[sd-script]

伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

総合目次

【ご挨拶】

はじめまして。[sd-script](「エスディー・スクリプト」)です。
管理人:慶と申します。
こちらは、戦国〜江戸初期の伊達家家臣&ライター武将【伊達成実】(だて・しげざね)に関する趣味の考察ブログです。
「史実」の伊達成実に関するあれこれ(主にかれの著作について)の私的覚え書きと整理が目的です。
創作におけるものについては「感想」カテゴリで触れる以外はありません。

素人がやっております単なる趣味のサイトです。
考察・簡単な現代語訳を上げる予定ですが、読めば一目瞭然ですが間違ってる酷い訳です。間違いに気がついたらあとから勝手に書き直します。
計画的なものではなく、気が向いたとき&ところからフラフラテキトーにやっていきます。真面目な研究目的ではなく、ミーハーなファン心故のサイトです。
文法読解など、間違ってるところ多数なので、何かの参考にはされない方がいいと思われます。
ご意見・間違いご指摘・ツッコミ等は大歓迎ですので、コメント等でお気軽によろしくお願いいたします。間違いなどに気づいた場合、過去の記事もことわりなく書き直したりもします。

注:このサイトは御子孫各位・特定市町村・各種研究機関・出版社・著作権者様方…etcとは一切関係ございません。完全にただのいちファンが趣味でしていることです。
営業妨害・名誉毀損・著作権侵害などの意図はございません。
こちら記載の記事に関連して何か不都合な事がございましたら、こちらまでメールをいただけますようお願いいたします。
必ず折り返し返答させていただきますが、連絡先のないものには返答いたしかねます。

【更新履歴】NEW!!

これより前の更新履歴はこちら

おしらせ

  • 更新頻度が気まぐれかつ唐突ですが、ご了承下さい。
  • 今まで『成実記』で分類しておりました記事を書名である『伊達日記』に変更しました。(『成実記』と各『伊達日記』にも細かな違いがあるため、誤解を招かないために。合わせて参考にした書名を記すことにしました。)
  • 『政宗記』記載の地名の注は、合併後地名では(私に)分かりづらいこともあり、大体伊達史料集そのままにしてあります。

【総合目次】

原文:

成実以外の筆者による成実が登場する記事:

その他の政宗逸話記事:

『木村宇右衛門覚書』119:仙台城西郭で能「実盛」を観劇したこと

『木村宇右衛門覚書』119:仙台城西郭で能「実盛」を観劇したこと

原文

一、有時、御西郭の御庭の桜盛りを御待之御能仰せ付けられ候。御役者一年御国に詰候へ共、能などは儀式正しからざれば見られぬ物と思し召す也。下々へ振舞に行囃子など有は、亭主により所により折節には良しと仰せられ、能は花の頃を催し、二十日も前に能組定まり御指南の所にて行儀正しく役者言い合わせ、初日は御親類衆御一家御一族衆惣侍衆、翌日は諸寺家衆、御座中長袴にて、夜ほのぼのと明くると御座敷の御簾あがる。其時宿老衆御能始め申さるる。其衆帰座してなをるを見て幕開け、御能始まる也。其日二番目の修羅に実盛あり。シテ語りの内に六十に余り戦せば、若殿ばらに争ひ先をかけんも大人気なし。又老武者とて人々に侮られんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め、若やぎ討ち死にせんと常々申し候へしが、誠に染めて候と、さも床しく語りければ、御涙をはらはらと流させ給へば、御左の上座に伊達安房成実声を忍びにたて袖濡るるほど流れ*1ける。何も御年六十に余らせ給ふ頃なり。又茂庭周防所にて能有し時、是は時雨の亭とて藤原の定家の卿立をかせ給ひ年年歌をも詠しさせ給ふ古跡なりと申ければ、御涙を流し給ふは、日頃歌道に御心を寄せられたる故ぞかしと人みな申あへり。
 付161○此ヶ条御座中之儀は存ぜず候。御能仰せ付けられ候趣は相違御座なく候事。

地名・語句など

ゆかしく:懐かしく、情緒をこめて

現代語訳

あるとき、西曲輪の庭の花の盛りを待つ能会をすることになった。役者たちは一年在国にいたが、能を見るときは儀式を正しくしないといけないと思っていらっしゃった。身分低い者に対して囃子などがある場合は、主催者や場所や時期によってはいいが、能は花の頃に催し、二十日も前に能の番組を定め、教えの通りに行儀正しく役者を呼び、初日は親類衆・一家・一族・侍衆をすべて呼んで、翌日は社寺の者たちを集め、長袴を着ておられ、夜がほのぼのと開ける頃、座敷の御簾があがった。そのとき宿老衆が「能がはじまります」といい、かれらが戻って座るのを見て、幕が開き、能が始まった。
その日、二番目の修羅能として、「実盛」があった。
シテが「六十に余り戦せば、若殿ばらに争ひ先をかけんも大人気なし。又老武者とて人々に侮られんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め、若やぎ討ち死にせんと常々申し候へしが、誠に染めて候」と、いかにも情緒たっぷりに語ったところ、政宗は涙をはらはらとお流しになった。左の上座にいた伊達安房成実は声を忍ばせ、袖が濡れるほど涙を流していた。お二人とも、年60を少し越えた頃であった。
また茂庭周防のところで能があったとき、これは時雨の亭であると藤原定家が年々歌を詠ませた古跡であると言ったら、涙を流されたのは、日頃歌の道に熱心であるからだろうとみな言い合った。
 付161:この条の列席者のことはわからないが、能を命じられたことは間違いないことである。

感想

他の本でもいろいろと出てくる、いわゆる「実盛で号泣事件」であります。
家中で実盛を行ったところ、途中で上座にいた政宗と成実が号泣してしまった話です。成実本人は「そこにいた者みんな泣いた」と言っていますが、本当のところは「政宗と成実が号泣」し、周りの人々が「自分たちのことと重ね合わせて感極まったのだろう」と感涙したようです。
『木村宇右衛門覚書』では政宗ははらはらと涙を流し、成実は声を忍ばせて袖を濡らすほど泣いたとあり、『名語集』ではさらに、

御聲をあげ、ひたもの御落涙あそばされ候。左の御わきに伊達安房守殿御座候が、是も御同前に、御座敷にたまらせられぬほど、落涙あそばされ候。諸人、御様子を拝み奉り、落涙仕らざるもの、あまり御座なく候。まことに実盛ましの御人様たち、御身のほどにおぼしめしあはせられ候事と、みなみな感じ奉り、落涙仕り候。

政宗は「声を上げて激しく」落涙し、成実は「座敷に座っていられないほど」落涙したとあります。
…………ホントに二人ともめちゃくちゃ泣いたんだな!!

*1:「泣かれ」の可能性もあり?

『木村宇右衛門覚書』60:父輝宗の不慮の死

『木村宇右衛門覚書』60:父輝宗の不慮の死

原文

一、有時御咄には、御東はかく恐ろしき御人なりければ、いよいよ輝宗へ御馴染み深きに、あへなき御最期、語るに語られぬ程也。二本松殿色々申さるるによって、輝宗公へ無事のうへ、陣屋へ二本松殿見舞候はんと也。中途は騒々しければ、何時にても城へ帰りて後御尋候はば、ゆるゆる御目にかけ向後申合はすべしと也。かくて俄に明日二本松殿見舞の由、此方にてもとりあへずの馳走の催し也。我等部屋住みの事なれば、二本松殿見舞給ふ朝に、後ろの山に猪四つ五つ居たる由告げ来る。今日は表に客ありてよき隙なりとて、部屋住みの中間足軽共猪狩の用意也。我等も別而隙入事もなければ、出でんとて弓鑓鉄砲にて山へ出る。二本松殿の供の衆如何様怪しく思ふ処に、御座敷にて輝宗公と二本松殿向後は入魂、互いに御如在有まじきなどと御話し最中、俄の事なれば御台所に膳棚四五間縄吊りにてしたるが、縄きれ、盛並べたる角皿、鉢くわらめきて落つるに、人たち騒ぎたる声、御座敷へ騒がしく聞こへければ、二本松殿不思議に思はるる所に、供の者いよいよ怪しみ疑いもなく二本松へ戻り足を中途にて討たんと、若殿弓鉄砲にて出られたるべしと思へば、台所筋騒がしとて、二本松殿に御用あるとて呼びたて、耳つけに何哉ん申聞かせ、供の衆は表へ罷出る。二本松殿は御座敷へなをり、則御暇乞いあって立給ふ。輝宗公是はふたかはとしたる御帰かな、さりとては御残多よし、とめ給へともしきりに出給へば、是非なく御門送りに、広間の玄関まで出給ふて、敷台にて互いに一礼の時、二本松殿供の衆に目と目を見合、輝宗をひしひしと捕らへ奉り、近頃御情けなき御仕掛にて候。二本松まで御供申さんとて引立奉る。朽木と申御小姓御腰物持ちながら御袖に取りつきければ、朽木共に大勢おっとりくるみまいる由、早馬にて狩場の山へ告げ来る。こは口惜しき次第かなと、驚き追いかけ見奉れば、件のごとし。近ふよりて御覧すれば、二本松殿輝宗公の御胸元を捉へ支え上げ、脇指をつきかけ申、人々近く寄り候はば、其まま下にひしひし通り刺し殺し申さん覚悟也。皆人近寄りかぬる所に、成実始め馳せ寄りて、何と何ととはかり也。輝宗公御跡をふりかえり御覧じ仰せらるるは、我思わずもかく運つき、日頃の敵にとらるること力なし。我等をかばいだてするうちに、二本松領は近づく、川をあなたへ引き越されては、然らば無念の次第也。我をば棄てよ棄てよと仰せられ候へども、さすが一門家老尤もといふ人なく、せんかたなく引きたてまいる。御跡先に馬をのりまわしのりまわし、子細を問へとも答へず。とかくする内に、二本松領へ近づきければ、注進したると見えて、人数夥敷川の向ひに馳せ集まる。かくては叶ひがたしと思ふ所に、成実を始め、一門衆皆々我等の馬の前に乗り向かい、是非なし、棄て奉る外なし、何といたさんと申さるるほどに、ともかくもよりどころなき仕合かなとおひければ、其色を見て、二本松衆ひしひしとおりいて、いたはしくも輝宗公を刺し殺し奉る。御腰の物持ちたる小姓、御死骸に抱きつき、刺されて死にけり。二本松衆一人ももらさず叩き殺し、其上二本松殿をよる程の者、一刀つつと思へども、づたづたに斬りたるを、藤にて死骸を貫き集め、縫いつけ、其所に旗物にかけて、川向かひの敵追っ払い、輝宗公の御死骸取り納めたるとの給ふ。
 付65○此如ケ条久申伝たる御事御座候へども、政宗様御意は終承らず候。加様之御心持も御座候哉、義山様へ貞山様御意成られ候は、家の大事に成る時は、親をもかぼわぬ事にて候。其心得尤候由、御意は柳生是翠承候由申候。

地名・語句など

部屋住み:嫡男でまだ家を継いでいない者、次男以下の家を継ぐことができないもの
膳棚:膳や椀などの食器を載せておく棚、食器棚

現代語訳

あるときのお話では、御東の方(母最上氏・義姫)はこのように恐ろしい人であったので、いっそう父である輝宗に懐いていたから、どうすることもできなかったご最期のことについては語りたくても語ることができない程のことであった。二本松の畠山義継がいろいろと言ってきたので、輝宗の陣屋へ義継が見舞いしたいと言ってきた。いろいろと忙しかったので、城へ帰ったあと尋ねたところ、ゆっくりとお目に掛け、話し合おうと言うことになり、急に明日義継が見舞いにやってくるということになって、こちらもとりあえずの馳走の催しをした。
私は部屋住みの身であったので、義継が見舞いに来る朝に、後ろの森に猪が4,5頭居ると知らせが来た。今日は表に客があるから、ちょうど良い暇な時間であると、部屋住みの中間や足軽たちは猪狩りの用意をしていた。私も特にすることもなかったので、行こうということで弓・槍・鉄砲を用意して山へ登った。
義継の家臣たちがどのように怪しく思ったのか、座敷にて輝宗と義継は向かいあって座り、今後は仲良くしよう、互いに遠慮の無いようにとお話していた最中、急なことだったので、台所で膳棚を4,5個縄で吊ってあったのが、縄が切れ、盛り並べていた角皿や鉢が音をして落ちた。人々が騒ぎ立てている声が座敷へ騒がしく聞こえたので、義継が不思議に思っているところに、供の者たちはいっそう怪しみ、二本松へ戻るとき途中で討とうと若殿である政宗が弓・鉄砲を持って出たのだろうと思ったので、台所が騒がしいと行って、義継に用がありますといい、耳を付けて何かを行って、供の者たちは表へ出た。
義継は座敷へ座り直し、直ぐに暇乞いをして立ち上がった。輝宗はこれは急なお帰りであるな、もう少し残られよと止めたが、しきりに帰りたいというので、仕方なく門まで送ろうと、広間の玄関までお出になり、玄関を上がった直ぐの間で互いに一礼したとき、義継は供の者と目と目を合わせ、輝宗をひしととらえ、此の頃はお情けのないやりようだ、二本松までお伴しますと引き立てた。
朽木という小姓が刀を持ちながら袖にとりついたが、朽木も一緒に大勢で押し取り、囲み去ったことを早馬で狩り場であった山へ知らされた。
これはなんと口惜しいことであろうかと驚き追いかけて見たところ、そのような状態であった。近くへ寄ってみようとすると、義継は輝宗の胸元を捕まえ、支え上げ、脇指をつきかけており、人々が近く寄ろうとしたら、そのまま下に強く貫き通し、殺そうという覚悟であった。
誰もが近づきかねていたところに、成実は駆け寄って、どうしたらよいかと聞くばかりであった。輝宗は後ろを振り返り、見て「私は思わずこのように運が悪く、日頃の敵に捕らえられるのは力が無く役に立たないからだ。私をかばい立てしているうちに、二本松領は近づく。川の向こうに連れて行かれては、ひたすら無念の事である。私を棄てよ。棄てよ」と仰られたが、さすがに一門衆も家老衆もそうしようという者はなく、仕方なく追いかけていた。
後ろに馬を乗り回し、詳細を聞いても、答える者は居なかった。そうこうしているうちに二本松領へ近づいたので、知らせた者がいたらしく、川の向かいに夥しい人数の兵が集まってきた。こうなってはもう無理だと思っていたところに、成実を始め、一門衆がみな私の馬の前に向かってきて、「仕方ない、お捨て申し上げる以外にない。どう致しましょうか」というので、ともかくどうしようもないかと追いかけると、その様子を見て、二本松衆はひしひしと集まり、いたわしくも輝宗を刺し殺しなさった。刀を持った小姓は輝宗の遺体に抱きつき、刺されて死んだ。二本松衆を一人も漏らさず叩き殺し、そのうえ義継を一刀ずつと思いながら、ずたずたに切り裂いたのを、藤の鶴で死骸を貫き集め、縫い付け、そこへ旗指物をかけて、川向かいの敵を追っ払い、輝宗公の遺体を納めたと仰った。
 付65:この条の内容は長く言い伝わっていることであるが、政宗のお言葉ではついに聞くことはできなかった。このような気持ちもあったのであろうか、政宗は忠宗へ家の大事になるときは親でもかまわぬようにと仰られていた。この心得が尤もであるということは柳生是翠が聞いたところによる。

感想

輝宗生害事件の詳細が書かれています。
おや?と思うのは政宗が自身のことを「部屋住み」つまりはまだ家督を継いでいない者であると言っていること、義継との応対ですることがないので猪狩りに出かけたことなどでしょうか。
他の資料などでこのとき輝宗に従っていたのは留守政景・成実などだということがわかっています。成実の覚書などでは追いかけていく様子がしっかりと書かれていますが、『木村宇右衛門覚書』では裏方(台所)で起こっていたこと、それが誤解となって事件が発生したこと、輝宗の台詞、それを受けての政宗らの対応が詳しく書かれています。「叩き殺し」「ずたずたに切り裂いたものを藤でつないでさらす」ですから、政宗の怒りの程が伝わってくるようです。
『木村宇右衛門覚書』では輝宗のことを「てりむね」と書いているのですが、輝宗は「てるむね」でなく「てりむね」が正しいんでしょうかね?
輝宗と同道していた成実は輝宗を追いかけ、叫びを聞き、他の家臣たちとともに「棄て奉る外なし」と政宗に告げています。
本当に重苦しい一段です。

『木村宇右衛門覚書』27:天正一七年須賀川合戦の撫で斬り

『木村宇右衛門覚書』27:天正一七年須賀川合戦の撫で斬り

原文

一、有時の御咄には、人取橋大合戦以来、所々方々御手に入中に、須賀川手に入らず、我等伯母のおはしまし候間、いろいろさまざま教訓申せども受け給はず。剰へ方々へ廻文をまわし妨げ給ふの間、さらば踏み潰し、千代の見懲りのため、須賀川中は撫で斬りと相触れ、押し寄せ取り巻き一両日手間取る処に、守屋といふ者心変わりし、ひしひしと城をば乗っ取り、川端に床几に腰をかけしばし見る所へ、伯母を城の内より追い参らせ出たり.成実始め何と御計らいあるべきと、訴訟顔に申され候間、女儀と言いながらあの御心ばへ、誰あって一夜の宿貸す人の候べき。早く川端にて御暇参らせよといひて、其後はしらず、其より須賀川中は犬猫の類ひまでも撫で斬りにさせたるとの給ふ。

地名・語句など

教訓:おしえさとすこと、いましめ、またその言葉
見懲り:見て懲りること、悪行の行いを見て恐れ、懲りること、そのようにさあせること
訴訟顔:今にも訴えようというような様子、顔、哀願する様子
心ばへ:配慮、心遣い、性格、気立て、意見

現代語訳

あるときのお話には、人取橋合戦以来、あちこちさまざまな土地を手に入れていたうちに、須賀川の地が手に入らなかった。私の伯母大乗院のいらっしゃるところだったので、いろいろさまざまな方法で交渉したが、受け入れることはなかった。そのうえ、あちこちへ文書を送り、私のことを妨げになられたので、踏み潰し、先々まで懲りるように、須賀川城は撫で斬りにしろとご命令になり、押し寄せて城を取りまき、2日手間取っているところに、守屋という者が寝返り、しっかりと城を乗っ取り、政宗が川の畔で床几に腰掛けて見ていたところへ、伯母の大乗院を城の中から追い出させて連れてきた。
成実をはじめ、どのように取り扱うのでしょうかと訴えるように言ったので、「女ではあるがあのような性格だ。一夜の宿を貸す者が誰かいるだろうか。早く川の畔で離してやれ」と言って、その後は知らない。その後須賀川の城では、犬猫までも撫で斬りにさせたと仰った。

感想

天正17年、いよいよ政宗の南奥州統一がなされるころですが、最後まで抵抗したのが、政宗の伯母、輝宗の姉である大乗院阿南姫でした。伊達家から二階堂盛義に嫁ぎ、後に成実の継室となる二階堂氏(仏性院・岩城御前)の母です。
政宗ははじめいろいろと諭そうとしたようですが、抵抗を続けたので、政宗は厳しい態度にでます。
とくにこの「女儀と言いながらあの御心ばへ、誰あって一夜の宿貸す人の候べき。早く川端にて御暇参らせよ」という言葉は、どれだけ政宗が大乗院に腹を立てていたかがよくわかる言動です。
成実が伯母である大乗院を心配しているのと好対照です。

『木村宇右衛門覚書』26:天正一三年仙道本宮の合戦のこと

『木村宇右衛門覚書』26:天正一三年仙道本宮の合戦のこと

原文

一、有時の御咄には、仙道本宮一戦の時、何としたる事にや有けん、味方悉く敗軍して、茂庭佐月などを始め歴々の者共討死、先手町場へ窄み入ついて出候へば、追い込まれ追い込まれ木戸を三度まで取られ、東の手は殊の外敗軍の由告げ来るによって、西の手を早々明けさせ、旗元をつめ小旗をさしかへ、手まわり四五十召連乗入みれば、敵殊の外気負いかかって川の端に付、町頭へこみ入候間、成実の手を横筋違いに町頭より西南にあたる地蔵堂の山先へとくり出し、先衆には旗元を入かへ、町後ろの田道をすくに人取橋をしきり、跡先よりおっとりつつみうつとれと下知しければ、成実つめ合川端にて一戦始まる。こなたは人取橋へ敵を追い下げ、討つつ討たれつ入乱れたる大合戦也。川上川下にて敵味方討たれ、流るる血は紅の如し。人取橋の坂幾度となく乗り上げ乗り下ろしに、馬白汗に成息荒く足元しとろなり候間、川へ乗り入口を洗わせ水をかふ処に、右脇に立たる口取り九八といひて、下郎に珍しき、目の利いたる心太く真なる奴、乳の下を二ツ玉にて射られ、持ちたる柄杓を左脇に立ちたる相手のものに差し出し、これ持てといひてよろめくを、馬の上より髻をとらへ手負いたるか九八爰は川なり、こなたへもたれかかりて川よりあがれ、敵は川より向かひへ追い崩し、味方続きたるぞと言葉をかけ候へば、両手を合わせ、深手にて御座候、捨てさせ給ふて此所に時刻うつさせ給ふなといひながら川へ伏す。不憫なる次第也。然る所へ成実徒者二三十人、馬の前後しとろにたて、一文字川へ乗り込み、御運着き給ひたるか、大将の馬のたてどころといひながら、我等のりたる馬の総胴を、団扇の柄にてしたたかに打って、川より追いあぐる。一方を頼む人にあっぱれ有まじき大将かなと、心の内に頼もしく思ひ、馬を助けん為誤って候といひければ、物な仰せられそ、矢鉄炮は篠を束ねて降るごとく、流れ矢にあひ給ふな。仕掛けたる軍場を醒まして参候とて、両方へ馬を乗りわかれ、人取橋向かひへ敵を追い散らし、勝ち鬨をとり行ひたるとの給ふ。其時召されたる御鎧、後にみれば中立挙の御臑当に玉傷一ヶ所、鞍の前輪をかすり御腹に一ヶ所、御肩に玉ぞへりたる跡一ヶ所、御甲の左の脇小筋二間擦り矢にあたり、後まで礼よき御武具なりとて御秘蔵成られ候。古雪下彦七が鍛えたる也。御他界以後御廟所に入也。
 付28○此ケ条御拙者承及ず候えども、兼ねて年寄申候者之物語仕候は、人取橋の御動成実之本宮に而之御動、比類無き由度々承候事。

地名・語句など

町場:持ち場、宿場
しぼむ:勢いを無くす、しぼむ
白汗:白い玉のような汗
しどろ:よろよろ
立上:くつの足首から膝までの部分、臑

現代語訳

あるときのお話には、仙道本宮合戦の際、どうしたことがあったのだろう、味方がことごとく負け、茂庭左月などをはじめ歴代の者たちが討ち死にし、先鋒が持ち場へ勢いをうしなって出たところ、追い込まれて木戸を三度まで取られ、東の軍は特に負けているという知らせがきたので、西の軍をはやばやと明けさせて、旗本衆を詰めさせ、小旗をさしかえ、手回りの者を4,50連れて乗り入れてみたところ、敵は思った以上に意気込んで川の端につき、町頭へ入ってきたので、成実の兵を横筋違いに町頭より西南に当たる地蔵堂の山の先へとくり出し、先陣には旗本衆を入れ替え、町のうしろの田道を真っ直ぐに人取橋をしきり、うしろから追いかけ囲み討ち取れと下知したところ成実の軍勢が詰めあって、川の辺で一戦が始まった。こちらは人取橋へ敵を追い下げ、討ちつ討たれつ入り乱れての大合戦だった。川上や川下で敵味方が討たれ、流れる血は真っ赤に染まっていた。人取橋の坂を何度となく乗り上げ、乗り降ろしていると、馬は白い球のような汗を出し、息は荒く、足元がよろよろになってきたので、川へ乗り入れ、口を洗わせ、水をのませていたところ、右脇に立っていた口取りで、身分の低い者に珍しく気がきき、心がしっかりしていて、嘘をつかない九八という口取りがいた。胸の下を二ヶ所弾丸で撃たれ、持っていた柄杓を左脇に立っていた者にわたし、これを持てと言ってよろめいた。馬の上から髻をとり、「怪我をしたのか、九八、ここは川だ、こちらへもたれかかって川より上がれ。敵は川から向かいへ追い崩して、味方が続いているぞ」と声をかけたが、両手を合わせ、「深手である。私のことはここでお捨てになり、ここでお時間を取らせないように」と言いながら川へ横たわった。可哀想なようすだった。
そこへ成実が徒歩の者を2,30連れ、馬の前後をしとろにたて、一文字に川へ乗り込み、「ご武運がつきたのか。大将の馬の立て所であるぞ」といいながら、私の乗っていた馬の胴を軍扇の柄で強く打ち、川から追い上げた。ああ、軍の一方を任せるにめったにいない大将であるなあと心の内で頼もしく思い、「馬を助けようとして誤って落ちた」と言ったら、「何を言っているのか、矢や鉄砲は笹を束ねて降るが如くである。流れ矢にあわないように。しかけたいくさ場を醒ましてくる」と言って、両方へ馬を乗りわけ、人取橋の向こう側へ敵を追い散らし、勝ち鬨を行ったと政宗は仰った。
そのとき来ておられた鎧を後で見たところ、臑の脛当てに銃弾の後一ヶ所、鞍の前輪をかすり、腹に一ヶ所、肩に玉が当たった後一ヶ所、兜の左の脇の小筋二つ擦り矢に当たった痕があった。この鎧は縁起の良い武具であるということで、秘蔵なさっておられた。古い雪下彦七が鍛えた物だという。お亡くなりになられた際、廟所に入れた。
 注28:この条は私はお聞きしなかったが、かねてから年寄りたちがいう話によると、人取橋の戦での成実の本宮での働きは比べる物のない活躍であったと言う。

感想

人取橋合戦での様子です。
九八と政宗のやりとりの様子ですが、敬語からこういう展開ではないかと思いましたが、誤読しておりましたらすみません。
その後の成実の活躍のようすは、成実自身は自分の覚書には書いていませんが、川に入ってしまった政宗の馬を軍扇の柄でうって引き上げさせ、「いくさ場を醒まして参る!」と非常に格好の良い姿を見せています。
実際どうだったのかはわかりませんが、政宗はこう語っていたということでいいかと思います。
このときの鎧が政宗の遺体とともに埋められ、瑞鳳殿で発掘された雪ノ下胴であると言われています。合戦の大変だったようすがよくわかります。

『正宗公軍記』2-10:相馬義胤、田村の城取損じ候事附石川弾正、御退治の事

『正宗公軍記』2-10:相馬義胤が田村の城を取り損ねたことと、石川弾正を退治したこと

原文

相馬義胤、築山に御座候て、弥弥田村衆申合され、右より御北様へ御内談と相見え、五月十一日、義胤より御使の由申し候て、相馬の家老新館山城・中村助右衛門と申す者、三春へ参り、其夜は町に留り候。何れも下々に於て申唱へ候は、伊達衆をも相馬衆をも、三春へ入るまじき由申定められ、両人の衆、取参られ候はば、明日義胤御見廻候様に御出で、城を御取りなされ候由申廻り候。左候へば、十二日早天に、山城・助右衛門両人、城へ罷登り候。橋本刑部は切腹と存じ詰め、未明に参り、三人共に奥方へ伺候致し、御酒を控へ居り候。刑部方の者共、五人三人宛、鉄炮・鎗・武具持ち候て、城へ入り候。月斎・梅雪・右衛門は参られず候。山城・助右衛門方も、五十人計り城へ参り候へども、其道具は持たせ申さず候。相馬義胤御出の由、申し候に付いて、内へ入り候者共、方々役所着き候様に居候。梅雪、其時城へ上られ候。奥方より刑部罷出で、はやはや義胤は城の下迄召懸け候。宵より大越の人数、城の東の林の内、深き谷へ七八百程、鉄炮・鎗にて引付け置き候。然る所に、刑部、梅雪の手を取つて、伊達衆をも相馬衆をも、入れもうすまじき由仰合され、義胤を入れ御申これあるべくやと申候へども、梅雪、いやいや入れ申すまじき由申され候。兼ねて梅雪も、御見舞申し候様に、御出でなさるべく候。城を取らせ申すべき由申合させ候へども、刑部、大功の者に候間、入れ申すべき由申候はば、則ち討たるべき由、存じ入られ申すまじき由、申され候と相見え候。刑部其言に付いて、具足を着け申候。何れも城へ入り候者共、武具を着け入り申すまじき由申され、鉄炮打ち候へと申付けて、義胤城半分ほど召上げ候へども、鉄炮を打ち弓を射防ぎ候間、義胤御供の衆三十騎計り召連れられ候へども、袴がけにて候間、何事も罷りならず。殊に、義胤の馬の平首へ、鉄炮中りければ、夫より召返し、東の小口へ御出で候へども、彼の口も其通り、其上、地形悪しく候故、ならず候跡へ、馬上二百騎計り、武具にて弓・鉄炮持も召連れられ候へども、遅く候て用立たず、築山へも御帰なく、直に相馬へ引退かれ候。大越紀伊守罷出で、御立寄り候へと申し候へども、御寄なく候。新館山城・中村助右衛門城中にて、討たるべきかと存じ候て申し候は、斯様に御色立あるべき儀にこれなく候。左様に候はば、義胤御出無用の由、申すべしとて、足早に出で候所に、刑部方の者、鎗を突きかけ候へども、刑部無用の由、抱へ候て御出御無用の由、申上げらるべき由、申し候て押出し、城は堅固に持ち候。田村より白石若狭所へ、其様子申来り候間、早馬を以て大森へ申上げられ候條、夜四つ過ぎに相聞え候。則ち正宗公御早打なされ、白石若狭居城宮森へ、翌日五つ時分召着かれ、伊達信夫の人数にて、築山へ両日御働なされ、田村に人数入り候儀、計り難き由仰せられ候て、成実は十二日に白石へ早打仕り候儘、差置かれ候。両日の御供は申さず候。十六日に、小手森へ御働き候間、参るべき由仰せ下され候條、小手森へ参り候所に、城を召廻し御覧なされ、御攻めなさるべき由仰付けられ、成実は築山より助の押に差置かれ候。其外の御人数御旗本迄相出でられ、御攻めなされ候て落城仕り、悉く放火致し、今度は撫切にはこれなく、取散に仰付けられ、宮森へ打返され、翌日は田村の内大蔵の城に、田村右衛門大輔弟彦七郎と申す者居申し候。心替の衆は、数多候へども、手切れ申さず候。此彦七郎は、築山へも節々参り、三春取らせられ候様に、義胤御越の御供も、仕り候に付いて、彦七郎城へは御働なされ候。小口懸をなされ、町を引退き、空家共十計り焼払はせられ候へども、内より一騎一人も罷出でず、脇より助け候衆もこれなき條、申雲と申す田村の出家へ、前廉申合され候や、御働の所へ参らる。彼の出家を以て、月斎を頼入り、御侘言申され、召出さるべきに落居申し候へども、日暮れ候間、宮森へ打返され候。総御人数は、にしと申す所に野陣に候。次の日は、石沢と申す所に、相馬衆籠り候間、御働きなさるべき由、打出でられ候へども、田村彦七郎罷いでられ候事遅く候間、大蔵の道つかい総手備を立て、大蔵罷出でず候はば、御攻めなさるべき由、仰付けられ候所に、彦七郎罷出でられ、御目見申上げ、石沢への御先懸を致し候。石沢は田村の内にて、小地には候へども、城能く見え候。相馬の城を以て、相抱へ候間、人数も多く見え候故、近陣なさるべき由にて、其夜はにしと申す所、白石若狭抱の地に候。御在馬なさるべき由、仰付けられ候へども、然るべき家もこれなきに付いて、俄に東の山に御野陣なされ候。折節、大雪仕り、大雪仕り、野陣の衆迷惑申し候。然る所に、御築山に於て火の手見え候。大嵐候へども、物見を遣され候へば、築山引退き候て、一人も居らず候由申上げ候に付いて、石沢も引退くべき由思召し、御人数を遣され候所に、人数参らず候、先に引退き候。石川弾正居り候とうめきも引退き、弾正抱の地残なく落城、田村の内二箇所相極められ、宮森へ打返され、御在陣なされ候。
月斎・刑部少輔は、尤も梅雪・右衛門大輔、其外、相馬へ申合せ候侍、少しも表立ち候衆は、宮森へ伺候を致され、石川弾正御退治なされ、田村迄かたまり御目出度由申上げられ候。其内に、常盤伊賀も伺候を致す。右各各相談の砌、伊達を頼入るべき由、申出で候に付いて、何れも夫に同心の由聞召され、御大慶に思召され候由、御意なされ、金のし付の御腰物、伊賀に下され候。
田村月斎・梅雪・同右衛門大輔・橋本刑部少輔、宮森へ伺候致され、片倉小十郎・伊藤肥前・原田休雪三人を以て、申上げられ候は、大越紀伊守事、初めより田村へ出仕も仕らず、今度の田村逆心の企始に候。彼の人一人引籠り居り候條、彼の城を取禿せられ候様に、仕りたき由申上げられ候。御意には、尤も兼ねて大越紀伊守仕様共、具に聞召され候。別して口惜しく思召され候。併、一働にては落城仕り候儀計り難く候。左候へば、佐竹義重、安積へ近日出馬の由、聞召され候間、若し彼の地御手間を取られ、其内、義重、出馬に候はば、彼の城、巻きほごされ候事、如何に候間、御働なるまじき由、御挨拶に候。又申上げられ候は、御一働きなされ下さるべく候。尤も佐竹殿、御出必定に候はば、御近陣などは御無用に存じ奉り候由、申され候に付いて、左様に候はば、御代官を以て、御働きなさるべき由御意候て、成実本宮に居申す所に、伺候申すべき由仰下され候條、宮森へ参り候所に、御意には、田村衆、大越への働訴訟申し候。近日佐竹義重、安積表へ出馬の由、聞召され候間、其方、御代官として、大越への御働なさるべき由にて、相越すべき由仰付けられ候。拙者申上げ候は、安積筋にて、義重御出馬の由承らず候。何方より申上げられ候やと、申し候へば、御前の衆相払はれ、須賀川の須田美濃より申上げ候由、御意に候・拙者申上げ候は、存じの外に候。美濃は無二佐竹御奉公の由承及び候。扨は北方へ申寄り候やと、申上げ候へば、両度使を遣され候に、初めの筋は悪しく候て気遣ひ申候。重ねて御意候はば、此筋を以て、仰下さるべき由、申上げ候て、佐竹義重の出馬の儀も、申上げ候事、時に石川大和殿より八代と申し候山伏を、御飛脚に差越され候。其山伏に御尋ねなされ候も、御出馬の由申し候。和州よりは、其沙汰これなく候由、御意なされ候。則ち罷帰り両日支度申し候て、舟引へ罷越し、大越への働を仕り候。請持申し候所の町構引込み、二三枢計り持ち候間、此方よりも仕るべき様、これなく引上げ候。正宗公も御忍びなされ候て、御出でなされ候。然る所に、小野・鹿俣の人数、東より戦ひ候に付き、伊達衆引上げ候に付いて、城より鹿俣衆へ出合ひ申し候て、合戦仕り候て、鉄炮なり候間、総人数相返し、敵を押切り候て、方々追散らし、首三十ばかり取り引上げ候。翌日正宗公も、宮森へ御帰なされ、御人数も相返させられ候事。

語句・地名など

見舞:不幸事があったときに見舞うこと、訪問、巡回
大功:大きな手柄をたてること、大きな事業
平首:馬の首の平たい部分
四つ:今の午前10時および午後10時ころ。よつどき。
五つ:今の午前8時および午後8時ころ。いつつどき。
折節:ちょうどそのとき
物見:見張り、敵地の様子を調べること、またはその人
伺候:そば近くに控えること、そばに行くこと
無二:ふたつと無い、うらぎることのない

現代語訳

相馬義胤が月山にいるあいだ、ますます田村の衆は言い合わせて、前々より北の方へ内密に語らっていたようで、5月11日義胤から使いがやってきて、田村の家老新館山城・中村助右衛門という者が三春へ来て、その日は町に留まった。下々のものたちの間で、伊達衆も相馬衆も三春へ入らないよう定められていたのに、双方の衆が来るならば、明日義胤が見廻りのため来られ、城を取りなさるのではないかと噂が立った。
すると12日の朝早くに山城・助右衛門の2人が登城した。橋本刑部は切腹すると多い爪、未明にやってきて、3人一緒に奥方へ会いに行き、酒を控えていた。刑部の味方の者は5人3人ずつ、鉄炮・槍。武具を盛って、城へ入った。月斎・梅雪・右衛門はやってこなかった。山城・助右衛門も50人程度城へ連れてきたが、武具は持たせていなかった。相馬義胤が来ることを言ったところ、中に入った者たちは、それぞれ担当が決まっていたようであった。梅雪はそのとき登城した。奥の方から刑部がきて、はやばやと義胤は城の下までかけつけていた。宵から大越の平、城の東の林の中の深い谷へ、7,800程、鉄炮と槍を呼び、配置していた。
すると刑部は梅雪の手をとって「伊達衆も相馬衆も入れるべきでないと約束したのに、義胤を入れるとはなんということか」と言ったところ、梅雪は「いや入れたわけではない」と言った。かねてから梅雪も義胤に訪問のようにお越しください、城をお取りになるようにと内談していたけれど、刑部は功労者であったので、入れるべきと聞いたならば、すぐに討とうとするであろうと思われ言うべきでないと言ったと思われる。刑部はそう言って、具足を付けた。
城へ入った者たちはみな武具を着けてきてはいけないといい、鉄炮を打てと言いつtえ、義胤は城を半分ほど召し上げたが、鉄炮を打ち、弓を射て、防御していたので、義胤は供の者を30騎ほど連れていたが、袴姿であったので、何ごともできなかった。特に義胤の馬の首の平たいところへ鉄炮があたったので、それから引き返し、東の入り口へいらっしゃったが、その入り口はその通りで、そのうえ地形がわるかったので、何も出来ずにいたところ、その後へ騎馬武者200騎ほどが、武具をつけ、弓・鉄炮を連れてきたが、遅くきたので役に立たず、月山へも帰らず、じかに相馬へ退却された。大越紀伊が出てきて、お立ち寄りくださいと言ったが、立ち寄らなかった。
新館山城・中村助右衛門は城の中で討たれるだろうかと思って「このようになるとは思っていませんでした。もしそうならば、義胤の出馬は要らないというでしょう」というべきだと足早にでていったところ、刑部の兵が、槍を突きかけた。しかし刑部は不用であるといい、出馬は無用であると言うべきことをいって押しだして、城は固く守られた。
田村から白石若狭のところへ、そのようすを知らせてきたので、早馬で大森へ申し上げた。夜4つ過ぎに伝えられた。すぐに政宗は出陣し、白石若狭のいる宮森城へ次の日の5つ頃着かれ、伊達・信夫の兵で月山へ2日間戦闘を仕掛けられ、田村に兵を入れることはしにくいとおおせになったので、成実は12日に白石へ急いで行ったそのまま、差し置かれた。2日間の供はしなかった。16日に小手森へ戦闘を仕掛けられたので、来るように仰った。小手森へ行ったところ、城を廻りごらんになって、攻めるようにといったので、私は月山からの援軍を抑えるように配置された。そのほかの兵は、旗本衆まで出陣し、お攻めになって落城した。すべてに火を付け、今回は撫で切りではなく、ちりぢりに追い出すよう命令され、宮森へ戻られた。
翌日は田村の内大蔵という城に、田村右衛門大輔の弟彦七郎という者がいた。心変わりした衆はたくさん居たが、手切にはならなかった。この彦七郎は月山へもたびたび来て、義胤が三春を取ろうとするときにもともについてきた者だったが、その彦七郎の城へ戦闘を仕掛けた。入り口へ懸かり、町を引き倒し、空き家を10軒ほど焼き払わせたが、中から1騎1人も出てこず、脇から援軍も居なかったので、申雲という田村の僧を前もって呼んでいたのだろうか、陣屋へやってきた。この僧侶を介して、月斎を頼み、侘びを良い、呼び出されるようにきまったが、日が暮れたので、宮森へ戻られた。総勢は西というところに野陣をひいた。その次の日は石沢というところに相馬衆が籠もっているということだったので、戦闘しようと出発なされたが、田村彦七郎出てくるのが遅かったので、大蔵への道を使って総軍備えを立て、大蔵がでてこなかったなら、攻めようとご命令になった。そこへ彦七郎がやってきて、面会し、石沢への先鋒をした。石沢は田村の領内で、小さな土地ではあったが、城がよく見えた。相馬は城にこもり、兵も多く見えたので、近くに陣を惹くべきと思われ、その夜は西という白石若狭の領地に宿泊されると仰ったが、相応しい家もなかったので、急に東の山に野陣なさった。ちょうどそのとき大雪が降ってきたので、野陣の兵たちは大変苦労した。そこへ月山で火の手があがったのが見えた。大嵐であるが、斥候を送ったところ、月山から退却し、もう1人もいないと言ったので、石沢も退いただろうと思われ、兵を送ったところ、人は居らず、先に退いていた。石川弾正がいた百目木城も退却し、弾正領地の城はひとつ残らず落城し、田村領内の2箇所も手にいれ、宮森へお帰りになって、城へ入られた。
月斎と刑部はもちろん、梅雪・右衛門大輔、そのほか相馬へ傾いていた者たちも主立った人たちは宮森へやってきて、石川弾正を倒し、田村の支えまで固まったことをめでたいと申し上げた。その中に常盤伊賀もいた。この人々が相談していたとき、伊達を頼るように言ったので、みなそれに同意したことを聞き、大変お喜びになったので金熨斗付きの刀を伊賀に下賜なさった。
田村月斎・梅雪・右衛門大輔・橋本刑部は宮森へやってきて、片倉小十郎・伊東肥前・原田休雪斎の3人を介して「大越紀伊ははじめから田村へ出仕もせず、今回の裏切りの発端である。かれは1人こもっていたので、かれの城をとりあげるようにしたい」と申し上げた。政宗は大越紀伊がしたことを詳しく聞いていた。特に口惜しく思われていた。あわせて、一度の戦闘では落城させることは難しいだろう。そうであるなら、佐竹義重が安積へ近く出陣するということをお聞きになったので、もしかの領地に手円居、そのうちに義重が出てきたならば、かの城はまきほごされるだろうことはどうだろうかと思われるので、戦闘はするべきではないとお返事になった。
4人はまた「ひと働きしていただきたい、佐竹殿が出てくることはほぼ確定なので、近くに陣を張ることは無用である」と言ったので、「そうであるならば、代官を立てるのでそれに戦闘させる」と思われ、成実が本宮にいるところにそばに来るようにと仰られたので、宮森へくると、田村衆は大越への戦闘を訴えている。近く佐竹義重が安積方面へ出馬のことを聞いたので、その方に代官として大越への戦闘をしてもらいたいので、やってくるように」とご命令になった。
私は「安積方面で義重が出陣するという話は聞いていない。どこから言った話だろうか」と尋ねたら、人払いをして、須賀川の須田美濃からの報告であると言った。成実はそれは知らなかった。美濃は一心に佐竹に仕えていると聞いていた。さては北方へ言い寄ってきたのか」と申し上げたら、「2度使いを送り、初めの対応は軽く、心配だったが、重ねてきいたところ、このつてを使っていうようにと言ったところ、佐竹義重の出陣について言ってきた。そのとき石川大和昭光より八代という山伏を飛脚に遣わせてきた。その山伏に尋ねたところ御、出馬のことを言っていた。石川大和からは連絡がない」と仰せになった。直ぐに私は帰り、2日で支度をし、舟引へやってきて、大越への戦闘をした。
受け持ったところの町構えを引き込み、2,3曲輪のみを固く守ったので、こちらからもできることがなかったので、引き上げた。政宗もお忍びになって、お越しになった。そうしているところに、小野・鹿俣の兵が東から戦ってきたので、伊達衆は引き上げるので、城から鹿俣衆へ出会ったので、合戦となり、鉄炮を討ったので、総軍が押し返し、敵を押しきって、あちこちへ追い散らし、首を30ほどとり、引き上げた。翌日宮森へお帰りになり、兵もお返しになった。

感想

義胤の田村への出陣とその失敗、その後の田村への伊達の干渉について書かれています。
『正宗公軍記』はここで終わります。
一人称が「拙者」だったり、政宗に「公」を付けていたりで、『伊達日記』とも『政宗記』とは細かい語句や数の異同があります。
どの順番で書かれたかはまだわかりませんが、兵の数や首級の数などの相違を見ていると、『政宗記』より『伊達日記』より、しかし文体的には『政宗記』より…という特徴がありまして、今のところ『伊達日記』より後に書かれている『政宗記』プロトタイプなのではと思っております。
今後また考え変わるかもしれませんが、とりあえずこちらはここで終了です。

『正宗公軍記』2-9:石川弾正逆心仕り、相馬へ忠節の事

『正宗公軍記』2-9:石川弾正が相馬へ寝返ったこと

原文

田村の衆、相馬へ申合の衆も、伊達御忠節の衆も、石川弾正逆心仕り候間、正宗公御出馬なさるべき由、存ぜられ候へども、一切其沙汰これなきに付いて、月斎・刑部少輔、白石若狭を頼み、米沢へ申上げられ候は、弾正逆心仕り候間、則ち御出馬なされ、御退治をなすべきの由、存じ候所に、左様にもこれなく候。田村は、過半相馬へ申合され候へども、正宗公御出馬を気遣ひ仕り候て、手切申さず候。弾正は相馬義胤を引出し申すべき為めを以て、手切仕り候間、御出馬なし下され候様にと、申上げられ候。御意には、石川弾正手切仕り候上、則ち御出馬なさるべき儀候へば、最上御弓箭に候。何れも境目には、大身の者候へども、長井は、最上に小身者計り差置かれ候間、米沢をあけ、御出馬なされ候事、御気遣に候。其上、弾正抱の地、一箇所も取らせられず候て、一働・二働の分にて、御出馬なされ候事、如何に思召され候に付いて、御延引なされ候由、御挨拶に候。月斎・刑部申上げられ候は、左様の御底意とは、世上に於て存ぜず、一切御馬くつろぎ申さざる由、田村侍共も存候はば、残なく相馬へ相附くべく候。何方の御弓箭も、左様に御手際の御座候儀は、これなく候間、久しく御在陣は罷りなるまじく候。早く御出馬一働なされ、御入馬候様にと申上げ候。御出馬を恐しく存じ候て、今に田村の者共、手切仕らず候。斯様に候所、罷りならず候はば、我等両人の切腹疑なく候由、頻に御訴訟申さるるに付いて、左候はば、御出馬候て、一調儀なさるべき由、御意にて御陣触仰付けられ、大森へ四月十四日に御出馬なされ、五日御逗留にて、二十日に塩の松の内築館へ相移られ候。石川弾正抱の地は、築山其身の居城に候小手森の城、彼の地は、塩の松御手に入れ候砌、弾正御加増に下され候城に候。とうめきと申す城は、相馬境目にて、親摂津守居り候。小手森は、築山近所にて候間、小手森へ御働なされ候所に、相馬義胤、正宗公御出馬の由聞召し、一日前に築山へ御出で、相馬衆相抱へ候。小手森へは、石川弾正自身に籠り候。築山は相馬衆にて抱へ候。正宗公小手森の地形御覧なさるべく思召し、北より南へ御通なされ候を、内より鉄砲を打懸け候へども、召連れられ候衆には、鉄砲一つも御打たせなく、御通なされ候。其日は、何事なく打上げられ候。成実は、南筋気遣に存じ候間、二本松へ其夜罷帰り候。翌日天気然なくに候へども、築館へ伺候申し候へば、御働相止め申し候間罷帰り候。日々参り候へども、天気悪しく御働これなく候。廿五日に大森へ御引籠なされ候へば、月斎・刑部少輔承り驚き申され候て、白石若狭と我等両人頼み候て、申上げられ候は、一働申され候へども、四五日も御働なさるべき由存じ候所、天気故とは申し乍ら、一日御働き御引籠なされ候。最上境を御気遣と相見え申す由、田村の者共存じ候はば、此頃迄伊達を頼入り候者共も、心替仕るべく候間、せめて大森に御在陣なされ、田村へも長井へも、不慮の儀候はば、御早打なさるべき由思召され、大森に御在馬なされ候由、諸人存じ候様に仕りたき由、月斎・刑部申され候。両人申され候事、拠なく存じ候て、若狭同心申し、大森へ伺候致し、原田休雪・森屋守伯・伊藤肥前・片倉小十郎四人を以て、月斎・刑部申され候通り申候所、伊藤肥前申し候は、御訴訟は尤もに候へども、御存じの如く候。長井には大名一人これなく候境に候へども、小身衆計り籠り、御出馬なされ御早打と申し候ても、最上境へは、大森より百里に及び申し候間、御用に立たざる儀に候。当地に御在馬は如何に存じ候由、白石若狭申し候は、田村の様子、大方に存ぜられ候や、月斎・刑部御奉公を存詰められ候。計を以て、先づ踏静め候分に候。大森を御引籠なされ候はば、両人も頼みなく存ぜられ、存分違ひ申す儀も計り難く候由、申し候所に、肥前申し候は、田村を相抱へられたく思召し候ても、長井に急事到来申し候ては、詮議なしに候。左様に候はば、以来には田村の御抱も、罷りなるまじく候間、先本に急事これなき様に、申したき由申し候。小十郎申し候は、是にて問答入らざる事に候。御耳に相立ち御意次第に申し、然るべき由申し候て罷立ち、披露致され候所、御意には、尤も両人申す所拠なく思召し候。此度は天気故、御手際これなく候て、大森へ御引籠なされ候。尤も当地に御在陣なされ、何方へも御早打なさるべき間、月斎・刑部心安く存ずべく候由、御意を請け罷帰り、白石若狭を以て、其通り申候所に、月斎・刑部少輔満足申され候。
大森御逗留の内、高倉近辺を御覧なされず候由仰せられ、五月十一日、大森より御日帰、前田沢迄出て、堀の内迄御覧なされ、御日帰になされ候。某は御出も存ぜず、本宮にて追付き御供仕り候。
田村に於ては、内々色々の申分共に候。月斎・刑部申され候は、大森には正宗公御在馬なされ、築山には義胤御座候。兎角双方の衆入り申し候事、如何に候間、伊達衆・相馬衆共に、如何様の御用候とも、入れ申すまじき由存じ候。如何これあるべき由、梅雪・右衛門大輔へ申断られ候。其外、表立ちたる衆へ相談申され候へば、何れも然るべき由申され候間、片倉小十郎所へ、両人より其通り、内証申され候に付いて、御飛脚にても遣されず候。

語句・地名など

大身:身分の高い者、禄高の高い者
小身:身分の低い者、禄高の低い者
挨拶:挨拶、返事、返答
一切:すべて
築山:月山
手際:処理、できばえ

現代語訳

田村の衆は、相馬へ言い合わせた者も、伊達に忠節を誓った者も、石川弾正が反逆したので、月斎と刑部少輔は白石若狭を頼りに米沢へ「弾正が寝返ったので、すぐに出陣し、退治をしてほしいと思っていたのに、そうならず、田村の衆は過半数が相馬へ言い合わせていたが、政宗の出馬を心配して、手切をせずにいた。弾正は相馬義胤を引き出すために手切をしようとしたので、出馬してくださるように」と言ってきた。
石川弾正が手切をしたので、すぐに出馬しようと思っていたら、最上との戦にあった。どこも領地の境目には、重臣がおかれていたが、長井は最上との境には小身のものばかり差し置いていたので、米沢をあけ、出馬されるのは心配だと思われた。そのうえ、弾正が支配していた地を一箇所も取れずにいたので、ひとつふたつの動きで出馬するのはどうであろうかと思われたので、延期になっていたとの返事であった。
月斎と刑部は「そのようなことをお思いであったとはわからなかった。まったくお休みなく戦をしていると田村の侍たちがしっていれば、残らず相馬の味方になるでしょう。どちらの軍もそのような手際であることはないので、長く在陣することは無理でありましょう。早く出馬して戦闘をされ、こちらに来られるように、と言った。いま田村が手切をしないでいるのは、政宗の出馬を怖ろしく感じていたので、そうでないとわかったら、私たち二人は切腹させられることは間違いない、と頻りにうったえてきたので、そうであるなら、出馬して、ひと働きするべきかと思われ、出陣の命をだされ、大森へ4月14日にこられ、5日ほど逗留なさったあと、20日に塩松領内の築館に移られた。弾正の支配地は、月山という城に本人が入り、塩松を手に入れたあと、弾正に加増した小手森であった。百目木というも城は、相馬との境目なので、弾正の親である摂津守が守っていた。小手森は月山の近くであったので、小手森へ戦闘しかけたところ、相馬義胤は政宗が出陣したことを尻、1日前に月山に来て、相馬の衆が籠城していた。小手森城には石川弾正自身が籠もっていた。月山は相馬衆が籠もった。政宗は小手森の地形を見たいと思われ、北から南へお通りなされたところ、城内から鉄炮を打ちかけられたが、お連れになった衆には鉄炮を一発も撃たせず、お通りになった。その日は何ごともなく引き上げなさった。成実は、南方のことが心配であったので、二本松へその夜帰った。毎日来たけれど、天気が悪く、戦闘はなかった。25日に大森へ引き籠もりなさったので、月斎と刑部はそれを聞き驚いて白石若狭と私のふたりを介して「ひと働きとはいっtが、4,5日程度は戦なさるだろうと思っていたところ、天気のせいとはいいながら、1日動いただけで戻られるのは、最上境を心配してのことかと田村の者たちは思ったら、いま伊達を頼っている者たちも、心変わりするだろうから、せめて大森に在陣し、田村へも長井へも、想定外のことが起こったならば、すぐに出立できるように思われ、大森にいられるのだと皆が思うようにしてほしい」と月斎と刑部は言った。2人のいうことは根拠がないと思ったので、白石若狭が一緒に付いて、大森へ行き、原田休雪・森屋守伯・伊藤肥前・片倉小十郎の4人で、月斎と刑部の言っていることを伝えた。伊東肥前は「訴えは尤もであるが、御存知の通りである。長井には身分の高い家臣がいない境とはいえ、身分低い者ばかりが居り、もし出馬し、すばやく攻めたとしても最上境までは大森から100里以上かかるので、間に合わない。ここに在馬するのはどうかと思う」と言った。白石若狭は「田村の様子が大変だと思う。月斎と刑部は奉公を思い詰め、計略で、まず安心させるべきであると思う。大森から引き上げたなら、2人も頼りなく思われ、考えを返すことも計算できない」と言ったので、肥前は「田村を保護したいと思われても、長井に何かあったらしかたない。そうなったら田村の支配もどうにもならないだろうから、さきに長井に何も起こらないようにするべきだ」と言った。小十郎は「ここで話していても無駄である。政宗に知らせ、御意見の通りにしましょう」と言って政宗の前にいき、それを知らせた。
政宗は2人のいうことは根拠がないと思われた。「今回は天候のため上手くいかず、大森に籠もった。この地に在陣していたら、どちらの方面へも急いで動けるので、月斎・刑部は安心するように」と仰せになったのを聞いて戻り、白石若狭を介して、その通り言ったところ、月斎と刑部は満足した。
大森城に逗留なさった間、高倉近辺を見たことがないと仰ったので、5月11日に大森から日帰りで、前田沢まででて、堀の中までごらんになり、日帰りになった。私は出発なさったのを知らず、本宮で追い付き、お伴した。
田村のことについてはうちうちでいろいろと言っているようだった。月斎と刑部は、大森には政宗が在陣し、月山には相馬義胤がいる。とにかく双方の衆が入っているのはどうかと思い、伊達衆・相馬衆ともに、どのようなことがあったとしても、双方の兵を入れるべきではないということを思い、どうかと梅雪・右衛門大輔へ言った。そのほか、主な者たちへ相談したところ、みなそうあるべきだと言ったので、片倉小十郎のところへ2人からその通りと秘密に取り決めたので、飛脚も寄越さなかった。

感想

相馬方と伊達方に分かれる田村家中の様子、そして寝返った石川弾正について書かれています。

『正宗公軍記』2-8:会津・須賀川衆、本宮へ働き、人取橋に於て合戦の事

『正宗公軍記』2-8:会津・須賀川の者たち、本宮へ赴き、人取橋において合戦が起こったこと

原文

右の段は、石川弾正逆心の次第、田村御洞の様子書記し候。安積表の事は、四月五日の晩、大内備前、不図懸入り候て、会津衆、安積へ罷出でられ、須賀川衆と申合せ、働くの由、其聞え候に付いて、片倉小十郎、大森に居り候間、其段申遣し候所に、則ち二本松へ罷越し、信夫の侍衆、早々罷出づべき由申触れ候へば、俄故か一人も参らず候。小十郎・成実計り本宮へ罷越し候。高倉へ人数を籠めたき由申し候へども、差置き申すべきものこれなく候間、我等八丁目の家中共、二十騎余り鉄炮五十挺高倉へ差置き候。四月十七日高倉近江、本宮へ参られ候。もと、二本松御譜代にて、会津・安積の事、具に存じ候ものにて候間、明日の御働何方へ之あるべき由、尋ね申し候へば、近江申され候は、会津・須賀川衆計り参り候條、千騎には過ぎ申すまじく候。会津にも境の衆はくつろぎ申すまじく候。須賀川と田村境の衆とは、参るまじく候間、多人数にはあるまじく候。多数押通し本宮迄働あるまじく候。大方高倉への働に、これあるべき由申され候。左様に候はば、味方の人数は、敵の手扱により、観音堂へ打上げ、高倉へ助入り申すべく候。夫は見合せ次第に候。若し又、西宮への働に候はば、此方の人数は引籠り候て、出でず候はば、定めて観音堂へは、敵の備相立つべく候。下へ人数下げ候はば、尤もの事に候。左様これなく候はば、少々内より人数を出し仕懸け、敵を町口に迄引付け、合戦を始め申すべく候。左様に候はば、羽田右馬之助人数を出し、先手を仕り、跡を小十郎人数にて仕り、成実人数は、合戦に構はず、西の脇より観音堂へ押切り候様に、人数を出すべく候間、定めて敵の足並悪しくこれあるべく候。さ候はば、高倉より跡をつき切り申さるべく候。大勝は明日にこれあるべく候。高倉の城高く候間、何方への働も見ゆべく候間、高倉へ人数越し候はば、城の西に飛火を上げ申さるべく候。本宮への働に候はば、東に上げ申さるべく候由申合せ、高倉近江相返し申し候。左様に候へば、十八日に高倉の城の西に、飛火を上げ申し候間、扨は高倉への働と見え候由申し候て、観音堂下迄人数を打出し候所に、又東に飛火上げ候。扨は本宮への働に候や、人数を引返すべき由、申し候へば、きほひが廻り候間、此儘合戦仕るべき由申し候て、備を相立て候。成実・小十郎、観音堂へ打上げ候へば、段々に人数押来り候。鹿子田右衛門一騎先に抜け候て、足軽四五十人召連れ参り候。石川弥平へ申付け候へば、鹿子田を引懸け申すべく候。するすると参り候はば、我等は下へ引きさぐべく候間、弥弥夫に乗り参り候はば、本合戦仕るべき由申し候て、羽田右馬之助人数に、足軽三十余差添へ越し候所に、鉄炮打合ひ候て、そろそろと、弥平、敵味方の境を乗廻し引上げ候間、右衛門、初め一騎に候へども、後には十騎計り、足軽百余になり候て参り候間、小十郎も我等も、観音堂を下へ落し候へば、敵右馬之助者共、石川弥平者共追立て、観音堂迄参り候條、人数を放懸け候へば、敵崩れ候。右馬之助小姓に、文九郎と申し、年十六に罷成り候が、馬上をつき候所に取つて返し、文九郎を切り候て、歩の者二三人返し、首を取り候者候。右馬之助乗入れ候て、歩の者二人に物打仕り候故、敵引退き候間、文九郎首は取られず候。其二人の内、一人首を取り引退き候。人取橋より此方へ越し候人数は、備を破られ崩れ候て、人取橋を逃げ越し、如何様に仕り候や、橋向にて纏を取直し候故、又味方押返され候所に、前田沢助五郎と申し候て、正宗公御小姓にて候が、御勘当にて我等を頼居り候。此者馬を立廻し立廻し相退き候所に、横馬に引廻し候所を、鎗持一人走懸り、ふと腹を突き候と同事に、肩のもみ合に鉄炮当り、則ち打返され候。助五郎下立ち、具足を脱ぎ、内の者に預け、其身は手槍を取り歩になり、馬上一騎突落し、則ち首を取り、我等に見せ申し候。又本の観音堂へ、味方、追付けられ候所に、手坂左近・右馬之助・石川弥平三騎返合せ、夫より敵を押返し、又人取橋迄追付き首四十三討取り、味方三人討たれ、物別れ申候。
十七日の相談の如く仕り候はば、残なく討ち申すべき所に、飛火の立様違ひ候て、大勝申さざる事、今に無念に候。其後、近江に飛火の事尋ね候へば、今日働き候由、知らせ申すべき為め、西に飛火を掲げ候由申し候。其儀は、昨日相知り候事に候間、入らざる事を致し候由申し候へども、返らざる事に候。会津衆は一働申し候て、片平助右衛門老母を、人質に取り罷帰られ候由、後に承り候。大方は人質取り申すべき計りに、会津より罷出で、左様には申されず働き候事かと存ぜられ候。負軍に候へども、若松へ引籠り申され候小十郎は廿一日迄本宮に居られ候へども、会津衆引籠り候由、申来り候間、廿二日、米沢へ罷帰り候。

語句・地名など

現代語訳

前の段は、石川弾正が裏切ったようす、田村家中の様子を書き記した。
安積方面のことは、4月5日の晩、大内備前が急にかけいって、会津衆が安積へでてきて、須賀川衆と連絡し、戦闘をしかけたことが聞こえてきたとき、片倉小十郎は大森にいたので、その話を言うためにすぐに二本松へやってきて、信夫の侍大将たちに出陣するようにと言い廻ったのだが、急なことであったので、1人も来なかった。小十郎と成実だけが本宮へやってきた。高倉へ兵を集めたいと言ったが、置くべき兵もいないので、私の八丁目の家臣たちを20騎ばかり鉄炮を50挺高倉へ置いた。4月17日、高倉近江が本宮へやってきた。もともと二本松に代々仕えていたものであったので、会津や安積のことについて、詳しく知っている者であった。
明日の戦闘はどこへあるかと尋ねたところ、近江は、会津・須賀川衆のみ来たので、1000騎以上にはならないでしょう。会津にも、境目の兵はくつろいでいることはありません。須賀川と田村の境の衆は来るとは思いませんので、多人数ではないと思います。多くが押し通し、本宮まで戦闘になることはないでしょう。おおかたのところ高倉への攻撃になるだろうと言った。
層であるならば、味方の兵は敵の様子によって観音堂へ打上、高倉へ援軍するべきである。それは様子次第である。もしまた西宮への働きかけがあったならば、こちらの兵は籠もって、出ないようにしたら、きっと観音堂へは敵の備えがやってくるでしょう。下へ人数を下げるのがよいと思われます。そうでなかったなら、少し中から兵をだしてしかけ、敵を町の入り口まで引き付けて、合戦を始めるべきである。そのようであるならば、羽田右馬助兵を出し、先鋒を勤め、その後ろを小十郎の兵を起き、成実の兵は合戦にはかまわずに西の脇から観音堂へ押しきるように、兵をだすようにするので、きっと敵の足並みは悪くなることだろう。ならば、高倉から後ろを突っ切るべきでで、戦は明日なるであろう。高倉の城は高いとところにあるので、どこからへの動きも見えるだろうから、高倉へ兵を送ったならば、城の西に烽火を揚げる。本宮への動きならば、東に上げるようということを決め、高倉近江を城に返した。
すると、18日に高倉の城の西に烽火を上げたので、では高倉へのはたらきと思ったので、観音堂の下まで兵をだしたところ、また東に烽火が上がった。さては本宮への戦闘だろうか、兵を引き返すべきかと言ったところ、勢いがまわったので、このまま戦にすべきだと思い、備えを立てた。成実と小十郎は観音堂へ引き上げたところ、段々と兵が押してきた。鹿子田右衛門は1騎先にぬけてきて、足軽4,50人を連れてやってきた。石川弥平へ鹿子田を引っかけるように命じた。するするときたならば、私は下へ下がるので、其れに乗ってきたならば、本合戦にすると言った。
羽田右馬助の兵に足軽30人余りを添えてきたところ、鉄炮の打ち合いがあり、そろそろと弥平は敵味方の境目を乗り回し引き上げてきた。鹿子田右衛門ははじめ1騎であったが、のちには10騎ほど、足軽100人あまりになってやってきたので、小十郎も私も観音堂を下にしておりてきたら、敵は右馬助や石川弥平を追い立てて、観音堂までやってきたので、兵を放ったところ、敵は崩れた。右馬助の小姓に文九郎という16になる者がいたが、騎兵を突いたところ、取って返され、文九郎は切られ、徒歩の者が3,4人戻ってきて、頸を取ろうとした。右馬助は乗り入れて、徒歩の者2人に取りかかったので、敵は退き、文九郎の頸は取られずに済んだ。その2人のうち、1人は頸をとって退いた。人取橋からこちらの方へやってきた兵は、備えを破られて崩れ、人取橋を逃げて言って、どのようになったのか、橋の向かいで陣形を直し、また味方が押し返されているときに、前田沢助五郎といって、政宗の小姓だったが、勘当されて私のところに来ていたものがいた。この者は馬を立ち廻し立ち廻し退いたときに馬が倒れてしまった。そこに槍持ちが1人走りかかり、ふと腹をついたと同時に肩に鉄炮があたり、すぐに馬を打ち返された。助五郎は徒立ちになり、具足を脱いで味方に預け、本人は手槍をとって徒で騎馬を1騎突き落とし、すぐに頸を取り、私に見せた。またもとの観音堂へ味方がおいつかれたところに、手坂左近・右馬助・石川弥平の3騎がやってきて、それから敵を押し返し、また人取橋まで追い付き、頸を43討ち取り、味方は3人討たれ、物別れとなった。
17日の相談のようになっていれば、敵を残りなく討ち果たせただろうに、烽火の立ち方がちがって、大勝利できなかったのは今も無念である。その後、高倉近江に烽火のことを聞いたところ、今日働きがあると知らせるべきであると思い、西に烽火をあげたと言った。そのことは昨日わかったことであったので、不要なことをしたけれども、言っても会のないことである。
会津衆はひと戦闘をして、片平助右衛門の老婆を人質にとり、かえったと後で聞いた。
おそらく人質を取りに行くために会津から来て、層とは思わず戦闘になったかと思われた。負け戦であったけれども若松へ戻った。小十郎は21日まで本宮にいたが、会津衆は引き籠もっていると聞いたので、22日米沢へ帰った。

感想

規模は以前の者とは大きく違いますが、再びの人取橋合戦です。
『正宗公軍記』『政宗記』ではこの戦について「人取橋」と書いており、一方『成実記』ではまだ「橋」としてしか書いていません。
いつ頃から人取橋と言われるようになったのか、気になるところです。

『正宗公軍記』2-7:大内備前御訴訟相済み御目見申され候事

『正宗公軍記』2-7:大内兄弟の件が落着したこと

原文

同年三月廿三日、玉の井の合戦見候て、帰り候小十郎は、大内備前・片平助右衛門罷出でられ候を、相待たるる由にて、二本松へ罷越し候て、逗留致し候所に、四月五日の晩に、かち内弾正と申す者、大内備前甥にて候が、片倉小十郎宿へ参り候て、大内備前、今夜本宮へ参り候、明日は片平助右衛門、手切申すべき由申すに付いて、片倉小十郎同道にて、本宮へ罷越し候。備前に、六日の朝面談候所に、備前申し候には、助右衛門も御奉公仕るべき由、堅く申合せ候へども、少しの儀出来、兄弟間に罷成り候拙者に、腹切らすべしと申すに付いて、漸々相退き参り候由、申され候。総別、助右衛門、御奉公仕るまじき覚悟に候を、備前身上の為計りを以て、助右衛門御奉公と申され候や、大内参られ候上は、助右衛門も御奉公仕られ候か。又片平の地を、会津より盛替へられ候か、如何様、只今の分にては、差置かるまじく候。兄弟の分別違ひ候由、小十郎と両人の噂を申し候。大内罷出で候て、無人数なりとも、一働申さず候ては如何に候間、阿児ヶ島へ働き申すべき由申合せ、白石若狭・片倉小十郎・我等三人の人数を以て、阿児ヶ島へ働き申し候へども、内より一人も罷出でず。此方より仕るべき様これなく、引上げ候。又翌日働き申し候へども、塩の松の内に居り候石川弾正と申す者、相馬へ身持替へ、白石若狭知行の内へ手切仕り、火の手見え候間、若狭は、働の中途より帰り申され候。我等小十郎計り働き候へども、何事なく打上げ候。小十郎、八日に大森へ帰り申され候。大内備前は、米沢へ伺候仕り、御目見え申したき由申され候條、我等家中遠藤駿河と申す者差添ひ、米沢へ相登らせ申し候。
石川弾正、四月十四五日時分、白石若狭抱の西と申す城へ草を入れ、其身も罷出で、しごみ居り、朝早々、内より一両人罷出で候ものを、草にて討たれ、城中より出会ひ候所に、弾正助合ひ、内より出で候衆を追込み、城へ取付き攻め候。鉄炮頻に聞え候間、白石若狭、助合ひ候を、弾正見合せ引退き候所へ、駈付け合戦候て、若狭打勝ち、首二十計り討取り申し候。成実も、二本松にて鉄炮を承り、早打を仕り候へども、遠路故遅れ候て、罷帰り候所へ駈付け候。若狭悦び候て、宮森へ我等を召寄せ、殊の外、馳走候て罷帰り候。此石川弾正と申す者は、もと、塩の松の主久吉と申し御大名の家中にて候。大内備前と傍輩にて候。久吉、無徳に付いて、家中の者共、相談を以て追出し候。大内備前親、其頃、伊達を頼入れ、石川弾正親は、田村清顕公を頼入れ候。其以後、伊達御洞弓箭の砌、大内備前も、田村清顕を頼入れ候。御近所に居申され候間、別して御奉公仕り候所に、片平助右衛門家中と、田村右馬頭家中岩城殿御弓箭の時分、野陣に於て喧嘩御座候。右馬頭殿、家中を御成敗なされ候様にと、申上げられ候へども、御合点なきに付いて、御恨に存じ、翌年より会津・佐竹を頼入れ候て、弓箭に罷成り候。石川弾正は、相変らず田村御奉公仕り候。左様候へども、正宗公、塩の松を御取りなされ候間、石川弾正知行は、皆塩の松の内にて候。田村さへ、御名代正宗公へ相渡され、御子候はば、田村へ御越し申しなされ候様にと、御約束に候間、石川弾正も知行に付き、正宗公へ御奉公仕り候様にと、清顕公御意を以て、相付けられたる者に候。其外にも、寺坂・山城・大内・能登を始めとして四五人、塩の松の者にて、久吉家中に候。引退き田村へ御奉公仕り候者は、何れも伊達へ相附けられ候。其者共、白石若狭給主に相附けられ候。石川弾正一人直に召仕はれ候。本領共に、前々の如く返下され候事。
天正十四年霜月に、清顕公御遠行以来、三春の本城には、御北様御座なされ、御女儀様故、去乍ら万事の差引は、田村月斎・同梅雪・同右衛門大輔・橋本刑部少輔、此四人に候。其頃、正宗公御夫婦中然なく候。内々御北様御恨に思召され候。月斎・刑部少輔、縦ひ御夫婦中然なく候とも、正宗公を頼入れず候ては、田村の抱、なるまじき由分別に候。梅雪・右衛門大輔、御北様は、相馬義胤の伯母に御座候。御女儀なりとも押立て、相馬を頼入れ候はば、正宗公へ違ひ申し候とも、田村は苦しからざる由、分別致し候。上には、伊達を頼入れ候様にて、底意には、相馬へ申寄られ候。其手より月斎方、梅雪方と底意は二つに別る。上は押並べて、伊達御奉公と申す様に候。然る所に、大越紀伊守と申す者、田村一家にて、相馬義胤には従弟にて候。田村にて二番の身体に候。此者、相馬へ申合せ、内々繰仕り候。其外にも、田村中に相馬の牢人、城を持ち程の者、四五人も御座候間、皆相馬方に候。一番の大身梅雪の子息田村右馬頭と申し候て、小野の城主に候。此両人、相馬へ申合され、ある時、月斎・刑部少輔、若狭に物語申され候は、大越紀伊守、相馬へ申合せ、逆心歴然に候間、大越紀伊守を相抱へたき由申され候。其通り、米沢へ申上げられ候。然る所に、正宗公より、某所へ御書下され御用候間、使を一人上せ申すべき由、仰下され候間、則ち上せ申し候。御意には、大越紀伊守を相抱へたき由、月斎・橋本刑部申上げ候。無用の由御意なされ候へども、若し不図相抱へ候はば、田村の急時になるべき由、思召され候。又月斎かた絶え候事も如何に候。田村は二頭を引立て候様に、御持ちなさるべく候由思召し候。然候へば、紀伊守其方を以て、御奉公立を申上げ候。御油断もうさざる様に知らせ候て、然るべき由仰付けられ候。兼ねて我等家中に、内ヶ崎右馬頭と申すもの、大越紀伊守に久しく懇切に候。紀伊守より使には、大越備前と申す者、幾度も右馬頭方へ参り候條、状を越し、少し用所御座候間、大越備前を差越さるべきの由申遣し候。則ち備前参り候間、我等田村の様子相尋ね、腹蔵なく物語り申し候て、正宗公仰越され候通り、申し理るべき由存じ、備前に会い候て、田村の様子相尋ね候へば、一圓相包み候て申さず候條、大事の儀を直に申す事、気遣に存候て、右馬頭に其様子物語致させ候て、備前罷帰り候。夫より大越紀伊守、三春への出仕を相止め、誠に引籠り罷出でず候間、田村四人の年寄衆より、紀伊守へ使を相立て、如何様の儀を以て罷出でず候。存分候はば、有の儘に申さるべき由、申理られ候へば、初めは何角申候へども、頻に仔細を尋ねられ候て、後には成実より三春へ出仕候はば、相抱へらるべく候間、出仕無用の由、御知らせ候故、罷出でず候由申すに付いて、田村四人の衆より我等所へ申越され候は、大越紀伊守出仕申し候はば、相抱へらるべく候條、罷出で候事無用の由、御知らせに付いて、罷出でざるよし申し候。如何様の儀を承れ、左様に紀伊守所へ申越し候やと、申越され候條、我等挨拶には、いかで左様の儀申すべく候や、田村御洞何角六ヶ敷候間、如何様にも相勤められ候様にと存じ候。六ヶ敷事知らせ申すべき儀に之無く候う由、返答申し候。左候へば、四人の衆、紀伊守所へ申され候は、理の通り、成実へ申理り候へば、努々左様の儀申さず候由、理られ候間、出仕致し然るべき由、申され候所に、内ヶ崎右馬頭を以て、左様御知らせ候由、申さるるに付いて、重ねて我等所へ、紀伊守申候通りを承り候條、田村衆への挨拶には、右馬頭に様子承り候へば、其事は、久しく紀伊守殿へ懇切に御座候。世上に於ては、紀伊守殿、御心替り候様に申候間、左様の御存分候はば、三春の出仕御無用に候。御生害なされ候か、相抱へらるべき儀計り難きの由、自分御意見には申し候。成実より、左様には申されず候。大越備前承り違ひに之あるべき由申じ候間、其通りを田村衆へ返答申し候所に、田村の四人の衆申され候は、左様に候はば、内ヶ崎右馬頭と大越備前と相出し、対決致させ、然るべき由承り候條、尤も備前相出でられ候はば、右馬頭も差越し申すべき由返事申し候。三月初めに鬼生田と申す所へ、大越備前罷越し候間、田村より検使御座候かと尋ね候へば、御検使は参らず候由申し候間、御検使これなく候はば、右馬頭出し申すまじき由、申し候に付いて大越備前も罷帰り候。其後、田村へ拙者使を差越し、此間右馬頭出し申すべく候へども御検使を差添へられず候由承り候間、相出し申さず候。重ねて備前に検使を差添へられ、相出され然るべき由、申越し候へば、田村衆も満足申され、検使両人、備前に差添へ鬼生田へ罷出で候間、右馬頭も罷出で候。対決申し候事は、備前申し候は、其方を以て、成実御断には、三春へ出仕申すまじき由、御知らせに候と申し候。右馬頭申し候は、御存分違ひ候はば、出仕御無用の由、自分に意見申し候所に、御出仕なされず候はば、逆心御企て候と相見え候。只今にも御存分違ひ申さず候はば、三春へ御出仕なさるべく候。三春に於て、御相違はあるまじき由、申し候て帰り候。斯くの如く御洞六ヶ敷候故、田村に於て各打寄り、伊達を頼入るべく候や、如何様に仕るべき由、相談の所に、常磐伊賀と申す者申し候は、御相談に及ばず候。清顕公御存命の砌、御名代正宗公へ渡し申され候間、御思案に及び申さず候。去乍ら各御分別次第と申し候條、誰も別に申出づべき様これなく、何れも伊賀申す通り、尤もの由落居申し候。去乍ら上には伊達へ付き、内々は過半相馬へ相引け候。其仔細は、相馬に牢人格の表立ち候衆は、多分相馬衆に候。梅雪右衛門大輔、内々相馬へ申合せ候間、相馬牢人衆と申組まれ候。仙道佐竹・会津の牢人、何れも梅雪・右衛門大輔へ懇に候。其様子を、石川弾正、もと傍輩に候間、存の前に候間、当然清顕公御意を以て、正宗公へ御奉公仕り候ても、夫々身上大事に存じ、其上御北様相馬義胤の伯母にて、正宗公御夫婦間然なき故、御恨に思召し候を、弾正存じ候て相馬へ申寄り、四月七日に手切仕り候。

語句・地名など

総別:おおよそ、万事

現代語訳

同天正16年3月23日、玉の井の合戦を見て、帰った小十郎は、大内定綱と片平親綱がやってくるのを待つために二本松へやってきて、逗留していたところ、4月5日の晩に、鍛治内弾正という、大内備前の甥が、片倉小十郎の宿所にやってきて、大内定綱は今夜本宮へ来ます。明日片平親綱が手切するだろうことを言ってきたので、片倉景小十郎が付き添って本宮へやってきた。備前に6日の朝面談し、備前が言うには「助右衛門も来るようにと固く約束していたのだが、少し不都合が起き、兄弟ゲンカになり、私に切腹させようというので、ようやく退却してきたところです」と言った。
おおよそのところ、助右衛門は寝返るをすることはできないと覚悟していたのに、備前の身の上のためだけを思って、助右衛門も寝返ると言っていたのだろうか。定綱が申す以上、助右衛門も奉公するのだろうか。または片平の地を、会津から帰られるのか、どのような状態であるか、今の時点ではわからなだろう。兄弟の考えが違うことを、小十郎と2人の噂をした。
定綱は、少人数であっても、ひと働きせずにいてはどうだろうと思い、阿久ケ島へ戦闘仕掛けることを約束し、白石若狭・片倉小十郎と私3人の兵で、阿久ケ島へ戦闘をしかけたが、中から1人もでてこなかった。こちらから出来ることもなく、引き上げた。翌日また仕掛けたけれども、塩松領内にいた石川弾正という者が、相馬へ寝返り、白石若狭の領内へ戦闘を仕掛け、火の手が見えたので、若狭は戦闘の途中であったが、帰った。
私と小十郎だけで戦をしかけたが、何ごとも起こらず、引き上げた。小十郎は8日に大森へ帰った。定綱は米沢へ参上し、面会したいと言ったので、私の家臣遠藤駿河というものを付き添えさせ、米沢へ行かせた。
石川弾正は4月14,5日ごろ、白石若狭の領地、西という城へ草を入れ、自分自身もやってきて、忍んでいた。朝早々と中から2人出てきた者が草の手によって討たれ、城中からでてきたところに、弾正は助け合い、うちから出てきた者たちを追い込み、城へ取り付き、攻めた。鉄炮の音がしきりに聞こえてきたので、白石は助けようとしたところ、弾正はそれを見て退いた。そこえへ駆けつけ合戦となったが、若狭が勝ち、頸20ほどを討ち取った。
成実も二本松で鉄炮の音を聞き、急いでやってきたが、遠かったので遅れてしまい、若狭がかえってきたところへ駆けつけた。若狭は喜んで、宮森へ私を呼び、非常にもてなして帰った。
この石川弾正というのは、もと塩松の主久吉という大名の家臣で、大内定綱と同輩であった。久吉が、特がなかったため、家中の者たちは相談をして久吉を追い出した。備前の親はそのころ伊達を頼って、石川弾正の親は田村清顕を頼った。その後、伊達家の中で戦が起こったとき(中野宗時事件)大内備前も田村清顕を頼った。近くであったので、とくに奉公していたところ、片平助右衛門の家臣と、田村右馬頭の家中が岩城の戦のとき、野陣で喧嘩となった。右馬頭は定綱を成敗するようにといったが、合意が得られなかったので、恨みに思い、翌年から会津・佐竹を頼み、戦になった。石川弾正は相変わらず田村に仕えていた。しかし、政宗が塩松をお取りになったので、石川弾正の領地はみな塩松の中にあった。田村は名代を政宗に渡し、もし小友が生まれたら、田村氏を嗣がせようと約束されたので、石川弾正も領地について政宗へ仕えるようにと清顕が命令してお付けになった者である。其外にも、寺坂・山城・大内・能登を初めとして4,5人、塩松のもので、久吉の家臣であった。引き続き田村へ仕えようというものはみな伊達へつけられた。そのものたちは白石宗実のところにつけられた。石川弾正ひとりが直臣として召し抱えられた。本領も前のように戻して返された。
天正14年11月に清顕がお亡くなりになって以来、田村の本城には北の方が折られ、女性であったので、すべての差配は、田村月斎・田村梅雪・田村右衛門大輔・橋本刑部少輔の4人が行っていた。そのころ、政宗夫妻は仲がよくなかった。うちうちにそのことを北の方は恨みに思っていた。月斎と刑部少輔は、たとえ夫婦の仲が良くなくとも、政宗をたよらずには、田村の城を保つことはできないと思っていた。梅雪と右衛門大輔は、北の方は相馬義胤の伯母であるので、女性であっても盛り立てて、相馬を頼るならば、政宗に背いたとしても、田村は大丈夫だと思っていた。
表面上は伊達を頼るように見せかけ、本心では相馬へ言い寄っていた。そのため、月斎方と梅雪方と本心が2つに分かれた。表面上はみな、伊達に仕えようといっていた。そこへ大越紀伊守という者、田村の一族で、相馬義胤の従弟であった。田村では2番目に力を持っていたものであった。この者は相馬と話し合い、内密に操っていた。その他にも田村領には相馬の浪人で、を持つほどの人が4,5人もおり、みなかれらは相馬方であった。1番の重臣は梅雪の子で、田村右馬頭といって、小野の城主であった。この2人が相馬と言い合わせて、あるとき、月斎と刑部少輔が若狭に行ったところによると、大越紀伊守は相馬へ言い合わせ、寝返ろうとしているのは歴然なので、大越紀伊守を生け捕りにしたいと言った。その通り米沢へ申し上げた。そこへ、政宗から、私のところへ書状が来て用事があるというので、使いを1人寄越すようにと仰せになったので、すぐに送った。政宗は、大越紀伊を捕らえたいと月斎と橋本刑部が言ったのは、無用のことであると思うが、もし意図せず捕らえたならば、田村の危機になるだろうとお思いになった。また月斎の味方が居なくなったのもどうか。田村は2人の頭を引き立てているのでなりたっているとお思いであった。なので、紀伊守を使って奉公している。油断せぬようにとしらせ、そのように仰せ付けられた。
かねてから、私の家臣の中に、内ヶ崎右馬頭という者が、大越紀伊と長く親しくしていた。紀伊守から使いには大越備前という者が何度も右馬頭のところへ来ていたので、書状をおくり、少し用があるので、大越備前を呼んでこいと言い遣わした。直ぐに大越備前がやってきたので、私は田村の様子を尋ね、洗いざらい話したところ、政宗の言ってこられたとおり、断ろうとしていると思い、備前にあって、田村の様子を尋ねたところ、すべて包み隠してなにもいわなかった。だいじなことを直に話すことを、心配したのかと、右馬頭にその様子をかたらせたところ、備前は帰った。
それから大越紀伊は三春へ来るのを止め、城に引き籠もり、出てこなくなったので、田村の4人の家老衆から紀伊へ使いを立て、どのようなことがあってでてこないのか、思うところがあるならば、ありのままに言うべきだと言ったところ、はじめは何かといっていたが、しきりに詳細を尋ねられて、あとには成実が三春にやってきたら、捕らえられるので、出仕無用であるとしらせたので、出てこない様子を言った。
田村の4人の衆から私のところへ「大越紀伊が出仕したならば、捕らえられるから、行くことは無用であると知らせがきたので、やってこない理由を言った。どのようなことを聞き、そのように紀伊のところへ遣わしたのだろうか、と言ってきたので、私たちは「どうしてそのようなことをいうだろうか。田村の家中は何かと難しい状態であるので、どのようにも勤められるようにと思う。難しいことを知らるべきとは思っていない」と返答した。すると、4人の衆は紀伊へ「言っているとおり、成実のところへ言って断ったならば、ゆめゆめそのようなことは言わないと断ったので、出仕するべきである」と言ったところ、内ヶ崎右馬頭を介してそのように知らせたことをいうと、再び私のところへ、紀伊が言ったとおりのことを聞いた。田村への連絡には、右馬頭に様子を聞いたので、そのことは長く紀伊と親しくしている。世間に於いては紀伊は心変わりしたかのようにいわれているが、そのように思われるのであれば、三春の出仕は必要ない。殺されるか、捕らえられるかわからないということを私の意見として言った。成実からはそは言わなかった。大越備前は之を聞き、間違っていると思ったので、そのとおりを田村衆へ返答したところ、田村の4人の衆は「層であるのなら、内ヶ崎右馬頭と大越備前を連れてきて、対決さるのがよいのではないか」と聞いたので、もっとも、備前が出てきたならば、右馬頭も送られてくるだろうと返事した。3月初めに鬼生田と言うところへ、大越備前はやってきた。田村から検分の者が来たのかと聞いたところ、検分の者は居ないと言ったので、検分の者がいないのであれば、右馬頭を出すことはないというと、大越備前も帰った。
その後、田村へ私の使者を送り、このまえ右馬頭を出すべきであるといったが、検分の者が付き添っていなかったと聞いたので、出さなかった。再び備前に検分の者を添えて、出されるべきであると言って使わしたら、田村衆も満足し、検使が2人備前に付き添い鬼生田へやってきたので、右馬頭もやってきた。
対決することは、備前が言うには、その方を介して、成実が言ってきたのは、三春へ出仕するなと言うことを知らせに来たと言った。右馬頭は、思っておられるのと違うので、出仕むようであると私に言ってきたところ、出仕なされないのであれば、裏切りを企てているとおもわれたのだろう。いまでも思っておられることが違うのであれば、三春へ出仕するべきである。三春において、間違いはないということを言って、帰った。
このように、家中は難しいため、田村においてそれぞれがいいあって、伊達を頼むべきか、どのようにするべきか話し合っているところに、常盤伊賀という者は相談しなくていいと言った。清顕が生きていた頃、名代は政宗にお渡しになったので、考えることはない。しかしながら、それぞれ道理次第と言ったので、誰も取り立てて言い出すことなく、いずれも伊賀の言うとおり、もっともであると落着した。しかしながら、表面上は伊達につき、内心は半分以上田村へ引き付けられていた。その詳細は、相馬に牢人の表立っている者は多くは相馬衆であった。梅雪・右衛門大輔はうちうちに相馬へ言い合わせているので、相馬の牢人舅言い組んでいた。仙道・佐竹・会津の牢人は、いずれも梅雪・右衛門大輔と親しくしていた。その様子を、石川弾正はもと同僚であったので、思う前に当然清顕の意志で政宗へ仕えるとしても、それぞれ身上を大事に思い、そのうえ北の方は相馬義胤の伯母にて政宗夫妻が仲良くなかったので、恨みに思っていらっしゃるのを、弾正は知って、相馬へ言い寄り、4月7日に手切した。

感想

大内定綱・片平親綱の内応が落着したこと・清顕亡き後の田村家の内情について書かれています。
大内・片平と田村との確執など、いろいろな事情が入り乱れていたことがわかります。

『正宗公軍記』2-6:玉の井へ敵地より草を入れ候事

『正宗公軍記』2-6:玉の井へ敵地から草を入れたこと

原文

天正十六年三月十二三日の頃、成実抱の地、玉の井と申す所に、高玉より山際に付いて、西原と申して四五里、玉の井より隔て候所へ、はい草を越し候所に、玉の井の者共、兵儀なく遠追ひ候て、罷出で候を見申し候間、押切を置き、討取り申すべきたくみ仕り、三月三日*1に、玉の井近所高玉への山際に、御座候矢沢と申す所へ、草を仕るべき由相談に候。其地までは、大内備前・助右衛門も御奉公には究り候へども、味方への手切は申されざる時に候間、片平・阿古ケ島の人数、高玉へ廿二日の晩に相詰め候。兼ねて敵地に申合せ候て、草入れ候はば、告げ申すべき由申合せ、差置き候もの、廿二日の晩、本宮へ参り候て、今夜玉の井へ草入れ候由、告げ申し候に付いて、我等も罷出で、本宮・玉の井の人数を以て、廿二日の朝、草さがしと申し候所に、草も参らず候間、偽を申し候やと申し候て、引籠り申し候所に、昼ばひに二三十人、玉の井近所迄参り候間、出合せ二三十人の者引上げ候間、台渡戸と申す所にて追付き合戦仕り候。前廉、遠山を見申し候間、矢沢の小森の蔭に、人数二百程隠し置き、そろそろと退口になり候。玉の井の者共、敵の足並悪しき由存じ候て、強く懸り候間、敵、崩れ候て足並を出し退き候。押切の者共、待兼ね候て、早く出で候間、押切らず候へども、味方崩れ合戦始まり候。川迄押付けられ候て、二三人討たれ候。味方、川にて相返し候所に、高玉太郎右衛門、敵味方の間に、馬を横に乗り候間、志賀三之介と申す者、我等歩小姓、兼ねて鉄炮を能く打ち申す者に候。川柳に鉄炮打懸け、相待ち申す所へ、太郎右衛門、小き川一つ隔てて、横に馬乗通し候所を、二つ玉にて打ち候間、一つの玉は馬の眉の揉合に当り、一つは太郎右衛門臑に当る。則ち馬を打返し候。夫を競にて懸り候間、敵も則ち引退き候。太田主膳と申し候て、大切の者に候。殿を仕り引退き候間、敵も崩は申さず候。小坂を乗上げ候を、又三之助、上矢に後の輪を打懸け、二つ玉にていぬこ所を打出し、主膳、うつむきになり、其身小旗を抜き、弟采女にささせ、我等必ず崩るべく候間、其身相違なく、主膳に成替り、殿を仕り、物別させ候へと申付け、引退き候て、頓て死去申し候。其草調儀は、高玉太郎右衛門・太田主膳両人、物主にて入れ候草にて候間、両人引退き候と、則ち崩れ候。追討に仕り、首百五十三討取り申し候。大勢打ち申すべく候へども、山間にて地形悪しく候間、散々に逃げ申し候條、少し討ち候。其夜は、宿へ罷帰らざる候者共これある由、後に承り候。右の者共、鼻をかき塩漬に致し、米沢へ上げ申し候。

語句・地名など

押切:おしきること、まぐさで作った仕切り
昼這:昼に送る草の者
前廉:まえかど、前の方へ
足並:行列のまとまり具合
揉合:意味不明。眉の場所?

現代語訳

天正16年3月12,3日の頃、成実が抱えている領地、玉の井というところに、高玉からやまぎわにそって、玉の井から4,5離れている西原というところへ、這草を送ったところ、玉の井の者たちは小競り合いなく遠くから追って、やってきたのをみたので、仕切りを置いて、討ち取ろうという企みがあって、3月3日に玉の井に近い高玉への山の際にある矢沢というところに、草の者を送るべきか相談した。その地までは大内定綱・片平助右衛門も寝返りするように決まっていたが、味方への手切はできないでいたので、片平・阿久ケ島の軍勢、は22日の夜に高玉に集まった。
以前から敵地に言い合わせて、草の者を送っていたので、告げるべきであるといい、差し置いた者が22日の晩、本宮へ来て、今夜玉の井へ草を入れたことを告げたので、私も出発して、本宮・玉の井の手勢を連れて、22日の朝、草さがしをしていたところ、草も来なかったので、嘘の情報だったのだろうかと飯、引きこもっていたところ、昼這に2,30人、玉の井の近くまで来たので、出会って、2,30人の者が引き上げた。すると台瀬戸というところで追い付き、合戦となった。
前の方へ遠くに山が見えたので、矢沢の小森の陰に、200人ほどの兵を置き、そろそろと引き上げることになった。玉の井の者たちは敵の足並みが悪いことを知り、強くやりかかったので、敵は崩れ、並んで退いた。押切の者たちは待ちかねて早くでてしまったので、押しきらなかったが、味方が崩れ合戦が始まった。川まで押しつけられて、2,3人討たれた。
味方は川で勢いをかえしていたところ、高玉太郎右衛門は敵味方の間に、馬を横から乗りながら、私の徒小姓の志賀三之助という者が、かねてから鉄炮の盟主であった。川柳に鉄炮を打ちかけ、待っているところへ、太郎右衛門は小川をひとつ隔て、横に馬を乗り回しているところをふたつの玉で討った。ひとつの玉は馬の眉のもみ合いにあたり、ひとつは太郎右衛門の臑に中る。すぐに馬を返した。それを競って取りかかったので、時計も急いで退却した。
太田主膳という、大変軍功のある者が殿を引き受け、退却していたので、敵は崩れなかった。小さな坂を乗り上げたのを、三之助がまた上の矢のうしろの輪をうち、ふたつ目の玉でいぬこところをうち、主膳はうつむきになり、その旗を抜き、弟の采女にささせ、私はきっと崩れるので、おまえは間違いなく主膳に代わってしんがりを勤め、何もなく終わらせよと言いつけ、引き上げたが、やがて死んだ。
この草調儀は高玉太郎右衛門・太田主膳の2人が指示していれた草であったので、2人が退いたところ、すぐに崩れた。追い討ちになり、頸153を討ち取ったので、大勢討ちとれると思ったが、山間であり、足下が悪かったので、ちりぢりになって逃げたので、少ししか討つことができなかった。その夜は宿に帰ることができなかった者たちが多かったと後になって聞いた。この者たちは鼻を切って塩漬けにし、米沢へお送りした。

感想

玉の井での競り合いについてかかれています。
敵ながら、高玉太郎右衛門や太田主膳の戦いぶりを書き残すところが成実らしいと言えます。

*1:廿の字脱カ

『正宗公軍記』2-5:大内備前、御下へ参りたく御訴訟申上げ候事附同人苗代田へ再乱の事

『正宗公軍記』2-5:大内備前、政宗の配下になりたいと訴えてきたことと、苗代田への再びの襲撃のこと

原文

天正十五年、最上・大崎は御弓箭に候へども、安積表は先づ御無事の分にて、何事もこれなく候間、苗代田・太田・荒井三箇所は、成実知行致し候。敵地近く候へども、御無事に候間、何れも百姓共を返し在付け候。苗代田は阿児が島・高玉敵地にて、近所に候間、古城へ百姓共集め差置き候間、田地を仕り候。大内備前、我等所へ申され候は、不慮の儀を以て、正宗公御意に背き候て、斯くの如きの身上に罷成り候。小浜を罷退き候時分、会津三人の宿老衆、異見申され候は、何とも塩の松の抱なり難きに、其上正宗公、岩津野の地を召廻られ、地形を御覧なされ候由承り候、定めて御攻めなされ候か。近陣なさるべく候由、思めされ候と相見え申し候。左様に候はば、近陣候てはやはや二本松への通路なり難く候。尤も取られ候ては、小浜を引退き候事なるまじく候間、会津宿老松本図書助跡絶え候。此知行、明地に候間、下され候様にと申し候て、会津の宿老に仕るべき由申され候條、罷退き候所に、知行の事は申すに及ばず、御扶持方なりとも下されず、餓死に及び候体に御座候間、正宗公御下へ、不図伺候致したく候。少々御知行をも下され、召仕はれ候様にと、成実を頼み入れたく候。去乍ら御意に背き、斯様申上げ候とも、御耳にも入るまじく存じ候間、某弟片平助右衛門御奉公仕り候様に、申すべく候間、夫を以て、某をも御赦免なされ候様にと、申され候に付いて、片倉小十郎を以て、拙者申上げ候趣は、大内備前儀は、召出され然るべく候。其仔細は、清顕公御遠行此方、田村無主に候間、内々区々の様に承及び候。大内備前、本意を仕りたき由存じ候て、弓箭の物主にも罷成り候はば、如何に存じ候。其上、片平の地は、高玉・阿児が島よりは、南にて御座候間、片平助右衛門御奉公に於ては、右の両地は持ち兼ね、会津へ引退き申すべく候。左様候へば、高倉・福原・郡山は、御味方の儀に候間、御弓箭なされ候とも、御彼って一段能く御座候。備前に御知行を下され、召出され、然るべき由申上げ候へば、御意には、大内口惜しく思召され候へども、去年輝宗公、御果なされ候砌、佐竹・会津・岩城御相談を以て、本宮へも御働なされ候。此御意趣、御無念に思召され候間、御再乱なさるべく候由思召し候條、尤も片平御奉公に於ては、大内事、御赦免なさるべく候條、具に申合すべき由御意に候。右使仕り候者を以て、大内備前へ、追て早々申越さるべく候由申遣し候。斯様の儀、白石若狭へ知らせ申さず候ては、以来の恨を請候儀、如何に存じ候とて、若狭へ物語申し候へば、若狭、一段然るべく候。塩の松百姓、大内備前譜代に候間、万事気遣申し候。御下へ参り候へば、大慶の由申し候間、拙者も左様に存じ候て、米沢へ申上げ候由申し候。然る所に、大内備前より申し候は、彼の一儀洩れ候事遺憾候。只今会津に於て、其隠なく申廻り候。此分に候はば、切腹仕る儀も計り難き由申越し候。拙者挨拶申し候は、別して他言申さず候。白石若狭、只今は小浜に居られ候間、其方御奉公の品、彼方へ申さず候ては、取成ならず候間、白石若狭に物語り申し候。若狭、其口へも物語り申され候由と存じ候由申越し候。其後白石若狭、我等に申され候は、大内備前、我等を頼み罷出でたき由申され候由、若狭物語に候間、一段然るべく候。罷出でられ候へば、御為に然るべき由挨拶申し候。白石若狭分別は、大内備前は、覚の者に候。田村間近く候間、数年佐竹・会津御加勢なく、自分に弓箭を取候事、度々合戦候て、勝ち候事、正宗公も御存じ候間、若し塩の松を返下され候儀も、計り難く候間、若狭指南を以て、御奉公申され候か、左様に之なく候はば、会津に於て切腹申され候様にと存ぜられ、告げ申され候由見え候。夫故其年中は、大内罷出で候事相留め候事、其年の押詰に、大内備前気遣仕り、会津を御暇申請け、片平の城へ罷越され候。
天正十六年戊子二月十二日、片平・阿古ヶ島・高玉三箇所の人数を以て、大内備前、苗代田へ未明に押懸け、古城に居り候百姓共、百人計り打果し、本内主水と申す者、物主に差置かれ候を、切腹致させ、放火再乱申され候間、太田・荒井の者共も、又玉の井へ引籠り候。同二月末、大内備前、成実所へ申され候は、去年の申合せ、巷説にて切腹に及び申すべき体に候間、迷惑に存じ候て、会津への申分に、御領地へ手切仕り候。此上も免許申し候て、米沢への御奉公なされくれ候様にと、度々申され候へば、拙者挨拶には、何方へも手切申されず、成実知行所へ手切申され、本内主水に切腹致せられ候間、成実申繕に罷成るまじく候。誰ぞ頼み申され然るべき由申候へば、右より使は、本内主水親類の者仕り候。彼の好身共、玉の井に差置き、境目の彼の者共、我等へ訴訟申し候は、玉の井の百姓共、二本松右京殿譜代の者に候間、草を入れ申すにも、告げ申すべしと気遣申し候。其上片平助右衛門御奉公申され候へば、一廉の事に候。阿古が島・高玉も持ち兼ね申すべく候間、大内備前兄弟御馳走申し、然るべき由申付けて、重ねて米沢へ、小十郎を以て申上げ候所、御意には、苗代田打散らし候事、口惜しく思召され候へども、片平助右衛門まで、御奉公仕るべき由申候間、召出さるべく候。若し片平助右衛門御奉公仕らず候はば、大内計り召し出さるまじき由、御意候條、其通り申遣し候所に、助右衛門御奉公落居申候て、近所の村四五箇所望書立て越し申し候間、米沢へ申上げ候へば、大内備前には、保原を下され、助右衛門には望みの所御印判下され、小十郎越し申され候間差し越し候。其後片平助右衛門もうさるるに、瀬上丹後御勘当申し候へども、某婿に致し、名代渡し申すべき由約束仕り候條、御赦免なされ候様にと申され候。其通り申上げ候へば、御意には中野常隆親類迄も、口惜しく思召され候。其上、眼前の孫にて、召出さるまじく候由仰せられ候。其通申越し候へば、片平助右衛門申され候は、左様に候はば、御奉公仕るべく候。御印判戴き候も、上げ置き申すべき由申され候に付いて、二十日計りも事延び、漸々瀬上丹後事、御前相済み、片倉小十郎も二本松へ罷越し、備前・助右衛門罷出で候を、相待ち申すべき由、我等に申合せ候。

語句・地名など

分別:推量、物事をわきまえること

現代語訳

天正15年、最上と大崎とは戦になっていたが、安積方面はおおよそ平穏であり、何ごともなかったので、苗代田・太田・荒井の3箇所は成実が知行していた。敵地に近かったが、何ごともなかったので、みな百姓たちを返し、戻らせた。苗代田は阿久ケ島・高玉が敵地で、近くにあったので、古い城に百姓たちを集め、置いていたので、田を作らせていた。
大内備前定綱が私のところへ「思わぬことで政宗の命令に背き、このような身の上になりましてございます。小浜を退いたときに、会津の3人の家老衆は、なんとも塩松を抑えることは難しい。そのうえ岩角の地をまわり、地形をごらんになったと聞く。きっと攻めるだろう。近くに陣を惹こうと思っていると思うと言った。そうであるならば、近くに陣を惹いて、早々と二本松への道は通りにくくなります。尤も取られたなら、小浜から退くことは出来ないでしょうから、会津宿老の松本図書助の跡継ぎが絶えて、空地になっていたので、これをくだされ、会津の宿老になるようにと言われたので、退いたというのに、知行のことはもちろん、扶持もいただけず、餓死しそうな様子でございます。なので、政宗の配下で、御側近くお仕えしたいと思う。少々領地をくださり、仕えさせてくださいますようにと、成実を頼りたい。しかしながら、命令に背き、このようにもうしあげても、お耳にはいらないだろうと思いますので、私の弟片平助右衛門もお仕えするように致しますので、それでどうか私をお許しくださいますように」と言ってきたので、片倉小十郎を介して、私は「大内備前のことは、家臣にする方がいいと思います。どうしてかというと、田村清顕がお亡くなりになって以降、田村は主がいない状態であり、内部はバラバラのようになっていると聞きました。大内備前は心から仕えたいと思っていると思い、戦の侍大将にもなるならば、どうでしょうか。そのうえ、片平の地は高玉・阿久ケ島よりは南ですが、片平助右衛門がこちらに仕えるのであれば、このふたつの地は保ちかねて会津へ退却するのではないだろうか。そうなれば、高倉・福原・郡山は味方であるので、戦になったとしても、一段よくなるでしょう。備前に領地を与え、家臣とするべきです」と言った。すると、政宗は内心では大内のことを口惜しく思われていたが、去年輝宗公がお亡くなりになったとき、佐竹・会津・岩城が相談して、本宮へ戦をしかけられた。このことを大変無念に思っているだろうから、再び戦がおこるであろうと思われていた。使いの者にこの通り伝え、大内定綱にすぐにこちらへくるようにといい遣わした。このことは、白石若狭へ知らさなかったら、その後恨みを受けるのではないかと思ったので、若狭にこのことを話したところ、若狭はこの件は層であるべきでしょう、塩松の百姓は大内備前に代々つかえていたので、すべてのことについて心配していた。定綱が政宗の家臣となるなら、大喜びであると言ったので、私もそう思い、米沢へ申し上げたことを言った。
そうしているところに、大内備前から、この寝返りのことが噂になっており、大変残念である。いま会津においてすべてがばれている。それが正しいのなら、切腹させられることもあるかも知れないと言ってきた。私は誰にも言っていないと返事をした。白石若狭はいま小浜を収めているので、定綱が寝返ることについて、白石若狭に伝えなくては無理であったので、白石若狭に言った。若狭はそちらへも話したのだと思うと言って送った。その後、白石若狭が私に言ったところによると、大内備前が私を頼りこちらへ来たいといったので若狭は話したので、その件はそうであったのでしょう。こちらへやってきたら、無駄になるであろうと言ってきた。若狭の考えとしては、大内備前は頭の良い者である。田村の近くにあるので、数年佐竹や会津の加勢なく、自身でいくさのしており、たびたび合戦をして勝っているのは、政宗も御存知のと折りである。なので、もし塩松をお返しなされることもあるかもしれないので、若狭の指示でお仕えするのか。そうでないとしたら、会津にて切腹させられるだろうと思い、告げたということのようだった。そのため、その年のうちは大内定綱は移っていることは出来なかったので、その年の年末に、定綱は心配して、会津へ暇をもらい、片平の城へ移った。
天正16年2月12日、片平・阿久ケ島・高玉の3箇所の兵で、定綱は未明に苗代田へ押しかけ、古城にいた百姓たちを100人ほど討ち果たし、大将として差し置かれていた本内主水という者を切腹させ、放火し再び戦となったので、太田・荒井のものたちも、また玉の井へ引きこもった。同じ2月末、定綱は「去年のお約束は、噂になってしまったので、切腹になりそうになったので大変だと思い、会津への言い訳にあなたの領地に戦闘をしかけました。どうかお許しいただいて、米沢にお仕え出来るようにお願いしますと何度も私のところにいってきたので、私は「他の所でなく、私の領地へ戦闘を仕掛け、本内主水に切腹させたので、私はもうとりもちをすることはない。だれか他の人間を頼むように」と返した。
すると、使いとして、本内主水の親類の者がやってきた。かれの親しいものたちは、玉の井に於いて、境目のかの者たちが私に「玉の井の百姓たちは、二本松右京どのに代々仕えていたものであるので、草をいれるにも、密告されるかと心配である。そのうえ、片平助右衛門が寝返ると言うことなら、それはすごいことです。阿久ケ島・高玉も保ちかねるだろうから、大内備前兄弟の面倒を見てやるべきです」とのことを言ってきた。
再び米沢へ小十郎を介して申し上げたところ、苗代田をうち散らしたことは口惜しいと思われたが、片平助右衛門まで内応するのであれば、召し抱えるべきで、もし片平助右衛門がネガらないのであれば、定綱だけ召し抱えはしないとお思いになられたので、その通り言って送ったところ、助右衛門は納得したので、近くの村4,5箇所を望むという場所について列挙して送ってきたので、米沢へ申し上げると、定綱には保原、助右衛門には望みの所を与えると印判状を送られ、小十郎が送ってきたので、私が送った。その後片平助右衛門が言うには、瀬上丹後がいま勘当されているが、私の婿にし、跡継ぎにするよう約束していますので、お許しになってくださいますようと言った。その通り政宗に申し上げると、中野常隆の親類までも腹立たしいと思われ、そのうえ、丹後は孫であるので、召し抱えることはできないと仰った。その通り伝えたところ、片平助右衛門はそうしてくださるなら、お仕えする。印判いただいたけれども、これはいったん置いておくと言ってきたので、20日ほど伸びて、ようやく瀬上丹後のことが片付いた。片倉景綱も二本松へやってきて、備前と助右衛門がやってくるのを待とうと私に約束した。

感想

会津でも冷遇され、逃げ場所のなくなった大内定綱が伊達を頼ってきたところです。成実も景綱も大内定綱・片平親綱兄弟のために尽力しているところ、なんと会津への言い訳とは言いながら、成実の領地に攻め入りました。
親綱の治めている片平は非常に重要な土地であったため、政宗も片平親綱も内応するのでなければという条件を付けています。親綱の方は親綱の方で政宗と堂々渡り合っており、面白いところです。