが非常におもしろかったです。
伊達家関連記述を挙げますと……

一章「中世奥羽における系譜認識の形成と在地社会」より
7p
 そして、仙台藩伊達氏のばあいには、室町・戦国期の辺りに、公家の「山蔭中将」を始祖として、公家の雄、「近衛殿」との親近性をアピールする一方で、平泉の「奥州王」秀衡の後継者をも自称するという特徴的な言説をかたちづくっていた。それが明らかである。
 寛正五年(一四六四)、京都にて、伊達一族の坊主が口にした物語には、九郎判官義経が「伊達秀衡」を頼ったこと。山蔭中将が一族七八〇人を率いて、頼朝の平泉攻めに参陣して、手柄を立て、奥州に所領を賜ったこと。が含まれていた(『臥雲日件録抜尤』当年四月十五日条)。同じく、一六一五年、ローマにて、シピオネ・アマティが記した『伊達政宗遣使録』には、「奥州王秀衡」の死後、牛若殿が討たれ、頼朝が復讐を遂げた(平泉藤原氏を滅ぼした)こと。奥州における藤原氏の血筋が途絶えるのを惜しんだ公家の長者、近衛殿は、「同じ家筋の他の諸兄弟」の山蔭中将を奥州に下した。が記されていた。
 ここでも、またまた、鎌倉御家人に由来する本来的な系譜は忘れ去られてしまっている。

三章「奥羽諸大名家における系譜認識の形成と変容」
戸沢・伊達の系譜認識
(前略)
 それに対して、仙台藩伊達氏のばあいには、室町・戦国期の系譜認識を捨て、現在の学問水準から見ても遜色のない歴史的根拠を具えたそれに改変することに成功している。
 室町・戦国期における伊達氏の系譜認識には、「近衛殿」に近い家筋の「山蔭中将」が、「奥州王秀衡」の後継者として登場したことが、大名伊達氏の始まりとされていた。その周辺には、平泉藤原氏の当主、その人を、「伊達次郎泰衡」と呼ぶなど、平泉と伊達の同族関係を物語る風潮さえもが広がっていた。入間田「伊達の平泉伝説」ほかに、記した通りである。
 ところが、近世に入ると、平泉伝説の色彩は完全に払拭されて、常陸国中村に居住する鎌倉御家人の先祖、朝宗が、文治五年奥州合戦(一一八九)の手柄によって、陸奥国伊達郡を賜ったことを始まりとする系譜認識に、見事に改変されることになった。「山蔭中将」、その人が始祖とされていることには変わりがないが、平泉滅亡時の人にはあらず、朝宗よりも九代をさかのぼった平安前期の人だということにされた。この方が、歴史的事実に即していることはいうまでもない。
 このような抜本的な改変が行われた背景には、伊達氏、そのものによる政治的姿勢の転換があった。すなわち、「奥州王秀衡」の後継者として独立王国を維持・形成しようとする姿勢から、徳川幕府に従属するなかで鎌倉御家人の出自を誇りにして朋輩に勝る発言力を確保しようとする姿勢へという、大きな転換があった。それに間違いない。
 そのうえに、伊達氏のばあいには、『吾妻鏡』ほかの古記録や若干の古文書に、先祖の名前が見えていて、学者を雇うなど、しかるべき手立てを講ずれば、鎌倉御家人の出自を裏付ける根拠を見出す音が可能な状態にあった。その点では、秋田(津軽安藤)氏や戸沢氏とは比較にならないほどに有利な条件に恵まれていた。
 したがって、仙台藩伊達氏による系譜認識の改変には、大きな障害がなく、内外ともに、スムーズな進行を見ることになった。『藩翰譜』においても、大筋において、その内容が採用されることになった。

P83
 そして、伊達の系譜認識、わけても近世前期における抜本的な改変の過程については、その後、入間田『平泉と仙台藩』仙台・江戸学叢書七六(大崎八幡宮、二〇一七年)にてくわしく記すことになった。参照していただければ、さいわいである。
 その『平泉と仙台藩』については、近日に刊行の伊藤喜良『伊達一族の中世』(吉川弘文館、二〇二〇年)において、「伊達氏が頼朝ではなく近衛殿との間柄を強調するのは、その間柄をアピールする必要があったからであり、新たなアイデンティティの確立の必要に迫られたからであるという。このような近衛氏との関係の強調は、政宗の曾祖父稙宗のあたりからであったという。伊達氏の伝承に関する入間田氏の指摘は的確である」。と記されていた。合わせて、仙台藩による修史事業の中で、「(平泉)藤原氏や近衛殿との関りが消えていったのは、徳川幕府の傘下に入ったことにより、伊達家の立ち位置が変わったので、伊達氏による系譜認識の大転換がなされたことが理由であるといっているのは、入間田宣夫氏である」。と記されてもいた。
 なお、伊達氏に伝えられる系図類については、羽下徳彦氏による本格的な研究が積み重ねられている。羽下「仙台市博物館所蔵の伊達氏古系図四種」(『仙台市博物館』研究報告二一号、二〇〇一年)、「奥州伊達氏の系譜に関する一考察」(『歴史』九六輯、同年)ほか、一連の仕事を参照されたい。
 また、黒嶋敏「伊達氏由緒と藤原山蔭ー中世人の歴史認識ー」(『日本歴史』五九四号、一九九七年)には、「『伊達神話』の嘘には、それぞれに合理性とも必然性とも取れる背景があり、伊達氏が政治的に捏造した嘘とするのには、ためらわれるのである」。「(伊達氏)自らが信じていたものを、『硬度に政治的な主張』とするのは困難である」。として、注意を要することが記されていた。

七章「鹿角四頭と五の宮の物語」
163p
 そればかりではない。南奥の大名伊達氏によっても、「近衛殿」に身を寄せる志向性がかたちづくられていた。たとえば、一六一五年ローマにて、シピオネ・アマティが記した『伊達政宗遣使録』によれば、奥州王秀衡の死後、将軍頼朝がその復讐を遂げた。藤原氏の血筋が途絶えるのを惜しんだ都の「公家の長者」「近衛殿」は、「同じ家筋の」の他の諸兄弟」の山蔭中将を奥州に下した。こうして、「強大なる奥州守護」となった山蔭の子孫こそが、伊達氏だというのである。そのうえに、政宗の曾祖父に当たる稙宗が、藤原氏の長者にして関白・太政大臣を兼ねた近衛稙家と、しばしば音信を交わしていた。さらには、稙宗の花押が、稙家のそれの模倣であった。小林清治・大石直正ほか、先学に学びつつ、入間田「中世奥南の正統意識」(同『中世武士団の自己認識』)において指摘している通りである。
 伊達家には、古くから山蔭中将をもって奥州入部の始祖とする言説が伝えられていた。だが、室町中期、寛正五年(一四六四)の辺りには、その山蔭の背後に「近衛殿」ありとする内容は含まれていなかった(『臥雲日件録抜尤』当年四月十五日条)。したがって、「近衛殿」に身を寄せる志向性は、それより以降、戦国争乱の時期に入ってから顕在化したものと言わざるをえない。

164p
 室町後期、応仁・文明の乱(一四六六〜七七)を過ぎて、戦国争乱の雰囲気が漂い始める辺りから、奥羽の諸大名は自ら上洛し、ないしは使節を上洛させ、朝廷・幕府周辺に接近して、故実・芸能ほか、京都文化を摂取すべく、努力を傾注した。時には、京都方面から公武の文化人を招聘して、師匠と仰ぐこともあった。
 たとえば、伊達氏や大崎氏の領国においては、天文年間(一五三二)には、八条流馬術が関東を経由して摂取されていた。同じ頃、大崎領においては、近習が乱舞稽古のために上洛させられたり、謡曲の本を京都から下されたりもしている。
 奥羽の諸大名には、「旺盛なる文化吸収欲」があった。京都方面の師匠に習って、儀礼を整え、法令・規式を制定し、諸芸の興隆を図らなければ、さらには自分自身の文化的教養の向上を目指さなければ、自前の領国経営を推進することができない。という緊張感にあふれる自己認識があった。(中略)
 戦国争乱のなかで、地方分権の志向性が強化される反面において、京都文化に対する憧憬の念、ないしは天皇・公家に対する尊敬の念が醸成されたことになった背景には、そのような抜き差しならない切実な事情があったのである。
 奥羽の諸大名家における系譜認識の形成過程に関しても、また然りである。かれらが、公卿の末裔、京侍の子孫と称し称されたり、「近衛殿」との所縁を称し称されたりしているのは、自立・自尊の主体性を放棄するにはあらず、それよりは、むしろ、在地社会におけるリーダーシップ確立を目指す。巧妙な選択であったことが明らかである。

九章 伊達の平泉伝説
伊達次郎泰衡:史料・伝承に名を残す。

205p
すなわち、伊達氏についても、外来の征服者としての誇りよりも、在来の平泉の伝統の継承者としての矜恃の方が優先するという歴史認識の変換があったことを指摘できるのではあるまいか。

最近、生前「藤次郎」であった政宗や「藤五郎」であった成実が、現存の書状で「次郎」「五郎」としか署名していないことを挙げて、「藤次郎・藤五郎」の「藤」は藤原氏との関わりを強めるために後世付けられたものであるという説を聞いたんですが、自分はちょっとこれには疑問を感じていて、政宗やその前段階の当主たちには藤原氏としての意識はもともとあり、「藤」をつけていたが、家中では不要であるからつけていなかったのでは?と思っていました。
アマティなどの記述にあるように、藤原氏・奥州藤原氏への帰属意識は稙宗以来強くあって、その後『藩翰譜』などの成立までに、御家人血統を誇示する動きがあったんじゃないかと思っています。
多分、奥州藤原氏が藤原経清を介して藤原氏とつながることへの意識が今よりも強かったんじゃないか(というか今の認識が奥州藤原氏四代に気を取られすぎて、そもそも「藤原経清」のことに触れなさすぎなのでは)と思うのです。
「藤原氏を名乗りながら」「奥州征伐を行った御家人のひとりであり」「かつ藤原氏秀郷流の後裔であること」は、矛盾しない。アイヌやエミシに連なる家系ではなく、だが、藤原氏の裔であるという認識はありえると思うのです(むしろ今がアイヌ・エミシから奥州藤原氏への「虐げられた奥州」という認識が強すぎるのでは、と)。

で、政宗と近衛信尋の個人的な関わりを含め、「近衛殿」との関わりは江戸時代を通じてあるわけですが、江戸初期においてはそれはそれほど重要なことではなく(政宗生前に上杉景勝のように藤原氏の氏神である春日社に参ったり、勧請したりしている様子がない)、武士の家系である源頼朝の子孫である徳川家康の家臣として、正統な御家人の家系であることを示す方が重要であった、という入間田氏の指摘はわかるような気がします。
藤原氏の血筋であることを軽視しているのではなく、それは稙宗以降強くあったけれど……という印象です。まあ素人考えですが。

伊達次郎泰衡の伝承については、「伊達家の嫡男は次郎と呼ばれる」問題と合わせて、非常に興味深いものだと思います。
あと各氏の家祖伝説が貴種流離譚や異類婚姻譚であったりするのも、とてもおもしろい。そういった伝承が歴史学に押されて変換していくのが興味深い現象です。