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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

総合目次

【ご挨拶】

はじめまして。[sd-script](「エスディー・スクリプト」と呼んでいただければ…)です。
管理人:慶と申します。
こちらは、戦国〜江戸初期の伊達家家臣&ライター武将【伊達成実】(だて・しげざね)に関する趣味の考察ブログです。
「史実」の伊達成実に関するあれこれ(主にかれの著作について)の私的覚え書きと整理が目的です。

素人がやっております単なる趣味のサイトです。
考察・簡単な現代語訳を上げる予定ですが、読めば一目瞭然ですが間違ってる酷い訳です。間違いに気がついたらあとから勝手に書き直します。
計画的なものではなく、気が向いたとき&ところからフラフラテキトーにやっていきます。真面目な研究目的ではなく、ミーハーなファン心故のサイトです。
文法読解など、間違ってるところ多数なので、何かの参考にはされない方がいいと思われます。
ご意見・間違いご指摘・ツッコミ等は大歓迎ですので、コメント等でお気軽によろしくお願いいたします。間違いなどに気づいた場合、過去の記事もことわりなく書き直したりもします。

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こちら記載の記事に関連して何か不都合な事がございましたら、こちらまでメールをいただけますようお願いいたします。
必ず折り返し返答させていただきますが、連絡先のないものには返答いたしかねます。

【更新履歴】New!!

20200517:湯浅常山『常山紀談』政宗関係記事をupしました。原文のみ。
20200417:岡谷繁実『名将言行録』「伊達政宗」をupしました。原文のみ。
20200101:あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!
これより前の更新履歴はこちら

おしらせ

  • 更新頻度が気まぐれかつ唐突ですが、ご了承下さい。
  • 今まで『成実記』で分類しておりました記事を書名である『伊達日記』に変更しました。(『成実記』と各『伊達日記』にも細かな違いがあるため、誤解を招かないために。合わせて参考にした書名を記すことにしました。)
  • 『政宗記』記載の地名の注は、合併後地名では(私に)分かりづらいこともあり、大体伊達史料集そのままにしてあります。

【総合目次】

(考察・雑記・雑談・感想の分類はフィーリングです…)

原文:

湯浅常山『常山紀談』政宗関係記事

『常山紀談』とは

江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文25巻、拾遺4巻、それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」1巻よりなっている。著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『常山紀談』は江戸中期に成立した逸話集で、名将言行録のもとになっている部分も多々あるようです。有名武将の有名な逸話はこれ発信みたいなものも多いです。
現代語訳はいろいろなところで見られるので、政宗関係の原文のみあげておきます。
『名将言行録』同様、政宗言行録系に載っていないこと、特に政宗の情けない逸話なども載っておりまして(笑)、おもしろいです。

原文

「伊達家の士卒異風出陣の事」

朝鮮を伐るる時、関東の諸将も兵を出さる。伊達政宗は遠国たる故に、騎兵三十騎鉄炮百挺鎗百本と軍配を定められけるに千計の士卒を引具し、天正十九年正月八日岩出山を打立、二月十三日京に著く。小西加藤は先陣たり。岐阜中納言秀信を始として関東の諸将師を出さる。其道は聚楽より戻橋を大宮に押通る。政宗の旗三十本紺地に金の丸付たる具足著て、弓鉄炮の者も同じ出立に銀ののし付の刀脇差、金のとがり笠をかぶり、馬上三十人黒ほろに金の半月の出し豹の皮、又は孔雀の尾、熊の皮いろいろの馬甲かけ、金ののし付の刀脇差あたりもかがやく計なる。仲にも遠藤文七郎、原田左馬介ははき添に木太刀を一丈計に作り帯たりしが、鞘尻のさがりければ、金具を真中に設けて糸を結び肩にかけて馬に乗たりけり。見物の群衆政宗の軍兵押通る時目を驚かす出立なれば、一同にをめきとよめきけるとぞ。
 明の援兵朝鮮に来り、平壌に有て練光亭より日本の兵を望みしに、江上に往来する者大剣を荷ふ。日光下り射て電の如し。是は真の剣にあらず。白蝋を沃ぎたる物なりといふ事、懲毖録にしるせしは、伊達家の二士の木剣の事にや。

「氏郷伊達家の刺客を免されし事」

伊達政宗、蒲生氏郷の威に壓るる事を心中に深く憤りて、氏郷を殺すべき事を思案して、数代家に仕へし者の子に、清十郎といへる十六歳に成ける者、容貌勝れて艶なりしに、密にたくめる事を語り聞せ、田丸中務少輔が児小姓にだして奉公させられけり。田丸は氏郷と姻家の親しみあれば、来られん時便を伺ひて刺殺せ、との事なり。清十郎が父の方へ遣はしける書を関所にて改め見しより事起りて、其謀の泄たりしかば、清十郎を獄に押入、此事を秀吉に告るといへども、秀吉遠く慮りて強て伊達家と和平せさせられぬ。氏郷、清十郎を呼出し、吾過ちて罪なき義士を獄に入れ辱を与へたるよ。其君の為に命を捨て忠をいたす、賞するに余り有り。とくとく伊達家に帰るべし、と礼儀正しくもてなして帰されけり。
 記せし書に清十郎が姓をもらしぬ。をしき事なり。

「黒塚の歌の事」

(前略)〜又安立郡に川あり、向うに黒塚あり。安立は氏郷の領地なりしに、黒塚は伊達政宗の領地なりとて争のありしに、氏郷、平道盛の歌に、
 みちのくの安立が原の黒塚におにこもれりといふはまことか
とよめる事有り。いかに、と申されしに、聞く人、黒塚は安立が原に属したる事分明なり、とて政宗争ひをやめてけり。

「伊達政宗膽気相馬の城下に宿せられし事」

同じ時、伊達左京大夫政宗は急ぎ本国に帰り、からめ手より攻め入るべきよし仰せを承り、大坂を打つ立ち夜を日につぎて馳下る。白川より白石まで皆かたきの中なれば道ふさがりぬ。常陸国を廻りて岩城相馬にさしかかって国に帰らんとするに、相馬また累代の仇なり。然るに政宗僅に五十騎ばかり引具して常州を経、岩城と相馬の境に到り、先相馬が許に使をたて、此の度徳川殿上杉を征伐し給ふにより、政宗からめ手より向ふべきよしの仰せを承りぬ。路既に塞り候ひしほどに、やうやう此の地に馳著ぬ。あまりにはやめて道をうちしゆえ疲れ候。願はくは城下に旅館をたまはらばや。馬の足休めて明日国に帰り入らんと存ず、といはせたり。相馬長門守義胤これを聞き、あつぱれ運の尽たる事ぞかし。さらぬだに伊達は相馬が年比のかたきなり。ましてや味方討ん一方の大将承りたるといふものを、いでいで今宵一夜打して、案内知ぬ奴原を一人も残らず討取て年比の仇に報い、又今度の賞にも預らばや、とてやがて民家をしつらひて迎へ入れ、人々集めて夜討の評定したりけり。爰に水谷三郎兵衛といふ者、はるかの末座に候ひけるが進み出、末座の異見恐入って候へども、既に詮議の座に連りて候へば、所存を残すべきにあらず。抑窮鳥懐に入る時は、猟者もこれを殺さずとこそ申候へ。政宗ほどの大将年来の恨をすてて君を頼みて来りしを、たばかりてやみやみと討れん事勇者の本意にあらず。長き弓矢の瑕瑾ならずや。又彼が国境駒が峯に至らんに行程僅に三里、けふ日未だ未の時にさがらず。政宗が国に入らんとだに思はば日夕ならざるには至るべし。それに僅の勢にて止る事深き慮なからざらんや。只此の度はよきに警固して国に返し、重ねて戦ひに臨ん日、勝敗を天運にまかせらるべきにや、と申ければ、一座の人々此の議に同じ、兵糧秣わら塩魚に至るまでつみ置、かぶりを焼て夜廻りす。義胤が士ども、政宗あまりにしづまりかへりたる体こそ心にくけれ。いざ試ん、とて夜ふけて後、馬二匹とりはなち、人々走りちりて以の外にさわぎののしる。政宗小童一人に燭持たせ、白き小袖を上に打かけ、左の手に刀を提て立出、相馬殿の御ン人や候、といふ。是に候、とて行向へば、物音高く候。政宗が下人原狼藉候はんには、よくしづめて給はり候へ、とて又内にぞ入たりける。夜明れども立ちもやらず。巳の時ばかりに成て、義胤の許に使して一礼し、さてしづめて馬を打って行く。ひそかに人を付て窺はしむるに、かの国の境駒が峯のあなたに、伊達家の軍兵雲霞の如くみちみちて出むかへぬ。かくて関が原の事終りて、相馬すでに上杉に心合せたれば亡ぶべきに極る。政宗訴へ申されしは、相馬は年比政宗がかたきなり。石田、上杉に与したるが一定ならんには、政宗彼が為に討たるべし。然るに君の仰せ承りて馳下るよしを聞て、深き恨をわすれ新恩を施しき。彼が逆謀に非るの証に候はずや。又累代の弓矢の家永く断ん事不便の至りなり、と度々なげき申されしかば、後には本領を相馬に賜はりけるとぞ聞えし。

「伊達上杉陸奥国松川合戦の事」

慶長六年四月、伊達政宗奥州景勝の地を斬取んと、百姓を間者にしておこたりを伺れたり。松川は阿武隈川の枝川にて、伊達領の境なれば、本條出羽守、甘糟備後、岩井備中、杉原常陸、栗生美濃、岡野左内、五千計にて守りけり。政宗は国見峠を踰、信夫郡より瀬の上の川を渉り、五千の兵にて梁川の城を押へ、松川をさして押し寄する。物聞ども斯と告れば、本條出羽、城を出、川を渡してや戦ふ、川を前にして半途をや打ん、といふ処に、松木内匠、敵不意の利を謀て押寄せ候に、味方川を渡りて待ちかけなば、政宗思ひしにたがひて必ず引退くべきなり。川を渉らんこそよかりなめ、といふに、栗生同心せず。此の川中窪にて極めて渡す事たやすからず。政宗わたらんところを半途を打つに利あらん。岡野、いやいや敵大軍なり。爰に待んは敵を恐るるに似たり。勇士の志にあらず。とく川を渡して待設せん、と云ふ。栗生、孫子に少を以て衆に合ふこれを北と曰ふといふことあり。小勢にて無謀の軍せんは、大敵の擒とならんは必定なり、といふ処に、甘糟備後、杉原常陸もはせ来り、まづ物見を出せ、とて、猪俣主膳、本庄段右衛門、井筒小隼人、乗行きて馳帰る。猪俣は、政宗川を渉らじ、といふ。二人は政宗川を渡さん事半時計もやあらん、といふ。子細を問に、猪俣、敵馬の沓を取ず障泥をはづさず。羽壺を常の如く附けたり、といふ。井筒、本庄が云、我等見し所も同く候。されども政宗いまだ来らず。其の間五六町計もや候らん。政宗川際い押寄せて其の支度せんに、何の時刻を移すべき。且小荷駄を遠く引退たれば、戦ひを持ちたる敵なり。政宗二万の軍兵を帥て寄来り、空しく引返すやうや候、といふ。さらば川端二町計置て陣を整へて敵を待ん、といふ所に、岡野は切支丹を信ずる人なるが、南蛮人の贈りける角栄螺といふ冑を著、真先かけて川を打渉す。栗生、甘糟、川を渡るべからず、と下知すれども、布施次郎左衛門、北川図書、小田切所左衛門等二十騎計、真しぐらに川に乗入り打渡す。宇佐美民部鎗を横たへ、残る兵をば押しとめてけり。かかれば政宗押来り、先陣片倉小十郎透間もなく切ってかかる。岡野四百計真丸になりて鎗を打ち入れ、面もふらずをめきさけんで戦ひけれども、大軍に取かこまれ、左内僅に打ちなされ、切りぬけて引退く。北川馬の首を立直し小田切に向て、唯今討死せん。会津に残し候十四なる吾子をたのみ申すよ。是をかたみに送りてたまはり候へ、とて猩々皮の羽折を脱で小田切に渡しければ、小田切、若万死に一生を得候ならばたしかに送り候べし、とて羽折を腰にはさみけり。北川、今は思ひ置く事なし、とて追ひくる敵の中にかけ入て切死にしたりけり。是をはじめとして帰し合せ、火を散して戦ひけるが、討たるる者多し。政宗勇み進んで追かけられしに、岡野猩々皮の羽折著て鹿毛なる馬に乗り、支へ戦ひけるを、政宗、馬をかけ寄せ二タ刀切る。岡野ふり顧て、政宗の冑の真向より鞍の前輪をかけて切り付け、かへす太刀に冑のしころを半かけて斫はらふ。政宗刀を打折てければ、岡野すかさず右の膝口に切付けたり。政宗の馬飛退てければ、岡野、政宗の物具以ての外見苦しかりし故、大将とは思ひもよらず。続いて追詰ざりしが、後に政宗なりと聞きて、今一太刀にて討ち取るべきに、とて大に悔みけるとなり。岡野は川へ乗入たるに、政宗、又十騎計にて追かけ来り、きたなし返せ、と呼はりければ、岡野ふりかえりて、眼の明きたる剛の者は多勢の中へかへさぬものぞ、といひて岸に馬を乗上たり。宇佐美兵左衛門十六歳、松川の向ひの岸にて危く見えしかば、父の民部馬を川に打ち入れたり。栗生、いかに先には川を渉る者を止められしが、何事に渡され候や。名将の宇佐美駿河守の子息にはいかに、と問ふ。民部、謀も心より出候。あれ見られよ。一子の兵左衛門向の岸にてはやううたれぬべく見ゆれば、心の乱れたるぞや、といひも終らず川を渉り、打連て引返す。栗生は陣を整へて待かけたれば、片倉が軍兵を追崩し川に追ひたす。されども大軍見る内に重り攻め寄せしかば、上杉勢は福島をさして引退く。福島に至て行程いなか道十八里なりといへり。政宗、いづくまでもあますな、と馬煙を立てて追かけしかば、物具を道に捨る事数を知らず。息きれて行倒れたる者もあり。持鎗の長き柄はもち堪がたくて、多くは捨けるとぞ。青木新兵衛、永井善左衛門を始として、大剛の者ども馬を返しては追ちらし、とって返しては突はらひ後殿しけり。青木は小丈なる馬に乗、柄の短き鎗なりし故、殊に乗さがり幾度となく支え戦ひけり。甘糟備後は上杉家にて勝れし勇将なるが、白石の城を守りしに、会津に行きたりし跡にて、登坂逆心して白石を敵に取られし事を口惜く思ひしかば、今日とりわきて引さがり、取てかへして追退け、勇気をあらはしけり。福島の城下の川を渡る時、政宗の兵弥追詰て、われ先にと川に打入れたるが、永井を後より三刀切る。永井度々の軍に戦ひ疲れ、大軍打渡す川音にまぎれ此れをしらず。青木は鳥毛の棒の出しにて黒きほろかけたるが、乗寄て敵を追払ひ、川岸に打ちあがりて永井に斯といへば、驚きて従者に見すれば、ほろに三刀、鞍にも刀の痕あり。永井、けふは助けられし、とて一礼をぞ述たりける。小田切も敵に取囲れ、あはや討たれぬと見えしを、青木又かけ寄せて敵を追ひ払ふ。岡野は旗おし立て静に福島の城に入、甘糟、栗生も引入りければ、政宗やがて押寄たるに、殿の兵ども、柵をこえて城に入たりしに、青木は柵を越かねて只一騎ひかへ居たる所に、政宗馬を駈寄たり。青木十文字の鎗にて政宗の冑の立物三日月を突折しかば、政宗馬に諸鐙を合せてかけ通られぬ。青木後に政宗と聞て、今一と鎗にて突殺すべきに、口惜き事よ、とぞいひける。斯るところに梁川の城より須田大炊助長義討って出、政宗の兵阿武隈川を前に陣しけるが、此の川奥州第一の大河なれども、須田はよく地の利をしり、兵を二陣にわかち、須田は川上に打上りけるを見て、政宗の兵二ツに分れて防がんと色めく所を、一文字に渡して斬かかる。敵敗北しければ物具を始め多く分捕にせし中にも、伊達家に伝へし幕を、須田宇平次、中村仙右衛門奪取てけり。須田今年二十三、これより武名殊に世に高く聞えけり。政宗は松川にて、後に敵出たりと聞き引退く処を、本庄越前又かけ出て川を渡し追かけければ、政宗敗北し、信夫山に掛りて引き退く時、景勝後巻に打出て紺地に日の丸の旗山の上に見えしかば、政宗とる物もとりあへず仙台に引返されけり。後に政宗使を以て、攻取たる白石の城を幕と取換ん、と云送られしかば、景勝聞て、白石の城は鋒にて攻とられ候。幕も亦吾士卒の骨折て取得候へば、重て幕をも鋒にて取返されよ、と答えへられし後、小城一ツ攻落されしは恥にあらず。昔より名将も城を敵に攻落とされし事なきにあらず。武具を取られし事は弓矢とる身の大なる恥なれば、政宗我をたばかりて斯云しなり、と笑はれけり。台徳院伝上杉の館に御ン出有りし時、かの九曜の幕法華経の幕を厩にうたれしとぞ。其の後政宗、岡野に逢たりし時、松川の軍の有様語り出して、汝を斬つるはわすれじ物を、といはれしかば、岡野、大将の刀の跡と存候て、金糸にて縫あはせ、家の宝とせんと存るよしいひて、羽折を政宗に見せければ、政宗悦ばる。其の時岡野、冑のしころを吹返しかけてなぐり切にしたりき、と申しければ、政宗色を変じ、物語を止られしとかや。

「大坂夏御陣真田左衛門佐幸村勇戦の事」

大坂夏御陣、五月五日のあさ真田左衛門佐幸村が物見馳帰りて、旗三四十本、人衆二三萬計国府越より此方へ越来り候、と告。是伊達陸奥守政宗の軍勢なり。真田が士卒、すはや此陣を押出し給ふか、と勇む気色なり。されども障子に靠、片膝を立て居たりしが、静に答て、左あらん、と計にて他に言ばを出さず。午の刻ばかりまた物見馳来り、今朝のとは旗色かはり候が二三本見え、人数二万計、松かげ故不分明候が、龍田越を押下候、と告。是松平上総守忠輝なり。幸村虚見眠して居けるが目を開き、よしよし如何程もこさせよ。一所に集て討とらば心地よからんものを、とて是に取合ぬ有さまなりければ、皆早りたる心も悄静りぬ。是大敵を恐れしめず、味方を騒がしめざるとのことなるべし。夕炊然てのち、此備所は戦ふに便なし。いざ敵近く寄らん、とて一万五千余正奇を乱さず、前後を混じらず、■*1歩次第をととのへ押出せば、敵仮令十倍なりとも恐るるにたらずと思はれける。其夜道明寺表に陣をとり、明れば六日の早旦野村辺に至り、渡辺内蔵助糺は幸村に先達て、水野日向守とたたかふ。糺は勝茂を切靡ること五六十歩、勝成又守返して糺を衝退る。互に刀闘三度に及で糺は深手を蒙り、脇に備を引取、そなへを立直し、幸村へ使を以て、只今の迫合に疵を蒙候故、御人数駈引の妨と存脇に引取候。且横を討んとする勢を見せ候へば、味方の一助たらんか、と申遣す。幸村、御働目を驚候。是より我等受取候、と答ふ。備を進むれば政宗の多勢蒐りきたる。野の地形、前後は岡にて上平なり。中間十町ばかりひきくして、道左右田疇に連れり。幸村已に兵を前んとするとき、令を下して冑を著せず、鑓を取せず、馬の傍にひき添せて、下知せんときを待せたり。敵合十町計になりければ、幸村使番を以て、冑を著せよ、と云。爰に於て皆持せ置たる冑を取て打著、忍の緒をしめたりければ、勇勢新に加り、兵気ますます盛なり。敵合已に一町計にならんと思ふとき、幸村又使番を以て、鑓を取れ、といふ。諸士手手に鑓を取て穂先を敵方に差向たれば、面々いかなる堅陣剛敵なりとも打碎かん、と別に魂を入たるがごとし。此とき幸村が先手半過、岡の上に押上たる処に、政宗の騎馬鉄炮八百挺を、先手より一二町も前で一同に打立けるに、鉛子の飛は霰のごとく、火薬光電に似たり。煙は忽雲霞となりて丈尺の間も見えわかず。幸村先手の士混々と打斃されて、死傷するもの多かりしかども、一足も退心のなかりしが、冑を著鑓を取たる気勢の壮なるが故なり。幸村煙の中より、先手に爰をこらへよ、大事の場ぞ。片足も引ば全く没べしと下知する声耳に徹し、鑓の柄をにぎり、平伏になりてこたへたり。幸村下知して、炮声の絶間に十四五間ほどづつ走行居敷、炮声の絶間にまた斯くのごとくす。このとき、幸村が鑓さきより一尺進みたるものあらば、今日第一の功とせん、と言しに、一人も此先に出るものなし。政宗の騎馬鉄炮といふは、伊達家の士の二男三男、壮力のものを択て、本より仙台は馬所なり、駿足を勝りのせ、奥州にて所々の戦に馬上より鉄炮一放と定て打するに、中らぬ玉は希なり。打立られて備乱るる処を、煙の下より直に乗込で駈散すに、馬蹄に蹂躙せられて、敵敗潰せずと云ことなし。此とき騎馬鉄炮の士馬を入んと駈寄けれども、幸村の先鋒近々と備へて折敷たりと見て漂ふ所に、煙も稍薄くなれば、幸村此しほ合をや計けん、大音上再拝を振て、蒐れ、と言ふ。言の下よりみな起立て直に突かかり、政宗の先手七八町追崩せり。水野日向宗勝成、政宗をすすんで復戦はしむ。政宗、我軍労れたり。戦今日に限るべからず、とて従はず。勝成また忠輝を勇けれども果たさず。勝成は小勢なれば独たたかふこと能はずして止ぬ。幸村未の刻迄合戦を待居たりしが、夫より繰引に引とれり。其体粛然として追討こと能はず、慕はば却って彼為に挫らるべし。東軍の諸隊見るもの感賞せり。

*1:馬偏に歩く

『名将言行録』「伊達政宗」

『名将言行録』とは

『名将言行録』(めいしょうげんこうろく)は、戦国時代の武将から江戸時代中期の大名までの192名の言動を浮き彫りにした人物列伝。幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた。
全70巻と補遺からなり、主に武田信玄、上杉謙信、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、伊達政宗、徳川家康などの天下を競った戦国大名から、森長可といった安土桃山時代の戦国武将、江戸時代の譜代大名で老中を務めた戸田忠昌、赤穂浪士の討ち入りを指揮した大石良雄など、多くの時代の人物について、その人物の言行、逸話を記録している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『名将言行録』は江戸時代末期に書かれたものですが、多くの時代の人物について言行・逸話を残しております。戦国時代の項については時代が離れていることもあって、史実とは考えがたい記述も多数ありますが、江戸時代中に普及していた武将たちの逸話がどのようなものであったかを理解するのに役立つ本です。
政宗言行録系に載っていない逸話・相違がある記述などもありますので、比べてみるのもよいかと思い、原文だけ上げておきます。
当然ですが、江戸初期人である成実や政宗とは語彙が違いまして、結構文字打ちに苦労しました(笑)。

原文

底本は岩波文庫版(第3巻153p~181p)を使用

岡谷繁実『名将言行録』「伊達政宗」

 左京大夫輝宗の子、陸奥守に任ず。後従三位権中納言と為り、仙台城に住し、六十四万石を領す。寛永十三年五月二十四日薨、年七十。

 政宗、幼名梵天丸と曰ふ、五歳の時城下の寺に参詣し、仏壇の不動を見て、近臣に、是は何たるものぞと最も猛々敷姿なりと問ふ。近臣、是は不動明王と申て、面は猛々敷座ませども、慈悲深くして衆生を救はせ給ふと答ふ。政宗聞て、偖は武将たるべき者の心得と成るものなりと言はれけり。聞く者是を奇成りとす。八九歳小学に入り、礼楽を学び、詩を誦し、射御を習ふ、一を聞て十を知る、才能人に過ぐ。然れども性寛仁人に対し羞色あり、近臣、或は其将器にあらざるを誹る者あり。独り片倉景綱其英姿不凡を歎ず。後皆景綱の鑑識に服すと云ふ。

 天正十五年、長井の鮎貝太郎、政宗に反く。政宗之を討んとす。老臣等皆曰く、最上より定めて援兵来り候べし、其上御家中に鮎貝の外に、又最上へ内通致し居る者も之あるやに承はりたる間、御探索ありて、御人数御手配の上、御出馬然るべくと。政宗曰く、各申所尤もなれども、左様の延引も時に依ることなり。今火急の節なり。軍は不意を挫くを以て勝利を得ることあり。又物は定まりて、定まらぬものなり。最上より加勢必定と思ふことも、品により其期延ることもあらんか、又加勢あるとも、小勢の折りか、又取掛らん抔評議の内に、急に押散らさんこと第一なり、延引して敵の謀成就しての後は六ヶ敷からん、且つ家中に鮎貝が外に敵に通ずる者あるべきや、と各推量なれども、知らぬ行末計らんよりは、指当ることを為さんには如かじ、目前の鮎貝を差置、事広まり、爰彼所に謀叛の者起らば、一同に退治せんこと難かるべし、時を移さず行ふは、勇将の本望なり、早や打立つべしと触出し、出馬せしにより、家中追々一騎駈の如く駈付け打寄せけれども、最上よりの加勢一人も来らず、鮎貝一人にて敵対すべき様なく、取るものも取りあへず最上へ引退きしに付長井中無事に治め、仕置して帰陣せり。人皆其神速の工夫に感ぜり。

 十七年、須賀川の役、敵将二人善く戦ふ、向ふ所披靡す。政宗遙に之を見て曰く、壮士なり。其一人は二十許り、その一人三十余歳なるべし、田村月斎、橋本刑部をして生擒せしめ、其年を問ふ。大浪新四郎二十一、遠藤武蔵三十五、果して其言の如し。人其故を問ふ。政宗曰く、一人は勇を恃み、難夷を択ばず、弱冠の所為なり、一人は強を避け、弱を駆り、進退度を失はず¥、壮年にあらざれば爰に至らずと。

 政宗、既に会津を亡し、疆土広大になりぬれば、老臣、宿将等相議して、政宗に向ひ、古と違ひ、今は御手も広く、諸大将参会申され候上、他家よりも使者多く候に、御城小さく、殊に粗末にて剰へ御城下も狭く候間、御普請ありて御城下をも、御開きありて然るべし、今の通りにては第一御外聞も如何に候と言ふ。政宗聞て、何れも異見の所は尤もなれども、政宗は城普請に心を費さんとは思はず。城抔に年を入るるは、小身なる侍が、彼方此方申合はせ、敵寄せば助勢賜はり候へ抔、互に言合はする者は、成程堅固に普請致すが能きなり。予が心は、昔より近国の大将を頼み、助を得て国を持怺えんとは思はず、敵押寄せ来らば、境目に於て尋常に合戦して打果すか、様子悪くは引退き、敵を領分に引入れ、家中の者共に申合はせ精入れて有無の合戦を遂げ、敵を挫くか、左なくば討死して滅亡と兼ねて究め居るなり。籠城して敵に取籠られ、数月を送るとも、家中騒立ち助くべき隣国もなくば、空く城にて餓死すべしと。況や、其許等申如く手も広く、軍勢も昔に十倍せり、近国に於て恐らくは、我領分へ手出すべき人は覚えず。予、又此城を取り立て迂闊々々として、爰に居住を定めんとは思はず、来春に至らば、諸軍を率ゐ、向ふ所を敵とし、従ふ所を味方として、関東に旗を立て、新に土地を開かんとす。故に予が心を費すは、軍旅の掟、軍用の費、諸将の忠功を賞し、不忠不義の誡何れも道に当らんことを、朝夕之を思ふなり。第一諸士述懐し恨みを含むことのなき様にと思ふ計りなり、古き家々の破るるを見るに、家中に恨を含む者ありて、主君に背き、敵に内通し、夫より家中騒立ち、終に身を亡せし者少なからず。禍は内より起りて、外より来らず、他家の者来りて此城郭の粗末なるを謗り笑ふべきことは、予も恥しけれども、国の為めには替え難き恥なり、予が手の広がるに従ひ、各も少しながらも、領地加増を取て、妻子をも育むは、各精を出して、我に奉公する蔭を以ての故なり。古歌に『人は堀、人は石垣、人は城、情けは味方、怨は大敵』とあり。誠なりと言て、笑はれけり。諸臣、何れも歎服して退けり。

 小田原の役、政宗間行して小田原に至り、底倉に屛居す。秀吉、人をして遅参のことを詰問せらる。政宗一々に陳謝し、以て命を待居りし時、千利休が秀吉の供して下り居りしに就て、茶の湯を稽古せり。秀吉聞て、政宗は遠国田舎の住居にて、夷狄の風に墜ち、無道の者と聞き及びし所、聞きしに事替り、万事心の付きたる仕方、鄙の都人と言はんものぞと、褒称せられけり。

 此役終らば、秀吉会津発向に付、先達て小田原表より、出勢之あり、諸大名宇都宮近辺へ着陣あると均しく、政宗領分へ物聞、目付等を差遣はしけるに、一段と物静にして、出勢籠城の支度箇間敷こととては少も之なくに付、諸陣共に不審を相立しとなり。然る所秀吉、宇都宮の城へ着陣ありければ、政宗、家老の片倉小十郎景綱、只一人召連れ手廻り人少にて、宇都宮へ至り、城下を隔てたる禅院に止宿し、大谷吉隆方へ、景綱を使者として申送りけるは、先日は初て御意を得、品々御取持に預り候段、過分の至りに候、其節申述候通り我等儀公儀軽しめ申すと之あるにては之なく候へ共、一向の田舎育にて、事の辨なく、奥州辺の国風に任せ、私小兵を動し候段、今更恐入、後悔仕る外之なく候、去るに依て、蘆名領の義は申すに及ばず、本領米沢の城地ともに、今度差上申候間、宜御沙汰あられ、伊達の名跡相続の義に於ては、偏に其元の御取持に預り申度候、此段前以て御意を得べく候へ共、道中より病気、之に依り其義に能はず、先づ小十郎を以て申入候となり。景綱は、其口上を申終て後、封印したる箱二つを持出づ。一つの箱の封を切り、是は蘆名旧領の絵図目録帳面にて候とて、吉隆へ渡し、又箱一つ是は政宗、先祖より伝へたる米沢領絵図目録にて候と申し、封を切らんと致したるを、吉隆見て之を押え、其箱の義は先づ封印の儘にて、我等預かり置き申べくと之あり留置き、政宗へは、景綱を以つて御申越の趣、逐一承届け候、是より申承はるべく候、病気保養油断あられ間敷旨、返答に及び候となり、右の如く、政宗、降人となり、宇都宮へ参陣のこと、奥州筋所々へ聞え渡りたるに付、出羽、奥州にあるとあらゆる大小の武士ども、大に驚き、我も我もと宇都宮へ出勢致し、或は名代を以て音信物を送て、秀吉の機嫌を相伺ふ如く罷成りたるに付、秀吉は前後宇都宮城に逗留致されながら、奥羽両国悉く、手に入り申されしとなり。其後吉隆方より秀吉公御対面之あるに付、片倉を召連れ明早天登城致さるべくとのことに付、翌日に至り、政宗出仕の所、秀吉対面あり、其上岡江雪相伴にて、政宗、景綱へ料理賜はり、茶抔も相済み候、已後又秀吉前へ政宗を呼出され、吉隆、件の箱を持出、政宗前に差置く。秀吉申されけるは、蘆名旧領の地は召上げ候、其方持参り候、本領米沢の義も今度差上ぐると雖も、手前心入を以て返し与へ候條、相替はらず領地尤もなり、我等も追付帰京候條、早早帰り然るべきとて、首尾能く暇を賜はりたるに付、政宗其箱を押戴き、一礼を述尋ねければ、景綱曰く、黒川を始め、其外の城々の義も、悉く明け候て、城番の侍足軽、少々居残候までの義に候間、明日にも差上ぐべくと申たり。政宗は申すに及ばず、景綱も只尋常の者にては之なしと、其頃取沙汰せしとなり。

 十九年、葛西大崎一揆起る。蒲生氏郷討て之を平ぐ。政宗、右一揆の棟梁たりとの聞えあるにより、秀吉怒り、政宗の敵に交通せし書牒を以て、政宗を詰問せられしに、政宗陳して曰く、箇様の無実あるべきことを計り、某が判形の鶺鴒に心印を付け置きしが、謀書の判には、其印なし。其印と申は鶺鴒の眼を針にて突て瞳と成したり。此頃人の方へ遣はしたる書牒と引合はせ、御覧あるべしとの趣なり。然れども、氏郷より分明の注進あるにより、秀吉、政宗に上京あるべしとのことなり。此時政宗、金銀の上箔にて包みたる磔柱を行列の先に立て上京せり。是は政宗程の者が磔に掛らんに、並々の様にては口惜きとの用意なり。折節、秀吉、伏見の城を築き、其役を見て居られしが、政宗上り来るを聞き、是へ来るべしと言はる。政宗猶予せる気色もなく、秀吉の前に出ければ、秀吉、杖取直して、政宗の頭に押当て、其元上京せざるに於ては、斯の如くすべしと思へども、時刻移さず馳上りし上は、宥免するなりと言はれけり。

 文禄四年、関白秀次謀叛の聞えありし時、政宗も之に与みせしとの説あり。秀吉怒り、政宗の封を伊予に移す。政宗、伊達上野外一人を以て、徳川家康へ斯の如く仰付られたり。伊達家の浮沈此時に極りぬ。賢慮を仰ぎ奉るより外なしと請ふ。家康聞て両使に茶飯等を賜る。暫くありて、両使暇を告げ政宗嘸ぞ待遠に存候はん、疾く罷帰り御返事を申聞かせ度と存ずると申せば、家康大声にて己々が主の越前と曰ふ男は、当りは強き様に見ゆるが、腰の抜けたる男にて、後の弱き故に、左様には狼狽の付くことなり。四国へ行て魚の餌に成るがましか、爰にて死したるがましか能く分別あるべしと言へと、重ねて秀吉より催促の有る時の返事の様を、細々と示教ありて、両使は罷出る。追付家康、秀吉の所に至らる。又た秀吉より政宗へ使にて、昨日の請如何、早々予州へ下るべしとのことなり。此使政宗宿所へ参り見るに、門前に弓、鉄炮、鎗、長刀を帯したる者ひしと並居て、只々打出ん有様なり。御使あると聞て政宗は無刀にて出迎ひて、座に請じて、御使の旨を聞て涙をはらはらと流して申けるは、上様の御威勢程世に有り難きことは侍らず、人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙る程の不幸はなく候、今日こそ存なして候へ。某に於ては仮令此御不審を蒙りて首を刎られ候ても、異儀に及ぶべきや、況や国郡を下し賜はりて、所を替ふるとの義、何の子細か候うべき、なれども譜第の家僕等、何れも訴申候、何條数十代の御領を離れて、他国へ流浪することやあるべき、速に是にて腹を切られ、我々も一人も生きて所を去り渡すべき所存はあらずと申切て、平らに自害を勧め申に付、色々に理を尽し申聞かせ候へ共、家臣等一向に同心仕らず、各々御覧の通り、狼藉の至りなる様にて候、去れば偏に当時御勘当の身に罷成候へば、数十代の家人さへ、下知を用ひず忽諸に仕候こと、是非に及ばず候と述ぶ。其使罷帰りて、此旨を申せば、家康如何にも左様にこそ承り候へ、政宗一人の義に於ては、上意を違背候て、旧領を去り渡し奉らざるに於ては、某に仰付られ候はば、即時に彼旅宿へ押寄せ、踏み潰し候に、何の事か候べき。此度此所へ供仕りたる、千に足らざる小勢にてさへ、家臣ども左様の存切候へば、旧国に残り留りたる郎従等、国を退くべきことには得こそ申間敷候へ、彼郎従を追払ひ給ふべき賢慮さへ御座候はば、政宗に於ては某に仰付らるべきものか、然りと雖も、累代の所領を没収し給はらんこと、彼の郎従の愁訴仕候所も、不便に存奉り候へば、枉て此度は、御赦免もあるべきものかと申されしかば、秀吉、兎も角も家康が計らひ給ふに若くは候はじとありければ、国替のこと沙汰なくして、其事止み、其後勘当も免されしとぞ。

 秀吉、大なる猿を飼ひ、諸大名登城の時通る辺に繋置く。猿歯をむき飛掛りし時、諸人狼狽する体を、秀吉透見せられけり。政宗之を聞き、病と称し登城せず。猿引を百方手にいれ、密に猿を借り玄関に繋置き、政宗通りければ、猿歯をむき飛び掛らんとす。政宗策を以てしたたかに打すくめたり。斯く度々しければ、彼猿後には政宗を見て屏息す。斯の如く仕込み、猿を返せり。偖登城しければ、秀吉右の事は知らず、政宗様子如何と透見せられければ、政宗玄関を上る時、猿飛び掛らんとせしに、政宗はつたと睨みければ、彼猿萎縮して退きたり。秀吉、之を見て曲せ者めが、又先へ廻りたると言て、笑われしとぞ。

 秀吉、嘗て舟遊に出づ。政宗にも供すべきとのことなりけるに、遅参して、舟の出たる跡を来りけり。之に依り、馬引寄せ打乗て、只一騎舟に目を掛け、住吉の方へ乗行きけるに、秀吉見て、大方政宗なるべしと言はる。舟住吉にも着られず、又漕戻さるるに依て、政宗も又乗返し、着船せられし所に参りければ、秀吉只今の馬は政宗にてありつるか、武者振見事なり、定めて草臥たるべしとありて饅頭の入たる折を賜はりける。政宗頂戴して折を傾け、我着物の前を広げ、饅頭を移し、入れ包みて立退き、我内の者を呼び寄せて、上様より拝領申たるぞ、汝等も有難く存じ頂戴せよと言て、残らず与へたり。何れも其厚志に感ぜり。

 会津の役、政宗急ぎ本国に帰り、搦手より攻入るべき由の命を受け、大阪を打立ち、夜を日に継て馳下る。白川より白石に至りて、皆敵の中なれば、道塞りぬ。常陸を廻はりて岩城相馬を経て、国に帰らんとするに、相馬又累代の仇なり。然るに、政宗僅五十騎計り引具して常陸を経、岩城と相馬への境に至り、先づ相馬が許に使者を立て、此度徳川殿上杉を攻め給ふにより、政宗搦手に向ふべき由の仰を承はりけれども、路既に塞りし程に、漸漸此地に馳着きぬ。余りに早めて道を打し故、疲れ候、願くは城下に旅館を賜らばや、馬の足を休めて、明日国に帰り入らんと存ずると言はせたり。長門守義胤是を聞き、天晴運の尽きたることぞかし、去らぬだに、伊達は相馬が年頃の敵なり。況や味方を撃たんとて、一方の大将承はりたると言ふ者を、いで一と夜討して案内知らぬ奴原を一人も残らず討取て、年頃の仇に報い、又今度の賞にも預らばやとて、頓て仮家を出来迎入れ、人々を集めて夜討の評定したりけり。爰に水谷三郎兵衛進み出、末座の異見恐入て候へ共、既に詮議の座に連りて候へば、所存を残すべきにあらず、抑抑窮烏懷に入る時は、猟師も之を殺さずとこそ申候へ、政宗ほどの大将、年来の恨を捨てて君を頼み来りしを誑り、やみやみと撃んこと勇者の本意にあらず、長き弓箭の瑕瑾ならずや、又彼が国境駒ヶ峰に至らんに、行程僅に三里、今日、日未だ未の時に下らず、政宗が国に入らんとだに思はば、日夕ならざるに至るべし。夫に僅の勢にて止まること、深き慮なからんや、只此度は能きに、警固して国に返し、重ねて戦に臨ん日、勝敗を天運に任せらるべきやと申ければ、一座の人々皆此議に同じ、兵糧秣藁塩魚に至るまで、積置き、篝を焼て夜廻はりす。義胤が士共、政宗余りに静まり返りたる体こそ、心悪けれ、いざ試みんとて、夜深て後馬二匹取放ち、人々走散りて、以の外に騒罵る。政宗小童一人に燭持たせ、白き小袖を上に打掛け、左の手に刀を提げ立出、相馬殿の御人や候と言ふ。是に候とて行向へば、物音高く候、政宗が下人原狼藉候はんには、能く静めて賜はり候へとて、又内にぞ入りたりける。夜明れども、立も遣らず巳の刻計りになりて、義胤の許に使して一礼し、偖静に馬を打て行く、密に人を付て窺はしむるに、彼国の境駒ヶ峰のあなたに、伊達家の軍兵雲霞の如く、充々て出向ひぬ。斯くて関ヶ原の軍終て、相馬既に上杉に心合はせたれば亡ぶべきに極る。政宗訴申されしは、相馬は年頃政宗が敵なり、石田、上杉に与したるが、一定ならんには、政宗彼が為めに撃るべし。然るに君の仰承はりて馳下る由を聞て、深き恨を忘れ、新恩を施しき。彼が逆謀にあらざるの証に候はずや、又累代の弓箭の家、永く断んこと不便の至りと、度々嘆き申せしかば、本領を相馬に賜はりてけり。

 大阪冬役、政宗馬上にて城を巡見せし時、銃丸飛び来るに、覚えず、身を引きしを無念に思ひ、夫より歩行立になり、城の際へ行き堀を眺め入て銃丸繁く来る所に暫らく居て退けり。

 此役、和睦になりて諸大名皆閑暇なり。之に依り陣中出合咄に、何れの方にても景物の香合はせあり、其所に政宗参られければ幸なり、香御嗅あれとて勝負せり、何れも鞍泥障弓箭抔を景物に出すに、政宗は腰に付けたる瓢箪を出す。何れも笑き景物とて取る者なし。亭主の家来之を取て事済みぬ。偖政宗帰る時、乗来りし馬飾の儘にて、瓢箪から駒が出しなりとて、瓢箪取りし者に与へられたり。初め奥州の大将の景物とて笑ひし者、此時に至り羨みしとぞ。

 大阪夏役、陣触の時、政宗嘉例とて、仙台より七里出で宿す。其所へ行着く時分、火事出来たり。政宗日頃の山臥出立にて、貝を吹かせて、鬨の聲を揚げよとて、揚げさせ、目出度ことなり、我往前に火の手が揚りたりとて、機嫌能く、其次の在所に宿せりとぞ。

 夏役、大和口の大将は徳川上総介忠輝なりしに、臆して戦場をも見ず、政宗も先陣にて、其機を察せしにや、誰にても逆心の者あらんには、追掛け擊取り申べくと言ふ。聞く人早き見様なりと誉めり。其故は忠輝には、政宗の聟なりしかども、此時の様子を疑ひ、其跡に付くことを嫌ひてのことなりとぞ。

 此役、政宗手にて味方の神保を打亡したりとのことにて、咎めらる。政宗曰く、如何にも打取りたり。仔細は向より来る者は、敵の外にはあるまじと存じ、打取れと下知仕りたり、箇様の大軍には敵味方見分けられずと申ししとぞ。

 此役、政宗、家康に向ひ、今度の大軍の内に逆意の者之なく、御手柄結構なることなりと申す。家康此様なる勝軍の時は、敵は死にたれば、逆意の者も知れぬものなり、あるまじと思はれずとなり。政宗、如何にも上意の如くに候、我等抔の家来の内にも、若し逆心の者も之あるべく候へ共、御勝軍故、敵に口かなければ知れぬこともあるべく候、と答え申ししとぞ。

 此役、政宗、奈良に於て、足軽頭を集め、鳥銃を放たするに、加藤太が組下三百人計り放さず、政宗之を見て糺明あれば、道中にて火を持てば、火縄の弊あり、薬を足軽に預れば、路に溢れて、多く廃る故に、倹約を考へ、両品共に包みて小荷駄に付て跡より来る故、不図期に後れしと言ふ。政宗大いに怒り只吝嗇を本として、職分を忘るるは士の道にあらず、以後懲悪の為なりと言て、直ぐに斬て衆人に侚へり。

 耶蘇教盛りに天下に行はる。政宗、南蛮を征し、其根を抜んと欲し、向井将監忠勝に依り、幕府より篙師十人を借受け、支倉六右衛門、松本忠作、西九郎、田中太郎右衛門等を呂宋に遣はし、其形勢を窺視せしむ。支倉等年を経て呂宋王の書及び、奇貨珍宝を斎らして返る。且つ曰く、南蛮風俗柔脆なり。之を征せんには腐朽を挫くが如くならんと言ふ。政宗其志を成さんと欲す。時に耶蘇を禁ずるの令甚だ厳にして、政宗其志を遂ぐることを得ずして止めり。

 加藤清正、嘗て曰く、政宗、上方より、団助と曰ふ遊女を呼下だし、歌舞妓を興行したるが、内府の気色に相応したると側に聞きたり。其故は石田等が乱を事故なく平げられ、既に六十余州掌の内に入られたることなれば、政宗如き国持を始め、太刀も入らぬ太平の世と思ひ歌舞遊興のみにて、日月を暮せば、心元なきことなしと思はるるが故なりとて、殊の外称誉し、頓て清正にも歌舞妓を催せりとぞ。

 元和の初、将軍鷹場近辺にて、政宗にも鷹場を賜はりしが、或時政宗、将軍の鷹場へ密に入りて鳥三つ四つ合わせ、鶴を取りたる所へ、家康は引違て余多の人を召具し、鷹使ひながら参られしを、政宗周章狼狽、鷹も鳥も取隠くし、漸漸と遁去り、竹藪の陰に潜まり居る間、家康は馬を急がせ過られけり。其後登城の時、家康、先日は其元の鷹場へ鳥を盗みに入り込みたる所を、其方に見付けられ、はうはうに逃んとせしに、其方竹藪の陰に踞まり居たれば、態ざと見ぬふりしたると思ひ、息を限りと逃たりと言はれければ、政宗承はりて、左様のことに候べしや、某も其日は御鷹場へ盗み狩りに参りしに、御成の様子を見て、息をこらし隠くれ居たりと申ければ、家康大に笑はれ、其時互に斯くと知らば、逃ながらも、少しは息を休むべきものを、双方咎人なれば殊の外周章たりと、家康も、政宗も聲を発して笑ければ、伺公の輩も、皆々腹を抱たりとぞ。

 七年正月、政宗江戸の邸災に罹る。政宗、改築せんとす。諸老臣諫めて曰く、近歳の軍費少なからず、然るに、又土木のこと起る。若し一朝事あらば、如何せらるべしと。政宗曰く、是よりは四海無事なり、若し事あらば、幕府に請て其軍費を弁ぜん、或は敵を打ち、糧に敵に拠るに何のことかあらんとて、笑われけり。

 寛永四年二月、加藤嘉明会津に封ぜらる。是日政宗、殿中にて嘉明が子、明成に行き逢いしかば、足下父子に会津の地預け給ひたると承はる。会津は全く陸奥の鎮衛の地なれば、此老耄を能く防げとの御事なりや、足下父子の為に、容易は防ぎ留められまじと言て、大声を発して笑たり。明成、其聲の下より、老黄門、若し今の禄に倍して百二十万石をも領し給はば、今にても取掛け申すべきをと申けりとぞ。

 十二年正月、家光、政宗の邸に臨む。政宗には今日の亭主故、家光一と役と言はれしかば、畏り候とて、観世左吉に太鼓を持たせ、其跡に引続き、舞台に出て、役者と同く御前に向ひ拝せしかば、家光、大声にて誉めらる。階上階下に並居たる大小名も、均く声を揚げて褒めたり。政宗は暫らくの間、只座して小刀を抜き、爪を取りながら、観世左吉と物語りして居たるを見られ、前後箇様の役者は有間敷とのことにて、早や太鼓太鼓と言はれければ頓て太鼓を打始め、静に打すまし、果てて桴をからりと舞台へ投棄て、其儘仕手と脇師の間を会釈もなく押通り御前へ参り、ぬかづきしかば、偖々気味の能き役者よとて、人々褒めあえり。其時家光、偖も偖も聞及びたるよりも膽を潰したり。今より能き役者を見付け、大慶之に過ぎずとて、からからと笑はる。政宗拝謝して、先刻も太鼓の役にひたもの御意を伺ひ候、政宗ながら能くも仕り候様に覚候と申上げしに、役義終りて、早々舞台を下り、爰に出たる挙動感に堪ぬと言はれ、其後は打解けられたる物語にて、頻りに盃を重ねられ、何れも腹を抱て笑つぼに入られしとなり。又兼ねては御座の辺りさばかり抔盤狼藉として、山海珍羞を所狭く積み重ぬることなるべしと思ひしに、左もなく作り花付けし洲浜様の物二つ計りのみにて、最と手軽きこと是れと云、彼れと云、去りとは諸人感じ入りしとなり。

 政宗、嘗て江戸城にて酒井忠勝に行き逢ひ、讃岐守殿、相撲一番参ろうと言ふ。忠勝聞て、公用ありて只今御前を退きたり。重ねてのことに仕らんと辞退せしかど、政宗承引せず、忽ち組付ぬ。諸大名列座にて、政宗、忠勝の相撲なれば、晴れごとなり、時に井伊直孝進み出て、若州負け給ひては、御譜第の名折ならん、我等関相撲に出、陸奥守殿を投げ申さんに、手間は取るべからずと申けるが、忠勝は力量ある人なれば、政宗を大腰に掛けて投られける。政宗むくと起上り、御辺は思ひの外相撲功者哉、と言て誉めたり。又或時政宗、忠勝方に茶の客に行き、利休の茶杓を見、繰返し見て、此茶杓は埒もなき者なりと言てへし折られたり。忠勝も驚きしかども、戯の体にて、事済みたる。政宗帰邸の後、先刻は御茶賜はり忝き仕合に候、興に乗じ粗忽の義致し候、右代りに茶杓進上申とて、紹鴎の茶杓を贈られけり。

 政宗、名物の茶碗を見るとて、取落さんとせし時、心を動かせしかば、名器と言ひながら、無念のことなり。政宗一生驚くことなかりしに、此茶碗の価千貫目と曰ふに、心を奪はれて驚きたるは、口惜とありて其茶碗を庭石に打付け、微塵に碎き捨られたり。

 政宗、江戸城大広間の溜の間に在りし時、徳川頼房の臣、鈴木石見と曰ふ者、頼房の刀を持して、其座に在り。目を放たず政宗を見居る故政宗、不審に思ひ、石見に向ひ、其方我等に目を放さず見られ候、如何様のことに左程見られ候や、其方は何者ぞと問ければ、石見、我等事は聞きも及ばれ候べし、水戸殿の内に、鈴木石見とて隠れなき者にて候、御自分のこと、音には聞きしかど、見ることは今が始めなり。然れば、水戸は奥州の御先手にて、奥州に逆心をすべき者は、御自分より外になし。之に依て御自分の顔を能く見覚置き、若し逆心あらば、其方御首を取るべき為めに斯の如く見申候、水戸の内にて其方御首を取るべき者は、拙者ならではなしと答ければ、政宗大に感じ、我ならで奥州にて逆心者はなきと見られ候は、如何にも能き目利にて候と申され、偖何つ何日に参らるべしとて、則ち頼房にも、断わり申て、私邸に招き、自身給仕をして、殊の外、馳走し、終日顔を見せられしとぞ。

 政宗、内藤左馬助政長が方に招請にて往きし時、兼松又四郎も参りたり。政宗兼松が側を通るとて、袴の裾、兼松が膝を引けるに、怒て扇子にて政宗の袴の腰を打つ。人々打寄り色々取扱ひ、政宗に趣意なき上はとて、和睦の盃に成たり。其時政宗いで肴申さんとて、曾我を舞はれける。打て腹だに得るならば、打てや打てや犬坊と舞はれしとぞ。一座の人々、流石政宗なりと言あへり。

 政宗少しの病にても必薬を服し。或日物語に病気抔少しとて油断すること不覚悟なり、物事小事より大事は発るものなり、油断すべからずと言はれけり。

 政宗曰く、惣て武士は仕合はせ能き時は、領中家屋敷に至るまで、事の欠ざる様なれば宜し、何事にてもあれ、仕合はせ悪きことか、又国替屋敷替抔あらんには、陰々までも塵を置かぬ様に掃除し、家作を致し、領中の沙汰をも、弥弥言付け破れたる所は塗直して去るべし。夫は跡の批判を遁れん為めなり。武士の名を惜まぬは沙汰の限なり、父子兄弟の中にても、時移り代替る時は、他人よりも猶恥ヶ敷ものなりと。

 家光嗣ぎ立、年尚少なり、人皆徳川頼宣の異心あらんことを疑ふ。是に於て、政宗大臣巨室の者に命じ、其養士の多寡を算せしむ。蓋し用ふる所あらんとすればなり。一日頼宣を訪ひ、将に帰らんとする時、頼宣玄関まで送られしに、広間所々、座敷々々に家中の歴々伺公せしを見て、偖も偖も御家中衆に目を驚かしたり。是程の御人数を持たせらるれば、仮令如何様の大国へ御取掛けあるとも、御勝利疑ひ有間敷なり。然し万々一幕府へ御等閑の義之あるに於ては、箇様申年寄日頃国元に秘蔵仕置たる郎等共を召連れ、真先掛て、紀州へ押寄せ参るべくの間、左様御心得候へと言て、大に笑て去れり。此事府下に伝播し、疑ふ者皆釈けり。家光之を聞て、甚だ其志を称せり。

 政宗、少より老に至り、未だ嘗て横臥するを見ず、希に柱に靠り仮寝することあり、片時を空く過ごさず、常に手に巻を釈てず、性、強識、外臣商売と雖も、一見の後姓名風芥必ず失忘せず、政宗詩歌を好み、常に騒筵を設け、詞客を招く、僧虎渓、林信春などと唱酬せり。

 政宗嘗て江戸に赴く、千手を過ぐ。将軍家光、千手に狩りす。従者政宗に謂て曰く、今日将軍遊猟すと、請ふ疾く馳て其未だ至らざるに及ばんと。聴かず、故らに徐々として過ぐ。家光方に鷹を臂にし𨻫間に立ち、従臣未だに来り属せず、時に政宗輿に在り、見ざるまねして過ぐ。後ち家光に謁す。家光曰く、日者吾鷹を千手に放つ、卿何為知らざるまねして過ぐ、対て曰く、臣千手を過ぐる時、唯一男子、鷹を臂にするを見る。未だ嘗て、殿下を見ざるなり。家光曰く、是乃ち吾なり。政宗、偽り驚き、謝す。因て諫めて曰く、公、天下の重を任ぜられ、遊猟を好み給ひて、数々軽出し給ひ、警衛を須ひられず、臣恐くは一旦不測の変あらんことを、公の為めに之を危ぶむと。家光之を嘉納せり。

 政宗、老臣某と書院の作事出来して掃除する時、見物に出でしに、掃除人共椽下の塵を掃出すに、政宗立て居らるる故に、恐れて敢果取らず、某聲を掛けて念入れて掃くべし、何事も人の見ぬ所とて、粗略にするは悪きことなり、人の目の届かぬ所程、念入ること誠の奉公なれと言へり。其後、政宗、某を呼び、其方事国政を任せ置く所に、彼下賤なる者にも、人の見ぬ所程、念を入れよ抔言ふは、軽々敷ことなる、何事も政事の響きになることは明かならず、闇からぬこそ善けれと言はれければ、某大に感歎して、過を謝しけり。

 政宗恩顧の町人若狭に在り、佐渡屋某と曰ふ。或時政宗の許へ茶道、陸阿弥取次にて家隆の真蹟名歌百首の巻物を献ぜり。政宗甚だ重宝し、諸大名にも馳走に出さる。偖陸阿弥へ言はれけるは、斯の如き宜き道具は、何方にもあるべからず、右佐渡屋へは過分の礼謝あるべきとのことなり。陸阿弥誠に勝れたる御道具なり、佐渡屋は質物を取り候故、色々右の外にも宜き品を所持仕り居る由承はり候と申ければ、政宗大に驚き、今までは嘗て知らざることなり、価を以て買取りたるか、または持伝へたるを呉れたると思ひけるに、質物に取りたるとあれば、少し心掛りなり、汝より書簡を以て、右の巻物買主の名知れ居りしや、佐渡屋へ尋ぬべしと言はる。乃ち佐渡屋へ申し遣はしければ、若狭浪人今川求馬、近年困窮に及び、質物に入れ候ひしを、年限立し故、手に入りしを直ぐに奉りたる由なり。政宗、早速飛脚を以て金五両相副へ、今川求馬を尋ね差戻されけり。佐渡屋は如何なることにやありけんと迷惑しけれども、詮方なく陸阿弥まで密に尋ねければ、少しも心に挟むべからず、其方志は請け入れ給ひぬ。御道具になりて後、求馬には返されたる由申越す。斯くて後、諸大名の中にて、右の百首の物語出づれば、政宗、最初爾々の由にて手に入れ候へども、質物に取りたる物の由承りけるまま、我心に掛り、右の道具困窮にて質物に入れし者は、嘸々手放しては叶はぬ義理合もあるべきことなりと押返し承はり候へば、今川求馬と申浪人の家珍の由に付、不便に存じ、金子少し相副へ、差返したる由言はれければ、一座の人々大に感ぜられける。其後政宗へ礼謝お為め、求馬若狭より下りければ、逢はれて、念頃に挨拶あり、滞留中の料に二十人扶持を賜はる。此今川、南蛮流の外科を覚居たり。其上学力もありて、用に立つべき者なれば仕ふ間敷や否を問はしめけるに、固より恩に感ずることなれば、大に喜びて仕へけり。後勤労積みて足軽大将に経上りたり。政宗不思議の思慮にて、能き人を得られたりと、人皆言あへり。

 政宗、一日侍臣に語て曰く、小田原陣の時、某兎角小田原へ上り、太閤へ帰服せんと言ふ。家老共何んの御気遣かあらん、そこそこへ人数を出だして守り防がば、太閤を容易く寄せさせ間敷と言ふ。否々太閤は只者にてなし、降参の志を見せんとて打立つ、然らば多勢にて然るべくと言つれども、僅に十騎計にて、早速上り酒匂に一宿し、供の者を大方残し置き、金襴の具足羽織を着し、太閤の御前近く出たり。取次は富田左近なり、左近腰の物を是へ給はれと言ふ。何ぞ侍に刀脇差を脱けとはとて聞入れずして進む。太閤は床几に腰掛けておはせしが、某を遙に見て、伊達殿上られたるか、是へとなり。其時其儘刀脇差を傍へ投棄て往く。太閤否苦しからずとて、某が手を御取り、偖も奇特に参られたりとて、指当る咄抔ありて、奥州の事心元なし、早く帰られよとて、暇を賜はる。忝しとて早速酒匂へ帰て、帰国せしなり、是一つ。秀次公御生害の時、某を太閤御疑ありしに、十騎計りにて上る枚方へ石田、富田、施薬院三人御使にて来り、其方は秀次公と別て親しきこと隠れなきに依て、委細を尋ねよとの御事なりと言ふ。某申は、如何にも秀次公と親しきなり、太閤の御発明にて、御目鑑違たる故か、箇様成らせらるる秀次公に、天下を御譲り関白までに任ぜられたれば、吾等が片目にて見損じたるは道理と存ずる。其上万事を秀次公へ仰付られて、御隠居とあるからはと存て、折角秀次公へ取入りたり。若し之を咎め思召さば、是非なきなり、私が頸を刎られよ、本望なりと言ふ。施薬院、左様には申上られまじ、何にとぞにべもあらんやと言ふ。某施薬院をはたと睨み、其方は病人のことこそ功者にてあらん、武士道のことは知るまじ、有の儘に申上げよと言ふ。其故三人共に返りしが、翌日富田左近方より、明日山里にて御茶下さるべきとの御意と申越に付、只二騎召連れ、大阪へ行く。左近方より案内者とて侍一人来るを連れて城中へ行く。案内者何れへか行て見えず、只一人森の中に在り、定めて爰にて打殺さんとなるべし、それも儘よと思うてありしに、茶童の様なる者来りて、刀脇差を所望す、なんの侍に刀脇差をおこせとはとて、聞入れぬ体にて居たる所に、太閤来り給ひ、和尚出られたるかとて、殊の外御機嫌なり、そこにて刀脇差を投棄てて御傍へよりて、直ぐに御供致す、御茶賜はりて後、奥州の事心元なしと暇を賜ふ、是二つ。家光公へ御茶を上ぐべしと仰付られし時、御勝手へ佐久間将監御茶入の箱に入りたるを持参して、是を政宗に下さるの間、之にて御茶上ぐべくとの御意と言ふ。某先づ能く候とて、将監方へ押戻どす、将監再三言へども、弥弥受けず、此由を将監言上す。家光公尤もなり、そこに置けと御意成されたる由なり。後御直に御袂の内より木葉猿と曰ふ御茶入を出だし賜はる。其御手より直に拝領して、偖々忝き御事なりとて、謹みて頂戴し、先刻将監御意の由にて、何やらん持参仕りたれども、御道具を御台所の畳の上にて拝領せんは、恐多くて、先づ頂戴致さずありしと申上る。家光公、殊の外御感の体なりし、是三つ。吾等あなたこなたにて少々功ありしことども、人口にありと雖も、左程のことと思へず、右の三つは大事の場にてありしに、某所存を究めて思ふ儘に致し、利を得たり。惣じて大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが善しと言はれけり。

 寛永の頃、幕府にて、政宗は歴世の宿将なればとて、優待並々ならず、恩遇頻りにて、屡々召されて茶を賜はり、又は酒宴に預りけるが、政宗は老年に似合はしからざる大脇差を好みけるが、家光の前にては、何つも其脇差を脱して進みけるを見られ老年のこと故、苦しからねば、此後は脇差を帯したる儘進むべし、汝は如何様なる心あるやらん、知らねども、予は政宗のこと少しも、気遣には思はず、脇差差して出でずば、盃をば遣らず、と戯られしかば、政宗、感涙を止めあへず、是まで御両代の間、政宗、不肖ながら身命を抛て汗馬の労を致せしことは、身に覚あれど、今の上様には、何にもさせる忠勤箇間敷こと少しも申上げず。然るを御代々の御余恩と、老臣が残喘の衰態を愍ませ給ひ、斯くまで有り難き御恩遇を蒙ること、死すとも忘るべからずとて、其日は殊更大に酩酊し、前後も知らず御前にて鼾かきて熟睡したる間、側に脱置きし彼大脇差を近習の輩密に抜きて見れば、中身を木刀にて造りありしとぞ。

 征韓の役、政宗一梅を載せて帰り、之を後園に栽ゑ詩を賦し、其事を、紀す。『絶海行軍帰国日。鐵衣袖裏□*1芳芽。風流千古余清操。幾歳閑看異域花』又醉余口号。『馬上少年過。世平白髪多。残躯天所許。不楽復如何。』

 政宗、狀貌魁偉、人となり胆略あり、弓馬の道に長ぜしのみならず、又敷島の道にも長ぜり。年内立春と云題、『年の内に、今日立つ春の、しるしとて、軒端に近き、鶯の声。』又八月十五夜松島にて、『心なき、身にだに月を、松島や、秋の最中の、夕暮の空。』又武蔵野月、『出るより、入る山の端は、いづくぞと、月にとはまし、武蔵野の原。』題又知らず、『山深み、中々友と、なりにけり、小夜深け方の、ふくろふの声。』又関の雪、『ささずとも、誰かは越えん、逢坂の、関の戸埋む、夜半の白雪、』後水尾法皇、集外歌仙を撰み給ひし時、此の関の戸の歌を入れさせ給ひしとぞ。

*1:つつむ

今年もよろしくお願いします。

ってもう春節も終わったよ!って感じですが、新年のご挨拶に上がりました。
今年もどうぞよろしくお願いします。
年が変わるのに合わせて、Topの2019年の分の更新履歴を過去更新履歴に移しました。
sd-script.hateblo.jp
昨年は『伊達日記』をやっと全部アップしできましたが、今年もぼちぼちとやっていきたいと思います。
『正宗公軍記』、文字打ちは終わっているのですが、なかなか訳すまとまった時間がとれません(『正宗公軍記』は章の区切りが『伊達日記』『政宗記』と比べて長いのですよね…)。
あと、『木村宇右衛門覚書』内の成実登場部分も上げていきたいと思います。

今年は差し迫った絶対行くべきな展示情報がないので、伊達旅行でどこに行こうかなあと思案中です。
しばらく行ってない福島(大森や杉目や八丁目?)か、行きたい行きたいっていって全然行ってない米沢方面(特に資福寺跡)かなあ…? なんか秋ぐらいでいいのでおっきい展示があればいいんですけども。展示や講演会情報あったらこっそりお教えいただけると飛び上がって喜びます。

では今年もよろしくお願い致します。

2019秋伊達登別

観測史上最大とも言われた巨大台風の近づく中、台風の間を駆け抜けて、だて歴史文化ミュージアムの『伊達政宗と伊達成実展』に行ってまいりました! 5月にも北海道行ったし、さすがに年二回北海道はないよね…と思ったのですが、伊達武将隊さんブログで上がっていたポスターが格好良すぎて、即決しました。その後、Tさんも同行してくださるということで、連休のこのタイミングに。

しかし、本当は12日出発予定だったのですが、そのころ巨大台風が関西に最も近づくだろう…ということで、こりゃ飛ばないな…と判断し、11日の夜の便で北海道に向かいました。結局12日の便は全便欠航になったので、変更しなきゃ行けなかったでしょうね。
札幌に住む長年の友人に会いに行き、この日はTentotenという札幌のゲストハウスに泊まりました。1階がおしゃれなカフェバー、2階がドミトリーという造りで、とても綺麗で、過ごしやすかったです。オススメ。
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結構、札幌を満喫してるやんか…。

1日目(10/12)

で、私にとっては2日目だけど初日。いつも同行してくださるTさんと合流。Tさんも午後の便だったら運休していたかもしれないというギリギリのところでやっと到着。そのまま電車で伊達紋別駅まで。
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新しくなった兜オブジェ! ひらっぺたくなっていたのが、やや上向きになり、弦月前立てが毛虫前立てになっています。伊達市のアーティストさんによる造型だそうです。
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きたきたきたー!!
中身は撮影不可だったのですが、政宗・成実の鎧と幟それぞれと、仙道ノ図、高麗御陣で取ってきたとされる香炉、同じく鞍、人取橋感状、政宗→成実書状、政宗→おちゃこ書状、政宗公御軍記3冊などが展示されていました。

来館記念スタンプが超かわいい。
十分堪能したあと、5月の旅で食べ損ねたジンギスカンを食す。
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でも食べ方あってたのかどうかわからないですが。

2日目(10/13)

ミュージアムに行くと、午後2時からギャラリートークがあるというので、しばらく時間をつぶすためにあたりをうろうろすることに。
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伊達邦成・田村顕允が神として祭られている伊達神社へ。
個人情報で申し訳ないと思いながら質問したら、宮司さんは亘理伊達家家臣黒野家の子孫の方だそうです。
そして帰ってきたらちょうど2時頃で、ギャラリートークを聞きました。

20191013ギャラリートーク
・政宗の鎧が北海道に来るのは初めて(本当に歴史上初めてかどうかはわからないので断言はしないけど、少なくともミュージアムに来るのは初めて)。次来るとしても、2、30年はないと思われる。
・人取橋のときに着ていた鎧は政宗と共に埋葬されたものである可能性が高い(史料より)。
・初めは小十郎重綱の鎧もそろえる企画案があったが、痛みが激しく、移動に適さなかったので中止になった。
・政宗の肖像画は歴代藩主の画集みたいなものがあり、それから。よく見るものと違ってやや憂い顔のような斜め下を見るような絵。兜は後ろを向いていて、鎧は大鎧風。
・画集の絵は両面になっていて、裏は何代目かの(ド忘れ)藩主の絵がある。
・成実の肖像画は古美術商に見つけられ、紋や前立て、年代などから特定された。
・肖像画のバックにある青い旗がミュージアム所蔵品から出てきて、それが形通りだったので、肖像画の絵としての信憑性が上がった。棒に引っかける部分に四角い陰陽の模様が入っており、鹿の皮に金箔が貼られている(これも絵と同じ)。
・仙道ノ図は成実が描いたものをリメイクしたものを江戸時代にコピーしたもののコピーと思われる。
・朝鮮から持ってきた香炉については特に言及なし。
・朝鮮から持ってきた鞍は、鳳凰と龍が螺鈿細工で描かれた、大変貴重なもの。
・政宗の日輪の旗は湯殿山に誕生を祈願した話から。旗と前立てで、日と月を表している。
・政宗の三日月前立ては外れる。三日月は木に金箔を貼ったもの。運ぶ用に箱がある。正直言って成実の前立ては運ぶの難しい。
・政宗の鎧は、面頬のあごのところに九曜紋あり(汗を落とすためのもの)。通常はただの丸穴。
・成実の鎧は市博の人が驚くほど重い(1.5倍くらい?)
・鎧の背筋や脛当てのふくらはぎの部分が発達してる。胸元も政宗のものと比べると大きめ。
・試し撃ちの跡がたくさんある(胴正面や草摺の一枚一枚に)。
・人取橋感状は新しいのでは?それもありうる。年代の間違い(政宗が17歳との誤り)、筆蹟の違いなどから、祐筆が書いた可能性、写しである可能性などあり。
・おちゃこ宛書状の切り込みの入れ方(切れた跡がある)。
・亘理伊達家所有の成実記(政宗公御軍記)は全三巻。写本であることが書かれている。

しっかりと覚えているのはこれくらいかなあ…見てるだけではわからない情報満載で、良かったです!
ギャラリートークは決まった日に行われるので、是非参加を!
また歌みくじをやったのですが、どうしても成実のは出ず(泣)。
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こんな看板もありました!
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そして伊達におさらば。オロフレ峠を越えて登別温泉へ。入浴剤と一緒で、色が白かったです。
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ちょうどこの太陽の沈むあたりが伊達市なのだそうです。すごく綺麗!!
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3日目(10/14)

そして登別温泉。地獄谷へ足を伸ばしました。
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そして幌別にある登別資料館へ。登別温泉ターミナルから、登別駅経由の資料館行きバスが出ています。
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2階に片倉家の移住に関する資料、家臣の鎧など、1階にはかつての民具など、多くの資料が展示されていました。
片倉家移住に関する本なども販売しており、伊達家家臣団の北海道移住に興味がある方は是非とも訪れて欲しい資料館でした!


だて歴史文化ミュージアムで入手した図録。すごい力作です!

これは登別郷土資料館で入手した、片倉家の移住に関しての本。


だて歴史文化ミュージアムで購入した伊達の風土最新号では、去年行われた能「摺上」の上演経緯について書かれてました。

旅自体は大変有意義で楽しかったのですが、帰宅したら亘理・角田を初め宮城県・福島県の多くの地域が大変なことになっていて、複雑な気持ちになりました。
被災地の方々の安全と速やかな解決をお祈りいたします。もうこれ以上自然災害は起きて欲しくないですよね…。

『正宗公軍記』1-2:大内備前、別心の事附会津義広御表裏に依り御弓箭を起す事

『正宗公軍記』1-2:大内定綱、反逆のことと会津義広の態度の相違により戦になったこと

原文

天正十三乙酉、大内申上候は、雪深く普請も成り難く候間、御暇申請け、在所へ罷帰り妻子を召連れ、伺候申すべく候。其上数年、佐竹・会津御恩賞相請け候御礼をも、申上げたくと申すに付きて、御暇下され候。其後雪消え候へども罷登らず候。是に依つて、遠藤山城方より、罷登るべき由、度々申遣し候へども参らず候。後には、何と御意候とも、伺候申すまじき由申払ひ、大内御退治なされ候はば、会津・佐竹・岩城・石川、近年仰せ組まれ御一党に候所に、御敵になされ候の事、輝宗公、御笑止に思召され大内伺候申す様に、御異見なさるべくと思召し候て、宮川一毛斎・五十嵐蘆舟斎両使を以て御意候は、罷登り然るべく候。田村への御首尾迄を以て、斯様に仰せられ候間、其方身命知行、少しも気遣ひ申すまじく候。輝宗公御請取なされ候由、仰せ遣され候へども、御意は過分ながら、斯くの如くに申上げ候上は、縦ひ滅亡に及び候とも、伺候申すまじき由申候。又重ねて、片倉意休斎・原田休雪斎両使を以て、仰せられ候は、気遣ひ申す所、尤に思召され候。左様に候はば、人質を上げ申すべく候。其身罷登らず候とも、正宗公へ御訴訟なされ下さるべきの由、仰せ遣はされ候へども、何と御意なされ候とも、人質をも上げ申すまじく候由申払ひ、大内親類大内長門と申す者、米沢へも節々使者に参り、御父子共に御存の者に候。後は我斎と申し候。彼の者、休雪・意休に向ひ申し候は、正宗公、大内御退治は、存じ寄らず候由申し候。剰へ、散々悪口申すに付いて、両人の御使者、腹を立て、其方共、米沢へ「    」*1御退治なされ候か。末を見候へとて罷帰り、則ち其段披露致し候に付き、御父子共に弥々口惜しく思召され候。其後、会津より御使者として仰せられ候は、大内備前儀、御赦免なさるべく候はば、米沢へ遣すべく候。此方に於て少しも介抱申すまじき由、仰せ越され候へども、内々は会津の御底意を以て、備前逆心申す由、聞召され候に付いて、原田左馬之助・片倉小十郎を召出され、右の品々、具さに仰せ聞けられ、会津御表裏に於ては御無念に候間、御手切なされたく思召し候へども、大切所多く候間、会津の内に、御味方仕るもの一両人も候はば、御弓矢なされたく思召し候由、仰出され候。原田左馬之助申上げ候は、会津よりは、一段御懇なる御使者にて、大内備前申払ひ候事、不審の由存候へば、扨は会津よりの御底意を以て、逆心候哉、是非なき御事に候。会津へ御手切御尤に候。左様に候はば、拙者与力に平田太郎左衛門と申し候者、会津牢人に御座候。彼の者を差越し、一両人も御奉公申す様に、才覚仕らせ申すべき由申上候。正宗公御意には、左様の才覚も仕るべきものに候哉の由、御尋ねなされ候へば、底意は存じ申さず、当座の才覚能き者に御座候。其上御奉公の儀に候間、如才仕るまじく候由、申上ぐるに付いて、左候はば申付くべく候由の御意にて、差越し候所に、会津北方柴野弾正と申す者、御味方仕るべしと申上候。其外にも、二三人同心の方御座候。当方へ御出馬に於ては、手切仕るべき由申候に付いて、五月二日に原田左馬之助を、猿倉越と申す難所を越させ、弾正所へ差越され候所に、弾正、城も持ち申さず、少し抱へよき屋敷に居申候て、手替仕候所へ、左馬之助罷越し、火の手を揚げ候の所に、会津衆、殊の外乱れ申候。方々より人々助け来り候へども、何れも替り候。其後気遣ひ申す所に、右繕の使仕り候平田太郎左*2衛門、又会津の人数へ懸り籠り替る衆弾正一人にて候。原田左馬之助無人数にて、一頭越し申候由申すに付いて、其時、会津衆心安く存じ、一戦仕り候間、左馬之助敗軍致し、与力下*3中数輩討死、弾正妻子共に召連れ引除き候。正宗公、同三日に檜原へ御出馬なされ、檜原は則ち御手に入り候へども、御隠密の御手切故、長井の御人数計り召連れられ、総人数参らず候間、御出陣触なされ、御人数参り候を相待たれ候。人数大塩の城へ籠め置き、堅固に相抱へ、大切所にて大塩の上の山まで、八日に御働きなされ候。下へ打さげらるべき地形も、之なき大山にて、道一筋に候故、後陣の衆は、檜原を引離れざる様に、細道一筋にて罷成らず一働なされ、不肖*4の衆は相返され、檜原に御在陣なされ候。会津へは御手切候へども、二本松境は手切も之なく、八丁目に伊達実元隠居仕り候所へ、二本松義継より、細々、使を御越し御懇に候。其仔細は、会津・佐竹は、御味方に候へども、本々より二本松・塩の松は、田村へも、会津へも、佐竹へも、弓矢の強く候所へ頼み入れ、身を持たれ候身上にて候間、此度も伊達強く候はば、実元を頼み、伊達へ御奉公申すべき由、義継思召し、御懇切に候故、手切之なく候の條、拙者事は、八日に大森を罷立ち、九日に檜原へ参り、直に正宗公御陣屋へ伺候致し候所に、御意には、二本松境如何候哉と、御尋ねなされ候。先づ以て、静に御座候。義継も大事に思召され候哉、打絶えず親実元所へ、遊佐下総と申す者、我等親、久しく懇切に候彼の者を使に預り、又飛脚をも預り申候。彼の境は、御意次第に手切仕るべき由、申上候へば、御前の人を相払はれ、会津への御手切の段、原田左馬之助合戦に負け候様子、残なく仰せ聞けられ、会津に御奉公の衆之なく候間、何れも大切所にて成さるべく候様之なく候て、御人数相返され候。定めて昨日人数に会ひ申すべき由御意候て、二本松は先づ赦免申すべく候。両口の手切は、如何候由御意候。拙者申上候は、会津に御身方申候衆、御座なく候はば、猪苗代弾正を、引附け見申すべく候由申上候へば、手筋も候哉と仰せられ候間、羽田右馬之助と申す者、猪苗代家老に、石部下総と申す者へ、筋御座候て、別して懇切に御座候。幸ひ此度、召連れ伺候仕り候の由申上げ候へば、則ち右馬之助を召出され、猪苗代に其身好身のある由、聞召され候間、状を相調へ越申すべき由、仰せられ候に付いて、御前に於て状を認め申候。拙者・片倉小十郎・七ノ宮伯耆状をも相添へ申すべき由、仰せられ候間、何れも状を書き申し候。此状共、檜原より、猪苗代へは三十里の間、之依り遣はさるべく候由、返事は大森へ差越すべく候間、早々罷帰るべき由、御意なさる。拙者申上候は、今日は人馬も草臥れ候。其上、日も晩刻に及び申候間、明日罷帰りたき由申上候へば、二本松境弥々御心元なく思召され候。此方に居り候て、御用なく候の間、一刻も急ぎ申すべき由、今夜の宿はつなきの民部に仰付けられ候。先へ遣され候間、早々罷帰るべき由、御意に候の條、檜原を日帰致し罷帰り候。此七ノ宮伯耆は、久しき会津牢人にて、不断御相伴を仕り、御咄衆に候。会津衆何れも存候故、差添へられ候。左候へば、四五日過ぎ候て、檜原より御使として嶺式部・七ノ宮伯耆、大森へ差越され、猪苗代よりの状共、御披見なされ候へば、合点に候。御大慶なされ候。其方此口に居り申さず候間、其許より繰り申すべき由にて、両人遣され候。人も存ぜず候所に、宿申付け差置かれ、本苗代より罷出て候三蔵軒と申す出家を、使に申付け、出湯通を越し申候。書状の文言には、檜原より進じ候御返答披見申し候。正宗へ御奉公之あるべき由、満足仕り候。此上は、望の儀も候はば、具さに承るべく候。正宗判形を調へ進ずべく候由申付け、弾正望の書付を越す。
一、北方半分、知行に下さるべく候事。
一、拙者以後に、御奉公申され候衆候とも、会津に於て仕置の如く、座上に差置かれ下さるべく候。御譜代の衆には構之なく候事。
一、御弓矢思召し候様に之なくとも、猪苗代引除き候はば、伊達の内にて、三百貫文堪忍分を一つ下さるべく候事。
右三箇條の外、望も御座なく候由、書状相認め差遣し申され候に付いて、式部・伯耆、大森に逗留致し、書付計り檜原へ上げ申候。正宗公御覧なされ、書付の通り、少しも御相違あるまじく候。弾正、書付を御前に差置かれ、引退き候時分の堪忍分、早早御書付下され候由にて、刈田・芝田の内、所々朝指三百貫文、御書付御判に差添へ遣され候。式部・伯耆は、御書付拙者に相渡し、則ち檜原へ罷帰り候。又三蔵軒に御判を持たせ、猪苗代へ差越し申候。二三日過ぎ罷り帰り候て申す様は、御判形相渡し申候。去りながら子息盛胤、会津御奉公是非仕るべき由、申され候間、之を如何様に催促申候て、手切れ仕るべき由、申越され候。一両日過ぎ候て三蔵軒を遣し候。早々手切れ申され候様にと、申上候へども、盛胤合点申されず候間、家中二つに別れ、如何はしく成り候由にて、手切れ罷り成らず候。会津への御弓矢なされず候て、檜原に新地を御築き、後藤孫兵衛差越され、御入馬なされ候。

語句・地名など

喜多方:喜多方市
猿倉越:米沢市と喜多方市の境の大峠

現代語訳

天正13年乙酉の年、大内定綱は「雪が深く、工事も進めづらいので、しばらくお暇をいただけましたら、城へ戻り、妻子を引き連れて、御奉公したく思います。それに、数年間佐竹・会津に恩賞をいただいていたお礼も、申し上げたいのです」と言うので、政宗は定綱にしばらくの時間を与えた。その後、雪が消えたというのに、やってくることはなかった。
このため、遠藤山城基信から、こちらへくるようにと何度も言って使わしたのだが、来ることはなかった。ついには、なんと命n令されようとも、使えることはないということをきっぱりと言ってきた。もし大内定綱を退治するのならば、会津・佐竹・岩城・石ここ数年共に言い合わせて仲間となっているので、輝宗公は、もし敵にまわしたならば、大変なことになると思われ、輝宗は大内定綱に伊達に奉公するように意見を言った方が良いとお思いになり、宮川一毛斎・五十嵐蘆舟斎という二人の使いを送り、米沢へ上るべきである、田村とのいさかいの成り行きまでも含め、このように仰ったので、大内の身上や知行については、心配することはない、政宗ではなく輝宗の采配に任されたということをいい渡されたが、定綱は「そのお心は大変ありがたいことであるが、このように申し上げた上には、たとえ滅亡することになっても、伊達に仕えることはない」と言った。
再び、片倉以休斎景親・原田休雪斎の二人の使いを送って、「心配するところはもっともである。それならば、人質をあげるのが宵だろう。その身で来ることはなくても、政宗へ訴えるべきである」と仰ったのだが、「なんとお考えになられても、人質を上げることはない」と言い、大内定綱の親類の大内長門という、米沢へもたびたび使いとしてきたことがあり、輝宗・政宗親子ともによく知っている者がいた。後には我斎と名乗ったこの男が休雪斎・以休斎に向かって政宗が大内を退治することはないだろうと言った。あまつさえ、さんざん悪口を言ったので、二人の使者は腹を立て「おまえ達が米沢へ来るか、退治されるかどちらかだ。先のことを考えろ」と言って米沢へ帰り、すぐにそのことを政宗に申し上げたところ、輝宗・政宗親子ともどもますます残念に思われた。
その後、会津から使者がやってきて「大内備前定綱のことをお許しになるのであれば、米沢へ遣わすでしょう。こちらにとっては関係のないことです」と言ってきたが、うちうちでは、会津のかくれた考えにより、定綱が反逆したことをお聞きになったので、原田左馬助宗時・片倉小十郎景綱をお呼びになり、以上のことを詳しく仰り、会津の裏表な態度には無念であると思うので、関係を切りたいとお思いになられたが、しかし大きな要害が多くあるので、会津の中にこちらに寝返る者がひとりふたりでもいれば、戦をしたいとおっしゃった。原田左馬助宗時は「会津からは、特に仲良くしている使者で、大内備前がそのように言ったことは、不審であると思われます。もしかしたら会津からの内々の考えで反逆しているのかもしれません。それは仕方ないことです。会津への手切はもっともなことであると思います。それならば、私の与力に平田太郎左衛門(太郎右衛門)と言う者、かつては会津に仕えており、今は牢人となっております。この者を送り、ひとりふたりでもこちらへ寝返る者がいるように、仕掛てみるべきではないでしょうか」と申し上げた。政宗が「そのようなしかけも出来るであろうか」とお尋ねになると、「心の中の考えは知らないが、さしあたっての機転のきくものでございます。その上、寝返りのことについては、問題なくすることでしょう」と言ったので、政宗はそうであるなら、そう命じるようにとお思いになられ送ったところ、会津の喜多方の柴野弾正という者が、寝返り、味方になると言ってきた。その他にも、2,3人味方になるという者が現れた。政宗がそちらへ出陣するのであれば、手切すると言うことを言ってきたので、5月2日に原田左馬助宗時を猿倉越という難所を越えさせ、弾正のところへ送ったところ、弾正は城も持たず、保ちやすい屋敷に居り、代わって仕事をしていたところへ、左馬助がやってきて、火の手を上げたところ、会津の者たちは思った以上に取り乱した。あちこちから援軍が来たが、それも心変わりした。その後心配していたのは、この寝返りを仕組んだ平田太郎左衛門、また会津の軍勢にかかって、心変わりし、寝返りするのは弾正一人になった。
左馬助は無勢であったので、ただ一頭できたと言うことを聞いて、そのとき会津の衆は安心して一戦を行ったので、左馬助は敗北史、与力のものたちが多く討ち死にし、弾正妻子を連れて退いた。
政宗は同じく3日に檜原へ出陣なされ、檜原はすぐに手に入ったのだが、内密の手切であったため、長井の手勢のみ連れ、総軍を連れてこなかった。そのため出陣のお触れを出され、軍勢がくるのをお待ちなさった。その間、会津の軍勢は大塩の城へ籠城し、堅く守り、大きな要害であったので、大塩の上の山まで、8日に戦闘を仕掛なさったが、備えを立てるべき場所もない大山で、道一筋であったので、後からきた衆は、檜原をはなれることができなかったので、細道一筋で出来ない戦闘をなされ、小身の衆は返され、檜原に在陣なされた。
会津へは手切なさったけれども、二本松との境は手切することなく、伊達実元が隠居している八丁目城へ、二本松義継から、ほそぼそと使いを遣わし、親しくしていた。というのも、会津・佐竹の味方ではあったのだが、昔から二本松と塩松は、田村へも、会津へも、佐竹へも、戦の強いところを頼り、身代を保っていたところであるので、今回も伊達が強いのであれば、実元を頼り、伊達へお仕えすると義継は思い、親しくしていたのであった。そのため手切はなかった。
私は8日に大森を出発し9日に檜原に行き、直接政宗の陣屋へ行ったところ、「二本松の境はどうであるか」とご質問になった。「ひとまず静かでございます。義継のことも大事に思われておられるのでしょうか。いつも私の父の実元のところへ遊佐下総という者がいつも来ております。私の父が非常に親しくしているこの者を使いにし、また飛脚も受け持っております。二本松の境の手切は、政宗のお心次第でございます」と申し上げると、政宗は人払いをし、会津への手切のこと、原田左馬助が合戦に負けたようす、残らず仰られ、会津に、寝返る者がいないので、いずれの城も大きな城であるので、できることがなく軍勢をお返しになった。昨日軍勢を返すということを仰り、まず二本松のことは許さなくてはと思われた。両方面での戦はいかがであろうかとお聞きになった。
私は会津に寝返る者がいないのであれば、猪苗代弾正をこちらに引き付けるおはどうだろうかと言った。「つてはあるのか」と仰ったので、羽田右馬助という者が、猪苗代家老の石部下総という者とつてがあるので、特に親切にしていた。幸い、今回右馬助を連れてきておりましたと言ったところ、すぐに右馬助をお呼びになり、猪苗代によしみの有ることをお聞きになり、書状を調え、送るようにと仰られたので、政宗の御前で、書状をしたためた。私・小十郎・七ノ宮伯耆の書状も添えて送るべきであると仰ったので、三人とも書状を書いた。
この書状は、檜原から猪苗代までは30里の間、これから使いをおくるので、返事は大森へ送るので、すぐに帰るようにとご命令になった。私は「今日は人も馬もくたびれている。そのうえ、日も遅くなったので、明日帰りたい」と言ったが、二本松境のことがますます心もとなく思われたのだろう。ここにいても仕方ないので、一刻も早く帰るようにとのことで、今夜の宿は綱木野民部に命じられていた。先に使いを送ってあるので、すぐに帰るようにとご命令になったので、檜原から日帰りした。
この七ノ宮伯耆という者は、長く会津で牢人していた者で、普段は相伴衆で、お話をする者であった。会津の者を良く知っているので、付けられた。
すると、4,5日過ぎて、檜原から、大峯式部と七ノ宮伯耆が大森へやってきて、猪苗代からの書状を御覧になり、寝返りが決まったので、大変お喜びになった。「あなたはここにいなかったので、こちらから送った」と二人の使いをお送りになった。知らないうちに宿も言いつけられ、差し置かれ、猪苗代から出てきた三蔵軒という僧侶を使いに申付け、出湯通を越えてきた。
書状の文言には、檜原から送られてきたご返答が書いてあった。政宗へ味方することに満足しており、この上、望むこともあるので、詳しく書いてあった。
政宗は書状を調え送るように命じ、弾正は望むところの書付を送ってきた。
・北方半分を知行にくださるように。
・私の後に寝返る者がいても、会津においてそうするように、私を上座にしてください。譜代の衆には関係ありません。
・戦が思ったようにいかなくとも、猪苗代を退いたときは、伊達の領内で、300貫文の知行をくださるよう。
右の3カ条のほかは望むものはないと書状を書いて送ってきたので、式部と伯耆は大森に逗留し、書付のみを檜原に送った。政宗はこれを御覧になり、書付の通り、少しも相違のないようにすると誓われた。猪苗代弾正は書付を政宗にお送りになり、退いたときの知行について早々と書付くださったので、刈田・柴田のうち、300貫文を与える旨を書付に添えておつかわしになった。式部と伯耆は政宗の書付を私に渡し、すぐに檜原へ帰った。また三蔵軒に花押を記した正式な書状をもたせ、猪苗代へ送った。2,3日過ぎて帰ってきていうところには、書状は無事渡した。しかし子息の盛胤が会津へ仕えるべきであると言ったので、これをどのように催促して、手切すれあびいかと言ってきた。2,3日すぎ三蔵軒がやってきた。早く手切するようにと言ったが、盛胤が合意しないので、猪苗代家中は二つに分かれ、大変難しい状況になったので、手切は出来なかった。会津への戦ができなかったので、檜原に新地を築かれ、後藤孫兵衛を城代をして、御自身は先にお帰りになった。

感想

基本的には『政宗記』『伊達日記』と同じ流れですが、段落の切れ目が変わっています。その二つと比べて、少し長めです。

*1:召し上げられ候か

*2:

*3:家か

*4:小身か

『治家記録』寛永11年2月23日条

『治家記録』寛永11年2月23日条

原文

廿三日庚辰。天気好、寅の刻(午前4時)伊達安房殿成実宅へ御出、数寄屋に於て御茶饗し奉らる。亭主御花を望み申し、水仙花と梅を出さる。水仙は長く、梅は短く伐て出されしを、公山礬是弟梅是兄といへる事ありと仰せられ、水仙を短く伐り、梅をば長く継て入れ玉ふ。
巳刻(午前10時)表へ御出、御能仰付らる。竹生島・兼平・井筒・鵺・道成寺・小袖曾我・杜若・邯鄲・見界、以上九番あり。安房殿より大夫に時服二重、□惣役者に一万匹、舞台に於いて賜へり。
公より安房殿へ御時服十御夜着一賜ふ、安房殿より御馬一匹黒毛、綿百把、板物三十端献ぜらる。
子刻(午後12時)御帰。
今夜、寅刻安房殿宅出火、家屋不残焼亡し、肴町一町裏向かひ類火す。先刻、公御帰りの時分、今夕は火事御心許なく思召さる。用心せらるべき旨仰せられ、鎖間へ御入り、炉の底を御手自取り玉へり。火事と言ふを聞かせられ、安房殿宅なるべしと仰せられ、即ち御使を遣さる。又井上九郎兵衛を御使者として、御懇に仰遣さる。其後佐々若狭を以て、早々仙台屋敷へ移さる様にと仰遣さる。今日安房殿宅に於て怪異あり。御能以前、未明に桜井八右衛門はしかかり、幕の内より舞台を見るに、はしかかりに二三箇所黒き所あり、高井十右衛門に見すれか血なりと云ふ八右衛門も寄りて見る。又屋上の箱棟に生首二つ見えたり。今日翁の面を懸るに穢なりと思ひ、十右衛門は幸いに奈良の禰宜なり、祓い清めさせ、翁を勤む。箱棟の生首を夜明て見れば、鳶の二羽止り居れるなり。人々奇異の思をなすと云々。
また兵部殿宗勝小袖曾我の能を舞はる。小野宗碧見て殊の外に褒美し、且つ公へ向て不敬の言を申す。公聞召し付けられざる体に御座せば、猶以て再三高声に申す。因て御立腹あり。御腰物鞘の儘に彼が頭を撃破らる。伺候の輩宗碧を御陰へ引立去る。公鎖間へ入り玉ひ、中島監物貞成、佐々若狭元綱を以て御申の時節斯くのごとくの事、近比御心許なく思召さるといへども、御能見物の中には他国の者もあるべし、不敬の挙動其儘には差置れ難し。因て斯くのごとくに、罰せらる。亭主心に懸けられまじき旨、安房殿へ仰遣され、宗碧をば即ち桃生郡深谷荘大塚浜へ差遣さる。
然るに先年越後少将忠輝朝臣へ台徳院殿御成の時、兼日御手水前の木を公の御物数寄を以て植置る処に、宗碧兄道巴と云ふ者、公の御物数寄なる事をしらざるにや、散々の植様なりとて植直したり。台徳院殿此木は誰が植たると向ひ玉ふ。道巴が植直したるとは御存知なく、公の植玉へる由を忠輝朝臣仰上らる所に、植様悪く思召さるの旨上意あり。其後公聞召し及ばれ、植直したる事を口惜しく思召さるといへども、台徳院殿へ仰分らるにも及ばざれず。此事に就て、年来御心底には宗碧をも悪み玉へり。然るに今度宗碧妻子御預けの時宗碧が甥上方より参りたる者の由申す。尋問はるれば道巴の子なり。公聞召され、道巴が御意に違いたるを存しながら、其者の子を数年隠し置事後闇き仕形なりと憎み思召され、宗碧並びに子供甥共に死罪に行はる。
廿四日辛巳。伊達安房へ書状送る。
廿八日乙酉。伊達安房殿を饗せらる。安房殿へ書院を造り賜ふべき旨仰出され、御絵図を成し遣はさる。

現代語訳

『治家記録』寛永11年2月23日条
23日。天気良く、寅の刻から伊達安房守成実宅へお出かけになり、数寄屋において茶席の饗応をうける。亭主の成実が花を望み、水仙花と梅を出した。水仙を長く、梅を短く切ってだしたところ、政宗は「山礬は弟、梅は兄と言うことがある」と仰り、水仙を短く切り、梅の方を長くして継いでお入れになった。
巳の刻表へ出られ、能会が始まった。竹生島・兼平・井筒・鵺・道成寺・小袖曾我・杜若・邯鄲・見界、以上の九番の演目が演じられた。成実から大夫に時服二重、すべての役者に□一万匹を舞台の上で与えた。
政宗から成実へは時服十と、夜着一つを与えた。成実は黒毛の馬一匹、綿百把、板物30端献上した。
子の刻お帰りになった。
この夜、寅の刻安房屋敷から出火し、家屋残らず消失し、肴町一町うらむかいに類焼した。先ほど、政宗が帰るとき、今日の夕方は火事のことを心もとなくお思いになった。用心するようにとご命令になり、鎖の間へお入りになり、炉の底を御自分の手でお取りになった。火事であるとお聞きになって「安房殿の屋敷だろう」と仰り、すぐに使いを送った。また井上九郎兵衛を使者として、非常に手厚く扱った。その後佐々若狭を以て、早く仙台屋敷へ引っ越すようにと仰ってきた。
この日、安房殿屋敷に於いて、怪異があった。能の前、未明に桜井八右衛門がはしかかり、幕の内から舞台を見たところ、はしかかりに二三ヶ所黒き所あり。高井十右衛門はそれを見て血なりと言った。八右衛門も寄って見た。また屋上の箱棟に、生首が二つ見えた。今回翁の面をかけるのに、穢れであると思い、十右衛門は幸いにも奈良の禰宜であり、祓い清めさせ、翁を務めた。箱棟の生首を夜明けて見れば、トンビが二羽止まっているのであった。人々は気持ち悪いと言い合った。
また、兵部殿宗勝小袖曾我の能を舞った。小野宗碧はこれを見て非常に褒め称え、かつ政宗に向かって不敬の言葉を言った。政宗は聞こえないふりをしていたが、さらに再三大きな声で言うので、ご立腹なされ、刀を取り、鞘の儘に宗碧の頭を打ち破った。控えていたものたちが宗碧を陰へ引っぱっていき、立ち去った。
政宗は鎖の間へお入りになり、中島監物貞成、佐々若狭元綱を以て仰ったのはつぎのような事であった。
この頃老いについて心もとなくお思いであると思うが、今回の能見物には他国の者もあるであろうし、不敬の言動を、そのままにしておくことはできない。なのでこのように罰した。亭主が気になさることないようにと成実へ仰り、宗碧をすぐに桃生郡深谷荘大塚浜へ送った。
それに、先年越後少将松平忠輝へ台徳院秀忠御成のとき、手水前の木を政宗の見立てで植えさせていたのだが、宗碧の兄道巴という者が、政宗が数寄に通じていることを知らなかったのだろうか、散々な植えかたであると言って植え直した。
台徳院はこの木は誰が植えたと面と向かって聞いた。道巴が直したとは知らず、政宗が植えたと忠輝が申し上げたところ、植え方が良くないと思うとの御言葉であった。その後、それを政宗は聞き及び、植え直したことを口惜しくお思いになったけれど、台徳院へ言い訳することも出来なかった。
このことについて、日頃心の底では宗碧をも憎んで居られた。すると、今回宗碧の妻子を預けるとき、宗碧の甥上方から来たとの知らせが来た。尋ねてみれば、道巴の子であった。政宗はそれを聞き、道巴のことを政宗が良く思っていないことを知りながら、その子を数年隠していたことを後ろ暗いところがあったのかと憎く思われ、宗碧並びに子供・甥ともに死罪にした。
24日伊達安房成実へ見舞いの書状を送る。
28日伊達安房を饗せらる。書院を作る様にと仰り、絵図をかきお渡しになった。

感想

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇

原文

一、有年、伊達安房成実若林の屋敷新宅出来、吉日を選び太守公被為成候。朝は御茶の湯過候て、鎖の間にて色々飾り薄茶を終わって書院に出御、外舞台にて御能作法のごとく、大夫に唐織と箔の物太刀折紙、惣役者つみ銭百貫、太守公御長袴召させられ候故惣侍長袴也。書院上座真中に御着座、御敷居の内に石川民部殿伊達安芸殿伊達武蔵殿白川殿岩城殿、次の間に御一家御一族、御挨拶の為、御縁側に松前市正法橋衆衣体衆、見付のの御際に宿老衆、一間ほど引き下がって年寄衆に茂庭周防奥山大学、書院の座とまりに石母田大膳片倉小十郎、少引き下がって大身衆段々伺候す。どなたまでも御作法正敷御事にて御能始まる。此頃伊達兵部殿千勝と申侍りしが、其日能二番鵺と小袖曾我めされ候。宗碧とて京方の者なれども御伽の衆に御取たて御知行百貫被下年老たるものなれば、別而御不憫におぼしめし、其日も朝の御茶の湯相伴仕り、沈酔やいたしけん又天命やつきけん、御座敷の縁側に中座して能を折折誉めけるが、千勝殿いたいけなる能をみて太守公御側近くさし出て、千勝殿御能扨も扨もしほら敷御事かな。あれを御覧して御誉めあれかしと申上る。太守公聞こしめし笑はせ給ひて見事能する也、其方は年寄役にただ物ほめ候へと仰られ、御一門衆に御向かひ、宗碧か為体今朝数寄屋にて少被下たる酒に酔い、さし出ておのおの御覧候前にてむさと申度ままの事申也。年ほど無念なるものはなし。酒までも弱くなる事不憫なりとの給ふ。成実御意のごとく年の寄るほど万口惜しき事御座なく候。此頃は殊の外衰へ見へ申候など御座興になる。しかあれどもなをさし出てとやかく申せとも、それぞれに御あしらひ酒に酔いたるな、しばし陰にたち休息して出よとの給ふ。なを御側近く参り、まったく御酒には被下酔申さぬ由申上る。酒に酔わすば乱心するかと笑わせ給ふ時、又申上るあの御子の御能御覧候て泣かせられぬは強き御心なりと申上る。聞こしめさぬふりにて御挨拶なけれは、や、殿殿あれを見あれ、さりとては心強き御人かなと申候へば、俄に御気色かわって御側なる御腰の物とらせられ御座を立たせ給ひながら、宗碧が天辺を鞘まま二つ三つしたたかに打たせられ、近頃空け尽くしたる奴かな、所から悪しければ首は助くる、座敷追ったてよとの給ひて入らせ給ふ。宗碧黒衣の衣装たちまち色変して立ち退く。其の後御家老衆を以て御亭主始め御一門衆へ仰訳也。唯今は近頃無礼見苦しくおぼしめし候はん事拠なし。さりながら予が存る所聞給へ。宗碧と申者は各々も御存のごとく、別而不憫を加へ取立てのものなれば、如何様の事申も常は赦し、荒き風にも当たらぬ様にと側近く召し使ふ所に、今日の仕方は乱心したると見えたり。あるいは野山又は密なる所にての事ならば、日頃愛したる者なれば、目先もちかふ間愛し置候事も候はんつれども、けふは国にをゐては晴がましきもよほし、芝居の白洲に数百人とり入候もの、たとえば一ヶ国のもの一人づつは有べし。然れば天下の目晒のみる所にて聞かぬふりにてあるならば、かのもの共国元へ帰り、いつぞや奥州へ下りし時、政宗親類に伊達安房とて有しかたへ振舞の時能ありし。尤其身も中納言にへあかり一門家老作法正敷様には見えけれども、伽する坊主いかにも親しく子供衆の能するを、座興とはおもへども尾籠の至り、其まま愛しをかれたるはかねてさようの仕掛と見えたり。さなくは空けものを愛す人か、音に聞きたると見たるは格別違うぞと、とりどりにいわれんは口惜しき事なりと、是をもっての義也。亭主も心に懸けられず、各々もさように存ぜらるべし。こなたに機嫌悪しき事なしと仰訳候へば、いづれも至極の御意なりとてやがて出御、終日能終わって帰り給ふ時、火の用心肝要也と被仰付、鎖の間にしばし被成御座、佐々若狭石田将監被召出、何と哉ん火事出んと、ややもすれば胸にたたす。内衆は此ほどの草臥に今日振舞過隙明たると油断有べし。両人は御跡に止まり、屋敷中用心よく申付帰るべしと残しをかる。さるによって両人心の及ぶ所は見届け、そこそこに不寝の者をきて帰る。明方近き頃、置囲炉裏の火よく消し水をかけ子細なしと置たる所より、火底の板に焼けぬけ燃へあかり、成実の屋敷残らず並びの町二三町消失也。太守公さればこそ不思議なれ、城へ帰り候ても火事といふ様にはかり思ひ、随分用心しての上にも焼け候事は天命也とて、翌日より御自身指図あそばされ作事御取立て也。扨又前に申たる宗碧事、御側ちかく被指置たる御慈悲に身命は御助け、陸近き島に流し、物をも心安く被下様にいたし、妻子は其島近所の城主に飢へここへぬ様に宛行預け置べしと奉行衆に被仰付、かくて三十余日経ぬ内に宗碧天命尽きたる印には、宗碧が兄道巴とて生心つきたる茶の湯好くもの有。一年江戸にをゐて、御婿上総守殿両上様へ御茶御上候付、御路次数寄屋の物数寄は政宗へ御頼候へと御内意によって頼み申度旨、上総守殿被仰候。これによって日々御通ひ路次御取立て、すでに御手水前の石共、袖すりの木御植へさせ、明日の事に申べしとて御帰の跡へ道巴御見舞申上る。上総の守殿道巴に方々見たるか、其方は茶の湯の心あれば木などの曲がりたるなどよく見よとの給ふによって、御路次へ参り、此石悪し此木の植へ所悪しきなど申て、石三つ四つ直し申也。木も一二本植へなおす。翌日太守公御出御覧して、是は上総の守直し給ふかと問ひ給へば、道巴が業なりと申。何者なれば上総殿の路次といひ、我等植へさせたる木を直す事推参至極、にくきやつかな是非つれて参れ、木石の悪き子細を尋ね晴れなきにをゐては、見せしめのため路次に獄門にかけて木を直させんと御腹立ち給へば、行衛なく逃げ失せぬ。尋ね給へども見えず、此意趣はれんれん探し出してとおぼしめせども、兄弟といひながら宗碧は御国にはかりさしをかるるものなれば、さのみ御祟りもなき所に、かの道巴が子供を宗碧所に数年隠し置、今度妻子御預けの時此ものは甥にて他国の者なりと知るる。道巴口惜しくおぼしめす事は、存の前にてかやうに御後ろ暗き事口惜しくおぼしめし、宗碧親子道巴が子供御成敗也。天罰逃れがたしとみな人申あへり。前に申安房殿屋敷にをゐて色々不思議なる事有と後に人々申也。太守公御成の一日前に路次の掃除最中に、いつく共なく鳶二つ中にて組あひ、路次の木の中へ落ると等しく二つながら死にけり。又其夜鼬いくつといふ数しらず、書院広間の庭に出て駆け歩き食いあひて、塀の控へ柱に伝わり屋根に上がり、天水桶の水をすくひたて浴びなどして、西隣の屋敷をさして行き去りぬ。又楽屋にて桜井八右衛門翁表を箱の蓋の上に飾り、いつものごとく神酒を供へ候所に、脇にたて置たる役者の刀、五六腰転びかかりぬけたり。大夫心に今日道成寺のあるに気の毒なりとて、行水などして観念し、すでに大夫幕際にかかり、面箱持ちの立ち上がり出る跡を見れば、なるほど凝りたる血吊橋の方へ四五ヶ所こぼれて見ゆる。大夫みて外へ行たるほどに、内に怪我はあらじと心に思ひ出たると也。宗碧が仕合、屋敷の火事後に人是を不思議といふ也。
*此ヶ条相違無御座候。私も其日罷出御能見物仕候。安房殿やしきにての物怪は不存候。舞台にて血こぼれ申候儀は、桜井八右衛門直咄承候事。

語句・地名など

鎖の間:六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室。
薄茶:抹茶の一種。製法は濃茶と変わらないが、古木でない茶の葉から製したもの。また、それでたてた茶。濃茶より抹茶の分量を少なくしてたてる。
法橋衆・衣体衆:僧侶衆
天水桶:防火用に雨水を貯えておく大桶。昔は屋根の上・軒先・町かどなどに置き、雨樋の水を引いた。

現代語訳

ある年、伊達安房成実の若林城近辺の屋敷が新築され、吉日を選び政宗が御成なされた。朝は茶の湯を過ごし、鎖の間にていろいろと飾り、薄茶を終わった後、書院に出、外舞台で能を行った。正式な作法通り、大夫に唐織りと箔の物太刀・折紙を与え、すべての役者に100貫を与えた。
政宗が長袴を着られたので、すべての家臣たちが長袴を着けた。書院の上座の真ん中に政宗がお座りになり、敷居の内に、石川民部・伊達安芸・伊達武蔵・白川・岩城らの一門衆が、次の間に一家・一族の者たちが居並んだ。挨拶のため、縁側に松前市正ら僧侶衆、目付の際に宿老衆が、一間ほど下がった所に年寄り衆と茂庭周防・奥山大学、書院の座とまりに石母田大膳・片倉小十郎がおり、少し下がって大身衆が一段一段列になって並んでいた。どの人であっても作法の通りにして、能会が始まった。この頃、後の伊達兵部宗勝は千勝と呼ばれていたが、その日能を二番、鵺と小袖曾我をなさった。
宗碧という京の方の者であるが、御伽衆に取り立てられ、知行100貫を与えられていた者がいた。年寄りなので、特別に気の毒だと思われ、その日も朝の茶の湯の相伴をした。酷く酔ったのか、それとも天命が尽きたのか、座敷の縁側の真ん中に座り、能をそのときそのとき誉めていたが、千勝丸の幼くかわいらしい能を見て、政宗のそばちかくまで出てきて、「千勝殿のお能は大変優美なものである。あれを見てお褒めになられますように」と申し上げた。
政宗はそれをお聞きになり、お笑いになって、「能は見事である。おまえは年寄りの役目としてただものを褒めていろ」と仰られ、一門衆に向かって、「宗碧のていたらくは、今朝数寄屋にて少し与えた酒に酔い、でしゃばってみなの見ている前にてむさ苦しく、いいたいことそのまま言っている。年を取ることほど無念なものはない。酒までも弱くなることは気の毒であるなあ」と仰った。成実は「仰ったとおり、年の取ることほどすべてにおいて口惜しいことはない。このごろはとくに衰えてしまっている」と冗談を言われた。
しかし、それでも宗碧はなおでしゃばってとやかく言ったが、政宗はそれぞれに挨拶をいい、「酒に酔わないように。しばらくかげに出で休んでこい」と言った。宗碧はなお側近くに居り、「まったく酒には酔っては居ません」と言った。「酒に酔わないのであれば乱心するか」とお笑いになったとき、また「あの御子息の能を御覧になって、お泣きにならないのは強きお心であります」と言った。政宗は聞こえなかったふりをして、返事をしなかったが、「や、殿、殿、あれを見なされ、それにしても心強い御方ですなあ」と言ったところ、急に政宗の様子が変わり、お側にあった刀をお取りになり、お立ちになりながら、宗碧の頭を鞘をつけたまま2,3回強く殴打した。
「もううつけつくしたのか、このような場であるから、首は助けてやる。座敷から出ていけ」と仰って、お部屋におこもりになった。宗碧の黒い衣はたちまち色が変わり、その場を退いた。
その後、家老衆を介して饗応の主人である成実をはじめ一門衆へ言い訳をされた。
「ただいまの言動はこのごろ礼義がなく、見苦しく思われることは仕方ない。しかしながら私の思うところを聞いて下さい。宗碧と言う者は、皆様も御存知の様に、特に気の毒に思い、取り立てた者であるので、どんなことを言っても普段は許し、世間の荒い風にもあたらぬようにと、側近く召し使っていたところに、今日の様子は乱心したかと思った。野山や、または内々の所でのことであったならば、日頃愛情を傾けていた者なので、目先も近いほど愛したこともあったけれども、今日は国に於いて、晴れがましき催しであり、芝居の白洲に数百人もの人が集まっている。その中には、一国のものが一人ずつは居るだろう。なので、天下の衆目が集まっているところで、聞かなかったふりでそのままにしておいたなら、その者たちは国元に帰り、『いつぞや奥州へ言ったとき、政宗の親類の伊達安房というところで振る舞いのとき、能があった。政宗は中納言にまで出世し、一門・家老たちも作法正しくしているように見えるけども、伽をしていた僧侶はいかにも親しげに子供が能をするのを、冗談とは思うけれども、礼義をわきまえないことしきりで、そのまま寵愛して側においておるのは、いつもこのような感じなのだなと思える。そうでなければうつけものを愛す人なのだろうか、噂で聞くのと、見るのではかなり違うぞ』といろいろといわれるのは口惜しいことであると思っての事である。主人も気にせず、みなもそのように思ってくれ。おまえたちに対して機嫌が悪いわけではない」と仰ったので、みなこの上ないお考えであると思った。
やがて政宗は現れ、一日中能が行われ、終わってお帰りになるとき、火の用心が大事であると仰られ、鎖の間にしばらく居られ、佐々若狭・石田将監を呼び出され、「なぜだろうか、火事になるのではないかと、もしかしたらという予感がする。この屋敷の者たちは今回の支度でくたびれ、今日の振る舞いが終わり、隙があるから油断があるだろう。二人は後に止まり、屋敷中の用心をよく言いつけて帰れ」と置いていった。そのため、若狭・将監の二人は気がつくところはすべて見届け、至るところに寝ずの番を置いて帰った。
明け方が近い頃、置き囲炉裏の、火をよく消し、水をかけ、問題ないと思っていた所から、底の板が火があがり、燃え上がり、成実の屋敷は残らず燃え、並びの町2,3町も焼失してしまった。
政宗は「やはりそうだったか、不思議なことだ」と城へお帰りになっても火事のことばかりを思い、あれほど用心したのに火事になってしまったのは天命であると言って、翌日から御自身で指図され、工事を行われた。
さて前述した宗碧の事だが、御側近く仕えていたため、慈悲を以て命はお助けになり、陸の近い島に流し、何事も問題ないようにして、妻子は島の近所の城主に、飢えたり凍えたりしないように扶持を与えて預けよと奉行衆にご命令になった。30日過ぎないうちに、宗碧の天命が尽きた理由には、宗碧の兄で、道巴という、中途半端に茶の湯を好く者があった。1年江戸に於いて政宗の婿である上総守忠輝殿、両上様へお茶を献上したため、路次数寄屋のしつらえは政宗へ頼めとのお心であったので、政宗に頼みたいと上総守殿は仰られた。
このため、日々お通いになる路次作りをされ、すでに手水前の石や袖すりの木を植えさせ、明日には完成させようとお帰りのところに道巴が見舞いに来た。上総守は道巴に「あちこちを見たか。おまえは茶の湯の心得があるなら、木などの曲がり具合などよく見よ」と仰られたので、路次へ来て、「この石は悪い、この木の植えた場所は良くない」などと言って、石を3,4つ直した。木も1,2本植え直させた。
翌日、政宗がお越しになり、御覧になり、「これは上総守がお直しになったのか」と問うと、道巴がしたことであると申し上げた。「上総の守の路次であり、私が植えさせた木を直すなど、無礼の極みであり、何者のつもりであるか。憎いやつである。是非連れて来い、木や石の悪いという理由を聞き、ハッキリとした答えがないのであれば、路次に獄門にかけて、木を直させよう」と腹をお立てになったので、行方知れずになって、逃げて消えた。行方をお尋ねになっても見つからず、このときのわだかまりは長く続き、探し出したいと思っていたが、兄弟とはいえ、宗碧は国元にばかり置いていたので、それほどお怒りもなかったところ、この道巴が子供を宗碧の所に数年隠しおいており、今回の妻子がお預けになったとき、この者が甥で、他国の者であったと知った。道巴にたいして口惜しくお思いになる理由は、このように後ろ暗い事を口惜しくお思いになり、宗碧親子と道巴の子供を処刑なさった。天罰からは逃れがたいと人はみな言い合った。
前述した安房屋敷においていろいろと不思議なことがあったとのちに人々は言った。政宗の御成の一日前に、路次の掃除をしている最中に、どこからともなくトンビが二つ飛んできて、くみあい、路次の木の中に落ちると、二つとも死んだ。またその夜イタチが数えることが出来ないほど多く、書院広間の庭に出て、走り、歩き、食い合って、塀の控え柱を伝わって屋根に上がり、防火用の桶の水をすくいたてて浴びるなどして、西隣の屋敷を向かって行き去った。
また楽屋にて桜井八右衛門、翁の面を箱の蓋の上に飾り、いつものように神酒を供えていたところ、脇にたておいていた役者の刀、5,6本倒れて、抜けた。大夫は、今日は道成寺があるのに気持ちが悪いと、行水などをして心を静め、大夫が幕際にかかり、面箱持ちが立ち上がって出ていったあとを見ると、たしかに固まった血が吊り橋の方へ、4,5ヶ所こぼれているのが見えた。大夫はこれを見て外へ行ったのは、内にけが人はないだろうと思ったためである。
宗碧の出来事、屋敷の火事のことは、のちに人々は不思議なことだと言った。
*この条のことは間違いないことである。私もその日屋敷に行き、能を見物したのである。安房殿の屋敷でのおかしな事は知らない。舞台にて血こぼれが有ったことは、桜井八右衛門の話を直接聞きました。

感想

寛永11年2月に、若林城のそばにできた成実屋敷での出来事を書いた記事です。
この記事は他の書物にも書かれており、『政宗記』10-1:成実所振舞申事、『名語集』42にも記事があります。
sd-script.hateblo.jp
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それぞれは筆者が違い、視点が違うのがこの記事のおもしろさになっています。
『政宗記』『名語集』では、饗応が行われたこと、政宗が宗碧について激怒したこと、政宗の弁明、火事の話題に続き、遠島になった宗碧が一ヶ月後に処刑されたところで終わっていますが、木村宇右衛門は他にも屋敷におかしな事件が起きたことを述べ、宗碧の兄道巴がそもそも政宗の怒りを買っていたことを記し、終えています。特に謎の血痕については、「直接聞いた」と注に述べるほどです。
『政宗記』では若林の町についてと、政宗の弁明、それに対する成実本人の感慨が中心で、『名語集』では宗碧事件を中心に、そして『木村宇右衛門覚書』では木村宇右衛門が見聞きしたことが加えられています。
こういう事件があったこと、政宗がどう語ったかはほぼ共通しており、こういう事件があったことは事実だと思われますが、それぞれの記事から違う事情が伝わってきて非常におもしろいです。

『木村宇右衛門覚書』目次

『木村宇右衛門覚書』について

仙台伊達家から昭和26年に仙台市へ寄贈された伊達家寄贈文化財の中にあった一資料である。江戸時代には「木村氏覚書」「木村宇右衛門書立」と称されることもあった。上中下巻の3巻からなる。
内容は伊達政宗が晩年に小姓の木村宇右衛門に語った様々なことを木村が書きとめたもので、184項目、政宗の出生から政宗の死後の慶安5年(1652)5月24日の17回忌までの記事が記されている。
木村宇右衛門可親(よしちか)は元の名を森右衛門といい、9歳の頃から奥小姓として政宗に仕えた。政宗死後職を離れたが、忠宗より慶安5年(1652)に30貫文の知行を宛がった。延宝3年(1675)4月に老齢を理由に隠居。覚書の成立は政宗の17回忌にあたる慶安5年に間もない時期と考えられる。
主人公政宗と書き手右衛門の同時代性こそが、本資料の最大の魅力である。
————小井川百合子編『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』序より抜粋・要約

当ブログはあくまで成実が書いたとされる各書の紹介・考察を目的としておりますが、内容比較のために、成実が登場する項や『政宗記』『成実記』や『名語集』と重なる項を紹介していきたいと思います。

『木村宇右衛門覚書』は小姓木村宇右衛門可親(よしちか)が政宗が語ったことを記した、政宗言行録の一つ。小井川百合子編『伊達政宗言行録-木村宇右衛門覚書-』として公刊されております。近習の小姓ならではの視点で、政宗の言ったこと・日頃の行動・考え方などを記した書で、とても読み物として面白いです。
成実の各書や『名語集』と違う特徴としては、

  • ものすごく記憶力がいい人だったようで、細かいディティールが詳しい
  • 都合の悪いことをかかない傾向がある成実や、感情に走りがちな『名語集』筆者と違って、自分の感情を入れず、聞いたこと・見たことを比較的正確に記している(と思われる)
  • 政宗のフィルターが入っているので、あくまで「こういうことにしておいた事」ではあるが、他の史料にない独自の記述がたまにあって興味深い
  • ただし木村のフィルターは成実のフィルターより薄いと思われるので信用できる
  • 成実より信用できる(大事なこと二回言いました)

『名語集』42:伊達安房屋敷にて宗碧を手討にす、同屋敷失火

『名語集』42:伊達安房の屋敷にて宗碧を手討にする、同屋敷の火事

原文

一、或時、伊達安房守殿にて、ことごとく作事出来し、日がらを以て、貞山様を御申入れられ、朝は御数寄屋、さてそれより御書院に於て、いづれも御親類衆・大身・小身、みなみな長袴なり。御主様も御長袴めさせられ、万事御作法ただしく見えさせられ、御能終日、御見物あそばされ候。其の日、兵部大輔殿、鵺をなされ候。惣別、御はなし御挨拶のためにとて、御相伴衆をも、御座敷の縁側にさしおかれ候。御相伴衆のうち、宗碧とて、京方のものにて御座候を、別して御取立て、知行百貫文が、所役なしに下され、年もより申したるものなれば、いよいよ不便におぼしめし候事、ななめならず。その日も宗碧、御相伴仕り、御書院にて御親類衆の中につらなり、御縁側御座近う、さしおかれ候。兵部大輔殿、御能なされ候に、諸人感を催しける。まことにいたいたしける御事にて、音曲、拍子にかなひ、御かたち優に見え給へば、御前にても、御機嫌一入御よく見え、見物の上下、感涙胆に銘じける。折ふし、かの宗碧、感にたへず、醉興の心やきざしけん、また御機嫌に入らんとや存じけん、御座近く躍り出で、「兵部大輔様の御能、さてもさても」と、聲を上げ、頭をさすり、立ちあがり立ちあがり、ものの音もきこえぬほど、浮気にたちふるまひ申す。貞山公にても、憎しとおぼしめし候へども、御座敷の興に御もてなし、それぞれにあひしらひ、さしおかれし所に、たちまち御罰やあたりけん、なほしづまらで、御膝近くねぢより、「やあ殿よ殿よ、あれよく見たまへ。いかなる夷鬼神なりとも、いかでか泣かであるべき」とて、聲をあげて泣き叫ぶときに、俄に御気色変り、御側なる御腰の物、抜きうちに、しとど討たせらる。されども命をば不便とや、おぼしめしけん、薄手おふせて、御腰の物を引かせらるる。件の宗碧、黒衣たちまち赤く染めかへる。さて、御座敷を立たせられ、わきの座敷へ御入なされ、奉行衆を以て、御亭主安房守殿はじめ、各へ仰せ分けらるるは、「只今の様子、みなみな慮外とおぼしめし候はんこと、痛み入り、恥ぢ入り申し候。御亭主へは、今日、いかやうの事ありとも、腹立つことゆめゆめあらじと、かねてより思ひ候処、不慮の事、是非におよばず。さりながら、よく物を分別して、各も御覧候へ。この宗碧事は、別して取立てのものなれば、いかなる事ありとも、免して朝夕不便を加へ、今日まで候ひしぞかし。その上、今日の事は、内々のことなどならば、いかほど申すとも、結句、時の興とあひしおき申すべきが、けふの能見物とて、庭上に数百人とり入り候。わが国なれば、袴なしにも楽に見物せまく候へども、かやうに貴賤行儀正しくとり行ふ事も、われを重んずる故ならずや。国のものどもをも恥ぢて、われさへ乱りの無きやうにと、心づかひは為いでかなはぬ身なり。又けふの芝居の中に、一国の者、一人づつはあるべし。かやうの儀、そのままにしておくならば、国々へ帰りて、いつぞや奥州へ下りし時、政宗の親類、安房守といふ人の所にて能ありしに、万事行儀正しきやうにふるまひけれども、側に年比の相伴坊主ありけるが、子息兵部大輔殿能のとき、殿や殿やあの子供の能を見て、泣かぬはあまりなりなどと、いかにも心安げにいひけれども、その通りにてありける。人は聞いたると、見たるとは、各別ちがふものよ。官も中納言ぞかし。似はぬなどと、とりどりに言はれんは、くちおしき次第なり。只今の腹立ちは、ここを以ての儀なり。亭主へ何もさはる事なし。さあれば、わが機嫌のあしき事もあるまじ。おのおのも、心をほどこし、気遣ひなく、能をも御らん候へ」と、御使を以て、何れもへ仰せ分けられ候ゆえ、いづれもありがたき御事、御諚尤もと感じ申され、其の後、御本座へ出御あそばされ、いよいよ御機嫌よく、終日御能御らんじ、夜に入りて御帰り遊ばされ候が、ここに希代不思議に、諸人存じたてまつり候御事は、日暮れ申すと、御前衆、或は御小姓頭衆など、召させられ、「何とやらん、今宵火事出来せんと心中にたへず。亭主方のものは、皆くたびれ候はんに、こなたより申付け、用心つよくさせよ」と、ひたすら仰付けられ、御立ちざまに、御自身、くさりの間の爐のうち御取らせ、水など御かけさせ、わざと数寄屋へ出御なされ、爐の中を御らんじ、そのうへ、佐々若狭を召させられ、「いかさま、今夜火事出でんと思ふなり。其方、跡にとどまり、爐中爐中に水をかけさせ、罷り帰れ」と、仰付けられ、御帰城なされ候。諸人も心つき、なるほどなるほどと火事の用心仕り、少しもあたたかなる所へは、水をかけ申すやうに仕り候へども、その暁、水をよくかけ申し候置囲炉裏より、火あまり、房州御屋敷、残りなく火事いたし、並びたる御町も、あまた焼け申し候。諸人、胆を消し、易からぬ御事と、舌をふるひ申し候。次の日、即ち御自身、御指図を以て、御作事悉くなされ進ぜられ、日頃御取立ての宗碧をば、諸奉行衆に仰付けられ、「日頃の御取立て、不便におぼしめされ候間、身命相助けられ候。里離れたる島へ流し候へ。さりながら、扶持などは迷惑いたさぬやうに」と、仰付けられ、又「成人の子供をば、その島近所の城代に預けおくべし。女房以下をば、親類にあづけ候へ」と、仰付けられ候。かやうに事済み候てのち、三十余日を過さぬに、不慮のことありて、宗碧父子御成敗なされ候。天命のほど、諸人身の毛を立てて、恐れ申さぬはなし。

地名・語句など

所役:役目・任務
不便:迷惑/可哀想
いたいたし:可哀想だ・気の毒だ/程度のはなはだしいさま
一入(ひとしお):いっそう
鎖の間:六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室。

現代語訳

あるとき(寛永11年2月23日)、伊達安房守成実の屋敷の工事がすべて終わり、よき日を選んで、貞山様(政宗)をお迎えになった。朝は数寄屋にて茶を、その後書院にて能を見ることになった。親類衆・身分の高い者、低い者も、みな長袴を着け、政宗も長袴をお着けになって、すべて作法の通りになさり、一日中能を見学なされた。
その日、兵部大輔宗勝は鵺を演じなされた。普段、お話や挨拶のために、相伴衆を家臣とは別に取立て、座敷の縁側に置いておられた。その相伴衆のうち、宗碧という、京のものを、特に取立て、100貫文の知行を役目なしにお与えになっている者があった。年も取っている者であったので、ますます面倒だと強く思われていた。
その日も宗碧は相伴し、書院の親類衆の中にまじり、政宗のいる縁側の近くに置かれていた。宗勝が能をしたとき、人は皆感動した。まことにすばらしいようすで、音曲や拍子に負けず、踊るさまが優美に思われたので、政宗もいっそう機嫌よく思われ、見ていた者たちはみな感動して涙を流し、心に刻んだ。
そのとき、その宗碧は感動がすぎ、また酒に酷く酔ったのか、また政宗に気に入ってもらおうとおもったのだろうか、政宗のいたところの側までおどりでて、「兵部大輔様のお能はさてもさても」と声をあげ、頭をさすり、立ち上がって、ものの音もきこえぬほど、うかれて振る舞った。
政宗も憎らしいとお思いになったけれども、座敷の雰囲気に、もてなしなど、それぞれに手を込めて手配したことが、すぐさま台無しになるだろうと思われたのだろうか、宗碧はまだ鎮まらず、政宗の膝近くねじより、「やあ殿よ殿よ、あれをよく御覧なされ。いかなる東の鬼神であっても、泣かないということがありましょうか」と声をあげて泣き叫んだとき、急に政宗の様子が変わり、そばにあった刀を抜いて急に打ちかかり、しとどに濡れるほどお打ちになった。しかし、命をとるのは可哀想であるとおもったのだろうか、浅い怪我を追わせて、刀をおしまいになった。この宗碧の黒衣はたちまち赤く染まった。
政宗は御座敷をお立ちになり、わきの座敷へ入られた。奉行衆を介して饗応の主人であった伊達安房守成実をはじめ、それぞれへ仰ったのは「今の様子、皆が何があったのかと思うだろうこと、大変痛み入り、恥ずかしいと思う。亭主の成実に対しては、今日どのような事があっても、腹を立てるようなことは絶対にしてはいけないと、かねてから思っていたのだが、想像外の出来事が起こってしまって、仕方がなかった。しかし、それぞれよく物事を考えてみて欲しい。この宗碧は特別に取立てたものであるので、どのようなことがあっても、許して毎日いらだちを感じており、今日まで側に置いていた。その上、今日のことは、うちうちのことであるならば、どんなことを入っても、結局そのときのふざけとして片付けるが、今日の能見物は庭に数百人の見物人が集まっている。私の国の内であれば、長袴なしで、気楽に見学するけれども、このように身分の高い者から低い者までみな礼義正しく行っているのは、私を重んじるが故のことでないことがあろうか。国の者たちも恥ずかしく思い、私も乱れたことのないように心遣いをしていたが、叶わなかった。また、今日の見物人の中に、様々な国の者が一人ずつはいるだろう。このようなことをそのままにしておいたなら、それらのものたちが国に帰り、いつだったか奥州へいったときに、政宗の親類の安房守という人の所で能があったときに、すべて行儀正しいように振る舞っていたけれども、そばにいた年配の相伴坊主が子息の宗勝の能のとき、『殿や殿や、あの子供の能を見て泣かないのはおかしい』などといかにも心安くいっていたけども、その通りだ、人は聞いたり見たりするのとはそれぞれ違うものだ。官位は中納言だろう。身分に見合わないなどといろいろ言われるのは、口惜しいことである。ただいまの腹立ちはそのことであり、饗応の主には何の障りもない。なので、私の機嫌が悪いはずもない。みなもこころをほどき、気遣いすることなく、能を見るがいい」と使いを介してみなへ仰ったので、そこにいたものはみな、有り難いことであり、御言葉はもっともであると感動なさった。その後政宗は元々の場所へお戻りになり、ますます御機嫌良く、一日中能を御覧になり、夜になってお帰りになることになった。
ここで大変不思議なことだとみなが思ったことなのだが、日が暮れたところ、側近く仕えている者や、小姓頭たちをおよびになり、「どうしてだろうか、今日夜、火事が起こるのではないかという予感がする。館の主の家臣たちはみなくたびれているだろうから、こちらから言いつけて、用心を強くさせよ」と何度も仰った。出発するときに、御自身で鎖の間の炉のうちをお取りになり、水などをかけ、わざわざ数寄屋へお入りになり、炉の中をごらんになり、その上、佐々若狭をお呼びになり、「どのようにかわからぬが、今夜火事がおこるのではないかと思う。おまえはここにのこり、それぞれの爐中に水をかけさせて、帰ってこい」とご命令され、城にお帰りあそばされた。
みな気を付けて、なるほどなるほどと火事の用心をし、少しでもあたたかなところには水をかけるようにしたのだが、その暁、水をよくかけておいた囲炉裏から火が出て、安房守の屋敷は残らず燃え、並んだ町も数多く燃えてしまった。みな大変に驚き、滅多にないことだと、舌をふるって言い合った。
次の日、すぐに政宗は御自分で指図をして、もう一度工事をやり直すように仰り、日頃取り立てていた宗碧を奉行衆にご命令になられ「日頃の取立てで、哀れに思ったため、命は助ける。人里離れた島へ流せ。しかし食い扶持などは不便の内容に」とご命令になり、また「成人した子をその島の近所の城代に預けおけ。女房たちは親類にあずけよ」と御命じになった。このように事が終わった後、30日も経たぬうちに、予想外のことがあり、宗碧親子は処刑された。天の命令であるとみな鳥肌を立てて恐れて言わぬ者はなかった。

感想

寛永11年2月23日に行われた、新築成実屋敷の饗応での出来事、及びその翌日の火事についての記事です。この日はいわゆる「御成」であり、朝から茶の席・長袴を着ての能見物がありました。
この日は様々なことが起こりました。
この能会は、様々な国から来た数百人の見物人がいたことが政宗の言い分からわかります。普段ならば長袴を着ることもなく、気軽に見るけれども、この能会は皆が長袴を着けており、フォーマルなものとして行われたようです。この能舞台が臨時のものか常設のものかははっきりとはわかりませんが、数百人が見られるということから、かなり大がかりなものであったことがわかります。
そこで、宗碧という相伴衆が酔っ払ってか機嫌を取ろうとしてか、ひどくみっともない様子をしたため、政宗は怒り、宗碧を殴打したあと、部屋に籠もってしまいました。政宗は亭主(成実)には関係ないと言ったあと、ふたたび能会は進みます。
そこでまた事件が起こります。
帰ろうとした政宗は火事が起こるのではないかと考え、念入りに火の用心をさせます。佐々若狭らにも命じ、また成実の家臣たちにも強く言い、用心をさせました。
しかし、その翌日の明け方、なぜか消したはずの囲炉裏から火が出て、成実屋敷は焼失してしまい、廻りの町をも燃やしてしまいました。
正直、この火事に関しては何があったんだかよくわかりません。
怪異なのか、政宗の逆説的な命令で館を燃やしたのか。町まで燃えるとなると大ごとです。何があったんでしょうね。
この事件があったあと、28日に政宗が成実を召して、自ら新しい屋敷の指図をしています。

この記事は他の書物にもかかれており、『政宗記』10-1:成実所振舞申事や、『木村宇右衛門覚書』20にも類似記事があります。
『政宗記』10-1はこちら↓
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こちらは亭主(=成実)側の記録らしく、どのように用意していたか、またこの事件を思い出しての成実自身の感慨などの記述が詳しいです。

『木村宇右衛門覚書』ではさらに宗碧を殴打するまでに政宗と成実がそれをどうにか紛らわそうとしてか、イヤミを言っているシーンなどもあり、非常におもしろいです。とにかくこれは非常に大変な事件だったようです。
(この記事はまた後日アップしたいと思います)