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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

総合目次

【ご挨拶】

はじめまして。こちらは[sd-script](「エスディー・スクリプト」)です。
管理人は(けい)と申します。
戦国〜江戸初期の伊達家家臣&ライター武将【伊達成実】(だて・しげざね)に関する趣味の考察ブログです。
「史実」の伊達成実に関するあれこれ(主にかれの著作について)の私的覚え書きと整理が目的です。
創作におけるものについては「感想」カテゴリで触れる以外はありません。

素人がやっております単なる趣味のサイトです。
考察・簡単な現代語訳を上げる予定ですが、読めば一目瞭然ですが間違ってる酷い訳です。間違いに気がついたらあとから勝手に書き直します。
計画的なものではなく、気が向いたとき&ところからフラフラテキトーにやっていきます。真面目な研究目的ではなく、ミーハーなファン心故のサイトです。
文法読解など、間違ってるところ多数なので、何かの参考にはされない方がいいと思われます。
ご意見・間違いご指摘・ツッコミ等は大歓迎ですので、コメント等でお気軽によろしくお願いいたします。間違いなどに気づいた場合、過去の記事もことわりなく書き直したりもします。

注:このサイトは御子孫各位・特定市町村・各種研究機関・出版社・著作権者様方…etcとは一切関係ございません。完全にただのいちファンが趣味でしていることです。
営業妨害・名誉毀損・著作権侵害などの意図はございません。
こちら記載の記事に関連して何か不都合な点がございましたら、記事下部にありますコメント欄に書き込みお願いいたします。他者には公開されません。

【更新履歴】NEW!!

  • 20260607:旅行記&写真に2026初夏米沢福島白石をupしました。
  • 20260509:ようやく2年間のうつ状態から戻って参りました。考察&雑記に実盛de号泣事件の記事比較をupしました。ゆるゆると戻ってきたいと思います。
  • 20260101:あけましておめでとうございます! まだうつ状態から回復できておらず、なかなか更新もままならない状況です。ですが、徐々に復帰していけたらと思っておりますのでどうぞよろしくお願いいたします。
  • 20250912:6月からうつ状態になってへろへろなので、しばらく更新はありません。申し訳ありません。
  • 20250324:旅行記&写真に2025春高野山をupしました。
  • 20250105:旅行記&写真に2024秋亘理仙台をupしました。

これより前の更新履歴はこちら

おしらせ

  • 更新頻度が気まぐれかつ唐突ですが、ご了承下さい。
  • 今まで『成実記』で分類しておりました記事を書名である『伊達日記』に変更しました。(『成実記』と各『伊達日記』にも細かな違いがあるため、誤解を招かないために。合わせて参考にした書名を記すことにしました。)
  • 『政宗記』記載の地名の注は、合併後地名では(私に)分かりづらいこともあり、大体伊達史料集そのままにしてあります。

【総合目次】

原文:

その他の政宗逸話記事:

2026初夏米沢福島白石

ここ数年コロナと祖母の介護、うつ状態のせいでろくに東北いけてなかったのですが、伊達オタ友のCさんが「わたしもまだ米沢いったことないんですよ〜車出しますよ!」と言ってくださったので、わたしもハマってから14年にもなるというのに、まだ米沢に行ったことなかったのでご一緒させてもらうことになりました!! 

ありがとうございます!!

一日目

いざいざ東北へ! 

はじめての山形新幹線(山形自体は二度目です、そのときは鶴岡行った)。

山形新幹線って福島で分かれるんですね…知らなかった。

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まず、山形はラーメン王国ということで、辛味噌ラーメンで腹ごしらえ。

そして駅から近かったので、Cさんリクエストのマルマゴの梵天丸茄子漬けを買いに生きました! マルマゴって孫兵衛さんという人が始められたそうです。

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そして今回の目的地。資福寺跡に行きました!!

とりあえず、みんなが載っけてるあの看板。思ったより全部歩いて行けた。
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まず、脇に輝宗の墓の前で切腹して殉死したという、遠藤山城守基信の墓。
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輝宗の墓です。

輝宗は事件のあと寿徳寺で荼毘に付されあと、資福寺で法要を営んだとあります。f:id:queyfuku:20260607130637j:image

九代政宗の室の墓。
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九代大膳大夫政宗の墓。
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墓所の入り口には大きな木が二本あったのですが、腐敗により今年の4月に切ってしまったのだとか。この太さだとかなりの大きさの木だっただろうと思わせられます。

夏刈は大きな木が多かった。
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うろうろしていたら、このあたりの掃除や手入れをしているというおじさまに出会い、いろいろなお話を聞かせていただきました(さっきの木の話とか)。

資福寺〜夏刈を含む一帯が寺の領地として与えられていたこと、米沢が上杉領になっても扶持をもらって寺領を守っていた一族がいたこと、高畠町がだしている政宗のパンフまでもらってしまい、ありがたいかぎりです(他の場所では見つけられなかった)。

来る前は米沢は政宗のものなんてなにもないよ! と言われておりましたが、いろいろあって本当に来てよかった。

 

そして、資福寺跡。本堂跡ってことなんでしょうね。

まわりは立派な杉がたくさんありました。
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そして夏刈館跡へ。

少し前までは館の形がわかる畦地になっていたらしいのですが、今はもう普通の田んぼのど真ん中でした。

 

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ぐるっと見回して…

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ここらへんを梵天丸たちが…(感無量)。

 

どの山かさっぱりわからねど、この時期でも雪がまだ残っているのが見える。

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そしてそばにある夏刈熊野神社へ。
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至るところにある湯殿山の石碑に、ここらへん(伊達の?)での湯殿山への信仰を感じます。

成島八幡にもあった。

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それから成島八幡宮へ。

小十郎景綱のお父さんがいたとされている神社です。f:id:queyfuku:20260607130702j:image
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政宗に愛された神社です!!!!(強調)

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それから最後に館山城行ってきました。

時間が無いのとクマが怖くて上ることはできなかったのですが、城ファンに愛されているようすでした。

知識が無いので、正しい米沢城がどちらなのかは判断できません〜💦
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そして政宗が骨折のとき湯を取り寄せて静養したと言われる小野川温泉へ。

もともと小野小町ゆかりの温泉で有名なところだそうです。

『うた恋い。』ファンとしても感慨深いです。
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二日目

朝起きてすぐ、まだ行ってなかった米沢城跡こと上杉神社に行ってきました。

前田慶次郎と成実の命日同じだって今知りましたよ…。

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本当に米沢は上杉天国でした…。

そんな中にあったこれ!!!! みんながアップしてるやつだ!!

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ほんのちょっとある政宗成分。

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竹雀紋の話も。

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そして米沢から移りまして福島へ。

思っていたよりも山の奥を走らせられるわけではなかった。

稙宗・実元の墓のある陽林寺へ。

立派な山門です。
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なんとLGBTQに配慮した永代供養墓が! そしてその紋の墓に入れるの! とCさんと大騒ぎしました。入れるなら入りたい。

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実元の墓です。実元は14代伊達稙宗の三男で、政宗のおじいちゃん晴宗の弟、そして成実のお父さんです。

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実元も松の木を墓誌にしていたと書いてあって、この時期(戦国末期から江戸初期)の伊達家によくあったらしい樹木葬が気になるわたしはビックリしました。

片倉景綱もそうですし、結構いますよね…。岩城御前とかもだし。

 

そしてここ注目。「兵部少輔」になっております。成実と同じく「大輔」だったのではという説が多いんですが、ちょっと気になるところです。

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そして少し上ったところにある14代当主稙宗(政宗のひいおじいちゃん・成実のおじいちゃん)の墓です。

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それから大森城址に向かいました。

遊んでいる子どもはひとりも居なかったけれど…(平日昼間だしな)。
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弁慶の足跡。

時宗丸は阿部淡路(傅役)と弁慶と牛若丸ごっこをした過去があるに違いないと思いました(幻影)。

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見えます…見えます…時宗丸が遊んでいるのが…(白昼夢)。

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そして輝宗のお墓でお会いしたおじさまが仰っていた輝宗の首塚に行ってきました。

当時は寿徳寺と呼んでいたそうですが、その後を引き継ぎ、慈徳寺となったそうです。

慈徳寺は種まき桜というしだれ桜が有名で、季節にはたくさんの方が訪れるのだそうです。

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竹に雀(に見えなくもない)紋が!!

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次は政宗のおばあちゃんである久保姫と晴宗の隠居城であった杉目(杉妻・すぎのめ)城のあった福島城址へ。

奥羽仕置のあと蒲生氏郷の支配下になり、その後板倉氏の支配を受け、今の福島城があります。土塁とか、本丸跡とかいろいろあります。
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福島城址から5分程度あるいたところにある宝積寺(ほうしゃくじ)へ。

ここには杉目城で亡くなった久保姫の旦那さんこと16代晴宗のお墓があります。

つまりは久保姫が作らせたってことだ!!(断言)

五輪塔の古さ的にもそんな感じです(石碑は新しいよ)。
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移動中に見たアガる道路標識。

これ見ておわかりかと思いますが2日目の宿は飯坂温泉でした。

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三日目

飯坂温泉で一泊したあと、あいにくの雨だったので外回りは避け、白石へ向かうことに。

思っていたよりもかなり近かった…(車あるの最高〜〜〜〜)

いつも公共交通機関で乗り換え乗りかえしていたので、まさか白石がこんなに近いなんて。

 

たまたま選んで行ったごはん屋さんが大変小十郎っぽい店でした。

つりがね庵

https://maps.app.goo.gl/7Kthoj8oZrYZKu1DA(Googleマップ)


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ゆ、祐筆!!!!


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そして白石歴史探訪ミュージアムへ! 何年ぶりだろう…。

いろいろ変わってました。2階の展示とかもまえあんなにあったかな…。

3階の独眼竜コーナーと映像コーナーは変わっていなくてホッとしました。

2階の展示は撮れないので、真田家の皆さまをパチリ。
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途中で見かけた、こじゅうろうキッズランド。

喜多に頼まれて預かることになった、5,6歳くらいの梵天丸と時宗丸のやんちゃぶりにてんてこ舞いの片倉景綱高校生を幻視しました。

いました。ええ、いました(幻影)。

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道の駅で見かけた景綱・重長米。

今回は同行しなかった伊達オタ友に送りつけたらまんまと驚いてくれてうれしかったです。

や…ウケるかな…って…。そういうことしか考えていない。

(送ったのはもうひとつ小さいサイズです)

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こんなのや。

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こんなのもありました。

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同行者のCさんのおかげでとても楽しい(そしてめちゃくちゃ楽な)聖地巡礼を行わせていただきました!

思ったより遠くない…そして行きたいところにすぐ行ける…。

車旅ってなんて便利なんだろう…。

幼少期政宗と成実が景綱に怒られながらやんちゃしている白昼夢が常に浮かんで楽しくて仕方ない旅でした。

米沢も思ったより政宗成分があってとても楽しかったです。

今も土地を守っておられる方がいて、墓地が美しく保たれているのとかとてもよいよなあ…。

また行きたいと思います。

実盛de号泣事件の記事比較

『成実記』『政宗記』といった成実著作の中に登場する逸話の中には、他のライターも書いている事件があります。複数の視点があることから、逸話が実話であったことがほぼわかります。
そういった記事はいくつかあるのですが、そのうちのひとつに、寛永8年の「実盛de号泣事件」があります。
その名の通り、能の実盛を見て、政宗と成実が泣いちゃった……という事件なのですが、それぞれの記事を比較して見ていると、成実・『木村宇右衛門覚書』の木村宇右衛門・『名語集』の筆者、と三人三様のライターとしての個性が出ていてとてもおもしろいのです。
それを比較したものを見ていただきたくて、記事にすることにしました。
特にこの事件は成実自身がが当事者ということもあって、書きぶりの違いから成実の性格が垣間見える記事だと思います。

まずは伊達成実による記述から。

『政宗記』11-1:政宗物僻事

原文

(前略)有とき若林の西枢輪にて、各親類衆一家へ振舞給ひ、能をさせ給ふに、二番目は実盛なり、さればして語りの内に、「実盛常に申せしは、六十に余り軍せば、若殿原に争ひ先をかけんも長けなし。又老武者とて、人々に慢られんも口惜しかるべし、鬢髭を墨に染め、若やぎ討死せんずる由、常々申し候らひしが、誠に染て候ひける」と、さしも勇々敷申ければ、政宗ひたもの落涙し給ふ。此有様をみ参らせ、知も知らぬも或は田夫野人に到迄、皆落涙せざる者はなし(後略)

現代語訳

あるとき、若林の西曲輪にて、それぞれの親類衆や一家の者たちへ振る舞いを行い、能を催された。
2番目は実盛だった。
すると、語りの中に、「実盛は常に六十歳を超えていくさするのならば、若武者たちと争い、先陣をかけるのは大人げない。また老いた武者であると人々に馬鹿にされるのも口惜しいものだ。鬢や髭を墨で黒く染め、若作りして討ち死にしたいものだと常に言っていた。本当に染めているとは」ととても猛々しき語りであったので、政宗はひどくお泣きになった。
この様子を見て、事情を知る者も知らない者も、また身分卑しいものでさえ、落涙しない者はなかった。

では次は木村宇右衛門可親(きむらうえもんよしちか)による『木村宇右衛門覚書』を見てみましょう。

『木村宇右衛門覚書』119:仙台城西廓で能「実盛」を観劇した時のこと

原文

一、有時、御西廓の桜盛りを御待之御能仰せ付けられ候。御役者一年御国に詰候へ共、能などは儀式正しからざれば見られぬ物と思し召す也。下々へ振舞に行囃子など有れば、亭主により所により折節にはよしと仰せられ、能は花の頃を催し、二十日も前に能組定まり御指南の所にて行儀正しく役者言い合わせ、初日は御親類衆御一家御一族衆惣侍衆、翌日は諸寺家衆、御座中長袴にて、夜ほのぼのと明くると御座敷の御簾あかる。其時宿老衆始め申さるる。其衆帰座してなをるを見て幕開け、御能始まる也。其日二番目の修羅に実盛あり。仕手語りの内に六十に余り戦せば若殿原にあらそひ先をかけんも大人気なし。又老武者とて人々に侮づられんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め、若やぎ討ち死に討ち死にせんとつねづね申候へしか、誠に染めて候と、さも床しく語りければ、大守公御涙をはらはらと流させたまへば、御左の上座に伊達安房成実声を忍びにたて袖濡るるほどなかれ*1ける。何も御年六十に余らせ給ふ頃也……(後略)

現代語訳

あるとき西郭で、花見待ちの能をせよと命じられた。お抱えの役者は一年在国していたが、能はきちんとした方式でなくてはとても見られるものではないとお思いであった。下々への振る舞いに囃子などがあれば、亭主にも場所にも季節柄にもよいと仰り、能は花の頃にするとお決めになった。二十日も前に能の番組は決まり、ご命令に従って役者は言い合わせ、初日は親類衆・御一家・御一族・総侍衆を、翌日は諸寺家衆を呼ばれた。みな長袴で、夜がほのぼのと明けると、御座敷の御簾が上がった。
そのとき宿老衆が開始を告げた。かれが戻ったのを見て幕が上がり、能が始まった。
その日二番目の修羅能に実盛があった。シテ語りの中に、「実盛は常に六十歳を超えていくさするのならば、若武者たちと争い、先陣をかけるのは大人げない。また老いた武者であると人々に馬鹿にされるのも口惜しいものだ。鬢や髭を墨で黒く染め、若作りして討ち死にしたいものだと常に言っていた。本当に染めているとは」とさも心惹かれるような様子で語ったところ、大守公(政宗)は涙をはらはらとお流しになった。すると左の上座に伊達安房成実がいたのだが、声を忍ばせて袖が濡れるほど泣かれていたのだった。いずれも御年六十を越えた頃のことである。

そして最後に『名語集』。『名語集』は筆者不明とされている書物です。筆者は時代によっては成実とも、近侍の小川という女性であったと書かれていたこともあったようです。まあ、今のところは誰だか不明です。ただそのあとがきから、長年仕えた近侍の老臣であることはわかります。

『名語集』40:能を見て感泣す

原文

一、或時、御親類衆御一家御一族衆、其の外、大身衆に御西郭にて御振廻下され、一日御能仰せつけられ、御見物遊ばされ、尤も御前にても長袴御召し候ゆえ、諸人みな、長袴にて伺候申し候。ほのぼのあけに、御座敷へ出御遊ばされ候とひとしく、年寄衆一人、御座敷より舞台先へ参り、片手をつき、「御能はじめ候へ」と申され候。すなはち幕揚げさせ、太夫罷り出で、其の日二番目の御能実盛を仕り候。仕手語りのうちに、「実盛常に申せしは、六十にあまり戦せば若殿ばらとあらそひて先をかけんもおとなげなし、まつた老武者とて人々にあなづられんも、くちおしかるべし、鬢髭を墨にそめ、若やぎ打死せんずるよし、つねづね申し候ひしが、まことに染めて候ひけるぞ」と、さもゆゆしき謡ひし時は、御声を上げ、ひたもの御落涙あそばされ候。左の御わきに伊達安房守殿御座候が、是も御同前に、御座敷にたまらせられぬほど、落涙遊ばされ候。諸人、御様子を拝み奉り、落涙仕らざるもの、あまり御座なく候。まことに実盛ましの御人様たち、御身のほどにおぼしめしあはせられ候事と、みなみな感じ奉り、落涙仕り候。
惣別、ひとにかはらせたまひて、人はあはれなる事には、大方落涙仕り候が、さようのことには、さのみ御落涙あそばされず、何にても義理の深き御事には、御声を立てさせられ、御落涙なされ候。

現代語訳

あるとき、御親類衆・御一家・御一族衆、そのほか大身の者たちを西郭にて饗応なされ、一日能をご命じになり、見物された。御本人が長袴を着ておられたので、みな長袴をはいていた。かすかに夜が明けてきたころに、御座敷へお出になると同時に年寄衆一人が御座敷から舞台の前に行き、片手をつき、「御能をはじめます」と言った。すぐに幕があがり、太夫がでてきて、其日二番目の能実盛を演じた。シテ語りの中に「実盛は常に六十歳を超えていくさするのならば、若武者たちと争い、先陣をかけるのは大人げない。また老いた武者であると人々に馬鹿にされるのも口惜しいものだ。鬢や髭を墨で黒く染め、若作りして討ち死にしたいものだと常に言っていた。本当に染めているとは」とさも心惹かれるような様子で歌い上げたときは、お声を上げ、激しくお泣きになった。左側のわきに伊達安房守(成実)殿がいらっしゃったが、これもまた同じように、御座敷にいることができないほど、お泣きになっていた。
みな、その様子を見て泣かない者はあまりいなかった。本当に実盛のような方々であるから、ご自分のことのように思われ、重ね合わされたのだろうとみな感動し、涙を流した。
おおよそ、人に感情移入して、人はあはれなことには多くの人が泣くけれども、そのようなことにはたいして泣かれることはなく、どんなことであっても、義理の深きことにはお声を上げてお泣きになった。

どうでしょうか。
シテ語りの部分はどの記事も能「実盛」の詞章ほとんどそのままなのですが、その他に書かれていることが全然違います。
まず、『政宗記』では場所は若林の西郭とあります。
『木村宇右衛門覚書』では仙台城西郭となっております。ただ、宇右衛門自体は西郭といっているだけなので、本になるときに章タイトルに仙台城と付けられただけなのか、どうかわかりません。
『名語集』でも西郭となっているので、とりあえず仙台城か若林城の西郭で行われたのは事実でしょう。

木村本では始まるまでの情景が丁寧に描かれます。
2日間に及んだこと、当日までどのような準備をしていたか、長袴の理由、その日の様子を詳しく書いています。ここらへんの情景とか、木村はとても丁寧にかく人で、記憶力よかった人なんだろうな、とヒシヒシと感じます。
あと動画記憶の人だなとか。
そして、政宗が声を上げて泣くと、成実が袖を濡らして声を忍ばせて泣いていた、と書いています。

そしてさらに『名語集』を見ると、政宗が声をあげて泣いたこと、成実が座敷に座っていられないほど泣いていた、ということがわかります。
『名語集』ではそれを見て周りの人々が二人が泣いた理由を想像して、感動して多くの人が泣いた、と書いています(思い出してみましょう、成実は「みんな泣いた」と書いていましたね!)。
政宗は普通の人が泣くような所では泣かず、感動したときには良く泣いていた、と『名語集』は続け、定家の能で泣いたことに話は続きます(定家の能のことは成実も木村も続く記事の中で書いています)。

また政宗の左脇に成実がいたというのも、伊達家の一門衆が並ぶときは向かって左側に第一席が、右側に第二席がすわり、千鳥掛けに座る(1の次が3、2の次が4)というしきたりがあったことが『伊達家史叢談』などに書かれているのですが、それから考えると政宗の「左側」の隣に成実がいたというのも納得できる記述です。

泣いたのは?

まあここ成実サイトなので成実中心の話にしちゃうんですが、期せずして成実自身が隠した「政宗の涙につられて自分が一番激しく泣いたこと」を『木村宇右衛門覚書』と『名語集』が明らかにしちゃったことになるんですよね…。
「みんな○○した…」という構文を成実はよく使うのですが、他の文章を見ていると、事実として「みんなが○○した」というところは、なんか誤魔化して書いてるな…?と感じてしまいます。
たとえば「みんなこう思った」→「わたしはこう思う」だったり、「みんな泣いた」→「自分が泣いた」だったり。
「声を忍ばせ袖を濡らしていた」り、「座敷にいられないほど泣いた」りしたことは、成実にとっては「みんな」を隠れ蓑にして隠したかったことなのではないかと思うのです。
でも政宗が実盛で号泣したことは書きたい。
よいですね。

この記事は「政宗物僻事(まさむねものずきのこと)」という章の一部分なのですが、思い出すままに政宗のことについて語った部分です。刀剣の話や「金剛太夫脅迫事件」なども書かれています。
それの紹介はまた後日…。

参考文献

『政宗記』伊達史料集/小林清治校注/人物往来社/1967
『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』小井川ゆり子/新人物往来社/1997
『伊達政宗言行録 政宗公名語集』小倉博編・高橋富雄新訂/宝文堂/1987

*1:『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』では「流れ」とするが、「泣かれ」の意では?

2026春高野山

2025/3/21~22

高野山のとあるお寺のXアカウントで、大雪が降った写真を上げてらっしゃったのを見て、「ああ…雪の高野山行きたい。そうだ、高野山、行こう」と突然思い立ち、行くことにしました。

高野山といえば成実の出奔地(高野山→相模国と思ってます)のひとつ。

とはいっても関西人にとっては高野山は近い場所。日帰りでも行けます。

気軽に出奔してみました!!

 

久しぶりの趣味旅なので、少し豪華な車両に乗ってみました。

難波までひのとりプレミアムシート。あんまり景色は楽しくないのでゆったりリクライニングシートを楽しみます。

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難波で南海電車に乗り換え。特急こうやにのります。

特急こうやは素朴な特急。
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極楽橋でケーブルカーに乗り換え、高野山駅へ。

そこからりんかんバスで、一の橋バス停まで行きました。

とても晴れて温度も高かったのですが、あちこちに雪が残り、こけないよう気を付けなくてはいけませんでした。

 

そして奥の院へ…と思ったら、なああああああ!!??(調べろよ情弱)
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雪のために通行止めだそうです…中の橋側から大師御廟には行けるので、前田さんとか浅野さんとか秀吉とか結城秀康のとかは見られるのですが、一の橋〜中の橋にある伊達家関連の供養塔・墓は見られず…。ああ…バカです…。

 

なので山内散策に時間をかけることにしました。

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巨木マニアにとっては奥の院ホントに楽しいんですよね…。スギ花粉症でなくてよかった…秀吉墓横の樹とかいいですよね!!

 

宿内。勤行や写経体験もしました。

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高野山はビーガンカフェ・飲食店がたくさんありますね。カレー屋さんも多かった気が…。胡麻豆腐や高野豆腐を買ったり、念珠や数珠を買ったり…。楽しく過ごしました。

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最後によった武田信玄の菩提寺である成慶院は…カフェになっていました!!

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ではさらば!またきます!!

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高野山いいなあ…しばらく滞在してみたい…(出奔ですねそれは)。

当たり前だけどビーガンのお店が多かったですね。そして聞いてはいましたが、コロナ禍以後本当に外国人参詣客が多い。めちゃくちゃ多い!!

ガチの仏教徒の方とか、宗教的好奇心からの人が多いんだろうなあと思わされます。朝の勤行のときに来てた人、八割外国人だったし、隣の中国系のお姉さんは結跏趺坐していた…本格的。

そういえば昔高校時代、高野山大学の資料を取り寄せたことがありましたね…推しが滞在した土地に住みたかったのですよね…東北大の資料も取り寄せたけど…。

一定の目的を持った集団が集住して街が出来てて、学校とか図書館とかコミュニティセンターできて、古本屋街がある…みたいなところが好きで、理想がメキシコシティの大学都市なので、高野山も好きですな…。真言宗については全く知らないけど、まなんでみたい…とか思っちゃいますね。筑波大学もすごいですよね、いいなあひさひとさま…。

いつか完全にノマドで仕事できるようになったら滞在とかしたいですね。まあしばらくは無理ですが。

 

政宗は花粉症疑惑のある歌がありますが、成実はどうだったのでしょう…?

高野山は大丈夫だったのでしょうか(笑)と思うほどのスギの量でした。

 

高野山周辺…というか九度山は真田フィーバーでしたね…。九度山駅はまっかっかでした。真田ミュージアムもできましたしね。そこらへんは柿の季節に行ってみたいと思いますね(九度山は柿の名産地です)。

 

前から言うていることですが、亘理の世親家譜略記の中に「成実の死後高野山に行った家臣が帰りに江戸によって、愛姫に挨拶して褒美もらった」みたいな記述があるので、家臣が建てに行った成実の供養塔も絶対あると思うんですよね。

文禄三年に久保姫・晴宗の供養塔を成実が建てた話は当時の菩提寺観音院の過去帳にあるし…。後継のお寺に問い合わせればわかる物なのでしょうか…。

前回行ったときに政宗の墓周辺に地図には載っていない分家筋の墓もいくつかあったので、今回も探せればと思ってたのですが雪で通行止めは盲点でした…。

一の橋近くの仙台伊達家墓所・宇和島伊達家墓所の周りも見たかった…。

昔ネットで見た詳しめの地図に、石川さんや留守さんちのも載ってて、伊達安○ってかいてあるのは見たんですが、あれは安芸だったのか、安房だったのか…。

絶対あるはずなんですよ…。

それぞれの菩提寺は場所把握しているんですかね? どうしたらよいのか…。

文禄四年に出奔した成実が奥の院にあった(多分)久保姫晴宗供養塔の前に毎日行って読経している姿はあったんではないかと思いますね…

 

まあ思っていたより気軽に行けることがわかったのでまた季節のいいときに訪れてみたいと思います。軽率に!!

2024秋亘理仙台

■2024/11/3

亘理郷土資料館の町民講座『亘理町史資料編 第3集 成実記』刊行記念「ものしり大学院」として行われた「成実記の時代-伊達政宗の生涯とその記録-」に参加してきました。講師は元仙台市博物館館長の菅野正道先生。
夏に政宗文書見に北海道行きましたが、今回はなんと『成実記』『政宗記』が刊行されるということで、通販する手間を考えると行った方が後悔しないなと考えて朝イチから新幹線で行きました。
ウチの家は空港利用が大変なんすよ…。まだ新幹線の方がいい…時間はかかるけども。

てなわけで朝イチ新幹線で仙台へ!!


昼頃に仙台に着いたので、亘理への空き時間で腹ごしらえ。

仙台ではすべてのお土産物が政宗グッズなのですばらしい…。

1時頃に亘理着。さっそく郷土資料館を見ました。

この話聞いてなかったので激しく萌えました。
成実って岩城御前をすごく尊重しているところがなんかいいですよね。

買った!!!! 通常価格1100円が、発行直後特別価格で1000円。えっ特殊紙表紙200p越えで1000円!!??
同人誌ならそんなに安くしたら他のサークルに迷惑かかりますって怒られるレベルの価格ですよ!?(ニッチな感想)


『政宗記』。写真はOKのところとOKでないところがありました。
成実の書状も展示されていました。
初めて見たわ…。
菅野先生が「成実ははじめの数文字がでかい」という話をされててまたじんわり萌えた。


1時半から菅野正道先生による講座スタート。
成実記好きとしては脳みそパーンなりそうな展示&講演会でした!
今まで思ってた時期でわける成実記系統・政宗記系統という狭い話ではなく、伊達文庫に収められてる複数の写本が同じ料紙・筆跡と考えられるとか、北海道のものは本家のものをもう一度写したものと考えられるとか、 伊達鑑が成実記の影響受けてそうだったりとか、B系統の政宗記の写本がかなり新しかったりとか…素人にはわからん雰囲気や長年の勘からくる菅野先生のご推察がすごかったです!
成実の字が、初めの2文字くらいでっかく書くクセがありそう…て話がおもろくて…たしかにデカい!🤣
あと人取橋合戦がかなーり盛られた、本当はそれほど大きな規模の合戦ではないんではないかという話もおもろかったです! 兵站や気配のこと考えるとそんな大がかりな戦なわけないという話で…
そういえばそうだな!? てなりました。
え!そこも創作??(そもそも成実たちも「人取橋合戦」としては語ってない)て感じで…
じゃあ政宗の本宮合戦語りもどこまでホントなの…(笑)

最終的にどこかにあって欲しいな成実著作原本!て話になりましたが、個人的には本家にも提出しただろうけど、幕府にも提出させられてないかなー???と思うんですよね!
無茶か?そして明暦の大火コースだったんでは…と思うんですけどない?
あと一縷の望みをかけるとしたら、宮◯庁書陵部…?
政宗書状の、景綱宛の書状がカナメインで親しさを感じられる…という話を聞いては「いやん!気のおけない近しい家臣だったのね〜」と喜ぶと同時に、成実宛書状のきちんとしっぷりに「いやん!尊重して大事にされてたのね〜」と喜ぶ。所詮は腐女子である。
どんなこともすべての道は萌え(ローマ)に通じる。

綱元は「あとは綱元から聞いてくれ」とかあるので、「いやん!小さい頃から大きくなってもずっと頼られてたのね〜」となります。綱元宛もかなりカナメインなんですよ。
綱元はあと正月の席次で、家臣の列でなくて子どもたちの後にいたりして特別扱い感がすごい。いやん連歌も上手いのね〜!という感じ。

とにかくいつもしぎのさんとかとがやがや話してる、『成実記』とは何なのかみたいなのをプロの先生が語ってくれた…という感じで、本当に本当に楽しかった!! 
成実が『成実記』で何をしようとしたか、そして後の人たちがそれをどう使おうとしたかみたいなところまで話がいって楽しくて楽しくて!!
あと大河独眼竜政宗がよく調べられてできてる…ってのは事実なので嬉しかった。
見れば見るほど30年も前にこんなハイクオリティな大河作れたな〜。っていつも思います。

今年は北海道の政宗文書展示と亘理の成実記発行が成って、ホントエポックだったと思います
関係者の方々本当にありがとうございます
「書く成実」「書状から見る政宗」が好きな私はもう各所各人に五体投地したい。
この日はそのまま宿へ。海の方の「浜まつ」さん。
実をいうと夜ひとりだったので、ぐだぐだと「『成実記』発行うれしいぜ」スペースをやってました。
聞きにきてくださったかたありがとうございます。

■2024/11/4



朝ご飯がはらこ飯定食。これを狙ってこのお宿にしました。味が濃くて美味しい。

そしてお参り。




どっちかが岩城御前でどっちかが小僧丸と伝わる成実御霊屋裏の切り株ふたつ。


フォロワーさんみんな知ってると思うけど、政宗子息の中では一番好きなのが宗実です。



ここから見る景色が好きなんです。




称名寺へ移動。ここのシイノキ2つがすごく好きで。1つは樹齢700年、1つは樹齢400年ということなので、成実も宗実も見たかな?という感じで盛り上がる。


フォロワーさん言ってたけどアカマツもいい。



亘理要害遠景。

ヨークベニマル側の高台の樹が切られていました。






増えてた看板。


大雄寺さんでいただいた集合墓の案内。わ、わたし…マジメに検討する…!!




そして仙台駅へ戻り…



ここからの景色も好きなんです。


角度変えたらすごくよい顔撮れた。


そして最後は瑞鳳殿!!


今は感仙殿と善応殿が修復工事中で、瑞鳳殿のみの観覧となります。
しかしいい空気の場所だな…大好きです。上るのしんどいけど!!

幕末・明治の動乱のせいで仕方ないのですが、成実が生きていたのは仙台や亘理だけれども、御子孫が守ってきたものは北海道伊達市にある…というのが、成実ファンの財布を直撃するところであります…。
2024年前半までの鬱憤がたまっていたので両方行きましたが(そして行ってよかったと本当に思っていますが)、両方行くのしんどいんだよな!! 本当のところはな!!(泣)
でもでもホントに両方よかった展示でした。
菅野先生のお話もすごくよかった。これからまたこれを機に政宗研究・成実研究が進めば良いなと思います。
行きも帰りも大森城見損ねた〜。
またいい展覧会・講座・講演会があればいいなあと思います。
満足の1年でした!! 2025年もよろしくお願いいたします!!

2024夏伊達

2024/8/23~25伊達旅

初夏にエスコンついでに琴似と白石に来たばかりでしたが、だて歴史文化ミュージアムで7/6〜9/23の日程で『政宗文書を読む~北に渡った独眼竜の書状~』という企画展があり、8/24に古文書についての講座が2つ行われるということで、再び北海道やってきました!!
一日講座があるので、23と25はそのまま移動のみで、24日に講座に行ってきました。


今回は新千歳空港から電車です!!

南千歳で乗り換え。空がピンク色でえらい驚きました。

到着!! もう遅かったのでこの日はそのまま宿へ。そういえば伊達市内のホテルがひとつなくなったらしく、企画展開幕直後に来られたフォロワーさんは宿に苦労したということです。もともと泊まれることそんな多くないけどビックリですね。


道の駅横にあるアレですね。

い、石田三成の書状が一押し…なぜ…!!??

ミュージアムのここが好きです

展示について

企画展「政宗文書を読む-北に渡った独眼竜の書状-」ということで、その名の通り、亘理伊達家に伝わった政宗文書の展示でした。しかし何故かメインは石田三成宛書状が一番に!! なんで石田三成宛書状を亘理伊達家が持ってるのか!わからん!! というかんじでした。書状はそれぞれ写真も撮れたのですがまあこれはおいておいて。

今回展示されていた書状について詳しいことは私のツイートよりフォロワーさんの素晴らしいツイート参照。陣さんは尊タヒするよと言われておりましたが、他に誰もいなかった時間帯、奥の特別展示室でちょっと魂抜けそうになりました…政宗と成実双方が確実に触った紙と同じ空間にいる…(考え方がキモい)

書状1:天正13年11月17日成実宛書状。
人取橋合戦の夜に送られた、いわゆる人取橋感状。
人取橋の合戦での成実隊の活躍を褒め、事務連絡をしています。伊達上野守政景とあるのが、親王任国ミス!(あるある)というのと、もしかしたら伊達家の中の政景意識がずっと留守氏でなかったのか気になるところ。
→これは政宗文書では写しとされており、紙も新しい・政宗の字じゃない・文章がおかしい…などから、偽書もしくは後世に作り直したものではないかと思われる人が多く、私もそうだろなと思います

書状2:天正14年9月25日実元宛書状。
同年7月に手に入れた二本松城に成実を配したことに対して、家中で反対意見もあったが、実元・成実親子を信頼して配したので気にするな的な書状。同時に成実にも似たような書状を出したらしい。栖父子って言い方いいよねー!☺️

書状3:天正15年5月9日成実宛書状。
二本松城に配された成実に対して白石宗実らと協力して周辺に気を配るよう指示した手紙。いろいろと細かい。焼かれなかった火中文書のひとつ。「以前より腹蔵なく互い申し承る事に候間ああああ!」🤣

書状4:天正16年10月22日成実宛書状。
山形方面の緊張状態について書いた手紙。追伸の、「鷹狩りにいいとこ見つけたんだけど、今年は忙しくて無理だけど来年行こう!」が良い…もちろんですが翌年天正17年にそんな暇はございませんです😭

書状5:天正17年10月22日成実宛書状(と書かれてるが、同じパネルで天正18年とも書いてあるのでどっちかな?)。
ちょっとこのパネルについては読み取り違いがある気がするので保留(史料集&政宗文書で確かめてみます)。
証人替と須田某について。

書状6:慶長3年1月19日石田三成宛書状。
なんと今回の展示の目玉だったらしいです、ええそうなの? 読めないところが多すぎてわからんのと、宗是・上洛・御草臥…などから誰かが体調を壊したことについてか?とのこと。
なんでこの手紙が亘理伊達家に伝わったか(しかも出奔中)が最大のミステリー。

書状7:慶長7年12月30日成実宛書状。
備中景綱に白石を、成実に亘理を与えることを告げたいわゆる亘理拝領書状。詳細は石見守綱元に伝えさせるという、三傑萌えにはたまらん書状。安房守名乗りが見られるのはこの書状から。成実は正月に亘理入りしますが景綱の白石入りは少し遅れ、亘理に居ました。

書状8:元和2年4月20日成実宛書状。
家康の死去とその後の供養の方法(明神となること/久能山から日光へ改葬されること)などを告げたお手紙。家康の死に関しては結構密に連絡しあっていたようです。
それに際し成実が蝋燭200挺を用意したことに礼を言ってます。

文書9:元和3年9月30日成実宛書状。
上洛する秀忠に供奉した帰り、小田原から書いたもの。秀忠のスマートなやり方を褒めているらしい。

文書10:元和〜寛永年間の三河守宗泰宛書状。
宗泰は政宗4男で、岩出山伊達家初代当主。饗応の差配が良かったことを褒め、諸道具の用意について述べたお手紙。子持ち鮭のこと子籠って言うんですね。鮭とか鴨とかヒシクイとかの話。

文書11:寛永4年2月26日成実宛書状。
初鯛送ってくれてありがと〜書状。会津仕置についての話も。「これの返信は要らないよー」が気遣い。

文書12:寛永6年7月14日成実宛書状。
家光が病から回復した旨を告げるお手紙。江戸城の工事も上手く行ったことを告げる。

文書13:寛永11年2月24日成実宛書状。
これは成実屋敷炎上事件の翌日に送られてきた手紙。新築なった成実屋敷の披露の饗応で起こった、宗碧という相伴衆をめぐっての事件もあり、不可解な火事。28日は直接会って間取りの指示などをしたそうです。天下一の天気って言い方かわいくない?☺️

文書14:寛永12年3月28日宗実宛書状。
宗実は政宗の9男で成実の養子になり亘理伊達家を継ぐ治部大輔宗実。
忠宗の江戸到着を知らせたことを褒める手紙。合わせて千菊姫の祝言についても知らせる。
宗実はいろいろおもしろい人なのでもっと知られてほしい。元服前の頃の政宗からのお手紙もいくつかある。

文書15:寛永12年6月21日成実宛書状。
忠宗の疱瘡快癒について成実が知らせたのに対する書状。武家諸法度についても。

展示されてた書状群について、簡単にですが以上です。必ず待ち入るとか、万万物語申すとかいちいち文言がかわいい…。
北海道に渡った政宗文書の何が尊いって、この書状群は、渋川城火事や出奔による散逸とそして明治の移住に際する整理をくぐり抜けて現代まで残った!ということなんですよ!(机ダァン)
実元のやつとか天正期のやつなんて特に!
ずっと持っていってた!やつ!なのよ!つま!りは!🤣
フォロワーさんが行かれたときはA4のリーフレットがあったそうなんですが、残念ながら私が行ったときはもうリーフレットなかったです〜😭

紙の変色や破損の状況、墨の濃淡など、生で見る書状はやっぱり迫力があります。
字の大きさや書き方など実物見ないとわからないことも多い。見られて良かったです!成実クラスタの辛いところは、本人が生きたのは亘理だけど、鎧も書状も北海道来ないとなかなか見られない…てことですよね…。実元・成実・邦成の鎧や宇佐美長光もまだ展示してありました。龍の目貫もばっちし見えた!
亘理伊達家史料集は出ましたが、まだまだたくさんの未翻刻史料があるとのことなので、第二弾が出ること祈っております…!今回展示されなかった政宗文書もまだまだあるとのことなので、展示第二弾も…!
個人的に見たいのは政宗の和歌軸装のやつとか実元宛の成実結婚おめでとう書状とか綱元への高野山から戻ってこいって言ってやってよ書状とか宗実(喝食丸)宛の狩りお誘い書状とかかなあ。あと成実自身の書状も見たい〜!(家臣宛のがあるはず)
くずし字勉強を頑張ろうと思いました…

講座について

北海道立文書館との共催イベントとして、だて歴史文化ミュージアムの一階ライブラリー・コモンズにて「はじめての古文書」「伊達市における古文書解読」(それぞれ2時間)が開催されました。
「はじめての古文書」は一般的な古文書解読についての用語・基礎知識についての講座。
「伊達市における古文書解読」はこれまでの古文書解読の経緯や、最近見つかったアイヌの古文書についての内容でした。
亘理伊達家や伊達市の人々の祖先がアイヌとの関わりを持っていたことから、北海道史における新発見なども今後期待できるのではないかと思いました。
今後の展開が楽しみですね!


毛虫鎧もまだ展示されていました。

宇佐美長光です。目貫の龍が政宗の龍ごのみからきたのか、成実の干支由来(政宗子女たちがわりと目貫に干支をあしらっている)なのかなんなのか気になります。

大雄寺に行ったらちょこっと毛虫が曲がった兜が新設されていました…。

ありがとうございました!!

『成実記』26:弾正の思い

26:弾正の思い

原文

一 弾正所存には。不慮の儀を以て譜代之主君に相背。伊達御奉公仕候事。天道も恐しく存流石に主君の御子。正三郎殿を御引連政宗公へ参。傍輩に成り奉るべき事天道も口惜思召。仏神三宝にも放たれ奉べき事を感じて。中新井田之御留守居南條下総所迄。正三郎殿を送り奉り候。二人之御方は義隆にも正三郎にも放たれ候而。明暮の御歎き御自害を思召も。さすが左様にも成らず御涙のみに而候。

語句・地名など

現代語訳

一 弾正が思っていたのは、想像もできない出来事のせいで、譜代の主君に背き、伊達に奉公することは天道に向かっても大変恐ろしく感じられ、さすがに主の子である正三郎を引きつれて政宗公のもとにつれてくるとしたら、同僚になるだろうことを考えると、天道もくやしく思うだろう。仏神三宝にも、見放されるのではないかと思い、中新井田の留守居役をしていた南條下総のところまで、正三郎殿をお送りした。二人の夫人は、義隆にも正三郎にも離され、一日中お嘆きで、自害をも考えられたが、さすがにそのようなことにはならず、泣いていらっしゃるだけであった。

感想

移り変わりは世のならいとはいいますが、代々の主をみかぎる弾正の気持ちは同情を誘うのではないでしょうか。
こういうところに戦国人たちの人間くささを感じておもしろいと思います。