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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『世臣家譜』亘理伊達家:初代〜四代まで

はじめに

『世臣家譜』は仙台藩の家臣についての史料で、仙台藩の命で藩儒田辺希文・希元・希績三代の父子が、一門以下百石以上の平士の全藩士について、家祖から安永・明和年間までの系譜を調査し、編纂したもの。

もちろん亘理伊達家は一門第二席として記録されています。
原文は漢文ですが、拙書き下し文と一応の現代語訳(もちろん間違ってるとこ多々あります)を載せます。実元・成実の事項はよく知られていますが、宗実の記述のおもしろさ(笑)を分かっていただきたくて…。
従来は亘理伊達家の代を数えるときは、家祖:実元、初代:成実…とするのが一般的だったのですが、現在は本家から分かれた実元を初代とし、成実を二代とする傾向のようです。なのでその順にします。ので、過去の本などの記述とずれているときはそうお考えください。

初代:実元(さねもと)

大永七年〜天正十五年四月十六日(1527〜1587)
法名:独照院殿雄山豪英大居士

伊達姓は藤原、其の先は当家十四世直山公より出で、直山公第三男従五位下兵部大輔(小字は時宗丸または藤五郎、老いて栖(棲)安斎と称す)実元(一名真元)を祖と為す。天文十一年六月年はじめ十六、外祖上杉兵庫頭貞実、養うを以て嗣となす。太刀宇佐美長光一口、竹雀紋幕を贈り、かつ実の一字を授く。使者来迎す、刻是月二十三日を以て、当家家臣桑折伊勢宗保、中野常陸宗時ら内乱を起こすに会い、是を以て行くを果たさず。のち信夫郡大森城に居し、信夫郡のうち三十一邑・名取郡のうち二邑を領す。保山公の時(年月闕く)角田城主田手式部大輔宗光相馬に属し、城に拠りて世子に背く。(性山公と謂ふ)実元兵を率い之を攻む。冬より春に至り、公之を憂ひ、是年夏五月公より之と和解し、此のとき中野常陸宗時、姦謀を以てまさに公と世子を離間せんとす、公石母田より保原に駕を移し、光明寺住僧を世子の営中に遣はし、異志無きを告ぐ。実元最上義守・磐瀬盛義・磐城親隆らとともに謀り、終にこれと和解す。
天正二年性山公のとき、命を奉りて八丁目(二本松城主畠山右京大夫源義継支城なり)を攻む。
十一年老いを告げ、後に八丁目茶臼城に退隠す。

伊達、本姓は藤原、その祖先は伊達家14世直山公(稙宗)から出ており、稙宗第三男従五位の下兵部大輔(幼名は時宗丸または藤五郎、老いたあと栖安斎と名乗る)実元(真元という説あり)を家の祖とする。
天文11年、16のときに外祖父上杉兵庫頭貞実*1養嗣子とし、太刀宇佐美長光一口と竹雀紋の幕を贈り、加えて「実」の一字を授けた。
使者が来た6月23日、当家の家臣桑折伊勢宗保・中野常陸宗時らが内乱を起こしたため、越後への入嗣ができなかった。のち信夫郡大森城に住み、信夫郡のうち31村、名取郡のうち2村を領していた。
保山公晴宗のとき、角田の城主田手式部大輔宗光が相馬に服属し、城にこもって世子性山公輝宗に叛く。実元は兵を率い、これを攻めた。冬から春に至り、晴宗はこれを憂えてこの年の夏五月和解した。このとき中野常陸宗時が謀をめぐらし、晴宗と輝宗の仲を裂こうとした。晴宗は石母田から保原に移り、光明寺の住職を輝宗の陣中に遣わし、逆らう意思のないことを告げた。実元は最上義守・磐瀬(二階堂)盛義・磐城(岩城)親隆らとともに謀り、最終的にこれと和解した。
天正2年性山公輝宗のとき、命を受けて八丁目城(二本松畠山右京大夫源義継の支配化にあった城)を攻めた。
天正11年、家督を相続し、のち八丁目茶臼城に隠居する。

二代:成実(しげざね)

永禄十一年〜正保三年六月四日(1568〜1646)
法名:雄山寺殿久山天昌大居士

実元子安房(初め藤五郎又兵部を称す)成実、天正十三年貞山公のとき、塩松城主大内備前定綱叛き、成実公とともに謀りてこれを撃つ。是年冬会津盛興・佐竹義重・岩城常陸三将一同仙道本宮表において軍し、公対陣のとき、成実群を離れ、敵陣猛兵の間に在り、既に危急・奮撃戦功有り。此を人取橋の役と謂ふなり。十四年二本松城を降し、成実移りて保つ。安達郡二本松信夫郡八丁目三十三邑之を領す。十六年六月佐竹義重・会津義広仙道郡山に陣し、之より十八年に至りて数戦功あり。十七年六月公会津葦名平四郎義広と摺上原において戦ふ、義広敗績す。白河に走り、是において公城を会津黒川に移す。十八年公関白秀吉公と小田原において謁す。成実を黒川城に留めせしむ。是年大崎葛西一揆蜂起す、蒲生飛騨守氏郷、浅野弾正少弼長吉これを攻む、公之を前鋒となす。公氏郷に讒する者ありて、氏郷これを疑い、これにおいて成実質となる。氏郷の陣に在りて、氏郷京師に適いて逮し、これを二本松において送り、成実ついに帰る。十九年九月公岩出山城(これより前は米沢に在り)に移るのとき、伊具郡十六郷を賜り、角田城に移り住む。文禄二年朝鮮の役に従ひ、帰朝して後伏見邸に在り、四年成実故有りて伏見邸を去り、紀州高野山に退去す。留守政景・石川昭光ら、桑折点了斎・蟻坂丹波を遣はし、再三これを規す。聞かず。これにおいてその長臣羽田右馬助実景に命じ、成実家臣に角田を去らしむ。成実既に所在しれず、これにおいて公屋代勘解由兵衛景頼(とき岩出山城代なり)に命じ、成実家臣角田をさらしむ。もし命を承らずんば、討ちてこれを取り、景頼兵を率いて角田に至り、実景私宅に拠りてこれを拒み、死者三十余人、余りは威に当たりて出奔す。景頼ついに角田城を収むといふ。成実のち相州小田原糟谷邑に退去し、東照廟姑、廩米百口(或いは一万石といふ)公之を訴え故に止む。慶長五年関原の役、上杉景勝五万石を以て(或いは三十万石といふ)成実を招く。以て公の鋒に当たらしめんと欲す。成実辞して受けず。是年七月石川昭光・留守政景・片倉景綱ら、諷諭してこれを帰す。成実すなわち公に謁見し、是月また白石の役有り。命を奉り、石川昭光の軍に属す。このとき廩米百口を給ふ。六年三月公書を賜り、成実及び亘理美濃重宗に麾下の兵を指揮せしむ。七年十二月公また書を賜ひ、亘理城(片倉備中景綱旧城なり)を賜ふ。明くる年ここに移住す。十一年六月公第一女(五郎八姫と称す)、越後少将忠輝に嫁す。成実命を奉り、駕を送り、台徳廟に謁す。幕下に佩刀(国光)及び時服を賜ふ。
元和元年五月大阪の役に従ひ、麾下の火器隊士(徒小姓組)を指揮せしむ。首七級を獲る。二年五月世子(義山公といふ)あまた書を賜ふ。是月成実馬薬及び馬医書を献ず。三年九月命を奉り、世子婚礼の事を預かり、婚礼おわんぬ三日、世子に従ひ備前宰相輝政卿の第に詣づ、輝政卿佩刀を賜り、是月公及び世子婚成を以て将軍家に謁す。成実これに従ひ、台徳廟及び大猷廟に拝謁し、時服(或いは小袖十領羽織二領と云ふ)を賜ふ。五年五月公江戸城を修むに会い、公に代わりて江戸へ奉使す。(このとき大條薩摩実頼これに副い、他数人これをあたう)是時帷子五襲を賜ふ。六月成実実頼世子に従ひ将軍幕下に拝謁し、幕下これを為すことに慇懃の言を賜ふ。九月公親書及び■(さかなへんに厥)魚を賜ふ。十一月将軍幕下に拝し、時服を賜ふ。七年二月江戸に奉使の命あり(是より先、将軍家白金を賜ふ、故に公成実を遣はし、これを拝謝す。成実果たして発や否や詳らかならずと云ふ)。八年九月最上家滅ぶに会い、衆六百人を率ひ、野辺沢氏の居城を収む。寛永五年田二千石(宇田郡のうち十邑)加増し、十年正月石母田大膳宗頼を介し、兵馬の数を録するの書を献じ、おおむね歩騎凡そ千百六十九人、馬百五十五匹と云ふ。十一年二月公を少林別荘に饗し、成実公に請ひて花を挿すを以て、水仙花を切る。長く梅の花を剪り、短く以てこれを献ず。公山礬これ弟、梅これ兄と語りて誦ふ。親ら水仙花を断ち、之を短くし、梅花を継ぎ、これを長くし、以て之を挿す。能九番あり。公時服十領寝衣一領を賜ふ。成実馬(黒毛)一匹、白綿百屯板物三十端を献ず。是夜成実宅失火し、ことごとく焼亡す。公書を賜ひ、書院を営造せしむ。(其の家伝に云ふ、公を饗すの日怪異あり、肯山のとき実氏命を奉り、其のことを記す。これにのぼり、公亦嘗て聞く所の事と告げると云ふ)
寛永十四年義山公のとき封内洪水に会い、将軍家白金五千貫目を賜ふ、これを周り、明くる年五月成実群臣に代わり、謝恩の使いを江戸に奉る。時年七十一、将軍家接待特に優れ、閣老列坐し食膳を賜ふ、これに饗す。事おわりて、閣老請ひて軍中戦伐のことを語る。数刻をへて、皆これを嘆賞す。将軍幕下時服二十領羽織十領を賜ふ。成実拝謝してまさに出でんとす、閣老起きてこれを送り、数歩。此日将軍幕下(大猷廟)これを聞かんと欲し、障子を隔ててこれを聞く。深く嘆賞すと云ふ。正保三年二月老いを請ふ。
成実あまた戦功あり。枚挙に遑あらず。事成実自ら撰す所の政宗記(貞山公戦伐の事記す。のち肯山公の覧に供ふと云ふ)に詳らかなり。是より先天正中人取橋の役に在り、最も大功あり。公書を賜ひて以てこれを感賞す。十四年七月二本松城を賜わり、(これよりさき伊達郡大森城を賜ひ、今大森城を以て片倉小十郎景綱に賜ふと云ふ)邑三万八千石を食み、慶長七年十二月公親書を以て居館を亘理郡に賜ひ(治を去ること七里余)、かつ山野・浜を附け、(凡そ百八十石の分と為す)有余の地(本禄に入れずと謂ふ)と為す。成実懇ろに請うて云ふ、本禄百八石を以て官に納め、有余の地を以て本禄に入れ、朱印を賜へと。公命じて曰く、敢えて辞すことなかれと。成実再び請ひて曰く後世子孫何を以て証となし、以て君の恩沢を保つやと。伏して請ふ前請の如くに、と。公その請ひを可とす。これにおいて成実佩刀(宇佐美長光)を献じ、以て恩に謝す。
寛永五年又新地二千石(宇田郡治を去ること十三里余)を賜ひ、かつ山野(十六石五斗分と為す)を賜ひ、有余の地と為す。貞享二年正月肯山公のときに及び、官に其の有余の地(亘理宇田両郡)を納む。成実の孫実氏これを憂ひ、状をつぶさに官に請ひて欲す。桂山世子(肯山公第一男扇千代君、貞享二年八月二十三日夭す。年五歳、法名桂山元久、香林院と号す。江戸白金紫雲山瑞聖寺に葬る)の喪に会い、果たさず。
寛永二十年義山公のとき、田を増やし、かつ経界の余田を加え、併せて二万石の禄と為す。
成実かつて天流刀術を其の臣荒川日向秀秋に学び、その伝を極む。
成実賜物を受くこと枚挙すべからずと云ふ。(貞山公かつて成実の第に臨み、茶を饗す、公成実に請ひて曰く、老来磁器を用ひがたし、請ひて華物の茶器を与えんと。のちに岩城文琳の茶器を後府に探し、佐々若狭某をして之を賜わしむ。成実固辞して曰く、後府の宝蔵、臣の敢えてあたる所にあらずなりと。若狭これに応へて曰く、公足下のために宝器若干品を出す。かつ請ひて曰く、寡人成実と齢を同じくす。及び武勇の才能もまた相若やがす。忠貞また群ならず、何ぞ独り富貴を私し、これを与えずということ有りや。宝器を共にせんや。公の意かくのごとし、足下辞すことなかれと。その後、公成実の催す茶に会す。臘月、公其の茶室に臨み、はじめて賜ふる所の茶器をを用ふなり。成実因って名馬一匹、そのすぐ百金白銀三十枚を献ず。以て君の恩に謝す。成実卒後其の男宗実、以て其の茶器及び佩刀一口を以て義山公に献ず。佩刀則ち貞山公遺物、のち義山公成実に賜ふ所の者なり)
成実子無く、貞山公第九男を養ひて嗣となす。

実元の子、安房(はじめ藤五郎、又兵部を名乗る)成実、天正13年貞山公政宗のとき、塩松城主大内備前定綱が叛いたため、成実は政宗とともに謀り、これを攻撃した。この年の冬会津(蘆名)盛興、佐竹義重・岩城常隆三将が集まり、仙道本宮表において伊達と戦をした。政宗が対陣しているとき、成実は軍勢から離れ、敵陣の猛々しい兵の中にいた。危急の時期であったが、奮戦し敵を討ち、戦功をおさめた。これを人取橋の戦という。
14年二本松城を降伏させ、成実は二本松城に入り、これを保った。安達郡二本松と信夫郡八丁目の33村を領した。
16年6月佐竹義重・会津(蘆名)義広と仙道郡山に出陣し、これから18年に至るまでたくさんの戦功を遂げた。
17年6月政宗は会津蘆名平四郎義広と摺上原で戦う。義広は敗戦し、白河に逃げたので、このため政宗は城を会津黒川城に移す。
18年政宗は関白豊臣秀吉と小田原で謁見する。成実を黒川城の留守居とする。この年大崎葛西一揆が起こる。蒲生飛騨守氏郷・浅野弾正少弼長吉はこれを攻めるため政宗を先鋒とする。政宗のことを氏郷に讒言する者がおり、氏郷は政宗を疑い、そのため成実は人質となり、氏郷の陣にゆく。氏郷は京都に向かうため捕らえる。氏郷を二本松まで送り、成実は帰る。
19年9月政宗が岩出山城(これより前は米沢城に居た)に移るに際して伊具郡16郷を賜り、角田城に移り住んだ。
文禄2年朝鮮の役に従軍し、帰国して後は伏見の屋敷にいたが、4年成実は理由があって伏見の屋敷を去り、紀州の高野山に退去した。留守政景・石川昭光らは桑折点了斎・蟻坂丹波らを遣わして再三帰参をうながしたが、成実はこれを聞き入れなかった。そのため成実は重用していた家臣羽田右馬助実景に、家臣たちに角田を去るよう命じた。成実の所在は既に分からず、このため政宗は岩出山城代であった屋代勘解由兵衛景頼に成実の家臣たちに角田を去らせ、もし命令を受け入れなければこれを討ち取れと命じた。景頼は兵を率いて角田に到着したが、羽田実景は自分の屋敷に籠もってこれを拒み、死者は30人余り、残りは威を恐れて出奔したので、景頼は角田城を接収したという。
成実はその後相模国小田原の糟谷村に退去し、東照廟(家康)はしばらく百石(或いは一万石)を支給していたが政宗がこれを訴えたため、止めた。
慶長5年の関ヶ原の戦のとき、上杉景勝が五万石(或いは30万石という)で成実を誘い、政宗に対する先鋒としてあたらそうと欲して誘うが、成実はこれを断り、受けなかった。この年7月石川昭光・留守政景・片倉景綱は成実を諭し、帰参させた。成実はすぐに政宗に謁見し、この月すぐに白石の役があった。命令を受け、石川昭光の軍に所属した。このとき100石を受けた。
6年3月政宗は書を送り、成実と亘理美濃重宗に配下の兵を指揮させた。
7年12月また政宗は書を送り、亘理城(片倉備中景綱の旧城である)を与えた。翌年ここに移住した。
11年6月政宗の長女(五郎八姫と称す)が越後少将忠輝に嫁いだ。成実は命を受け、駕籠を送り、台徳院(秀忠)に謁見する。佩刀国光と時服を賜わる。
元和元年5月大坂の陣に従軍し、配下の火器隊士(徒小姓組)を指揮し、首7級を獲る。2年5月世子義山公忠宗から多く書を賜わり、この月成実は馬薬と馬の医書を献上した。
3年9月命を受け、世子忠宗の婚礼の責任者となり、婚礼が終わった3日、世子忠宗に従って、備前宰相池田輝政の屋形を訪問する。輝政は佩刀を下され、この月政宗と忠宗は婚礼の成立のため将軍家に謁見した。成実はこれに従い、秀忠・家光に拝謁し、時服(或いは小袖10領、羽織2領という)を賜わる。
5年5月政宗は江戸城の改修工事の命を賜り、名代として江戸へ行く(このとき大條薩摩実頼はこれに副使としてつけられ、ほか数名がこれに従事した)。このとき帷子5襲を賜わる。6月成実と実頼は忠宗に従い将軍・配下に謁見し、幕府の重臣たちは工事の終了に丁寧な礼の言葉を賜った。9月政宗は親書と魚*2を与えた。11月幕府の重臣に謁見し、時服を賜わる。
7年江戸に名代として遣わされる命(これより前に将軍家から白金を賜り、このため政宗は成実を名代として使わし、将軍家に謝辞をのべたが、成実が出発したかどうかはっきりしないという)を受ける。
8年9月最上家が滅んだ際、600人の兵を率い、野辺沢氏の城の受け取りを担当する。
寛永5年田2000石(宇田郡のうち10か村)を加増される。10年正月石母田大膳宗頼を介し、兵馬の数の記録書を献上し、およそ歩騎1169人、馬155匹であったという。
11年政宗を別荘にて饗応し、成実は政宗に花をさすよう願い、水仙花を切った。梅の花を長く切り、短くしてこれを献上した。政宗は「山礬は弟、梅は兄」と語り、となえた。自分の手で水仙花を切り、これを短くし、梅の花を継ぎ、長くしてこれを活けた。能9番が催され、政宗は時服10領寝衣1領を与えた。成実は黒毛の馬一匹と白綿100屯、板物(反物を板に巻き付けたもの)30端を献上した。この夜成実の屋敷は火を出し、ことごとく焼失した。政宗は書を送り、書院の建築を命じた(この家伝では、政宗を饗応した日におかしな事件があった。肯山公綱村の時、実氏は命令を受け、このことを記し、献上した。綱村もまた過去に聞いたことのある話であるといった)。
寛永14年義山公忠宗のとき、領内は洪水に遭い、将軍家から白金5000貫目を賜わる。これをめぐり、明くる年の5月、成実は家臣を代表して、謝恩の使いのため江戸に上がる。このとき71歳であった。将軍家の接待は特に丁寧なものであり、幕府の閣僚たちとならび食膳を賜り、饗応される。饗応がおわったとき、幕臣たちに頼まれて戦の物語を語った。数刻がすぎ、皆これを褒めたという。幕府から時服20領羽織10領を賜った。成実が礼をし、出ていこうとしたとき、幕臣たちが立ち上がり数歩見送ったという。この日家光はこれを聞きたいと思い、障子を隔ててこれを聞き、深く嘆賞したという。
正保3年2月、老いのため家督を相続願いを許された。
成実はたくさん戦功があり、すべてあげることができない。自ら選んで書いた政宗記(貞山公政宗の戦のことを記した書である。のちに綱村の閲覧の為に捧げたという)に詳しい。これより前にまず天正年間中に人取橋の戦に参加し、最も大きな功をあげた。政宗は書を与え、これを褒めた。14年7月二本松城(これより前は伊達郡*3大森城を賜っていたが、その後片倉小十郎景綱に賜っていたという)を賜り、村38000石を領していた。慶長7年12月、政宗は親書を送り、亘理郡(7里と少し離れる)に居館を与え、かつおよそ180石分の山野・浜をつけ、本禄に入れない有余の地とした。成実は丁寧に「本録を108石を藩に納め、有余の土地を本禄にいれ、朱印をください」と頼んだ。政宗は「無理に辞退するな」と命じた。成実は再び「後世の子孫は何を以て証とし、主からの恩恵を保てばいいか」といい、平伏して「元の願いのままに」と願った。政宗はその願いを可とした。このため成実は佩刀宇佐美長光を献上し、恩に感謝した。
寛永5年また新地2000石(治める土地から13里余り離れた宇田郡)を賜り、かつ16石5斗分である山野を賜り、有余の地とした。貞享2年正月肯山公綱村のときになって、藩にその亘理・宇田両郡の有余の地帰した。成実の孫*4実氏はこれを憂慮し、事情の説明を藩に望んだが、桂山世子(綱村第一子扇千代が貞享2年8月23日に五歳で夭折し、香林院桂山元久と号す。江戸白金紫雲山瑞聖寺に葬る)の喪に会い、できなかった。
寛永20年義山公忠宗のとき、田を増やし、境界の余田を加えて、併せて20000石の禄とした。
成実は天流刀術を家臣荒川日向秀秋に学び、免許を皆伝する。
成実は賜り物をさずかること数えるべきでない程多いという。
政宗がかつて成実の屋敷に行って、茶を饗応されたとき、政宗は使いにくい古い磁器の茶器を使っている、もっとよい茶器を与えようと言った。のちに岩城文琳の茶器を京で探し、佐々若狭なにがしを使いとしてこれを与えた。成実は固く辞退して「京の宝は家臣のもつようなものではない」と言った。佐々若狭はこれに応えて「政宗は家臣のために宝物をいくつか出したのです」といい、また「政宗が『私は成実と同じ年頃である、また武勇の才能もまた同様である。成実の忠義と貞節は他の人とは比べられない。どうして私独りが富を独り占めし、与えないでいるということはあり得ない。宝の器をともに持とう』といい、公の意思はこのとおりである。家臣は辞退するべきではない」と伝えた。
その後政宗は成実の催した茶会に出た。12月、政宗はその茶室にいくと、成実ははじめて与えた茶器を使った。政宗は名馬一匹と100金と白銀30枚を献上し、主の恩に感謝した。成実が死んだ後、息子宗実はこの茶器と佩刀一口を義山公忠宗に献上した。この佩刀は貞山公の遺物であり義山公が成実に与えたものであった。
成実は子がなく、政宗の9男を養嗣子とした。

三代:宗実(むねざね)

慶長十八年〜寛文五年六月四日(1613〜1665)
法名:円照院殿徹山利通大禅定門

これ安房(小字喝食丸、又治部を称す)宗実と称す。
宗実、寛永十三年十二月義山公初めて帰国の使いを奉り、将軍幕下(大猷廟)に拝謁す。時服三領羽織二領を賜ふ。十九年四月十一日首途の饗(其の道の義なり。おおよそ公江戸に適ひ、先ず首途の饗を奉り、子孫世々以て例となす。この年を以て初めと為すか)を奉る。二十年五月(或いは正保二年なり)江戸へ使いを奉り、公帰国のとき将軍家茶入(樋口肩衝)を賜ひこれを恩謝すなり。六月将軍家に拝謁し、帷子及び単物を辱賜す。正保三年二月父の禄を襲ふ。
慶安二年十二月公遊猟のとき、亘理に枉駕し、宗実饗を奉った。公是において短刀一口を賜ひ、及び其の二子各短刀一口を賜ふ。承応三年六月其臣柴田彦兵衛常氏、故有りて死を賜ふ(事着座の部芝多家譜に詳らかなり)、宗実其の法に服さず、まさに他邦に去らんとす。姑亘理邑に帰り、是に於いて伊達信濃宗重・茂庭大隅定元ら、説して過ぐを謝り、寺に入る(邦俗寺中に入りて高僧に依りて哀れを請ふと云ふ)万治元年七月公疾病有りて、始めて宗実にともに成り(其の臣常氏死を賜ふより、今にいたるまで不和と云ふ)、二年八月雄山公時、経界新田を受け、八十石余りを得る。(五石六斗一升)三年三月公首途の儀有り、時服二十領短刀一口を賜ひ、是日第三男右近宗定玄服に加ふ。公諱字及び短刀一口を賜ふ。
宗実人となり、膂力群を超え、鹿の角を折り、鍬の股を折る。一日雉を射らんと欲し、中野に候。忽ち僧有り来たりて曰く、請ひて試す力を比べる。宗実左右の腕を伸ばせしめ、僧食指を以てこれを押す。宗実腕を動かすこと能わず、謝りて去る(其家伝に云ふ、此蓋し鬼神の為すところなりと)。かつて銃術を善くし、義山公に学ぶ。また天流刀術を其臣荒川又左衛門秋秀に学ぶ。

(成実の項から続く)
これ安房(幼名喝食丸、また治部を名乗る)宗実という。
寛永13年12月義山公忠宗の帰国の使いの命を受け、将軍家光に拝謁し、時服3領羽織2領を賜わる。
19年4月11日首途の饗(そのときの恒例であり、公が江戸に向かうときまず首途の饗を行い、子孫はこれを例とした。この年を初めとするか)を行った。20年5月(或いは正保2年である)江戸への名代となり、忠宗が帰国するとき家光から樋口肩衝の茶入れを賜ったことについて感謝を述べた。6月に家光に謁見し、帷子と単物を賜った。
正保3年2月家督を相続し、父成実の禄を受け継ぐ。
慶安2年12月忠宗が猟に遊んだとき、予定を変更して亘理を訪れ、宗実は饗応した。このため忠宗は短刀一口を宗実に与え、その二人の子どもにそれぞれ短刀一口を与えた。
承応3年6月、家臣柴田彦兵衛常氏、理由があって死を賜わる(このことは着座の部にある芝多家の家譜に詳しい)が、宗実はこれを不服とし、他の国へ出奔しようとした。そのまま亘理村に帰ったため、伊達信濃宗重・茂庭大隅定元らこれを説得したため、行き過ぎた言動を謝り、寺に入った(寺に入り、高僧によって供養を頼んだという)。
万治元年7月忠宗が病気になり、はじめて宗実と会った(家臣柴田常氏が死んで以降、このときまで不和であったという)。
2年8月雄山公綱宗のとき、境界の新田を授かり、80石余り(5石6斗1升)を得た。
3年3月綱宗の首途の儀があり、時服20領・短刀一口を賜り、このとき三男右近宗定が元服した。綱宗は諱の字と短刀一口を与えた。
宗実の人となりは、腕力は人より非常に優れ、鹿の角を折り、鍬の股を折った。ある日雉を射ようと野原にでたとき、僧がおり、来て「力試しをしよう」と願ってきた。宗実の左右の腕を伸ばさせ、僧は人差し指をもちいてこれを押した。宗実は腕を動かすことができず、謝って去った(家伝にはこれはおそらく鬼神の仕業であるとある)。銃術を忠宗に学び、得意であった。また天流の刀術を家臣荒川又左衛門秋秀に学んだ。

四代:宗成(むねしげ)

寛永十三年〜寛文十年六月一日
法名:奚仲院殿輪山了機大居士

宗実子安房(初め土佐と称す)宗成、慶安二年十二月義山公宗成の館(亘理居館)に枉駕し、短刀(波平安秀の作るところ)一口を賜ふ。寛文三年三月雄山公首途の日、短刀一口を賜ふ。是より先、数江府に奉使す。宗成天流刀術を其家臣荒川又左衛門清秀に学ぶ。

宗実の子安房(はじめ土佐と名乗る)宗成、慶安2年12月義山公忠宗が亘理の宗成の居館に予定を変更して訪れ、波平安秀の短刀一口を与えた。
寛文3年3月雄山公綱宗の旅立ちの日、短刀一口を賜わる。これよりさき数度江戸に名代として登った。
天流刀術を家臣荒川又左衛門清秀に学んだ。

感想

とりあえず四代:宗成までをup。
家臣についての、藩の一番の公式記録といえる『伊達世臣家譜』ですが、改めて読んでみると、非常に面白い記述が並んでいます(成実と政宗の水仙花のエピソードや宗実と僧の力比べエピソードなど)。『世臣家譜』では、これが全ての家について書かれています。

*1:定実

*2:漢字わからず

*3:信夫郡の誤り

*4:実際は「孫」ではなく子孫