[sd-script]

伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『成実記』12:義継の頼み

『成実記』12:義継の頼み

原文

一、同月二十六日。政宗公小浜城へ御馬移され候処。二本松義継より我等親実元へ仰され候は、代々伊達を頼入身上相立候得共。近年会津・佐竹・岩城・田村へ御弓箭に候。我等も清顕公へ御恨之儀候て会津・佐竹御味方を仕度候。御同城に致併跡々の御首尾迄輝宗公を以て。相馬へ御弓箭之時は。両度御陣へ参候て御奉公仕候間。身上別儀無く相立られくだされ候様にと御頼候に付て、親実元右之通輝宗公へ申上候得ば・相馬御弓箭之砌御越候も。御覚成られ候。併今度大内備前御退治之砌。小手森両口之合戦に於いて一口は義継先手に候。大場之内へ御働之砌も。二本松籠人数を出し端合戦之間。大内同然之敵と思召候條。二本松へ御働なさるべき由仰払われ候。然りと雖も種々御詫言に付。左様に候はば南宮杉田川限に明け渡され。中五ヶ村に而相立らるべく候。其上御息人質に米沢へ差越さるべき由仰せられ候由。義継御申越候は。南なりとも北なりとも一方召し上げられ下さる候様にと。御詫言に候得共。罷り成らず候に付。輝宗公御陣所宮森と申所へ。十月六日翔入られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、同じ月の26日。政宗公が小浜城へ移動なされたところ、二本松の畠山義継から、私の父の実元のところへ「代々伊達を頼り、身上を立ててきたけれども、近年会津・佐竹・岩城は田村へ戦をしかけられましたた。私も田村清顕公へ恨みがありましたので、会津・佐竹へ味方をしたいと思いました。同じ城に援軍を送ったりもしていましたが、あわせて後々の処理まで、輝宗公を頼みにしており、相馬へ戦を仕掛けられたときは、二回とも参陣して、奉公をしておりました。わたくしの身代については問題なく領土を保てるようにどうにかしていただきたい」と言って、頼んでこられました。
私の親の実元はその通りに輝宗公へ申し上げましたところ、相馬の戦の際に参陣したことも覚えておられました。あわせて、今回大内備前を退治の際も、小手森の二方面での戦いになったときも、片方は義継が先手をしておりました。大場之内へ戦を仕掛けたときも、二本松に籠もった手勢を出して、小さな小競り合いになったので、大内と同じ敵とお思いになったので、二本松へ合戦になるだろうと言い払われました。
しかし、そうであってもいろいろと謝罪を述べられたので、そうであるならば、南宮杉田川を区切りにこちらに手渡し、中5ヶ村に領土を減らし、そのうえ子息を人質に米沢へ遣わすよう仰られた。
義継は「南であっても北であっても一方のみの召し上げで容赦してほしい」と訴えてきたのだが、それを却下した。すると、義継は輝宗公の陣所である宮森というところへ10月6日に駈け入ってこられました。

感想

二本松の畠山義継へ強硬姿勢を取る政宗と、それに苦慮する義継の様子が書かれています。