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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

忠宗振姫婚姻・太鼓鐘貞宗について

『伊達治家記録』元和三年十二月十三日〜十八日条より。

原文

十二月十三日甲辰。公方(秀忠)御養女源振姫御年十一嗣君(忠宗)へ御婚礼、申刻(午後4時)御城より御入輿、土井大炊助殿利勝・渡辺山城守殿茂・伊丹喜之助殿康勝を差副らる。大御番組頭丸毛兵左衛門殿奥方支配として相附けらる。長門侍従秀就朝臣松平長門守・米沢中納言景勝卿の屋敷前に於て、伊達安房殿成実・大條薩摩実頼御輿を請取り奉らる。大炊助殿より成実へ太刀目録を遣さる。成実も大炊助殿へ太刀目録進上せらる。振姫、実は播磨宰相源輝政卿池田三左衛門尉の御女、英勝院殿の御養女なり。大神君御在世の時、嗣君へ御縁約仰出さる。今度公方御養女とし玉ひて嫁せしめらる。
去る慶長十二年、英勝院殿御腹に、大神君の姫君誕生し玉ふ。此姫君を嗣君へ御縁約仰出さるの所に、同十五年閏二月廿二日四歳にて早世し玉ふ。英勝院殿甚だ御悲嘆に就て、其年七月、水戸中納言頼房卿御八歳の時、英勝院殿御養子に仰付けらる。其後輝政卿の御娘を御養女に仰付られ、又嗣君へ御縁約仰出されしなり。(中略)
十八日巳酉。公・嗣君御登城、今度御婚姻の御礼仰上らる時に、公方より御脇指別所貞宗を公に賜ふ。御腰物長光・御脇指大鼓磬貞宗を嗣君に賜ふ。(中略)此時、伊達安房殿成実・伊達安芸定宗等、公方若君へ御目見仰付られ、各御時服下し賜ふ。安芸殿は馬一匹献上せらる。安房殿等献上品は知らず。

現代語訳

元和3年12/13秀忠の養女振姫(11歳)が忠宗と婚礼をおこなった。午後4時城から輿に入り、土井利勝・渡辺茂・伊丹康勝を付き添いにつけた。大番組頭丸毛兵左衛門を奥方支配として付けられた。
毛利秀就・上杉景勝の屋敷前にて、伊達安房守成実・大條薩摩実頼、輿を受け取った。土井利勝から成実へ太刀目録を与え、成実も利勝へ太刀目録を渡した。
振姫は実は池田輝政の娘で、英勝院の養女である。家康存命中、忠宗へ婚約を言い出された。今回、秀忠の養女として、嫁ぐこととなった。
去る慶長12年、英勝院が妊娠し、家康の姫君が産まれた。この姫を忠宗と婚約されていたところに、慶長15年閏2月22日4歳で幼くしてお亡くなりになってしまった。英勝院はひどく悲嘆にくれたので、その年の7月、水戸の頼房8歳のとき、英勝院の養子になられた。その後池田輝政の娘を養女になされ、また嗣君へ婚約するよう決められたのである。
(中略)
12月18日、政宗と忠宗が江戸城に登城し、今回の婚姻のお礼をされるときに、秀忠より脇指別所貞宗を政宗に与えられた。そして刀長光・脇指の大鼓磬貞宗を忠宗に与えた。(中略)このとき、伊達安房成実・伊達安芸定宗など、秀忠・家光へ御目見得するよう命じられ、それぞれ時服をたまわった。伊達定宗は馬一匹を献上した。成実が献上したものはわからず。

ひとこと

・伊達家の記録では太鼓鐘貞宗は専ら大鼓磬貞宗と書かれている。磬は http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AC このようなもの。
・英勝院は家康の側室。お梶の方。こちら→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%8B%9D%E9%99%A2

太鼓鐘貞宗について

『伊達政宗と刀 仙台刀工史話』「太鼓鐘貞宗の軌跡」

・この本ではいわゆる稲葉太鼓鐘と伊達太鼓鐘は同一とする。
・元和3年8月13日忠宗振姫婚姻/同18日政宗忠宗登城の際「御脇指別所貞宗を政宗に、御腰物長光、御脇指太鼓磬(太鼓鐘)貞宗を秀忠に賜う」
・延宝5年4月6日小田原藩主で老中の稲葉美濃守正則の娘仙姫が4代藩主綱村に輿入れ/同十日五つ目祝儀の進物として長光の刀と共に正則に贈られる/金150枚・長光は金30枚
・貞享2年正則の子丹後守正通(正往とも)の代に越後高田に移封されたため困窮に陥り、処分されそうになったところを稲葉氏側から申入があり、伊達家が小判1300両で引き取る(『治家記録』元禄1年8月22日条より)
・戦後個人蔵に
・『享保名物帳』には稲葉丹後守所有とあるが、稲葉氏が処分にあたり本阿弥家に鑑定か手入れを本阿弥家に依頼したのではないか

『御腰物御道具本帳』によると
太鼓鐘貞宗御脇指 代3000貫下札
無銘 表剣棒樋裏心有棒樋 長八寸弐分
一鎺上下金無工 此金目六匁四分
一柄白鮫
一目貫金弐疋獅子
一星目釘頭金茎銀
一小柄赤銅棹鳥栄乗伝小刀盛道
一鞘黒漆
一鵐目金 此金目九分
一袋萌黄金入裏紅梅黄