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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

総合目次

【ご挨拶】

はじめまして。[sd-script](「エスディー・スクリプト」)です。
管理人:慶と申します。
こちらは、戦国〜江戸初期の伊達家家臣&ライター武将【伊達成実】(だて・しげざね)に関する趣味の考察ブログです。
「史実」の伊達成実に関するあれこれ(主にかれの著作について)の私的覚え書きと整理が目的です。
創作におけるものについては「感想」カテゴリで触れる以外はありません。

素人がやっております単なる趣味のサイトです。
考察・簡単な現代語訳を上げる予定ですが、読めば一目瞭然ですが間違ってる酷い訳です。間違いに気がついたらあとから勝手に書き直します。
計画的なものではなく、気が向いたとき&ところからフラフラテキトーにやっていきます。真面目な研究目的ではなく、ミーハーなファン心故のサイトです。
文法読解など、間違ってるところ多数なので、何かの参考にはされない方がいいと思われます。
ご意見・間違いご指摘・ツッコミ等は大歓迎ですので、コメント等でお気軽によろしくお願いいたします。間違いなどに気づいた場合、過去の記事もことわりなく書き直したりもします。

注:このサイトは御子孫各位・特定市町村・各種研究機関・出版社・著作権者様方…etcとは一切関係ございません。完全にただのいちファンが趣味でしていることです。
営業妨害・名誉毀損・著作権侵害などの意図はございません。
こちら記載の記事に関連して何か不都合な事がございましたら、こちらまでメールをいただけますようお願いいたします。
必ず折り返し返答させていただきますが、連絡先のないものには返答いたしかねます。

【更新履歴】NEW!!

  • 20210318:『世臣家譜』に片倉家:片倉重長(重綱)の記事をupしました。
  • 20210128:『世臣家譜』に片倉家:片倉景綱の記事をupしました。
  • 20210102:あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

これより前の更新履歴はこちら

おしらせ

  • 更新頻度が気まぐれかつ唐突ですが、ご了承下さい。
  • 今まで『成実記』で分類しておりました記事を書名である『伊達日記』に変更しました。(『成実記』と各『伊達日記』にも細かな違いがあるため、誤解を招かないために。合わせて参考にした書名を記すことにしました。)
  • 『政宗記』記載の地名の注は、合併後地名では(私に)分かりづらいこともあり、大体伊達史料集そのままにしてあります。

【総合目次】

原文:

成実以外の筆者による成実が登場する記事:

その他の政宗逸話記事:

『世臣家譜』片倉家:片倉重長(重綱)

『世臣家譜』片倉家、二代片倉重長の分です。

二代:片倉重長(かたくらしげなが)

天正12年12月25日(1585年1月25日)〜万治2年3月25日(1659年5月16日)
戒名:真性院一法元理居士

書き下し文

景綱子備中守(小字弥左衛門、又左門又は小十郎又は伊豆守又は小十郎を称す)、重長(初名重綱)元和元年五月又大阪の役有り。是時公江戸に在し、重長亦之に従ふ。公重長に先鋒を命ず。是月五日重長一千余人を卒し(軍数前年に同じ)、道明寺口(在大阪)片山麓に陣す。後藤又兵衛政氏(大坂党)赤色に装ふ。兵を率いて片山下に到る。片山伏兵声を発し、銃を放ち之を禦ぐ。敵、矢石を避けず山に登り、山上兵亦下之を追ふ。薄田隼人正兼、政氏を援く。合戦時を移し、重長家臣渋谷右馬允薄田隼人正兼を撃ち、之を殺す。併せて大小二刀を獲る。敵勢衰え敗走し、後藤政氏復備えを設け合戦す。政氏栗毛馬に乗り、梨地鞍を設け、我軍銃を放ち、政氏に中り斃れおわんぬ。敵兵襲来其骸を取り、黒半月立物を遺す。重長兵士進みて之を獲る。敵勢益衰敗走す。是時重長自ら是を撃ち、四騎を斃し、首を切ること凡そ九十三級。重長自ら之を記す。其余録さぬ者亦多し。翌日重長復兵を進め、之を攻める。須■城*1中火が起こり、城遂に陥す。是時重長首六十級を獲る。其家臣亦功有りと云ふ。(元和元年五月重長家臣佐藤治郎右衛門其弟大学数度の戦功を褒賞し、感状を賜ふ。各に田五十三石俸十口切府金一枚を賜ふ。後寛永二年十二月公佐藤兄弟に命じ、長く其家の賦金を除き、其書今二人の家に蔵すと云ふ。復其家家臣渋谷右馬允道明寺の役の功を褒賞し、黄金二枚を賜ふ)
是歳鹿児島候(松平薩摩守家久)京師邸を訪ひ、公饗す。鹿児島候重長を召見し、大阪の戦功を賞し、酒を賜杯す。且つ親ら当引長光と名する刀を賜ふ。是刀也太閤秀吉の遺物也。重長拝して之を受く。謝して曰く微臣何ぞ敢えて是器に当る。願い是、寡君に上ぐ。乃ち之公に献ず。(元和二年二月公重長の家臣佐藤治郎右衛門戦功有るを以て、凡封内経行、風雨霜雪を避けず、伝馬一匹を与ふを仮に赦し、公の黒印、今其家に蔵す)、寛永三年四月重長、上国浪士柴十右衛門を得、公召して見、田三百石を賜ひ、以て重長家臣と為す。是先重長大阪の役有りて功有り。公賞して田禄を以て欲し、而して一人重長に与ひがたく、是以て新しく浪士を得、公之田を賜ふを約す。是増田禄を加えるの意也。故に是を挙げて有り。(十右衛門の裔柴三太夫罪有りて、元禄十二年肯山公の時其田を収る)五年八月野谷地二百町桃生郡深谷を賜ふ。嘗て台徳廟に伏謁し、慇懃命を賜る。公之を喜び、六年三月親書及び佩刀(広正作)一口を賜ふ。十三年七月義山公襲封の時、重長大猷廟に伏謁し、後再び使いに江戸へ奉る(十六年九月十八年八月)。大猷廟に伏謁し、賜物有りて、嘗めて唐船番所事を掌す。また嘗めて銃二挺を賜ふ。正保元年正月、又江戸に使い奉り、大猷廟に謁し、時服二領を賜ふ。二年八月経界の余田を賜ふ。前に併せて一万六千十三石五斗二升の禄と為る。是月要山世子(義山公世子、諱光宗、早世、法名要山透関、円通院と号す)江戸において病し、公駕を発し江戸に赴く。是時公書を重長に賜ひ、留主と為し、国事の任せせしむ。慶安四年十二月重長大阪の役に従い、先鋒と為し、功有るを以て、吉兆と為す。命歳首遊猟毎、永世先鋒と為し、また毎年卯日の嘉儀、永世具足餅相伴と為し、明暦二年新田千三百四十三石七斗一升を賜ふ。前と併せて一万七千三百五十七石二斗三升の禄と為す。万治二年公江戸に在り、重長疾甚篤きを聞き、使者を仙台に使はし、慇懃命を賜ふ。其没に及び、公之悼み知るべき也。嘗牛脇丹波定顕有りて、官由緒有るを以て之重長に属す。貞山公後其子丹波定広を挙げて田禄を賜ふ。片倉氏を冒し、同姓の親と為す。其裔虎間番士となり、三百石の禄を保つ。今片倉五郎右衛門定矩を称す是なり。重長子無く、松前市正安広子を養ひ、外孫と為るを嗣と為す。

語句など

寡君(かくん):自分の主を謙遜していう言葉

現代語訳

景綱の子は備中守(幼名弥左衛門、左門・小十郎・伊豆守・小十郎を名乗る)重長である(初め重綱と名乗った)。
元和元年5月にまた大坂の陣があった。このとき政宗は江戸におり、重長もまたこれに従った。政宗は重長に先鋒を命じた。この月5日重長は1000人余りの兵を集め(兵の数は前の年と同じ)、大坂の道明寺口の片山の麓に陣をしいた。大坂方後藤又兵衛政氏は兵を赤備えにしていた。兵を率い、片山の下に至った。片山に伏せていた兵は声を出し、銃を撃ち、これを防いだ。敵は矢や石を避けずに山に登り、重長の家臣渋谷右馬允は薄田隼人正兼を撃ち、殺した。そして大小の2刀を奪った。敵の勢いは衰え、敗走したが、後藤政氏はまた備えを立て直し、いくさとなった。政氏は栗毛の馬に乗り、梨地の鞍を付けていた。我が軍は銃を放ち、政氏はこれに当たり、倒れた。敵兵がやってきてその遺体を取ったが、黒の半月の立物は遺された。重長の兵士は進んでこれを得た。敵の勢いはますます衰え、敗走した。このとき重長は自らこれを撃ち、4騎を斃し、93級の首を切った。重長はこのことを自ら記している。また記録されない者も多かった。
翌日重長はまた兵を進めて攻めた。須■城から火が起こり、城はついに陥落した。このとき重長は60級の首を奪った。またその家臣も軍功を挙げたという(元和元年5月政宗は重長の家臣佐藤治郎右衛門とその弟佐藤大学の数度の戦功を褒め、感状を与えた。それぞれに田53石俸10口切府金1枚を与えた。のち寛永2年12月政宗は佐藤兄弟に、長く賦金の免除を命じた。この書状は今二人の家に所蔵されている。またその家臣渋谷右馬允の道明寺の役の戦功を褒め、黄金2枚を与えた)。
この年鹿児島候(松平薩摩守・島津家久)が京屋敷を訪れ、政宗はこれを饗応した。島津家久は重長を召して、大坂の陣の戦功を褒め、酒を与えた。また自ら当引長光と号する刀を与えた。この刀は太閤秀吉の形見だった。重長は礼をし、これを受け取ったが、自分のような家臣はこの刀には相応しくありません。これを私の主に献上してもいいかと願い、これを政宗に献上した。
(元和2年2月、政宗は重長の家臣佐藤治郎右衛門に戦功をあげたことを理由に、封内を渡る時、風雨・霜・雪を避けることができないため、仮に伝馬1匹を与えるのを許した。この政宗の黒印状はいま佐藤家にある)。
寛永3年4月、重長は上総国の牢人柴十右衛門を得て、政宗はこれを召して会い、田300石を与え、重長の家臣とした。さきごろ重長が大坂の陣で戦功を立てたことを褒め、田禄を与えたいと思ったが、これ以上重長一人に田禄を与えづらかったため、新しく浪人を雇い入れ、それを与えるということを約束した。これはまた田禄を与えるというおぼしめしであった。(十右衛門の末裔柴三太夫は罪を犯したため、元禄12年肯山公綱村の時にその田を没収した)
寛永5年8月野谷地200町の桃生郡深谷を与えられる。また台徳院秀忠に拝謁し、丁寧な命を賜った。政宗はこれを喜び、6年3月書状と広正作の佩刀を一口賜る。寛永13年7月、義山公忠宗が跡を継いだとき、重長は大猷院家光に拝謁し、その後も使いとして江戸に何度か行く(寛永16年9月・18年8月)。家光に拝謁して、者を賜り、唐船番の当番にあたる。また銃2挺を賜る。正保元年正月、また江戸に使いとして上り、家光に拝謁し、時服2領を賜る。正保2年8月経界の余っていた田を賜った。以前のものと併せて16013石5斗2升の禄となった。この月義山公忠宗の子の要山世子(諱は光宗、法名円通院要山透関、早世する)が江戸において病となったため、忠宗は仙台を出発し、江戸に赴いた。このとき忠宗は書状を重長におくり、留守居役として国許の差配を任せた。
慶安4年12月、重長が大坂の陣に従い、先鋒となって戦功を挙げたことを吉兆であるとされた。毎年の年明けの遊猟などの毎に、永世の先鋒として、また毎年卯の日の祝いにおいて、永世の具足餅の相伴を努めた。
明暦2年に新田1343石七斗1升を与えられた。以前の禄と併せて、17357石2斗3升の禄をいただくことになった。
万治2年綱宗が江戸に在った頃、重長の病が悪くなったことを聞いて、仙台に使者を使わし、丁寧な命を賜った。重長の死に際しての綱宗の心労は大きかった。牛脇丹波定顕という男が関係があって重長に仕えていた。政宗はのちにその子丹波定広を跡継ぎとして、禄を賜った。片倉氏を名乗り、同姓の親となった。その末裔は虎之間に詰める番士となり、300石の禄を保った。いま片倉五郎右衛門定矩を名乗っているのがこれである。重長は子がなく、外孫である松前市正安弘の子を養子とし、跡継ぎとした。

感想

重長の分です。政宗・忠宗に仕えた二人目の小十郎です。鬼の小十郎はこちら。
秀忠と忠宗に与えられた「慇懃命」というのが具体的に何を指すのか少しわかりませんでしたが、与えてもらってよいものであるということはたしかです。政宗・忠宗に仕え、非常に愛された家臣であることがわかります。
綱宗にも仕えていますが、忠宗が死んだのが万治元年7月、重長が万治2年3月に死んだので、1年たらずの間だったようです(なので本文中万治2年の「公」は綱宗のはず)。主従、立て続けになくなったんですね。
成実とは烏帽子親・烏帽子子の関係であったとされています。その割に偏諱を与えられていないのは、政宗の指示だったからなのか、気を遣って成を付ける代わりに重を付けたのか。わかりません。重の字は景重などの名からわかるとおり、片倉家にとっては通字的な意味合いもあったのではないかと思われ、成の代わりと考えるのも難しいです。
どうなんでしょうね。

*1:漢字変換できず

『世臣家譜』片倉家:片倉景綱

『世臣家譜』より、片倉家の記述を掲載します。とりあえず初代景綱のみ。

初代:片倉景綱(かたくらかげつな)

弘治3年(1557年)〜元和元年10月14日(1615年12月4日)
法名:傑山常英大禅定門

書き下し文

片倉、姓は藤原、其先は知らず。伝えて言う、大織冠鎌足公の後裔加藤八左衛門尉(片倉系図遠山左衛門大夫作る)景継十三世孫片倉備中(はじめ小十郎と称す)景綱祖と為す。(按じて片倉仲愛親家譜曰く、其先大織冠鎌足公の後裔片倉某より出で、其子修理亮兼春祖と為す。兼春片倉左衛門尉景継九世の孫也。兼春子壱岐守兼景、兼景子因幡守頼形、頼形子伊豆守頼親、頼親子壱岐頼高、頼高弟あり。之式部少輔景重と称す。天文十五年保山公の時、采地として置賜郡屋代永井両庄を賜り、米沢八幡宮の神職となる。景重次男あり。長じて参河景広と称す。次いで備中景綱曰く、景広子修理助景次多病、其任に堪えずを以て、受ける所の采地を叔父景綱に譲る。別して其家を立て、之に拠りて則ち景綱は、頼高の姪男、而して其支族と為す。事片倉愛親家譜に詳かなり。今姑其家の録する所に従ひて云う)景綱性山公の時始めて挙す。天正三年世子(貞山公と謂う)年甫九歳、景綱を以て之に属し、昵近、親書数十通を賜り、今家に蔵す。十三年五月貞山公会津檜原主と対陣、景綱公と密かに策を定め、単騎敵営に赴き、檜原主を誘ひ、来たりて公に謁する。公麾下に属せしむ。檜原主猶予未だ応じず、公の卒数百騎其帰路を遮る。檜原主力窮、遂に麾下に属すと云う。是歳塩松及び人取橋の役、景綱軍を従え、功有り。首若干級を斬る。十四年八月、公景綱に命じ、二本松城を守りし時、親筆の判物を賜り、是時采地若干家臣三人を賜る(関屋彦一郎国分と惣右衛門、小片治郎右衛門)其判物各其家に蔵す。是歳九月公信夫郡大森及び須川(須川間恐賀字を脱す)の南伊達成実嘗て有する所の地を賜る。其証文今家に蔵す。十六年四月、景綱伊達成実会津及び須賀川二階堂などの軍と本宮において戦ふ。敵遂に人取橋に到り、首を斬ることとりわけ多く、かつて公軍中密書数通を賜り、是歳六七月の間、窪田の役有り。景綱之に従ひ、首獲ること数級(此役景綱家臣戦功有り、公之を聞こし召し状を問ふ。各拝謁有り。大町清九郎長刀を拝賜する。佐藤治郎右衛門鎧及び佩刀を拝賜する。佐藤金蔵笄及び飲水器を拝賜する。佐藤大学香箸を拝賜る。今各其家に蔵す)十月二十六日、東照廟親書賜る。今其家に蔵す。十七年五月公駒嶺の役有り。是時景綱之に従ひ、其家臣亦戦功有り。六月会津摺上原の役、葦名義広と戦し、首百余級獲る(伊達世臣伝記に按じて云ふ、是役也猪苗代弾正盛国を先鋒と為し、景綱之に次いで撃ちて之を敗り、敵兵走る、盛国之を遂げ、三十里の所、悉く之を殲し、首二千五百級を獲る。之を埋め鯨観と為し、人号して云わく三千塚と云う)。是時景綱家臣佐藤惣六会津家士安孫子彦之丞(螺を吹くを掌す)と合戦し、其首を斬る。景綱其首及び螺を以て公に献じ、公之を褒め其螺を景綱に賜ふ。今家に蔵す(伊達世臣伝記に按じて曰く景綱酣戦い、敵景綱の旗を奪ふ。士兵之を遂い、争いて之を取り、旗悉く裂ける。景綱家臣佐藤惣六、景綱に問うて曰く、敵の陣螺如何、景綱曰く、此会津の宝器なり、総六曰く、吾主の為に、陣螺取る。以て旗裂の恥雪ぎ、即ち敵に入りて安孫子彦之丞を撃ち、其首と螺を取りて還り、景綱皆之公に献ず。公褒めて螺を景綱に賜ふ。乃ち其螺の名を安孫子螺と曰と云う)十月公会津の戦功を賞め、会津の内五箇の地を増賜す。朱印今家に蔵す。是月また須賀川の役有り、景綱軍に従わずと雖も、士卒を出し、之に応ず。家臣佐藤次郎右衛門、火を放ち城を焼き、城之を為し陥す。公之を褒め、采地若干を次郎右衛門に賜ふ。十二月太閤秀吉賜ふところの書、今家に蔵す。十八年大閤秀吉北條氏を伐し、兵を進め小田原を攻める。上杉景勝佐竹義重皆使いを馳せ、其師に労す。公期を後し、老臣を集め問うて曰く事如何、景綱其師に会ふを勧め、言甚剴切、其夜窃かに景綱宅に臨み、其寝に入りて問うて曰く、果して昼の如く日言う所乎、景綱嗟嘆し、対して曰く公遅れ疑い其師に会せず、則ち大軍至るや、之を譬える。群蝿のごとし、之を払いて復た来たり、之を殺して復た集まる。大軍之敵うべからず若し此、公其言に感じ、手より其佩するところの刀(真守)を賜ふ。是刀を立割真守と名す。当家の宝刀也。是に於いて公遂に太閤に小田原の営に会し、是時景綱之に従ひ、太閤秀吉に拝謁し、太刀目録を献ず。是歳太閤秀吉虎皮鞍覆四枚床机一脚を賜ふ(伝えて言う景綱田村の地就て時之を賜ふ)是歳太閤秀吉田村の地を賜ふ(伝えて言う田五六万石)是時朱印及び領地禁制の朱印を賜ふ、景綱信夫郡大森城自り田村に移住し一二年、其意謂う、己秀吉の恩を蒙り、則ち其君の事の志或弛むを恐れ、太閤秀吉に請うて田村の地及び朱印を復し、其領地禁制の朱印、今尚家に蔵す。七月公小田原の役自り米沢に還る。大里の役有り、景綱及び伊達成実等火器隊を率い、囲みて之を攻む。首数級を獲る。公の上洛促し、五月公米沢に還り、太閤秀吉の命を奉じ、大崎葛西の賊を討つ、六月十四日米沢を発し、二十一日大崎境に陣す。二十四日加美郡宮崎を攻む。是城也笠原民部保守の所、而して要害の地也。敵銃を放つ。銃丸雨の如し。浜田伊豆、松木伊勢、小島右衛門など之に死す。公馬に乗り、城に迫り、飛丸其馬に中る。景綱浅黄色手巾を以て抹額と為し、浅黄色の帷子を以て羽織とし、之鎧の上に著る。士卒先ず之を指揮し、二十五日景綱先導者を求む。窃かに火箭を放ち、城陥す。首八十余級、鼻百余を取る之京師に伝わり、太閤秀吉甚だしく嘉し、是時東照廟書及び帷巾ニ端折(俗に菓子を盛る器と謂う、折りて曰く)一箱を賜ふ。以て宮崎の戦功を労す。七月公佐沼の役有り。景綱及び鬼庭(後に茂庭に改む)石見綱元等急いで之を攻め、城は陥し、銃士五百人余卒二千余人を獲る。是歳公岩出山に移封の日、景綱亦信夫郡大森城より亘理館に移住す。文禄元年五月公上洛し、是時景綱これに従い、二年三月朝鮮の役、蔚山及び釜山海で戦い、功有り。是時太閤秀吉景綱に赤漆快船一艘(小鷹丸と名す)を賜ふ。摂州大阪産渋谷彦三郎はよく棹歌を唱え、景綱聞いて之を挙ぐ。是役高麗鞍を獲り、今家に蔵す。彦三郎の裔其采邑桃生郡大須に住まう。棹歌を以て篙工長年教え、今に至り遺音に伝ふと云う。慶長五年七月公白石(刈田郡に在し、是時上杉景勝領する所、景勝家臣甘糟備後清長これを保つ)の役に有り、景綱父子これに従い、屋代勘解由兵衛景頼先鋒と為し、火城市に放ち、敵兵乱れ騒ぐ。皆逃げ本城を保つ。景綱長子重長、窃かに第二郭屏に乗り、本城石垣に附き、而して先に登った。重長時年十七始めて陣に臨む。是時首七百余を獲る(是時景綱家臣佐藤次郎右衛門弟佐藤大学奇計に出、小原邑民悉く公に属し、且つ兵勢益強く、而して戦功有り、公因りて之を賞し、佐藤兄弟感状及び田禄を賜ふ)城将に落ちんとす、登坂式部勝乃其弟讃岐は(登坂兄弟は甘糟清長の党)降るを乞い、公許諾す。登坂兄弟尚疑懼の心を懐し、景綱及び石川大和因りて之に誓書を送る。鹿子田右衛門(甘糟清長の党)降るを欲さず、戦死を欲し、将に門を出んとし、城兵之を憎み、銃を放ちて斃す。乃ち草を積み、其尸を焚いた。敵兵悉く降り、城遂に陥、而して今白石城門閾及び柱尚焦ぐ。是其尸を焚の処云う、是歳十月公桑折及び福島梁川の役有りて景綱之に従い、戦功有り。是時手配の書数通を賜る。六年五月屋代勘解由兵衛の臣庄子隼人罪有りて、公書を景綱に賜ひ之を誅せしむ。景綱即ち家士佐藤治郎右衛門及び其弟大学之を誅す(景綱家士佐藤兄弟、庄子隼人を誅して還り、公召して見、永楽銭各五貫文を褒賜す。且つ庄子隼人大小刀を以て、佐藤兄弟に之を頒して賜ふ。子孫今其家に蔵す)。九月景綱公に従ひて伏見に赴く。台徳廟に江戸にて謁伏し、佩刀を拝賜る。景綱長子重長亦伏謁す。是時景綱父子食餞に賜り、且つ命藤沢駅に至り、道中伝馬を仮る。是歳東照廟邸宅を江戸に賜ふ。景綱辞して之を受けず。七年十二月公刈田郡白石城を賜ひ、(治去十三里半)且つ公其親しき目算の所の田一万三千石、及び其山林竹木遊猟の地、皆悉く之を賜ふ。是歳公景綱を召して曰く、汝齢已に強過ぎ、且つ汝体肥る。重鎧恐らく身に適さず也。因りて公の軽き鎧を賜ふ。且つ命曰く是の服以て汝の天命を全うし、以て汝の軍令を出し、今其賜ふところの鎧、家に蔵すと云う。十九年十月東照廟大阪の役有り。公藩に在して閣老書に至り、将に命奔らんとす。是時景綱中風疾有りて、従うを得ず。重長(景綱長子)之に代わらしめ、重長先鋒志有りて、乃ち公朝、閫内に入りて、重長、公の廊下に侍る。請いて曰く、是行也臣願ふ先鋒と為す。公坐定重長に進み、手を執りて曰く、汝先鋒に命ぜず。其誰の命と言い畢ると涙を下した、重長亦泣き、拝謝して去る。是月十月公駕を発し、白石城に宿す。是夜景綱疾力して公に拝す。且つ白地黒鐘紋纏を重長に授く。泣きて公の前にて戒めて曰く、吾毎陣に臨み、此纏を以て忠をつくし、功を効く、人皆知る所也。汝克勤属し吾の前の功を空くこと勿れ。且つ告げる日、此役也。師必ず成。而して来年必ず又乱れ、其言尤も慇懃に加ふ。是時重長銃三百挺弓百張槍二百卒一千余人を将す。以て軍に従ふ。十二月公大阪を攻め、敵城銃を放つ。飛丸雨のごとし。公の軍竹束を擁して之に迫る。傷者多く、重長矢石を冒し、以て進む。公其勇を賞し、是月軍果成る。元和元年十月、景綱病死、是月十四日送葬。公愛するところの馬(名片浜栗毛)一匹を以て之を賜ふ。以て其葬を助く。

語句など

香箸(こうばし):香道において香を挟む箸
剴切(がいせつ):適切でピタリと当てはまる/丁寧にいさめる
嗟嘆(さたん):感心してうなる/舌打ちして嘆く
抹額(まっこう):ハチマキをする
篙工(さおとり):船頭
門閾(もんいき):門の敷居
閫内(こんない):敷居の中

現代語訳

片倉、本姓は藤原、そのさきはわからない。伝えて言うところによると、遠山左衛門大夫が作った片倉系図によると、加藤八左衛門尉景継の13世の子孫片倉備中(はじめ小十郎と称す)景綱を祖とする。
片倉仲愛の親、家譜を調べて言うには、その祖先は大織冠藤原の鎌足の後裔である片倉某より出て、その子修理の末兼春を祖とする。兼春は片倉左衛門尉景継の9世の孫である。兼春の子壱岐守兼景、兼景の子因幡守頼形、頼形の子伊豆守頼親、頼親の子壱岐頼高。
頼高には弟がおり、これが式部少補景重と名乗る。
天文15年保山公伊達晴宗のとき、采地として置賜郡屋代・永井の両庄を賜り、米沢八幡宮の神職となる。景重に次男があり、長じて三河景広と名乗る。
続けて備中景綱がいうには、景広の子修理助景次は体が弱く、その役割を果たすことができなかったので、受けていた采地を叔父である景綱に譲った。別れてその家を立て、このため景綱は頼高の甥となり、その支族となった。このことは片倉愛親の家譜に詳しい。いまはとりあえず、その家譜に記されていることに従って語る。
景綱は性山公輝宗のころ初めて名をあげる。
天正3年世子(貞山公政宗)が9歳のとき、景綱を政宗に従わせ、近習とした。親書数十通を賜り、それはいまも家に残っている。
天正13年5月、貞山公政宗は会津の檜原の主と軍を起こす。景綱と政宗はひそかに計画を立て、一人で敵の陣へ赴き、檜原の主を誘い、主は来て政宗に会い、政宗は家臣としたが、檜原の主が応じなかったので、政宗の兵数百騎でその帰路を遮った。檜原の主はどうすることもできず、ついに麾下に属することになったという。
この年、塩松と人取橋で合戦があり、景綱は軍を率い、戦功をとげた。首若干数を斬った。
天正14年8月、政宗が景綱に二本松城を守らせていたとき、直筆の判物を与えられ、このとき采地若干と家臣3人を賜った(関屋彦一郎国分と惣右衛門、小片治郎右衛門)。その判物はそれぞれの家にある。
この年9月、政宗は信夫郡大森と須川(須川の間を恐れ、賀字を脱す)の南、伊達成実がかつて持っていた土地を与えた。その証文は今も家に残る。
天正16年4月、景綱と伊達成実は会津と須賀川、二階堂などの軍と本宮で戦をした。敵はついに人取橋に至り、首をとることとりわけ多く、かつて政宗は戦中に密書数通を与えた。この年、6月7月のあいだ、窪田の合戦があった。景綱はこれに従い、首を数級取った(この戦で景綱の家臣が戦功をあげた。政宗はこれをお聞きになり、状況を聞き、それぞれ拝謁し、大町清九郎長刀を賜る。佐藤治郎右衛門は鎧と佩刀を、佐藤金蔵は笄と、水飲みの器を、佐藤大学は香箸を賜った。現在もそれぞれその家に残っている)。
10月26日、徳川家康から親書を与えられる。現在もその家に残っている。
天正17年5月、政宗は駒ヶ嶺の合戦に参加した。このとき景綱は従って、その家臣たちはまた戦功をあげた。6月会津の摺上原の合戦が怒り、葦名義広と闘って、首を100級余りを討ち取った。
(伊達世臣伝記に詳しく記されたところによると、猪苗代弾正盛国を先鋒とし、景綱はこれに次いで撃って敵を破り、敵兵が走って逃げるのを、猪苗代盛国はこれを追い、30里のところでことごとくこれを殲滅し、首2500を取った。これを埋めて鯨のような見かけとなり、人はこれを三千塚とよんだ)。
このとき景綱の家臣佐藤惣六は会津の家臣安孫子彦之丞と合戦し、その首を切った。安孫子は法螺貝を吹く役目をしていた。政宗は是を賞めて、その法螺貝を景綱に与えた。今家にある(伊達世臣伝記によると、景綱はこの戦で、敵に景綱の旗を奪われた。兵は是を追い、争ってこれを取ったが、旗はすべて裂けてしまった。景綱の家臣の佐藤惣六は景綱に「敵の陣法螺貝はどうか」と聞いた。景綱は「これは会津の宝物である」と云った。惣六は「私は主のために陣法螺貝を取ります」と云った。これで旗を裂かれた恥を払おうと、すぐに敵陣に入って、安孫子彦之丞を撃ち、その首と法螺貝を取って帰り、景綱はこれをすべて政宗に献じた。政宗は褒めて、法螺貝を景綱に与えた。このため、その法螺貝の名を「安孫子螺」と呼ぶのだという)
10月政宗は会津での戦功を褒めて、会津の内五ヶ所の土地を増やして与えた。朱印は今家に保存されている。
この月は須賀川の合戦もあった。景綱は戦に参加しなかったが、家臣を送り、これに参加した。家臣の佐藤次郎右衛門、火を放ち、城を焼き、城はこのため陥落した。政宗はこれを褒め、采地を若干次郎右衛門に与えた。
12月、太閤秀吉が与えた書が、今家に保存されている。
天正18年太閤秀吉は北條氏を伐するため兵を進め、小田原を責めた。上杉景勝・佐竹義重らはみな使いを送り、その軍に参加した。
政宗はそれに遅れたため、老臣を集めてどうすればよいかと尋ねた。景綱はこの戦に参加するように進め、はっきりと言い切った。この夜政宗はひそかに景綱の屋敷を訪れ、その寝所を訪れて質問した。果たして昼云ったとおりであるかと尋ねた。景綱は嘆いて、政宗に対して「政宗が遅れてこの戦に参加しないなら、すぐに大軍がやってくるだろう。譬えるならば、群れる蝿のようなものである。払っても殺してもやってくるだろう。大軍には敵わないだろう」と言った。政宗はその言葉に感心し、手ずから佩刀していた刀(真守)を与える。この刀を立割真守と呼ぶ。これは我が家の家宝である。
このようにして政宗はついに太閤秀吉と小田原の陣にて面会した。このとき景綱は政宗に従って太閤秀吉に拝謁して太刀目録を献上した。この年太閤秀吉は虎皮の鞍四枚・床机一脚を与えた(伝えて言うところによると、景綱は田村の地をこのとき与えられたという)。この年太閤秀吉は田村の地を景綱に与えた(は田5,6万石と伝わる)。
このとき朱印と領地禁制の朱印を与えられる。景綱は信夫郡大森から田村に移住し、1,2年住んだ。その意図は、私は秀吉の恩賞を賜り、主君の志が弛むのを恐れて、太閤秀吉に田村の地と朱印を頼んだ。その領地禁制の朱印は、今もなお家に保存されている。
7月、政宗は小田原の合戦より米沢へ帰還した。大里の合戦が起こった。景綱と成実は火器隊を率い、囲んでこれを攻めた。首数級を取った。
政宗の上洛を促されたので、政宗は5月に米沢に戻り、太閤秀吉の命によって大崎・葛西の反乱軍を討った。6月14日米沢を出発し、21日大崎境に陣をしいた。24日加美郡宮崎を攻めた。この城は笠原民部が守っていたところで、重要な拠点であった。敵は銃を放ち、弾丸は雨のようであった。浜田伊豆・松木伊勢・小島右衛門などが討ち死にした。
政宗は馬に乗って城に迫ったが、弾丸がその馬にあたった。景綱は浅黄色の布を額に巻き、浅黄色の帷子を羽織って、この鎧の上に着た。兵たちはこれを指揮した。25日、景綱は先導者を探した。ひそかに火矢を放ち、城は陥落した。首を80級余り、鼻100個余りを取った。このことは都にまで伝わり、太閤秀吉は大変に喜び、このとき家康は書と帷子2端、折(俗に菓子を盛る器であったとという)一箱を与えられた。これにより宮崎の合戦の戦功を褒めた。
7月政宗は佐沼合戦に参加した。景綱と鬼庭(のちに茂庭に改めた)石見綱元らは急いで攻め、城は陥落し、鉄砲隊500人あまり、兵卒2000人あまりを取った。
この年政宗は岩出山に移封となった。その日、景綱もまた信夫郡大森から、亘理館に移った。
文禄元年5月政宗は上洛したが、このとき景綱もこれに従って、2年3月の朝鮮の役、蔚山と釜山海の戦いで戦功をあげた。このとき、太閤秀吉は景綱に赤漆のよい船を一艘(小鷹丸という)を与えた。摂州大阪のうまれである渋谷彦三郎はよく棹歌を歌ったので、景綱はこれをきいてかれを召し抱えた。この戦で高麗鞍をとり、その鞍は今も家にある。彦三郎の末裔は桃生郡大須に領地をもらって住んだ。棹歌がすばらしいため、長年船頭を教え、今に至っても伝わっているという。
慶長5年7月、政宗は、刈田郡にあり、このとき上杉景勝の領地であり、景綱の家臣甘糟備後清長が守っていた白石での戦を行った。景綱・重綱親子はこれに従軍し、屋代勘解由兵衛景頼を先鋒とし、日を城に放つと、敵兵は乱れ騒ぎ、みな逃げたため、城に立てこもった。景綱の長男重長はひそかに第二曲輪の兵に乗り、城の石垣に取り付き、先に登った。重長はこのとき17歳で、初陣であった。このとき首700余りを取った(このとき景綱の家臣佐藤次郎右衛門の弟佐藤大学は奇計に出て、小原村はことごとく政宗に付、また兵の勢いはますます強く、戦功をあげた。政宗はこれを褒め、佐藤兄弟に感状と田禄を与えた)。城がまさに落ちようとしたとき、登坂式部勝乃の弟讃岐(登坂兄弟は甘糟清長の血縁である)は、降伏を願い出て、政宗は許した。登坂兄弟はなおも疑いのため心配したため、景綱と石川大和はこのために誓書を送った。甘糟清長の親類であった鹿子田右衛門は降伏を望まず、戦死しようとしてまさに門をでようとしたので、城兵はこれを憎んで、銃でこれを撃って斃した。すぐに草を積みかさねて、その死体を焼いた。敵兵はことごとく降参し、城は遂に陥落した。そのため白石城の門の敷居と柱はいまもなお焦げている。これはその屍を燃やしたときのものだという。
この年10月桑折および福島梁川の合戦があった。景綱は従軍し、戦功をあげた。このとき手配の書を数通を与えられる。
6年5月屋代勘解由兵衛の家臣庄子隼人が罪を犯したため、政宗は景綱に書を送り、これを誅殺させた。景綱はすぐに家臣佐藤治郎右衛門とその弟大学がこれを誅殺した(景綱の家臣佐藤兄弟が庄子隼人を誅殺して戻ったのを、呼んで面会すると、おのおのに永楽銭5貫文を褒めて与えた。また庄子隼人の大小刀を佐藤兄弟にこれを分けて与えた。子孫はこれを家に保管している)。
9月景綱は政宗に従って伏見に赴いた。秀忠に江戸で面会し、佩刀を与えられた。景綱の長男の重長もまた拝謁した。このとき景綱親子は饗応の席に加わった。また藤沢駅に行くよう命を賜り、伝馬を走らせた。この年家康より屋敷を江戸に与えられたが、景綱はこれを辞退し、受けなかった。
慶長7年12月政宗は刈田郡白石城を与え(治去ること13里半)また、政宗は目算13000石およびそ山林・竹木・遊猟の地をことごとくみな与えた。
この年政宗は景綱を呼んで、「おまえは年を取り、太った。重い鎧はおそらく身に合わないだろう」と言った。そのため政宗の軽い鎧を与えられた。また「この服を着て天命を全うし、おまえの軍令を出せ」と命じた。このとき与えられた鎧は今も残されている。
慶長19年10月、家康による大坂の陣が起こった。政宗は在所に居たが、閣僚の書が来て、まさに戦に向かおうとした。このとき景綱は中風を病んでいて、従軍することができなかった。景綱の長男重長を代理として送る。重長は先鋒を臨んだため、朝部屋の中に入ると、重長は政宗の廊下に侍っていた。先鋒を命じられることは家臣の願いであると頼んだ。政宗は座って重長に近寄り、手を取って「おまえを先鋒にはしない。その命はだれのものか」と言い終わると、涙を落とした。重長もまた泣き、礼を言って去った。
この年10月城を出発し、白石城にて宿泊した。この夜景綱は力を振り絞って政宗に拝謁した。また白地黒鐘の紋の纏を重長に授けた。泣いて政宗の前で、戒めて「私が戦に出るとき、この纏をいつも忠をつくし、功をあげたことは、みなが知っているとおりである。おまえは励み、私のいままでの戦功に隙間を空けてはいけない」と言った。
また告げて「この戦は必ず成功するでしょう。来年また必ず乱れるでしょう」と告げて言った。その言葉は尤もであり、心をこめて言った。
このとき重長はまさに銃300挺・弓100張・槍200挺・兵1000人あまりをつれて軍に従った。
12月政宗は大阪を攻め、敵城に銃を放ち、弾丸は雨のごとしであった。政宗の軍は竹束を持ち、これに迫った。死傷者は多く、重長は矢石で対抗して進んだ。政宗はこの勇姿を褒め、この月戦は終わった。元和元年10月、景綱は病死し、この月14日葬儀を行った。政宗は片浜栗毛という愛馬一匹を与えて追悼した。

あけましておめでとうございます

2021年、あけましておめでとうございます。
昨年中はいろいろなことがありましたが、特に下半期停滞していたものごとが一掃されるようなことがあり、個人的には悪いことばかりではなかった一年となりました。
でも史蹟をめぐったり、博物館に行ったり出来なかったことはすごくストレスで、秋の青根温泉に行けたのは楽しかったです。
今年はもう少し有言実行できるようにしたいですし、頑張っていきたいと思います。
どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

2020秋青根温泉不忘閣

今年になって始まったコロナ禍により、歴史旅も、プライベートの旅行にもいけず、ふてくされていたところ、前々から行きたかった不忘閣が取れたので、11/8・9・10と行ってきました。

青根温泉の湯元不忘閣は、政宗をはじめ仙台藩歴代藩主が立ち寄った温泉。当時の面影を残した風呂に入ることができます。ちょいとお高めな上、行くのがちょっと大変ということで、歴史オタクのお友達を誘うにもご迷惑かなと諦めていたのですが、ソロプランが出ていて、さらにクーポンがつくと聞いたので、行ってきました。ひとりで。ええ、ひとりで。

仙台駅前のバス停33から、遠刈田温泉行きの高速バスにのって、アクティブリゾーツ白石蔵王まで乗り、そこから迎えに来てくださっていた不忘閣の送迎車に乗り、約15分。

こちらです。https://www.fubokaku.com/

 

あちこちに能面が飾ってあるのが、能好きの政宗の愛した宿らしい?

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ロビー横の井戸?というんでしょうか。湯元?

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不忘閣の全体図。
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風情あるロビー。

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いらっしゃいませの一言が嬉しい。

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食事のお椀にも竹雀紋が。
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案内板。

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日本秘湯を守る会に参加なさっているようです。

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こちらは展望台のようになっておりました。

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政宗の湯。御殿湯大小・蔵湯・亥之輔の湯・大湯の五つの湯があります。

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朝に女将さんが青根御殿のツアーをしてくださいます。

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中央のものは使われた弁当箱だそうです。

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鴨居に竹雀紋と三つ引き両紋が。
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古文書いろいろ。

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紅葉まっさかりで、景色はとてもよかったです。
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中央にあるのはシロクマの毛皮だそうです。北海道との交易の結果?

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お姫様たちが使った化粧道具。

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これは輝宗の鎧だそうです。

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吉村が作ったという兎の木彫り。

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吉村の書状。

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綱村の書状。

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古びた裃らしきもの。
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独眼竜の頃に作られたのでしょうか。大河ドラマ観光の名残?

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重村の日記を元に絵にしたものだそうです。

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2泊して5つある湯をぐるぐる回って楽しみました。

不忘閣は与謝野晶子や田山花袋、芥川龍之介なども宿泊したそうです。山本周五郎が大河ドラマの原作となった『樅の木は残った』を書いたのも此処だとか(窓の外には、樅の木が見えます)。

 

高速バスで仙台に戻って、今度は開通になった常磐線を通って東京へ向かうルートへ。

仙台から東京への特急ひたちは残念ながら亘理は止まりませんが、新地・相馬・岩城などを見ることができ、楽しかったです。

 

阿武隈川を渡る政宗・成実ベア…

🌙「もうすぐ亘理だ!」

🐛「止まらねえけどな!」

って感じでしょうか…。
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そして夕方頃東京に無事到着しました。

今回は不忘閣そのものと常磐線から見える景色が目当てだったので、あまり史蹟を回りませんでしたが、とても楽しめました。

政宗の温泉宿というと、秋保温泉の左勘も有名ですが、青根温泉は本当に隠れ宿といった風情で、歴代藩主たちも喧噪を離れてひと息つきに来たのかな?と思いました。

10日は朝から雪が降っていてビビりました寒かった…。

今年はコロナのせいで歴史旅はもうできませんが、こんな年は今年だけにしてもらいたいものです。好きなところに自由に行ける世の中であってほしい…。

2020夏御霊屋御開帳情報(行ってません)

こんにちは! 夏の御霊屋開帳の時期ですが、残念ながらコロナ禍で行くことが出来ず、ハンカチをもみしぼって居たのですが、行かれたフォロワーさんが写真をあげてくださっていて、ありがたく拝見させていただきました。


岩出山武将隊の成実さんのツイート。3枚目の写真が何なのかわからなかったのですが、本堂の中に当主・妻子・子息の位牌が置いてあるスペースがあるんだそうです。見たことなかったので今度は見てみたいです!(開帳時期にかかわらず、何度も大雄寺にはお邪魔しているのですが、本堂は入ったことがない…)

東京国立博物館のきもの展にも!行きたいんですが!図録で我慢します…(T-T)

フォロワーのあおもりさんのツイート、続くツイートで成実の木像の修復について教えていただきました。

あおもり@nin_nin5050
今年の6月〜8月に修繕したみたいです。
木像が作られた時期が1715年、修復が1909年にあり、その時に1715年に作られたと書かれたそうですが何故制作年が修復時に分ったのか、それが今回の修復で分ったそうです。体内に制作した人物と日付が別に記載されていたのを発見し、正徳五年七月に作られたものだと分ったみたいです。
あと毛虫の前立が後世に付けられたものみたいです。大正初期の写真では判然としないみたいですが、前立はもしかしたら制作当時は形が違かった可能性も出てきたみたいです。
今回の修繕は前立を直すことだったみたいで、毛虫外したら、毛虫の材質と兜の材質、彫刻や色合いが合わないことが分ったみたいで、今後も調べていくそうです。
毛虫として修繕しているならやはり以前も毛虫だったのかと…。

毛虫がもしかしたら年代違うかも…という話は前に聞いたことがあったのですが、それが今年の修復で明確になったということのようです(あおもりさんのツイートコピーは御本人に了解いただきました)。
何年にそれが発表になったとか、書いておかないと忘れるので…。

岩出山成実さん、あおもりさん、ありがとうございました。

『木村宇右衛門覚書』119:仙台城西郭で能「実盛」を観劇したこと

『木村宇右衛門覚書』119:仙台城西郭で能「実盛」を観劇したこと

原文

一、有時、御西郭の御庭の桜盛りを御待之御能仰せ付けられ候。御役者一年御国に詰候へ共、能などは儀式正しからざれば見られぬ物と思し召す也。下々へ振舞に行囃子など有は、亭主により所により折節には良しと仰せられ、能は花の頃を催し、二十日も前に能組定まり御指南の所にて行儀正しく役者言い合わせ、初日は御親類衆御一家御一族衆惣侍衆、翌日は諸寺家衆、御座中長袴にて、夜ほのぼのと明くると御座敷の御簾あがる。其時宿老衆御能始め申さるる。其衆帰座してなをるを見て幕開け、御能始まる也。其日二番目の修羅に実盛あり。シテ語りの内に六十に余り戦せば、若殿ばらに争ひ先をかけんも大人気なし。又老武者とて人々に侮られんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め、若やぎ討ち死にせんと常々申し候へしが、誠に染めて候と、さも床しく語りければ、御涙をはらはらと流させ給へば、御左の上座に伊達安房成実声を忍びにたて袖濡るるほど流れ*1ける。何も御年六十に余らせ給ふ頃なり。又茂庭周防所にて能有し時、是は時雨の亭とて藤原の定家の卿立をかせ給ひ年年歌をも詠しさせ給ふ古跡なりと申ければ、御涙を流し給ふは、日頃歌道に御心を寄せられたる故ぞかしと人みな申あへり。
 付161○此ヶ条御座中之儀は存ぜず候。御能仰せ付けられ候趣は相違御座なく候事。

地名・語句など

ゆかしく:懐かしく、情緒をこめて

現代語訳

あるとき、西曲輪の庭の花の盛りを待つ能会をすることになった。役者たちは一年在国にいたが、能を見るときは儀式を正しくしないといけないと思っていらっしゃった。身分低い者に対して囃子などがある場合は、主催者や場所や時期によってはいいが、能は花の頃に催し、二十日も前に能の番組を定め、教えの通りに行儀正しく役者を呼び、初日は親類衆・一家・一族・侍衆をすべて呼んで、翌日は社寺の者たちを集め、長袴を着ておられ、夜がほのぼのと開ける頃、座敷の御簾があがった。そのとき宿老衆が「能がはじまります」といい、かれらが戻って座るのを見て、幕が開き、能が始まった。
その日、二番目の修羅能として、「実盛」があった。
シテが「六十に余り戦せば、若殿ばらに争ひ先をかけんも大人気なし。又老武者とて人々に侮られんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め、若やぎ討ち死にせんと常々申し候へしが、誠に染めて候」と、いかにも情緒たっぷりに語ったところ、政宗は涙をはらはらとお流しになった。左の上座にいた伊達安房成実は声を忍ばせ、袖が濡れるほど涙を流していた。お二人とも、年60を少し越えた頃であった。
また茂庭周防のところで能があったとき、これは時雨の亭であると藤原定家が年々歌を詠ませた古跡であると言ったら、涙を流されたのは、日頃歌の道に熱心であるからだろうとみな言い合った。
 付161:この条の列席者のことはわからないが、能を命じられたことは間違いないことである。

感想

他の本でもいろいろと出てくる、いわゆる「実盛で号泣事件」であります。
家中で実盛を行ったところ、途中で上座にいた政宗と成実が号泣してしまった話です。成実本人は「そこにいた者みんな泣いた」と言っていますが、本当のところは「政宗と成実が号泣」し、周りの人々が「自分たちのことと重ね合わせて感極まったのだろう」と感涙したようです。
『木村宇右衛門覚書』では政宗ははらはらと涙を流し、成実は声を忍ばせて袖を濡らすほど泣いたとあり、『名語集』ではさらに、

御聲をあげ、ひたもの御落涙あそばされ候。左の御わきに伊達安房守殿御座候が、是も御同前に、御座敷にたまらせられぬほど、落涙あそばされ候。諸人、御様子を拝み奉り、落涙仕らざるもの、あまり御座なく候。まことに実盛ましの御人様たち、御身のほどにおぼしめしあはせられ候事と、みなみな感じ奉り、落涙仕り候。

政宗は「声を上げて激しく」落涙し、成実は「座敷に座っていられないほど」落涙したとあります。
…………ホントに二人ともめちゃくちゃ泣いたんだな!!

*1:「泣かれ」の可能性もあり?

『木村宇右衛門覚書』60:父輝宗の不慮の死

『木村宇右衛門覚書』60:父輝宗の不慮の死

原文

一、有時御咄には、御東はかく恐ろしき御人なりければ、いよいよ輝宗へ御馴染み深きに、あへなき御最期、語るに語られぬ程也。二本松殿色々申さるるによって、輝宗公へ無事のうへ、陣屋へ二本松殿見舞候はんと也。中途は騒々しければ、何時にても城へ帰りて後御尋候はば、ゆるゆる御目にかけ向後申合はすべしと也。かくて俄に明日二本松殿見舞の由、此方にてもとりあへずの馳走の催し也。我等部屋住みの事なれば、二本松殿見舞給ふ朝に、後ろの山に猪四つ五つ居たる由告げ来る。今日は表に客ありてよき隙なりとて、部屋住みの中間足軽共猪狩の用意也。我等も別而隙入事もなければ、出でんとて弓鑓鉄砲にて山へ出る。二本松殿の供の衆如何様怪しく思ふ処に、御座敷にて輝宗公と二本松殿向後は入魂、互いに御如在有まじきなどと御話し最中、俄の事なれば御台所に膳棚四五間縄吊りにてしたるが、縄きれ、盛並べたる角皿、鉢くわらめきて落つるに、人たち騒ぎたる声、御座敷へ騒がしく聞こへければ、二本松殿不思議に思はるる所に、供の者いよいよ怪しみ疑いもなく二本松へ戻り足を中途にて討たんと、若殿弓鉄砲にて出られたるべしと思へば、台所筋騒がしとて、二本松殿に御用あるとて呼びたて、耳つけに何哉ん申聞かせ、供の衆は表へ罷出る。二本松殿は御座敷へなをり、則御暇乞いあって立給ふ。輝宗公是はふたかはとしたる御帰かな、さりとては御残多よし、とめ給へともしきりに出給へば、是非なく御門送りに、広間の玄関まで出給ふて、敷台にて互いに一礼の時、二本松殿供の衆に目と目を見合、輝宗をひしひしと捕らへ奉り、近頃御情けなき御仕掛にて候。二本松まで御供申さんとて引立奉る。朽木と申御小姓御腰物持ちながら御袖に取りつきければ、朽木共に大勢おっとりくるみまいる由、早馬にて狩場の山へ告げ来る。こは口惜しき次第かなと、驚き追いかけ見奉れば、件のごとし。近ふよりて御覧すれば、二本松殿輝宗公の御胸元を捉へ支え上げ、脇指をつきかけ申、人々近く寄り候はば、其まま下にひしひし通り刺し殺し申さん覚悟也。皆人近寄りかぬる所に、成実始め馳せ寄りて、何と何ととはかり也。輝宗公御跡をふりかえり御覧じ仰せらるるは、我思わずもかく運つき、日頃の敵にとらるること力なし。我等をかばいだてするうちに、二本松領は近づく、川をあなたへ引き越されては、然らば無念の次第也。我をば棄てよ棄てよと仰せられ候へども、さすが一門家老尤もといふ人なく、せんかたなく引きたてまいる。御跡先に馬をのりまわしのりまわし、子細を問へとも答へず。とかくする内に、二本松領へ近づきければ、注進したると見えて、人数夥敷川の向ひに馳せ集まる。かくては叶ひがたしと思ふ所に、成実を始め、一門衆皆々我等の馬の前に乗り向かい、是非なし、棄て奉る外なし、何といたさんと申さるるほどに、ともかくもよりどころなき仕合かなとおひければ、其色を見て、二本松衆ひしひしとおりいて、いたはしくも輝宗公を刺し殺し奉る。御腰の物持ちたる小姓、御死骸に抱きつき、刺されて死にけり。二本松衆一人ももらさず叩き殺し、其上二本松殿をよる程の者、一刀つつと思へども、づたづたに斬りたるを、藤にて死骸を貫き集め、縫いつけ、其所に旗物にかけて、川向かひの敵追っ払い、輝宗公の御死骸取り納めたるとの給ふ。
 付65○此如ケ条久申伝たる御事御座候へども、政宗様御意は終承らず候。加様之御心持も御座候哉、義山様へ貞山様御意成られ候は、家の大事に成る時は、親をもかぼわぬ事にて候。其心得尤候由、御意は柳生是翠承候由申候。

地名・語句など

部屋住み:嫡男でまだ家を継いでいない者、次男以下の家を継ぐことができないもの
膳棚:膳や椀などの食器を載せておく棚、食器棚

現代語訳

あるときのお話では、御東の方(母最上氏・義姫)はこのように恐ろしい人であったので、いっそう父である輝宗に懐いていたから、どうすることもできなかったご最期のことについては語りたくても語ることができない程のことであった。二本松の畠山義継がいろいろと言ってきたので、輝宗の陣屋へ義継が見舞いしたいと言ってきた。いろいろと忙しかったので、城へ帰ったあと尋ねたところ、ゆっくりとお目に掛け、話し合おうと言うことになり、急に明日義継が見舞いにやってくるということになって、こちらもとりあえずの馳走の催しをした。
私は部屋住みの身であったので、義継が見舞いに来る朝に、後ろの森に猪が4,5頭居ると知らせが来た。今日は表に客があるから、ちょうど良い暇な時間であると、部屋住みの中間や足軽たちは猪狩りの用意をしていた。私も特にすることもなかったので、行こうということで弓・槍・鉄砲を用意して山へ登った。
義継の家臣たちがどのように怪しく思ったのか、座敷にて輝宗と義継は向かいあって座り、今後は仲良くしよう、互いに遠慮の無いようにとお話していた最中、急なことだったので、台所で膳棚を4,5個縄で吊ってあったのが、縄が切れ、盛り並べていた角皿や鉢が音をして落ちた。人々が騒ぎ立てている声が座敷へ騒がしく聞こえたので、義継が不思議に思っているところに、供の者たちはいっそう怪しみ、二本松へ戻るとき途中で討とうと若殿である政宗が弓・鉄砲を持って出たのだろうと思ったので、台所が騒がしいと行って、義継に用がありますといい、耳を付けて何かを行って、供の者たちは表へ出た。
義継は座敷へ座り直し、直ぐに暇乞いをして立ち上がった。輝宗はこれは急なお帰りであるな、もう少し残られよと止めたが、しきりに帰りたいというので、仕方なく門まで送ろうと、広間の玄関までお出になり、玄関を上がった直ぐの間で互いに一礼したとき、義継は供の者と目と目を合わせ、輝宗をひしととらえ、此の頃はお情けのないやりようだ、二本松までお伴しますと引き立てた。
朽木という小姓が刀を持ちながら袖にとりついたが、朽木も一緒に大勢で押し取り、囲み去ったことを早馬で狩り場であった山へ知らされた。
これはなんと口惜しいことであろうかと驚き追いかけて見たところ、そのような状態であった。近くへ寄ってみようとすると、義継は輝宗の胸元を捕まえ、支え上げ、脇指をつきかけており、人々が近く寄ろうとしたら、そのまま下に強く貫き通し、殺そうという覚悟であった。
誰もが近づきかねていたところに、成実は駆け寄って、どうしたらよいかと聞くばかりであった。輝宗は後ろを振り返り、見て「私は思わずこのように運が悪く、日頃の敵に捕らえられるのは力が無く役に立たないからだ。私をかばい立てしているうちに、二本松領は近づく。川の向こうに連れて行かれては、ひたすら無念の事である。私を棄てよ。棄てよ」と仰られたが、さすがに一門衆も家老衆もそうしようという者はなく、仕方なく追いかけていた。
後ろに馬を乗り回し、詳細を聞いても、答える者は居なかった。そうこうしているうちに二本松領へ近づいたので、知らせた者がいたらしく、川の向かいに夥しい人数の兵が集まってきた。こうなってはもう無理だと思っていたところに、成実を始め、一門衆がみな私の馬の前に向かってきて、「仕方ない、お捨て申し上げる以外にない。どう致しましょうか」というので、ともかくどうしようもないかと追いかけると、その様子を見て、二本松衆はひしひしと集まり、いたわしくも輝宗を刺し殺しなさった。刀を持った小姓は輝宗の遺体に抱きつき、刺されて死んだ。二本松衆を一人も漏らさず叩き殺し、そのうえ義継を一刀ずつと思いながら、ずたずたに切り裂いたのを、藤の鶴で死骸を貫き集め、縫い付け、そこへ旗指物をかけて、川向かいの敵を追っ払い、輝宗公の遺体を納めたと仰った。
 付65:この条の内容は長く言い伝わっていることであるが、政宗のお言葉ではついに聞くことはできなかった。このような気持ちもあったのであろうか、政宗は忠宗へ家の大事になるときは親でもかまわぬようにと仰られていた。この心得が尤もであるということは柳生是翠が聞いたところによる。

感想

輝宗生害事件の詳細が書かれています。
おや?と思うのは政宗が自身のことを「部屋住み」つまりはまだ家督を継いでいない者であると言っていること、義継との応対ですることがないので猪狩りに出かけたことなどでしょうか。
他の資料などでこのとき輝宗に従っていたのは留守政景・成実などだということがわかっています。成実の覚書などでは追いかけていく様子がしっかりと書かれていますが、『木村宇右衛門覚書』では裏方(台所)で起こっていたこと、それが誤解となって事件が発生したこと、輝宗の台詞、それを受けての政宗らの対応が詳しく書かれています。「叩き殺し」「ずたずたに切り裂いたものを藤でつないでさらす」ですから、政宗の怒りの程が伝わってくるようです。
『木村宇右衛門覚書』では輝宗のことを「てりむね」と書いているのですが、輝宗は「てるむね」でなく「てりむね」が正しいんでしょうかね?
輝宗と同道していた成実は輝宗を追いかけ、叫びを聞き、他の家臣たちとともに「棄て奉る外なし」と政宗に告げています。
本当に重苦しい一段です。

『木村宇右衛門覚書』27:天正一七年須賀川合戦の撫で斬り

『木村宇右衛門覚書』27:天正一七年須賀川合戦の撫で斬り

原文

一、有時の御咄には、人取橋大合戦以来、所々方々御手に入中に、須賀川手に入らず、我等伯母のおはしまし候間、いろいろさまざま教訓申せども受け給はず。剰へ方々へ廻文をまわし妨げ給ふの間、さらば踏み潰し、千代の見懲りのため、須賀川中は撫で斬りと相触れ、押し寄せ取り巻き一両日手間取る処に、守屋といふ者心変わりし、ひしひしと城をば乗っ取り、川端に床几に腰をかけしばし見る所へ、伯母を城の内より追い参らせ出たり.成実始め何と御計らいあるべきと、訴訟顔に申され候間、女儀と言いながらあの御心ばへ、誰あって一夜の宿貸す人の候べき。早く川端にて御暇参らせよといひて、其後はしらず、其より須賀川中は犬猫の類ひまでも撫で斬りにさせたるとの給ふ。

地名・語句など

教訓:おしえさとすこと、いましめ、またその言葉
見懲り:見て懲りること、悪行の行いを見て恐れ、懲りること、そのようにさあせること
訴訟顔:今にも訴えようというような様子、顔、哀願する様子
心ばへ:配慮、心遣い、性格、気立て、意見

現代語訳

あるときのお話には、人取橋合戦以来、あちこちさまざまな土地を手に入れていたうちに、須賀川の地が手に入らなかった。私の伯母大乗院のいらっしゃるところだったので、いろいろさまざまな方法で交渉したが、受け入れることはなかった。そのうえ、あちこちへ文書を送り、私のことを妨げになられたので、踏み潰し、先々まで懲りるように、須賀川城は撫で斬りにしろとご命令になり、押し寄せて城を取りまき、2日手間取っているところに、守屋という者が寝返り、しっかりと城を乗っ取り、政宗が川の畔で床几に腰掛けて見ていたところへ、伯母の大乗院を城の中から追い出させて連れてきた。
成実をはじめ、どのように取り扱うのでしょうかと訴えるように言ったので、「女ではあるがあのような性格だ。一夜の宿を貸す者が誰かいるだろうか。早く川の畔で離してやれ」と言って、その後は知らない。その後須賀川の城では、犬猫までも撫で斬りにさせたと仰った。

感想

天正17年、いよいよ政宗の南奥州統一がなされるころですが、最後まで抵抗したのが、政宗の伯母、輝宗の姉である大乗院阿南姫でした。伊達家から二階堂盛義に嫁ぎ、後に成実の継室となる二階堂氏(仏性院・岩城御前)の母です。
政宗ははじめいろいろと諭そうとしたようですが、抵抗を続けたので、政宗は厳しい態度にでます。
とくにこの「女儀と言いながらあの御心ばへ、誰あって一夜の宿貸す人の候べき。早く川端にて御暇参らせよ」という言葉は、どれだけ政宗が大乗院に腹を立てていたかがよくわかる言動です。
成実が伯母である大乗院を心配しているのと好対照です。

『木村宇右衛門覚書』26:天正一三年仙道本宮の合戦のこと

『木村宇右衛門覚書』26:天正一三年仙道本宮の合戦のこと

原文

一、有時の御咄には、仙道本宮一戦の時、何としたる事にや有けん、味方悉く敗軍して、茂庭佐月などを始め歴々の者共討死、先手町場へ窄み入ついて出候へば、追い込まれ追い込まれ木戸を三度まで取られ、東の手は殊の外敗軍の由告げ来るによって、西の手を早々明けさせ、旗元をつめ小旗をさしかへ、手まわり四五十召連乗入みれば、敵殊の外気負いかかって川の端に付、町頭へこみ入候間、成実の手を横筋違いに町頭より西南にあたる地蔵堂の山先へとくり出し、先衆には旗元を入かへ、町後ろの田道をすくに人取橋をしきり、跡先よりおっとりつつみうつとれと下知しければ、成実つめ合川端にて一戦始まる。こなたは人取橋へ敵を追い下げ、討つつ討たれつ入乱れたる大合戦也。川上川下にて敵味方討たれ、流るる血は紅の如し。人取橋の坂幾度となく乗り上げ乗り下ろしに、馬白汗に成息荒く足元しとろなり候間、川へ乗り入口を洗わせ水をかふ処に、右脇に立たる口取り九八といひて、下郎に珍しき、目の利いたる心太く真なる奴、乳の下を二ツ玉にて射られ、持ちたる柄杓を左脇に立ちたる相手のものに差し出し、これ持てといひてよろめくを、馬の上より髻をとらへ手負いたるか九八爰は川なり、こなたへもたれかかりて川よりあがれ、敵は川より向かひへ追い崩し、味方続きたるぞと言葉をかけ候へば、両手を合わせ、深手にて御座候、捨てさせ給ふて此所に時刻うつさせ給ふなといひながら川へ伏す。不憫なる次第也。然る所へ成実徒者二三十人、馬の前後しとろにたて、一文字川へ乗り込み、御運着き給ひたるか、大将の馬のたてどころといひながら、我等のりたる馬の総胴を、団扇の柄にてしたたかに打って、川より追いあぐる。一方を頼む人にあっぱれ有まじき大将かなと、心の内に頼もしく思ひ、馬を助けん為誤って候といひければ、物な仰せられそ、矢鉄炮は篠を束ねて降るごとく、流れ矢にあひ給ふな。仕掛けたる軍場を醒まして参候とて、両方へ馬を乗りわかれ、人取橋向かひへ敵を追い散らし、勝ち鬨をとり行ひたるとの給ふ。其時召されたる御鎧、後にみれば中立挙の御臑当に玉傷一ヶ所、鞍の前輪をかすり御腹に一ヶ所、御肩に玉ぞへりたる跡一ヶ所、御甲の左の脇小筋二間擦り矢にあたり、後まで礼よき御武具なりとて御秘蔵成られ候。古雪下彦七が鍛えたる也。御他界以後御廟所に入也。
 付28○此ケ条御拙者承及ず候えども、兼ねて年寄申候者之物語仕候は、人取橋の御動成実之本宮に而之御動、比類無き由度々承候事。

地名・語句など

町場:持ち場、宿場
しぼむ:勢いを無くす、しぼむ
白汗:白い玉のような汗
しどろ:よろよろ
立上:くつの足首から膝までの部分、臑

現代語訳

あるときのお話には、仙道本宮合戦の際、どうしたことがあったのだろう、味方がことごとく負け、茂庭左月などをはじめ歴代の者たちが討ち死にし、先鋒が持ち場へ勢いをうしなって出たところ、追い込まれて木戸を三度まで取られ、東の軍は特に負けているという知らせがきたので、西の軍をはやばやと明けさせて、旗本衆を詰めさせ、小旗をさしかえ、手回りの者を4,50連れて乗り入れてみたところ、敵は思った以上に意気込んで川の端につき、町頭へ入ってきたので、成実の兵を横筋違いに町頭より西南に当たる地蔵堂の山の先へとくり出し、先陣には旗本衆を入れ替え、町のうしろの田道を真っ直ぐに人取橋をしきり、うしろから追いかけ囲み討ち取れと下知したところ成実の軍勢が詰めあって、川の辺で一戦が始まった。こちらは人取橋へ敵を追い下げ、討ちつ討たれつ入り乱れての大合戦だった。川上や川下で敵味方が討たれ、流れる血は真っ赤に染まっていた。人取橋の坂を何度となく乗り上げ、乗り降ろしていると、馬は白い球のような汗を出し、息は荒く、足元がよろよろになってきたので、川へ乗り入れ、口を洗わせ、水をのませていたところ、右脇に立っていた口取りで、身分の低い者に珍しく気がきき、心がしっかりしていて、嘘をつかない九八という口取りがいた。胸の下を二ヶ所弾丸で撃たれ、持っていた柄杓を左脇に立っていた者にわたし、これを持てと言ってよろめいた。馬の上から髻をとり、「怪我をしたのか、九八、ここは川だ、こちらへもたれかかって川より上がれ。敵は川から向かいへ追い崩して、味方が続いているぞ」と声をかけたが、両手を合わせ、「深手である。私のことはここでお捨てになり、ここでお時間を取らせないように」と言いながら川へ横たわった。可哀想なようすだった。
そこへ成実が徒歩の者を2,30連れ、馬の前後をしとろにたて、一文字に川へ乗り込み、「ご武運がつきたのか。大将の馬の立て所であるぞ」といいながら、私の乗っていた馬の胴を軍扇の柄で強く打ち、川から追い上げた。ああ、軍の一方を任せるにめったにいない大将であるなあと心の内で頼もしく思い、「馬を助けようとして誤って落ちた」と言ったら、「何を言っているのか、矢や鉄砲は笹を束ねて降るが如くである。流れ矢にあわないように。しかけたいくさ場を醒ましてくる」と言って、両方へ馬を乗りわけ、人取橋の向こう側へ敵を追い散らし、勝ち鬨を行ったと政宗は仰った。
そのとき来ておられた鎧を後で見たところ、臑の脛当てに銃弾の後一ヶ所、鞍の前輪をかすり、腹に一ヶ所、肩に玉が当たった後一ヶ所、兜の左の脇の小筋二つ擦り矢に当たった痕があった。この鎧は縁起の良い武具であるということで、秘蔵なさっておられた。古い雪下彦七が鍛えた物だという。お亡くなりになられた際、廟所に入れた。
 注28:この条は私はお聞きしなかったが、かねてから年寄りたちがいう話によると、人取橋の戦での成実の本宮での働きは比べる物のない活躍であったと言う。

感想

人取橋合戦での様子です。
九八と政宗のやりとりの様子ですが、敬語からこういう展開ではないかと思いましたが、誤読しておりましたらすみません。
その後の成実の活躍のようすは、成実自身は自分の覚書には書いていませんが、川に入ってしまった政宗の馬を軍扇の柄でうって引き上げさせ、「いくさ場を醒まして参る!」と非常に格好の良い姿を見せています。
実際どうだったのかはわかりませんが、政宗はこう語っていたということでいいかと思います。
このときの鎧が政宗の遺体とともに埋められ、瑞鳳殿で発掘された雪ノ下胴であると言われています。合戦の大変だったようすがよくわかります。

『正宗公軍記』2-10:相馬義胤、田村の城取損じ候事附石川弾正、御退治の事

『正宗公軍記』2-10:相馬義胤が田村の城を取り損ねたことと、石川弾正を退治したこと

原文

相馬義胤、築山に御座候て、弥弥田村衆申合され、右より御北様へ御内談と相見え、五月十一日、義胤より御使の由申し候て、相馬の家老新館山城・中村助右衛門と申す者、三春へ参り、其夜は町に留り候。何れも下々に於て申唱へ候は、伊達衆をも相馬衆をも、三春へ入るまじき由申定められ、両人の衆、取参られ候はば、明日義胤御見廻候様に御出で、城を御取りなされ候由申廻り候。左候へば、十二日早天に、山城・助右衛門両人、城へ罷登り候。橋本刑部は切腹と存じ詰め、未明に参り、三人共に奥方へ伺候致し、御酒を控へ居り候。刑部方の者共、五人三人宛、鉄炮・鎗・武具持ち候て、城へ入り候。月斎・梅雪・右衛門は参られず候。山城・助右衛門方も、五十人計り城へ参り候へども、其道具は持たせ申さず候。相馬義胤御出の由、申し候に付いて、内へ入り候者共、方々役所着き候様に居候。梅雪、其時城へ上られ候。奥方より刑部罷出で、はやはや義胤は城の下迄召懸け候。宵より大越の人数、城の東の林の内、深き谷へ七八百程、鉄炮・鎗にて引付け置き候。然る所に、刑部、梅雪の手を取つて、伊達衆をも相馬衆をも、入れもうすまじき由仰合され、義胤を入れ御申これあるべくやと申候へども、梅雪、いやいや入れ申すまじき由申され候。兼ねて梅雪も、御見舞申し候様に、御出でなさるべく候。城を取らせ申すべき由申合させ候へども、刑部、大功の者に候間、入れ申すべき由申候はば、則ち討たるべき由、存じ入られ申すまじき由、申され候と相見え候。刑部其言に付いて、具足を着け申候。何れも城へ入り候者共、武具を着け入り申すまじき由申され、鉄炮打ち候へと申付けて、義胤城半分ほど召上げ候へども、鉄炮を打ち弓を射防ぎ候間、義胤御供の衆三十騎計り召連れられ候へども、袴がけにて候間、何事も罷りならず。殊に、義胤の馬の平首へ、鉄炮中りければ、夫より召返し、東の小口へ御出で候へども、彼の口も其通り、其上、地形悪しく候故、ならず候跡へ、馬上二百騎計り、武具にて弓・鉄炮持も召連れられ候へども、遅く候て用立たず、築山へも御帰なく、直に相馬へ引退かれ候。大越紀伊守罷出で、御立寄り候へと申し候へども、御寄なく候。新館山城・中村助右衛門城中にて、討たるべきかと存じ候て申し候は、斯様に御色立あるべき儀にこれなく候。左様に候はば、義胤御出無用の由、申すべしとて、足早に出で候所に、刑部方の者、鎗を突きかけ候へども、刑部無用の由、抱へ候て御出御無用の由、申上げらるべき由、申し候て押出し、城は堅固に持ち候。田村より白石若狭所へ、其様子申来り候間、早馬を以て大森へ申上げられ候條、夜四つ過ぎに相聞え候。則ち正宗公御早打なされ、白石若狭居城宮森へ、翌日五つ時分召着かれ、伊達信夫の人数にて、築山へ両日御働なされ、田村に人数入り候儀、計り難き由仰せられ候て、成実は十二日に白石へ早打仕り候儘、差置かれ候。両日の御供は申さず候。十六日に、小手森へ御働き候間、参るべき由仰せ下され候條、小手森へ参り候所に、城を召廻し御覧なされ、御攻めなさるべき由仰付けられ、成実は築山より助の押に差置かれ候。其外の御人数御旗本迄相出でられ、御攻めなされ候て落城仕り、悉く放火致し、今度は撫切にはこれなく、取散に仰付けられ、宮森へ打返され、翌日は田村の内大蔵の城に、田村右衛門大輔弟彦七郎と申す者居申し候。心替の衆は、数多候へども、手切れ申さず候。此彦七郎は、築山へも節々参り、三春取らせられ候様に、義胤御越の御供も、仕り候に付いて、彦七郎城へは御働なされ候。小口懸をなされ、町を引退き、空家共十計り焼払はせられ候へども、内より一騎一人も罷出でず、脇より助け候衆もこれなき條、申雲と申す田村の出家へ、前廉申合され候や、御働の所へ参らる。彼の出家を以て、月斎を頼入り、御侘言申され、召出さるべきに落居申し候へども、日暮れ候間、宮森へ打返され候。総御人数は、にしと申す所に野陣に候。次の日は、石沢と申す所に、相馬衆籠り候間、御働きなさるべき由、打出でられ候へども、田村彦七郎罷いでられ候事遅く候間、大蔵の道つかい総手備を立て、大蔵罷出でず候はば、御攻めなさるべき由、仰付けられ候所に、彦七郎罷出でられ、御目見申上げ、石沢への御先懸を致し候。石沢は田村の内にて、小地には候へども、城能く見え候。相馬の城を以て、相抱へ候間、人数も多く見え候故、近陣なさるべき由にて、其夜はにしと申す所、白石若狭抱の地に候。御在馬なさるべき由、仰付けられ候へども、然るべき家もこれなきに付いて、俄に東の山に御野陣なされ候。折節、大雪仕り、大雪仕り、野陣の衆迷惑申し候。然る所に、御築山に於て火の手見え候。大嵐候へども、物見を遣され候へば、築山引退き候て、一人も居らず候由申上げ候に付いて、石沢も引退くべき由思召し、御人数を遣され候所に、人数参らず候、先に引退き候。石川弾正居り候とうめきも引退き、弾正抱の地残なく落城、田村の内二箇所相極められ、宮森へ打返され、御在陣なされ候。
月斎・刑部少輔は、尤も梅雪・右衛門大輔、其外、相馬へ申合せ候侍、少しも表立ち候衆は、宮森へ伺候を致され、石川弾正御退治なされ、田村迄かたまり御目出度由申上げられ候。其内に、常盤伊賀も伺候を致す。右各各相談の砌、伊達を頼入るべき由、申出で候に付いて、何れも夫に同心の由聞召され、御大慶に思召され候由、御意なされ、金のし付の御腰物、伊賀に下され候。
田村月斎・梅雪・同右衛門大輔・橋本刑部少輔、宮森へ伺候致され、片倉小十郎・伊藤肥前・原田休雪三人を以て、申上げられ候は、大越紀伊守事、初めより田村へ出仕も仕らず、今度の田村逆心の企始に候。彼の人一人引籠り居り候條、彼の城を取禿せられ候様に、仕りたき由申上げられ候。御意には、尤も兼ねて大越紀伊守仕様共、具に聞召され候。別して口惜しく思召され候。併、一働にては落城仕り候儀計り難く候。左候へば、佐竹義重、安積へ近日出馬の由、聞召され候間、若し彼の地御手間を取られ、其内、義重、出馬に候はば、彼の城、巻きほごされ候事、如何に候間、御働なるまじき由、御挨拶に候。又申上げられ候は、御一働きなされ下さるべく候。尤も佐竹殿、御出必定に候はば、御近陣などは御無用に存じ奉り候由、申され候に付いて、左様に候はば、御代官を以て、御働きなさるべき由御意候て、成実本宮に居申す所に、伺候申すべき由仰下され候條、宮森へ参り候所に、御意には、田村衆、大越への働訴訟申し候。近日佐竹義重、安積表へ出馬の由、聞召され候間、其方、御代官として、大越への御働なさるべき由にて、相越すべき由仰付けられ候。拙者申上げ候は、安積筋にて、義重御出馬の由承らず候。何方より申上げられ候やと、申し候へば、御前の衆相払はれ、須賀川の須田美濃より申上げ候由、御意に候・拙者申上げ候は、存じの外に候。美濃は無二佐竹御奉公の由承及び候。扨は北方へ申寄り候やと、申上げ候へば、両度使を遣され候に、初めの筋は悪しく候て気遣ひ申候。重ねて御意候はば、此筋を以て、仰下さるべき由、申上げ候て、佐竹義重の出馬の儀も、申上げ候事、時に石川大和殿より八代と申し候山伏を、御飛脚に差越され候。其山伏に御尋ねなされ候も、御出馬の由申し候。和州よりは、其沙汰これなく候由、御意なされ候。則ち罷帰り両日支度申し候て、舟引へ罷越し、大越への働を仕り候。請持申し候所の町構引込み、二三枢計り持ち候間、此方よりも仕るべき様、これなく引上げ候。正宗公も御忍びなされ候て、御出でなされ候。然る所に、小野・鹿俣の人数、東より戦ひ候に付き、伊達衆引上げ候に付いて、城より鹿俣衆へ出合ひ申し候て、合戦仕り候て、鉄炮なり候間、総人数相返し、敵を押切り候て、方々追散らし、首三十ばかり取り引上げ候。翌日正宗公も、宮森へ御帰なされ、御人数も相返させられ候事。

語句・地名など

見舞:不幸事があったときに見舞うこと、訪問、巡回
大功:大きな手柄をたてること、大きな事業
平首:馬の首の平たい部分
四つ:今の午前10時および午後10時ころ。よつどき。
五つ:今の午前8時および午後8時ころ。いつつどき。
折節:ちょうどそのとき
物見:見張り、敵地の様子を調べること、またはその人
伺候:そば近くに控えること、そばに行くこと
無二:ふたつと無い、うらぎることのない

現代語訳

相馬義胤が月山にいるあいだ、ますます田村の衆は言い合わせて、前々より北の方へ内密に語らっていたようで、5月11日義胤から使いがやってきて、田村の家老新館山城・中村助右衛門という者が三春へ来て、その日は町に留まった。下々のものたちの間で、伊達衆も相馬衆も三春へ入らないよう定められていたのに、双方の衆が来るならば、明日義胤が見廻りのため来られ、城を取りなさるのではないかと噂が立った。
すると12日の朝早くに山城・助右衛門の2人が登城した。橋本刑部は切腹すると多い爪、未明にやってきて、3人一緒に奥方へ会いに行き、酒を控えていた。刑部の味方の者は5人3人ずつ、鉄炮・槍。武具を盛って、城へ入った。月斎・梅雪・右衛門はやってこなかった。山城・助右衛門も50人程度城へ連れてきたが、武具は持たせていなかった。相馬義胤が来ることを言ったところ、中に入った者たちは、それぞれ担当が決まっていたようであった。梅雪はそのとき登城した。奥の方から刑部がきて、はやばやと義胤は城の下までかけつけていた。宵から大越の平、城の東の林の中の深い谷へ、7,800程、鉄炮と槍を呼び、配置していた。
すると刑部は梅雪の手をとって「伊達衆も相馬衆も入れるべきでないと約束したのに、義胤を入れるとはなんということか」と言ったところ、梅雪は「いや入れたわけではない」と言った。かねてから梅雪も義胤に訪問のようにお越しください、城をお取りになるようにと内談していたけれど、刑部は功労者であったので、入れるべきと聞いたならば、すぐに討とうとするであろうと思われ言うべきでないと言ったと思われる。刑部はそう言って、具足を付けた。
城へ入った者たちはみな武具を着けてきてはいけないといい、鉄炮を打てと言いつtえ、義胤は城を半分ほど召し上げたが、鉄炮を打ち、弓を射て、防御していたので、義胤は供の者を30騎ほど連れていたが、袴姿であったので、何ごともできなかった。特に義胤の馬の首の平たいところへ鉄炮があたったので、それから引き返し、東の入り口へいらっしゃったが、その入り口はその通りで、そのうえ地形がわるかったので、何も出来ずにいたところ、その後へ騎馬武者200騎ほどが、武具をつけ、弓・鉄炮を連れてきたが、遅くきたので役に立たず、月山へも帰らず、じかに相馬へ退却された。大越紀伊が出てきて、お立ち寄りくださいと言ったが、立ち寄らなかった。
新館山城・中村助右衛門は城の中で討たれるだろうかと思って「このようになるとは思っていませんでした。もしそうならば、義胤の出馬は要らないというでしょう」というべきだと足早にでていったところ、刑部の兵が、槍を突きかけた。しかし刑部は不用であるといい、出馬は無用であると言うべきことをいって押しだして、城は固く守られた。
田村から白石若狭のところへ、そのようすを知らせてきたので、早馬で大森へ申し上げた。夜4つ過ぎに伝えられた。すぐに政宗は出陣し、白石若狭のいる宮森城へ次の日の5つ頃着かれ、伊達・信夫の兵で月山へ2日間戦闘を仕掛けられ、田村に兵を入れることはしにくいとおおせになったので、成実は12日に白石へ急いで行ったそのまま、差し置かれた。2日間の供はしなかった。16日に小手森へ戦闘を仕掛けられたので、来るように仰った。小手森へ行ったところ、城を廻りごらんになって、攻めるようにといったので、私は月山からの援軍を抑えるように配置された。そのほかの兵は、旗本衆まで出陣し、お攻めになって落城した。すべてに火を付け、今回は撫で切りではなく、ちりぢりに追い出すよう命令され、宮森へ戻られた。
翌日は田村の内大蔵という城に、田村右衛門大輔の弟彦七郎という者がいた。心変わりした衆はたくさん居たが、手切にはならなかった。この彦七郎は月山へもたびたび来て、義胤が三春を取ろうとするときにもともについてきた者だったが、その彦七郎の城へ戦闘を仕掛けた。入り口へ懸かり、町を引き倒し、空き家を10軒ほど焼き払わせたが、中から1騎1人も出てこず、脇から援軍も居なかったので、申雲という田村の僧を前もって呼んでいたのだろうか、陣屋へやってきた。この僧侶を介して、月斎を頼み、侘びを良い、呼び出されるようにきまったが、日が暮れたので、宮森へ戻られた。総勢は西というところに野陣をひいた。その次の日は石沢というところに相馬衆が籠もっているということだったので、戦闘しようと出発なされたが、田村彦七郎出てくるのが遅かったので、大蔵への道を使って総軍備えを立て、大蔵がでてこなかったなら、攻めようとご命令になった。そこへ彦七郎がやってきて、面会し、石沢への先鋒をした。石沢は田村の領内で、小さな土地ではあったが、城がよく見えた。相馬は城にこもり、兵も多く見えたので、近くに陣を惹くべきと思われ、その夜は西という白石若狭の領地に宿泊されると仰ったが、相応しい家もなかったので、急に東の山に野陣なさった。ちょうどそのとき大雪が降ってきたので、野陣の兵たちは大変苦労した。そこへ月山で火の手があがったのが見えた。大嵐であるが、斥候を送ったところ、月山から退却し、もう1人もいないと言ったので、石沢も退いただろうと思われ、兵を送ったところ、人は居らず、先に退いていた。石川弾正がいた百目木城も退却し、弾正領地の城はひとつ残らず落城し、田村領内の2箇所も手にいれ、宮森へお帰りになって、城へ入られた。
月斎と刑部はもちろん、梅雪・右衛門大輔、そのほか相馬へ傾いていた者たちも主立った人たちは宮森へやってきて、石川弾正を倒し、田村の支えまで固まったことをめでたいと申し上げた。その中に常盤伊賀もいた。この人々が相談していたとき、伊達を頼るように言ったので、みなそれに同意したことを聞き、大変お喜びになったので金熨斗付きの刀を伊賀に下賜なさった。
田村月斎・梅雪・右衛門大輔・橋本刑部は宮森へやってきて、片倉小十郎・伊東肥前・原田休雪斎の3人を介して「大越紀伊ははじめから田村へ出仕もせず、今回の裏切りの発端である。かれは1人こもっていたので、かれの城をとりあげるようにしたい」と申し上げた。政宗は大越紀伊がしたことを詳しく聞いていた。特に口惜しく思われていた。あわせて、一度の戦闘では落城させることは難しいだろう。そうであるなら、佐竹義重が安積へ近く出陣するということをお聞きになったので、もしかの領地に手円居、そのうちに義重が出てきたならば、かの城はまきほごされるだろうことはどうだろうかと思われるので、戦闘はするべきではないとお返事になった。
4人はまた「ひと働きしていただきたい、佐竹殿が出てくることはほぼ確定なので、近くに陣を張ることは無用である」と言ったので、「そうであるならば、代官を立てるのでそれに戦闘させる」と思われ、成実が本宮にいるところにそばに来るようにと仰られたので、宮森へくると、田村衆は大越への戦闘を訴えている。近く佐竹義重が安積方面へ出馬のことを聞いたので、その方に代官として大越への戦闘をしてもらいたいので、やってくるように」とご命令になった。
私は「安積方面で義重が出陣するという話は聞いていない。どこから言った話だろうか」と尋ねたら、人払いをして、須賀川の須田美濃からの報告であると言った。成実はそれは知らなかった。美濃は一心に佐竹に仕えていると聞いていた。さては北方へ言い寄ってきたのか」と申し上げたら、「2度使いを送り、初めの対応は軽く、心配だったが、重ねてきいたところ、このつてを使っていうようにと言ったところ、佐竹義重の出陣について言ってきた。そのとき石川大和昭光より八代という山伏を飛脚に遣わせてきた。その山伏に尋ねたところ御、出馬のことを言っていた。石川大和からは連絡がない」と仰せになった。直ぐに私は帰り、2日で支度をし、舟引へやってきて、大越への戦闘をした。
受け持ったところの町構えを引き込み、2,3曲輪のみを固く守ったので、こちらからもできることがなかったので、引き上げた。政宗もお忍びになって、お越しになった。そうしているところに、小野・鹿俣の兵が東から戦ってきたので、伊達衆は引き上げるので、城から鹿俣衆へ出会ったので、合戦となり、鉄炮を討ったので、総軍が押し返し、敵を押しきって、あちこちへ追い散らし、首を30ほどとり、引き上げた。翌日宮森へお帰りになり、兵もお返しになった。

感想

義胤の田村への出陣とその失敗、その後の田村への伊達の干渉について書かれています。
『正宗公軍記』はここで終わります。
一人称が「拙者」だったり、政宗に「公」を付けていたりで、『伊達日記』とも『政宗記』とは細かい語句や数の異同があります。
どの順番で書かれたかはまだわかりませんが、兵の数や首級の数などの相違を見ていると、『政宗記』より『伊達日記』より、しかし文体的には『政宗記』より…という特徴がありまして、今のところ『伊達日記』より後に書かれている『政宗記』プロトタイプなのではと思っております。
今後また考え変わるかもしれませんが、とりあえずこちらはここで終了です。