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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』8-5:高麗立之事

『政宗記』8-5:高麗へ出発のこと

原文

文禄二年癸巳正月、秀吉公当三月より、政宗・弾正父子渡海致せと上意に付て、同三月十五日より、船中へは入給へ共、日和悪くて、二十二日迄名護屋間に掛て順風を待給ふ。二十三日に順風なれば、壱岐の風本迄乗着給へり、原田左馬介・富塚内蔵頭をば、三月の内に先に立給ひ、渡海なれども、日和なくして未風本に逗留也。爾る処に、其月二十三日に、弾正少弼父子の舟と、政宗家来石川大和・伊達上野・白石若狭・片倉小十郎・伊達成実、各風本まで叶はずして、其夜は中途に掛り、明る二十四日に順風を受、弾正少弼を始め、何れも対馬の府中へ着船也。政宗も順風とて俄に出られけれども、又風悪くなり府中へは叶はずして、本の風本へ戻り給ひ、四五日有て対馬の府中へ着き給ふ。扨其後順風なければ、十四五日逗留し給ふ。中途に掛る舟どもは、弾正少弼とともに各釜山海へぞ着にける。伊達の者ども政宗の供船にてなき者どもは、高麗へ疾に渡らんとして、急ぎければ、未後に御坐す故、海上は私事ならず迚、伊達の者ども本意なかりける。然るに、弾正少弼釜山海に四五日の休息にて、うるさん国と云処へ働き給へば、彼地は去年*1癸巳日本渡海の先陣衆、斬随ひそれをば打すて、高麗の都へ押通りければ、其後を又高麗陣とも抱けれども、破却の跡にて持兼ね、日本勢を見かけければ、山は引込隠れ居けり。かかりける処に、日本の武兵ども四五十人、陣屋の木材取に出けるを、日本勢跡の継かざるを高麗人ども高き山より見切、右の武兵を追散し、五六人討取、其を理に薪取迄追いまはしけり。是を政宗聞給ひ、先人を遣はし山の案内みせ給へば、右の山よりみ切もみへず、御方の者ども、三百余人忍びけれども、木立の中にて、いかにもよき深沢の有と申しければ、其夜二百余人彼沢に隠し置、翌日武兵どもを材木取りの様に遣し給へば、案の如く跡は継数とみて、山より降しかけ追廻し蹴るを、沢の者ども起合押切蹴るを、此方の陣でも待掛けければ、各取出助けける程に、高麗人を八十三人討取、其首どもを弾正少弼へ政宗持参有ければ、今に始めぬ御手立、去とては感入りたり。此旨名護屋へ上聞に達すべしと宣ひける事。

語句・地名など

風本:長崎県壱岐勝本町勝本浦
手立(てだて):てだて/策略。

現代語訳

文禄2年正月、秀吉からこの3月から、政宗と浅野長政・幸長親子へ渡海せよとの命令が下りたので、文禄2年3月14日から、船には乗り込んでおられたのだけれども、天候が悪く、22日まで名護屋の間にかけて、順風が来るのをお待ちになった。23日になって順風となったので、壱岐の風本まで到着なさった。原田左馬介宗時・富塚内蔵頭信綱を、3月のうちに先に出立させ、二人は渡海していたのだが、よい天候の日がなく、まだ風本に逗留していた。そうこうしているうちに、その月の23日弾正少弼浅野長政・幸長父子の船と、政宗家来石川大和昭光・伊達政景・白石若狭宗実・片倉小十郎景綱・伊達成実、それぞれ風本まではたどり着かず、その夜は中途で止まり、明くる24日に順風を受け、浅野長政を始め、いずれも対馬の府中へ着船した。政宗も順風であるということで急いで出発されたのだが、また風が悪くなり、府中までは到着出来ず、もとの風本にお戻りになり、4,5日したあとで対馬の府中へお着きになった。
さてその後いい風がなかったので、14,5日逗留なさった。渡海途中になっていた船たちは浅野長政と共に、それぞれ釜山海へようやく到着した。伊達の家来たちは、政宗の供の船でない者たちは高麗へ急いで渡ろうとして急いだのだが、まだ到着していらっしゃらない為、海上では私戦をしてはいけないということで、伊達の者たちの本意ではなかった。
だが、浅野長政が釜山海で4,5日休息して、蔚山国というところへ戦闘を仕掛けた。この場所は去年日本を出発していった先陣衆が、切り従え、うち捨てて、高麗の都京城へと取っていった後であったのだが、また高麗人たちが取り返し、壊れた城の中で待ち伏せ、日本の軍勢を見かけると、山の中へ引っ込んで隠れた。
こうしているところに日本の兵たちが4,50人、陣屋の材木を取りに出たところ、日本勢のあとが続かないのを高麗人は高い山から見極め、この兵たちを追い散らし、5,6人討ち取り、それを理由に薪取りの者たちまで追い回した。
これを政宗はお聞きになり、まず人を遣わし、山の案内をさせたところ、この山から先の高麗人の部隊も見えず、味方の者たち300人余りが忍んでいたのだけれども、木立の中でいかにもよい深き沢があると申し上げたところ、その夜200人余りをその沢に隠しおいて、翌日軍勢を材木取りに見えるようにして遣わしたところ、案の定高麗人たちは後に人が続かないと判断して、山より降りてきて、追い回したので、沢に隠れていた者たちを決起させ、押し切り、こちらの方の陣でも待ちぶせしたところ、それぞれ取り出し、助けた。結果、高麗人を83人討ち取り、その首を浅野長政のところへ政宗が持参なさったところ、今に始まった政宗の策略ではないけれども、特に感じ入られた。このことを名護屋の秀吉の元へお伝えしなくてはいけませんとおっしゃったとのことである。

感想

伊達勢、高麗への渡海のシーンです。
なかなかいい風の日がなく、渡海に苦労しているところが見てとれます。
最後の行の「上聞に達すべし」と言ったのが政宗か長政か判然としないのですが、一応ここでは長政ということにしておきます。成実は一応長政に敬語です(敬語でない部分も多々ありますが)が、政宗には常に敬語なので、政宗の言葉でもありではないかとふと思いました(そうなると「このこと秀吉公にいっといてくださいね!」的になりますが)。

*1:去年は文禄元年で壬辰の年